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2005.03.24

普遍神学と「神との対話」

しかし『神との対話』シリーズは、新しい霊性のかたちを作るものとしてすごく重要な意味があるかもしれない。私も個人的にいろいろ影響を受けた。そもそも、古くて権威があるとされている書物ばかりをありがたがり、最近に出ている本に目を向けないのは間違っている。キリスト教の聖書でさえ、時代的な制約もあれば、霊的にも明らかに正しくない(つまり弟子たちの未熟な考えにもとづくもの)も多少なりとも含まれているものだ。現代で出てきている霊的な本はそれなりの理由があってあるわけで、その方が現代人が道を見出すにはやりやすいはずなのだ。もちろん、あまりに本がたくさんありすぎて「見分け」が大変だということはある。しかしそれは何だってそうで、過去の聖典だって時代的制約と真理とを見分けることは必要なのだから。

『神との対話』の前には『奇跡のコース』というのがあって、これもだいぶ世の中に影響があった。今でも、奇跡のコースにもとづいたスピリチュアル本はたくさん出ていると思うが、その原典そのものを読んだ人は、日本語訳がないこともあってあまり多くないだろう。私は原典を持っているが、やはり伝統キリスト教的な言葉づかいが多いので、日本人にはややなじみにくいし、これを読み通すのは大変(私も全部は読んでない)。これをもとにしてわかりやすく説いている本の方がとりつきやすいだろう。『奇跡のコース』にくらべて『神との対話』はもっとやさしい。「書記」であるニール氏が完全無欠な人ではなく、いろいろ問題もありながらもなんとか真摯に神を求めて生きていた人であるということも、読者の共感をよびやすい要素である(だから選ばれたのだろうが)。それと、もうちょっとさかのぼると、最近は江原啓之によって有名になった英国のスピリチュアリズムの文献がある。シルバーバーチやホワイト・イーグルだ(日本ではシルバーバーチが知られているが、英国ではホワイト・イーグルの方がメジャーであるらしい。ちなみに私はホワイト・イーグルもよく読む。ただ、日本語訳はあまりよくない。訳者のエネルギーが入りすぎて歪んでいる)。過去の権威にとらわれて、そういうものに接する機会がないというのはもったいない。誰がどこでどういう事情で書いたというのは本質的にはどうでもいいことで、ただそこにある言葉に自分が何を感じるかだけが根本的な問題だ。

『奇跡のコース』『神との対話』といえばもうすでにアカデミズムでは御法度であろうか。過去の聖典ならばいいのである。まあ、本気でスピリチュアリティーを求める人は、学者がなんと言おうと全然気にはしないであろうが。よく考えれば、イスラム教のコーランだってマホメットによるチャネリングで書かれたものであるし、聖典の筆者は「あちら側の方」で、こっちにいる人間は書記である、というのは今に始まったことではなく、人類宗教史の一つの伝統である。そこでびっくりすることはぜんぜんない。『神との対話』にしたって、そういう宗教文書の一つとして読むことはいっこうにかまわない。問題は、『神との対話』を書かせているのは、本当に「神」なのかということだろう。まあ、厳密にいえば、絶対究極の神とは「無」であるのだろうから、その意味で、本を書かせたりするのはそのレベルの「神」ではない。仏教的な体系でいえば「菩薩」レベルの存在だと推理するのが妥当である(「菩薩」は、最近の言葉で言えば「マスター」ということである。菩薩とはマスターのことなり、これは案外知らない人が多い)。なお、「無」としての神と、ペルソナをもつ神ということに関しては、私の訳したスミスの『忘れられた真理』を見てほしい。

『神との対話』シリーズの最新刊『新しい啓示』だが、これはあまり日本人むきではないかもしれない。伝統的な組織宗教の偏狭さを批判することが中心になっているが、これはもっぱらアメリカの宗教界に向けられているものと思える。こういう超保守的なキリスト教(本気で、「キリスト教に入らない人は絶対に救われない」と思っている、それだけでなくて、同じキリスト教でも自分の宗派でなければ駄目なのだ)が、ブッシュ大統領の強固な支持基盤となっていることは周知の事実である。もちろん日本でも、自分の宗教でなければ救われないと信じている人はいるが、アメリカに比べればその割合は微々たるものといってもいい。ただ、この『新しい啓示』は、地球人類のために「新しい霊性」を打ち立てようという強固な意志を感じさせて、それが力強いエネルギーをもっており、なにかベートーヴェンの音楽を聴いているように、人を奮い立たせていくようなものを持っている。人類に必要なものは「新しい神学」であると宣言しているのはまったく我が意を得たりという感じで、私も新たにその新しい普遍神学へ向かっていこうという意欲をかきたてられる。日本は、アメリカのようにどうしようもない偏狭さに落ちこんでいる人が少ないのはメリットだが、反面、本気で神のことを意識し、考えている人が少ないというデメリットもある。それでも、日本の宗教文化はかなり豊かな蓄積を持っているものと思う。明治以降の欧米崇拝的な知識人にそれを理解する能力がないだけだ、と思う。

