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『死後体験II』について

 ひきつづき『死後体験II』を読んだが、いやこれもかなりのぶっ飛びですね。もちろん体験そのものとしてはリアルだと思う。そもそも私の世界観では、「現実」とはフォーカスのあり方によって成立するものなので、現実と幻想との違いは、それがどの程度にシェアされているかという程度の問題にすぎないのだが。最高の現実とは、私たちがブッダになったとき(完全な覚醒に至ったとき)に知る宇宙の姿であるだろう。それにしても、地球のコアにある結晶と非物質界にある結晶を結ぶだの、まるでハリー・ポッターみたいな世界である。そういうのが嘘くさいと思うヒトは、「もしかすると本当かもしれない、という特典つきの傑作ファンタジー」として読むことも可能だろう。しかしこういうものが読まれることは「宇宙の広大さ」へのイマジネーションを刺激するという意味でいいことであるだろう。世の中には、世界の存在構造については学校で教えられたことだけを信じているというクソマジメでありながら、そういう限界内で理解できる限りに「覚醒」や「悟り」などを薄めに薄めて理解しようとしている人も多い(さらにそれをもっともらしく人に説教する人までいるが)。とにかく、クソマジメはいけません。宇宙とはなんだかよくわからないものであって、「俺はよくわかっているぞ」などと本気で言っているのは正気ではない。そういう人が精神科に行かず、むしろ精神科の医者がそんなことを言っていたりするこの世の中はいかに狂っているかということだ。ま、とにかく、このブログも「クソマジメ人間お断り」の世界である。「ぶっ飛び大好き人」だけ見ればいい。(クソマジメ人間を説得する努力をくそまじめにするほど私はクソマジメではないのである)

『死後体験II』の話はすでに「死後」のことではなくて、意識というものが目もくらむほどの超階層構造をしているということが書いてある。それを一歩ずつ探索するというアドベンチャー物語というわけ。これはたしかにおもしろくないわけはない。自分で実際にやってみればもっとおもしろいだろうが。ただ著者もはっきり言っているように、ヘミシンクで体験することが、ただちにその人の霊的な発達と直結しているというわけではないらしい。すべての人がこういう体験をする必要はないだろうが、この前も書いたように今の人類にはある程度こういう人々が存在することが必要だ。それにしてもこの意識のスーパー・クラスターをちょっとかいま見ただけでも本当に頭がくらくらしてくる。高次意識の世界とはなんと圧倒的なものだろう。ちょっと光を見たくらいで「悟った」などとほざいているのがいかにバカであるかよくわかる。地球人が宇宙の究極を知るなどということが本当にできるのだろうか。それは実に途方もないことである。今までにそういう場所に達したという人間は、実は地球人ではなかったのかもしれない。

それにしても今度の本では、モンロー研究所というものが何なのかがさらにはっきりとしてきている。私の印象だと、一昔前は宗教組織が果たしていた役割に似たものを、現代的に創造しているという感じだ。宗教というのは要するに次元間の道をつけることだ。「こういう道を通ればあそこに行ける」ということである。それがホンモノであるためには、「向こう」との共同作業が必要である。これはぶっ飛びでもなんでもなく、しごくまっとうな話である。『死後体験II』では、モンロー研究所とかいろんなプログラムなどが「向こう」とのコンタクトによってできてきていることがかなり示されている。「向こう」にもモンロー研究所の非物質バージョンがあるそうである。これと似た話は、神社やお寺などにも非物質バージョンがあって、実は本家はそっちの方なのだという話を読んだことがあるのだが、これもモンロー研と宗教との類似を物語っている。

つまり宇宙は意識のスーパー・クラスター構造であること、そして、その階梯の上位にある存在(部分意識体)と、下位にあるものとの間には交流があり、上位のものは下位のものを常に指導し、全体の調和をはかっているということだ。『プロティノス全集』にはこれとほぼ寸分ちがわぬ宇宙モデルが叙述されている。それが真理のある反映であるということはますます疑うことができなくなっている。

私は、これから必要なのは、(ウィルバーなどが主張するような)「東洋の霊性と西洋の心理学との融合」などではないと思う(私はそれほど心理学を評価していない)。むしろ、新プラトン主義のルネサンスであり、神秘哲学的宇宙ヴィジョンの復興であり、それが広範な意識探求の経験とむすびつくことであると思う。私は、新プラトン主義を基軸に据えつつ、そこから仏教(特に唯識)やキリスト教、ヨーガなどの霊性をすべて統一的に理解することは十分に可能であると考えている。そういうものが地球人の「基礎的教養」となる時代がいずれ来るだろう。

ただ思ったけど、なぜこの坂本氏の本がブレイクしたのかなあ? だってモンローの本はもうずいぶん前から訳されているが、それほど評判にはなっていなかったはずだが。坂本氏の本のぶっ飛び程度のものはモンローの本にもいっぱい出てきているわけだし、グロフのトランスパーソナル心理学だってこの程度の体験はばんばん出てきているんだがね。マイケル・ニュートンだってぶっ飛びぶりでは負けていないんだが。やっぱり元ソニーのエンジニアていうことで、「こっち系」の初心者にアピールしたんでしょうかね。

4892954659「臨死体験」を超える死後体験II - 死後世界を超えた先は宇宙につながっていた!
坂本 政道


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よもやま話(モンローとか)

いや、家のパソコンがとつぜん故障。ファイルシステムが壊れたようなので、リカバリーCDを使って再セットアップ。幸いにハード的には大丈夫なようなので、まだ使える(まもなくまる8年になるマシンだが、ネット関係とワープロ、エクセルくらいしか使わない私には、このスペックで十分なのである)。メールやファイルなどは少し前にバックアップしたのがあるが、ひとつ忘れていたのはブラウザーの「お気に入り」のファイルだ。いまとなってはいちいちサイトを探すのが大変である。しかしまあちょっと面倒なだけでそれほどの実害はない。ただ、バックアップが完全でなくメールアドレスは多少わからなくなったものもあるので、アドレスを知っている人はそちらから一度送っていただきたい。

このまえ綿本彰『瞑想ヨーガ入門』を「超おすすめ」と書いたが、「超」まではいらなかったかもしれない。綿本サンのことを「なかなかわかっている」と書いたが、もちろんそれは江原サンみたいに霊的な世界がわかるという意味ではないのだ。私はむろん、ヨーガが最終的な目標としている大宇宙と小宇宙の合一とは、文字通り「神人合一」だと思っている。つまりそれはプロティノスの言う「一者」であり、そこに到達した人は文字通り、何のメタファーでもなく、神そのものと同一になる、いいかえれば、この宇宙のすべて(それは人間に理解不能な諸世界を含めて)がすべて自分の意識そのものである、という状況を言うはずだ。ただもちろん、肉体を持っていることも事実なので、そこの限界は当然持っているが、意識レベルにおいては神である。この点については何の妥協もなく、その通りであると私は思っている。それがいかに荒唐無稽と聞こえようとも、それを肯定することが人類の霊的文化の伝統なのである。だが、それはあまりにいまの一般の人々の意識からは遠い話だし、また実際にヨーガをすることによってそういう意識レベルにまで達するなどということは何百万分の一もないことなので、とりあえずそういうことは考えず、現状よりも一段上に登ることをめざしていくヨーガも完全にありなのだ、ということだろう(綿本サンがそういう戦略まで考えて書いているかどうかは知らない)。

ヨーガといえばロドニー・イーのインタビュー記事が新聞に出ていた。彼のビデオ日本語版も出るということだが、彼の場合綿本サンと同様その声質にかなり癒しの効果があるので、吹き替えでは効果半減するのでは? という懸念もある。ともあれむこうではすごいカリスマヨーガ講師なのだ。でも指導そのものは綿本サンの方がもっと詳しいかも。

この前予告していた、坂本政道『死後体験』をようやく読み始めた。私はすでにモンローものを英語でもかなり読んでいるので、内容的にはまあ既知のものが多いのだが、それでも読み始めると一気に読めるくらいのおもしろさはある。こういうのは言ってみれば、マルコ・ポーロの東方見聞録を当時のヨーロッパ人が読むのと似ているかもしれないなあ、と思う。既知の世界の外へ冒険してきた人の話を読むということであって、こういう精神の世界こそが今の人類におけるフロンティアなのだということは間違いない。いまはまだ科学的調査の時期ではなく、個々の冒険家が行ってきた体験談を聞くという段階なのだろう。もちろんその気になれば自分で試してみることはできる。私は最近、あんまり「あっち」にのめりこむことを警戒する気分があるのだが、だからといってこのような体験談を否定しているわけではない。とにかく安易な解釈をひかえて、ただ、「そういう体験をした人がいるんだぞ」ということを蓄積していくということはだいじなことだ。坂本氏も、モンロー研究所のアプローチを「死後体験を科学的に証明したもの」として理解しているわけではない。あくまでこういう体験がある、という形で提示している。まだ科学がどうこうというには早すぎる。「東方見聞録」がいかにたくさんの人に知られるか、ということが現段階では重要かもしれない。なお、こうした体験のすべては、神秘哲学の世界観にまったく矛盾はなく、完全に理解することができる。

4892954780「臨死体験」を超える死後体験―米国モンロー研究所のヘミシンク技術が、死後の世界探訪を可能にした!
坂本 政道


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それからモンローものといってきわめつけはやっぱりこれである。モンロー最後の著作。真の「ぶっ飛び本」といえよう。信じるも信じないも自由だが・・