根本的に、つきつめてその問題をいってしまえば、「あちら側というのはあるんですよ」ということだ。近代の学問はそれが「ない」という前提ですべて作られている。もしくは「人間はあちら側があると思っている存在である」というとらえ方くらいがやっとなのだ。「あちら側はありますよ」と言った瞬間にアカデミズムから抹殺されるわけである。そういうことになっている。だから、知識人は決してスピリチュアリズム的なものに手を出せない(なので、私は今の宗教学者はほとんど認めていない)。したがって普遍神学というものを立てるには、「あちら側」というのがなぜあると言えるのか、というポイントが重要である。でもそれは結局、「こちら側」という世界はいったい何なのですか、という哲学的問題とも切り離せないわけだが。哲学というか昔から仏教で扱っていることでもある。なので、日本で普遍神学をやっていく場合はこういう問題から入っていくのがよさそうだ。私もそろそろ「霊性学」という言葉よりもはっきりと「普遍神学」というのを看板にしてしまおうか、と思う。こういうことを書いている本が、「心霊」だとか「オカルト」だとかのカテゴリーに入れられ、「エンターテインメント」に分類されているような日本というのは、要するに「形而上学」「神学」という知的立場があり得るという発想がまったく欠如しているということだ。「あちら側」について語るということは、暇つぶしの娯楽だと言うつもりであろうか(そう言っていることになる)。そういう社会の無理解が「オウム的なるもの」を生み出していることもわからぬかキミは、というところであろう。

オウムといえばこの間はサリン事件10周年だった。新聞にも宗教学者なんかの文章が載ったりしたが、いつものこととはいえ、まあくだらないことといったら話にならない。テレビでは現在のオウム(名前はアーレフだが)信者へのインタビューなどがあって、「教えそのものは素晴らしい」などと言っていた。実は、オウムで言っていることは、伝統的なインド、チベットのヨーガや密教の教えとそんなに大きく違っているわけではない。だから、その中には確かに真理が含まれていることに疑いはないのである。そこでやっている行法だって、大部分は伝統的なクンダリニーヨーガに近いものである。だからそのレベルで間違っているというのではない。問題は単純なことだ。教祖・麻原は高次意識のレベルに達していなかった。中途のいわゆる「魔境」の段階でひっかかって、自分が悟ったと思ってしまった。それだけだ。それだけが問題なのだが、しかしこれはもっとも根本的致命的な間違いなのだ。「教え」をもっともらしく説くことくらい私でもできないことはない。問題はただ、それを実際に体現し、その身に実現できているか、ということしかない。その「見分け」は各人の責任であるし、残念ながらそれに失敗してはまってしまった人は、それも自分の至らぬせいだ、これもカルマだと思って自分で責任をとるしかない。本当は、麻原を一目見た瞬間に「これは気持ち悪い、これは駄目だ」と直観して逃げ出してこなければいけないのであって、「なんとなくよさそうだな」と思ってしまったら、それは同じような波動を自分が持っているからなので、それは何ともやむを得ない。そのような苦難の道を通って成長していくというのも魂の選択かもしれないのである。まあ、問題ある宗教というのは、オウムに限らず、100%間違ったことを言っているわけではないのである。それでは誰もついてこない。ある程度、たとえば70%なり80%なりは、ふつうの社会では得られないような霊的真理の言葉(あるいは実践)が確かに入っているのだ。それにひきつけられて信者になってしまうと、残りの20%、30%のデタラメ、非真理もまた真理だと思いこんでしまうのだ。カルトというのはそのようにして生まれるものだと思う。しかし高次の立場から見れば、間違った宗教というものがあるから、はじめて本当の宗教とは何かが理解できるということでもある。(ただし、真理が100%であるという宗教などほとんどない。伝統的なキリスト教にしたって、真理が90%、非真理が10%くらいなものかもしれない。もちろん、こういう数字そのものはたとえであって、それ以上の意味はないのだが)

オウムに関して、「空中浮揚」みたいなことをどうして信じてしまったのか、なんて問題意識はもう全然駄目。はっきり言って、空中浮揚というのはあります。それは、植芝盛平が、手に触れずして一気に十数人も投げ飛ばすことができるということと、同じなのである。何が同じかというと、精神の力を極めると物質の抵抗力は無になるということ、それが高次意識に達すると起こるということだ。それをわかったうえで、「でも麻原のあれはニセモノだよ、あれは飛び上がっているだけだよ」ということがわからないといけない。本当の空中浮揚というのは、UFOが静止するように宙にしばらく浮かぶのであって、麻原みたいにぴょんぴょん跳び上がるものではないのである。あれはちょっとばかり「気」レベルの力がついてきて、それと筋肉の力を合わせて飛び上がっているものだろうと思う。空中浮揚なんかあるわけないと思っている人にオウム問題の本質が理解できるわけがないのだ。

話を「神との対話」シリーズに戻そう。『神との友情』もいいが、やはり、『神との対話』1~3がもっとも中身が濃く、すごく本質的なことが語られているので、この三冊を徹底的に読むのがかなり近道であろうと思う。その原則を理解してしまえば、その他のいろいろな本でも基本的には同じことが書かれているのがわかる。


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