4531080912究極の旅―体外離脱者モンロー氏の最後の冒険
ロバート A. モンロー Robert A. Monroe 塩崎 麻彩子


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で、モンロー研究所というのは結局なんなのか? それは今のところ、「まあ、こういうのも存在することに意義があると、どこかで決めたからできているのではないか」という感じだろうか。どこかというのはむろん「上」のどこかである。およそ宗教というものだって、つまり、このように人間が自分の限界を超えた何かを知ろうとする試みにおいてはということだが、「上」からのサポートは欠かせない。これはソクラテスはじめギリシアの哲学者はみな当然のことと見なしていた「ダイモーン」である。今風に言うと「ガイド」ということになるか。なおポルピュリオスの伝記によると、プロティノスの場合はそのダイモーンがふつうのガイドではなく、もっとはるかに高位の「神々」レベルだったという。これは、なるほど、さもありなんという話だが、例によってふつうの学者にはなんのことかわからないでしょうね。それはともあれ私が言いたいのは、人間がこういう世界を探索するに当たっては、それなりの「道」がつけられているということだ。それにうまく合えば先に進めるのだ。およそ神秘哲学者にとって、この世界のことがらがより大きな世界との関連で動いていることは当たり前すぎることである。この大きな変動の時代にあっては、ある一定数、常識を越えた世界に果敢にチャレンジする人間が存在することが必要なのだ。それをサポートするしくみが宇宙から提供されているのだろう。モンローもその一つだし、また別のレベルで言えば、「神との対話」みたいな本が存在するのもそうしたある大きな計画の一環であることを私は疑わない。何度も言うが、これは現代社会の常識ではぶっとびの考え方であっても、人類史的な伝統の中では少しもぶっとびではない。ギリシアのプラトン主義者なら、私の考え方にパーフェクトに賛成すると思う。

なぜなら、神秘哲学の伝統によれば、宇宙はそれ自身が巨大な「叡智体」なのである。その中の「部分意識」である人類意識体は、その巨大な叡智の導きの中に存在している。このような当たり前のことを忘れ去っていたのがどうかしていたのである。

プロティノスと瞑想ヨーガと村上春樹

「今読んでいる本は?」と聞かれて、「プロティノスと瞑想ヨーガの本と村上春樹」と答えたら呆れられてしまったが、どうして、けっこう内的関連のある組み合わせだと思うがねえ・・ プロティノスとヨーガの関連については前々回に書いたので、村上春樹。

いや案の定、その質問した人は一冊も村上春樹を読んでなかったわけだが、やっぱり読んだことのない人、あるいは、初期の作品しか知らないという人は、村上春樹といえば軽めの青春小説を書く人だというイメージがあるんですかね。いや私もしばらく前まではそうだったわけで。ところがとんでもないのね。最近の作品は、意識とか現実とか、世界の構造とか、そういうことを考えている。だいたい『海辺のカフカ』だって、だいたい、カフカですよ。カフカってどういう作品を書いたのかくらい知らなくちゃ論じられませんわね。つまり世界とは不可解であるというか、巨大な謎であるということなわけだ(と、こう言ってしまうとそこに失われるものがあることは百も承知で書いていることはご理解願いたい)。でも現代文学って得てして難解なものだが、村上春樹はストーリーとしてもひじょうに面白く読ませるという才覚がある。それにしても、小説では次々と不思議なことが出てくる。普通のミステリー小説だと、最後まで読むと「そういうことだったのか」とすべての謎が解決するわけだが、村上春樹は最後まで読んでもいっこうに解決しない。いったいことはどういうことだったのか、と合理的に解釈しようとしても拒否される・・そこがまあ、現代文学だということなんである。

『海辺のカフカ』につづいて、『ねじまき鳥クロニクル』を読んでるところだが、この二作も、私がこの五年くらい読んだ小説の中で、これほどおもしろいものはなかったと言ってもさしつかえない。ただ私は、文学に関しては、ただ鮮烈なるイメージと深い謎の感覚が自分の中を通過していけば、そういう経験だけで十分だと感じていて、それをさらに理性的な言葉で語り直したいという欲求を持たない(そういう欲求を持つ人が文芸評論家というものになるのだろうが)。というわけで、くわしいことはこれ以上書かない。まあ、おのおのがた、ご自由に読まるるがよかろう。

4101001413ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編
村上 春樹


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瞑想ヨーガの本

ところで、綿本彰『瞑想ヨーガ入門』。これは名著です。これはかなり本格的にヨーガの本質、つまり瞑想によって覚醒を得る道としてヨーガについて語っている。それがまた実にわかりやすく、またヘンにうさんくさいところもなく、神秘体験にのめりこみすぎるところもなく、いろいろ経験した上でバランスを見出すことができた人だということがわかる。まあ、本格的なヨーガ紹介といっていいだろうし、それも原理、哲学だけじゃなくて実践的にもかなり瞑想のやり方が出ていて、よい瞑想をするためにヨーガのポーズや呼吸法によっていかに身体を調えるかという視点も詳しく書いてある。呼吸についても、別に紹介した『ヨーガ式呼吸レッスン』よりもさらに深いことが出ている。というわけでこれはただならぬ本。参考になるところが多々あった。もちろん瞑想ヨーガの本はこれまでにもいくつかあったのだが、これほどまでにこなれて書けている本はなかった。オウムのサリン事件以来10年、あの当時、壊滅的打撃を受けたかに見えた日本のヨーガ界も、ついにこういった本が出るまでになったかと思うと感慨なきにしもあらず、というところか。高岡英夫の『DVDでゆる体操』以来のことだが、「超おすすめ」とはっきり言ってさしつかえないだろう。女性受けを意識した「カリスマヨーガ講師」というだけではない。この人、なかなかわかっている。わかっていつつ、なおかつ女性たちにアプローチしうるソフトな表現法ができるところは、江原サンにも似てますかね。

もちろん、綿本サンが「悟っている」なんてことを言っているのではない(そういう言葉はめったやたらに口にするべきではない)。ただ、下に紹介する本山氏なんかはあたりまえのようにできてしまうようなこと(だから本山氏の本には書いてないわけで)が凡人にはできなかったり、間違えてしまうのだが、綿本サンの本はそういうところがすごく詳しい。なかなか本ではわからない微妙なコツのようなものをかんでふくめるように書いているというところに価値がある。いままでいろいろ瞑想にトライしていて、どうしてもうまくできなかったというような人にも特に向いている。

4408322474瞑想ヨーガ入門
綿本 彰


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『瞑想ヨーガ入門』は入門向きだが、私は次の本もなかなか気に入っている。これはもうちょっと高度なので、中級向きであろうか。(ただそういう中級向き技法も、綿本サンが書いているようなごく基本的なことができてはじめて意味を持つわけだが)

4408340189ヨガと冥想―入門から神秘体験へ
内藤 景代


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さらにもっと上級のものは次のようなものかな。

4879600474現代社会と瞑想ヨーガ―21世紀こころの時代
本山 博


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なお、このブログは、あくまで一般読者向けのものである。私が、他の誰も知らないような奥義の書いてある書物を知っており、そういう情報がここで開示される、なんてことはない。そういう期待はしないように。上の三冊でも物足りない、という人はまあご自分で探してください。ただ、あまりにのめりこむのはどうか。綿本サンが書いている「柔」の心というものが、そういうマニアックな探求の姿勢においてはやや忘れられがちになりそうな気もする。

プロティノスをめぐって

古本で買った『プロティノス全集』は目の玉が飛び出るほどの値段だったが(すでに絶版なので希少価値がある)、それだけのことはある。まず、これだけわかりやすい現代語訳はたぶん西洋語でも出ていないだろうということ。二種の英語訳はのぞいたことがあるが、正直言って、一読しても意味がさっぱりわからないしろものである。しかし日本語では訳者が文脈から多くの言葉を補っていてわかりやすくなっている。しかもプロティノスの他の箇所やプラトンへのリファレンスなど注も充実して、これだけのものはヨーロッパでもあまり出ていませんよ、という感じだ。そもそもプロティノスは西洋人よりも東洋人のほうがわかりやすいという面もある。鈴木大拙などもプロティノスを評価していたようだし。だいたい、ギリシア哲学というのは、西洋近代哲学の源流というよりも、インドや中国の哲学と同時代的なものなのである。井筒俊彦は、「東洋思想とは、ギリシア以東の思想のことである」というようなことを言ったそうである。まさしくその通りであろう。さらにいえばキリスト教もその初期においては "Neoplatonism with Jesus"だと言っている人もある。プロティノスをマイナー扱いするのは、西ヨーロッパの反神秘思想的バイアス(それは、ローマカトリック教会が人間の神性を否定したことに由来しているが)による偏向的評価にほかならず、ギリシア思想をその当時の地球文明的な視野において位置づけるならば、プロティノスは当然、ギリシア的宇宙観の完成者としてとらえられることになる。

ともあれ、この宇宙、存在の世界を、理性で語りうるぎりぎりのところまで語っている思想はプロティノスである。それが「永遠の哲学」というものの中核をなすことは確かだ。私は「普遍神学」という立場を提唱しようとしているわけだが、そのコアとなるのはプロティノスであり、それを補うものとして唯識~現象学という「現実性とはいかに生成するか」という分析ツールを使えばよいのではないか。華厳哲学の無限重畳的宇宙も、プロティノスの中に含まれていると考えてよいだろう。

ケン・ウィルバーの思想は、こうした永遠の哲学が「人間の理性で理解できる限度においては、『真理』をある程度反映している」という前提のもとに、それと近代心理学を接ぎ木して一つのシステムをつくろうとしているものだ。だが私にはどうも、そのような心理学との接合がやや余計なことのように見える。はっきり言うと、私はウィルバーほど近代心理学の洞察なるものを評価していないのである。人気が高いユングなども、今の私にはどっちでもいいような感じである。心理学者で私が評価するのは、サイコシンセシスのアサジョーリを別にすると、ジェームズ・ヒルマンである。ヒルマンの『魂の心理学』は、プロティノスの思想をベースにしているという。つまり、「人間の中に魂があるのではなく、まず魂があり、その中に人間はあるのだ」という考え方だ。これはまったく正しい。だが、この基本的なことを完全に理解するのは、そんなに簡単なことではない。わかってみればそんなに複雑なことを言っているわけではないのだが、近代世界の常識から抜けだせないうちは、『魂の心理学』は何を言っているのかさっぱりわからない本になるだろう。だがこれは面白い。名著である。私は三回くらい読んだ。それから『世界に宿る魂』も、プロティノスの言う「世界霊」を復活させようと言う試みでなかなか冒険的でよろしい。でもヒルマンにもかなり限界はある。ヒルマンは「魂」をはっきりととらえた。ウィルバーでさえも「魂」というものはあいまいな理解しかしていないので、その点はヒルマンの功績なのだが、あろうことか、ヒルマンはそれ以上の、つまり魂というレベルを超える宇宙領域があることを否定しているのである。これでは半分の真理である。ウィルバーも、ヒルマンも長所と欠点が混在する。私の『魂のロゴス』はそれらをふまえてそれを超えるヴィジョンを考えたものだ。

とにかく、超越的な「一者」とか「無」などと呼ばれる何かが、あらゆる現象世界を含むものとしてあるというようなことは、知性ある東洋人には比較的理解しやすい。だが、本当に宇宙や存在の基本構造ということを知的に理解するには、「魂」というテーマとぶつかることが絶対に必要である。そうでないと、ウィルバーのように、「人間は死んだらどうなるのか」という根本的な問いにも答えていない(答えることを回避する)思想になってしまう。そんなものは思想の名に値しない。魂ということはなかなかわかっているようでわかっていない。たとえば、よくある質問だが、「もし魂が転生するというなら、世界の人口が増え続けているということはどのように説明するのか」という疑問があるとしたら、残念ながらそれは魂のことがまったくわかっていない証拠であるだろう。というのは、そのような問いは、魂が「数えうるもの」であるという前提に成り立っているからだ。この点、プロティノスははっきりと説明してくれている。魂は、人間の中に入っているものではない。こういうことはウィルバーをいくら読んでもわからない。

その他、全集を読んではじめて理解しうる側面がある。たとえばプロティノスは、魂は死後にはどうなるのか、思いを残すと高い世界へは行けないことになるだとか、守護霊のことだとか(つまりこれは、ソクラテスにもついていたといわれる「ダイモーン」のことであるが)、自殺をした魂の運命だとか、そういったいまどきの霊的な書物に出ているようなこともかなりいろいろと語っているのだ。こういったことは、当然、大学の学者などはあまり重要視しない。だが私などが見れば、こういった記述は、彼が実際に霊的な世界を体験していたことのあらわれであることがわかる。本当は、プロティノスは、たとえばマイケル・ニュートンだとか、モンローだとか、そういうたぐいのものと一緒に読んでみると、その真の意義があきらかになってくる部分もある。そういうことはまず学者は絶対にやらないだろうから、私あたりがやればもう少し本が売れるかもしれませんな(笑) こういった記述は驚くほど一致する部分があれば、それは端的に言えば、それがかなり真実に近いことを示していると思う。

だいたい、魂と人間という根本的なことが問題になっているのに、それと重要な関係があるらしい臨死体験や体外離脱の経験をどう位置づけるかという問いを回避するなど、哲学者の風上にも置けないというべきではなかろうか。体験に基づいて考えるということが東洋哲学の伝統であるはずであり(その意味で今の東洋学の大半は、東洋思想の西洋人的解釈のまねにしかすぎないが)、その目でプロティノスを読めば、ヨーガや仏教の伝統との類似点も多く見えてくる。というわけで、そのような東西霊性思想の統合的ヴィジョンということが、私のいまの関心事である。

ここまでの参考文献

<永遠の哲学について>
オルダス・ハックスレー『永遠の哲学』
ヒューストン・スミス『忘れられた真理』
井筒俊彦『意識と本質』
ケン・ウィルバー『意識のスペクトル』

4434036742忘れられた真理―世界の宗教に共通するヴィジョン
ヒューストン スミス Huston Smith 菅原 浩


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4003318528意識と本質―精神的東洋を索めて
井筒 俊彦


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<ギリシア思想について>
『世界の名著 プロティノス・ポルピュリオス・プロクルス』
  (プロティノス入門はまずここから)
井筒俊彦『神秘哲学』
Pierre Hadot, Plotinus or the Simplicity of Vision.
Brian Hines, Return to the One: Plotinus's Guide to God-Realization.
 上の二冊は、プロティノスが「体験者」であるという前提に基づいたプロティノス思想の紹介である。

<その他>
ジェームズ・ヒルマン『魂の心理学』(理解できるまで何度も読んだ上で、乗り越えるべし)
ジェームズ・ヒルマン『世界に宿る魂』(これがむずかしいといっているようでは、『魂のロゴス』なんて理解できるはずがないんです(^^;)

4791755243魂の心理学
ジェイムズ ヒルマン James Hillman 入江 良平


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身体感覚の精密さについて

ヨガのビデオ(DVD)はアメリカのガイアム社 (http://www.gaiam.com/)のものをたくさん持っていて、ロドニー・イーのもここから出ている。欧米のヨガブームの中でもガイアムは定番ブランドなんだそうだ。私は綿本彰のパワーヨーガDVDも持っていて、それも悪くないが、これはスタジオでモデルにやらせている。綿本DVDのいいところは、綿本サンの指導する声がかなり気持ちいいところだろう。スタイリストがいるのか、服装も女性にアピールするようパーフェクトに決めてますね。ガイアムのビデオは、ハワイとかデスバレーとかものすごく景色のいいところで撮影していて、音楽もマッチし、環境的にすごくリラックスできるところだ。教室風の雰囲気がいい人は綿本、バックグラウンド的なリラックス効果も求めるならガイアムというところだ。今度また、ガイアムの AM PM Yoga というDVDを買った。私はリージョンフリーのDVDプレーヤーを持っているので不安なく買ったわけだが、別にある普通のソニー製DVDプレーヤーで試したところ問題なく再生できた。アマゾンのサイトにはリージョン1で日本製では再生できませんと書いてあるが、実際にはリージョンの制限は入っておらずリージョンフリーらしい。これが他のガイアムの製品すべてがそうなのかはわからないが、そういう可能性も高いだろう。リージョン制限などは映画など著作権からみのもので、こういう自社制作のフィットネスビデオなどには制限など実際にはないのかもしれない。

それはともあれ、AM の方はものすごく簡単で、起き抜けに体が硬い時にやるためのものなのだろう。またもハワイのビーチである。このDVDにはロドニー・イーとパトリシア・ウォールデンのインタビューがおまけとしてある。これがなかなかよかった。パトリシアは、ヨーガとは mindfulnessの訓練であって、今の瞬間における自覚を高めることであると言う。そういう意味でのspiritual practiceなのである、と。今・ここで起こっていることすべてに気づいている状態、これが基本ですね。スピリチュアル・プラクティスといっても、体外離脱をして異次元世界を体験するというようなことではない。そういうのも否定はしないが、今・ここの意識という基本をおろそかにしてそういうことばかり興味を持つのはかなり危険であると言ってもいいかもしれない。ガイアムのHPでも、ヨーガの主目的は心の安定であると書いてあった。Eckhart Tolle の The Power of Now の世界であろうか。これのみでは物足りないが、これをまずおさえねばならないというところだろう。私は、岩田慶治のものもたいへん気に入っている。これがいいところは、そうしたスピリチュアルな自覚――つまりそれは、日常の根底につねにひそんでいる無限性を直観するということだと思うのだが――というものが、日本の伝統的な感性(アニミズム的感性)とうまく融合して語られているという点である。無限性というのは、切れ目がないということでもあり、つまりそれは最終的には、「全宇宙が一つの生命体である」という直観へと導かれていくものであるはずだ。その道のスタートとなるのが、今・ここで自分が「存在している」ということを十分に意識するという、いわば「存在意識」というべき微細な感性を発達させることだと思うのである。ヨーガは根本的にはそういうことのためのトレーニングなのである。

つまり身体技法というものは、身体感覚を精密にしていくためにある。身体感覚が鈍麻している状態で、いくら「宇宙は一つの生命体・・」と聞かされたところで、一つの考え方としてはわかるが何の実感も伴わないものになるだろう。私たちは、「わかる」とはどういうことなのかをもっと深く考えねばならない。「わかる」ということがあまりにも、受験勉強的なスタイルのみに限定されてしまっている。本来ならそういう「わかり方」というのは、自然体験や人間関係の体験からわかっていくものだろう。いまの学校教育の身体疎外はひどいものだと思う。体育というものがあるが、あれは実質的には英語や数学などと同じ構造で、ある一つの価値基準を絶対化して、一握りの勝者と大多数の敗者を生み出すような、プロのアスリートを頂点としたヒエラルキー構造に組み込まれたものにすぎない。はっきり言ってスポーツなんて大多数は体に悪いのである。プロ選手なんてほとんどがボロボロの体ではないだろうか。テニスなどすると利き腕ばかりが長くなってしまってバランス的にかなり問題が出てくる。その反面、ほんのちょっと体操や呼吸をすることによって自分の気分の浮き沈みをコントロールするという、その程度の身体スキルさえ、今の人間は持てなくなっている。まして、深い呼吸によって広い宇宙との一体感を得るなどという技術があるなどということは、ほとんどの体育教師の考え及ばないところであろう(齋藤孝の『呼吸入門』も、こうした一体感についてはっきり語っている)。身体に関する洗練された思考などほとんどどこにもない。粗雑なものを洗練していくのが教育であるのだが。ここでも「精密なわかり方」というのはどういうことか、を考えねばならないのである。

「身体を通して宇宙・世界についての精密な理解を得る」とはどういうことだろうか。その一つの考え方として、「身体は物質だけではないことに気づく」というところがポイントであるような気がする。では何かというと、身体は物質でもあるが同時に「エネルギー場」でもあるということだ。身体を精密なエネルギーのフィールドとして感じる。これは頭でそう思うだけでなく、実際に本当にそのように感じることができるようになること。そのためにトレーニングがあるのである。気功のテーマはまさにそれである。ヨーガも、一見すると肉体レベルのエクササイズのようだが、実際には肉体を通してエネルギーレベルの自覚を高めるシステムなのである。エネルギーレベルで、自分の身体と宇宙とが交流している感覚をつかむことがポイントである。そういうベーシックな感覚ができてきてはじめて、「日常的現実にぴったり沿うように、巨大な無限性が存在する」という言葉の意味が理解されるだろう。一挙手一投足が、きわめて普通の日常性の中にあると同時に、どこもかしこも通底した巨大な拡がりの中に存在しているという感覚があるのだ。私が無限性と言っているのはそういうことだし、その意味で、世界への扉は今ここに開かれているはずなのである。しかし、「わかる」ことは簡単ではない。そのような「わかり方」は、学校で教わることはできないからだ。そうした感覚能力は、人間の可能性として潜在しているはずだが、この人工的な生活環境では、トレーニングなしに呼びさますことができないのである。

ま、というわけで、

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AM PM YOGA


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ヨーガの呼吸法

というわけで、突如としてまた身体技法マイブームとなったが・・ きょう買ってきたのは、綿本彰センセイの『ヨーガ式呼吸レッスン』だが、いいじゃないですか、これ。ヨーガの呼吸法についてのいい本というのはなかなかないが、これは指導CDつき。ヨーガの「完全呼吸法」なんか、これほどわかりやすく説明してある本は初めてだった(実際のヨーガの講師からもこういう説明は聞いたことがない)。綿本センセイのいいところは、「ムーラバンダ」つまり会陰の引き締めの重要さを力説していること。こういうことをはっきり言っているヨーガ指導者って意外と少ないんですよね。会陰を引き締める呼吸法なら、高岡英夫の『DVDでゆる体操』にも「呼吸ゆる」として会陰引き締めと呼吸を合わせるやり方が紹介されているが・・これは初めての人にはちょっとむずかしいところ(この本も入手困難だし)。この『ヨーガ式呼吸レッスン』は、覚えるべきこととしては多くはないが、基本の完全呼吸法をしっかり理解するにはとても優れている。ちなみに綿本サンのパワーヨーガのDVDなんかもお勧めできるものである。

440509120X免疫力を高めるヨーガ式呼吸レッスン 音声CD付
綿本 彰


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ダイエットと運動

最近、運動の必要を感じる。ゆる体操はよくやっているが、結論からいうと、ゆる体操のみではダイエットまでの効果は出にくいのではないか。健康にはいいだろうが、それだけでお腹をひっこませるというところまでいくのかどうか。そんなわけで、太極拳は別にして、ピラティスを再開することを考えた。数ヶ月ピラティスをやっていたらたしかに数キロ減った。やはりちょっときついというくらいの負荷をかけなければ体重は減らない。ゆる体操だけだと、お年寄りなどは別として、一般的にはちょっとダイエットの手段としては楽すぎる。私は、ゆる体操だけに絞ったら体重がまた増えてきてしまったのである。

前から持っているキャシー・スミスの Pilates for Abs を久々にやってみたがなかなかいい。私はこれと、ミシェルちゃんの Pilates for Dummies をとうぶんとっかえひっかえ続けようかと思う。もっとも、いろいろほかのを買ったりもしてしまうかもしれない。よく、運動を始めようと思い立ったりすると、高価で重い運動器具を買い込んだりする人がいる。しかしそれが続くということは少なく、器具が邪魔になることが多いというのはよく知られている。思うに、そんな機械を買うより、よいビデオ・DVDに投資すればいいのだ。器具を使わなくてもできる運動などいくらでもある。ダンベルなどごく安価な道具を使っても相当のトレーニングはできるのだ。それに、たとえ飽きたとしてもたった数千円くらいのロスですむのである。日本で出ているDVDなんかは、アメリカの倍くらいの値段がするのはちょっと問題だが・・ 日本語がいいという人はやはりメルモンですかね? 私はDVD見たことはないが、本はなかなかよかった(しかし、本だけでやるのはやはり面倒なのであまり使っていないのであるが)。「ピラティス・ダイエット」ってのが売れてるみたいである。

英語ができる人は、リージョンフリーのDVDプレーヤーを手に入れるとよい。通販で手にはいる。これでアメリカのDVDも見られるようになる。私はさらにPAL方式のDVDも見られるというプレーヤーを持っている。これはヨーロッパや中国の方式である。これで中国で出ている太極拳のDVDも見られるのである。

オーディオ計画

急遽、オーディオ計画の再策定。私の目的は、金に糸目をつけず最高音質を追求することではなく、ソコソコの投資で満足できる音を得るということである。「実用以上マニア未満」ということだが、そういう人のためのいいWEBページがある。http://abc1.seesaa.net/ ただ、そこに出ている PM4400+CD5400 よりも、もう少しがんばって PM6100+CD6000 を私はおすすめしたいところ。で私はタンノイのマーキュリーがよかったので、今度もそこに出ているタンノイのフュージョン1にしておこうと思う。電源タップは重要なのだが、そこに出ている Airbor ABPT-3.25N よりもう一段がんばって 3.20S にしておこうかなあ。いろいろ迷うところ。最近はベルデンのタップっていうのが売ってないのね。あれよかったんだが。それとそのページには出てないがラインケーブルとスピーカーケーブルもけっこう重要なんよ。まあ、ラインケーブルは3000円、スピーカーケーブルは1m1000円のでいいけど、これはまあ既に持っている、と。そういえばスピーカースタンドも必要でした。そのうち家のスピーカーを Sensys にアップグレードしたいが・・今年はちょっと物いりがかさんでいるのでね。

それにしても、クラシックを聴こうとすればこの程度の勉強と投資はあたりまえだと思う。安いコンポでクラシックなんか聴いてもしようがない・・とまではいわんが、ちょっとでも本物のコンサートで音を聴いてみれば、コンポでクラシックを聴くことがどれほど虚しいことかわかってしまう。どうしたってケーブルなど込みでシステム計10万円は投資しないと「聴いた」ということにはならない。ラジカセなんかで聴いて「つまらない」とか言ったってどうしようもないのである。もちろん家でコンサートと同等を求めたら大変なことになろうが、最低限のレベルというものがある。

村上春樹とクリス・ヴァン・オールズバーグ

「海辺のカフカ」のことをつらつら考えてみると、これってどうやら「世界の全体」を描こうとしているらしいな、と感ずる。つまり、複雑な世界を複雑なままメタファーとして表す。そういうことではなかろうか。そうして、その不可思議な世界の中における「生きる意志」のようなものを表現しているように見える。それってものすごく「魂」の問題なんじゃなかろうか。魂ってなにも、「死後世界」の話ばかりじゃない(だいたいこの新緑の輝かしい季節にあんまり死後のことなど考えたいムードじゃないがね)。魂とは生きる意志のことである。そうして記憶でもある。まあそういった読み方をしてもいいだろうね、この小説は(小説なんてどう読もうが勝手である。そういうものである)。

しかしこの、日常と超日常が交錯する雰囲気は、なんかクリス・ヴァン・オールズバーグの絵本に似ていない? たとえば「ハリス・バーディックの謎」とかさ。・・と思ったら! 村上春樹、オールズバーグの絵本をかたっぱしから翻訳してたんですね。知らんかった!(わしゃ英語版で読むからね)

「ジュマンジ」とかも有名やけどわし「ハリス・バーディックの謎」が好きでんねん。何度見ても見飽きませんな。
翻訳してるってことはふつうに考えればその作家が好きだっていうことだよね(彼が翻訳をするのは生活のためではないだろうから)。そうすると「海辺のカフカ」の雰囲気もなんとなくわかってきますな。なんというかね、日常の現実というものは実に広大なる未知に取り囲まれているんである、世界とは深い謎なんであるという基本的な感性つうのがね、あるように思うんで、そこは私としても深く共感しますな。

次はひとつ「ねじまき鳥クロニクル」を読破しようと思っている(すぐとはかぎらないが)。

というわけで、これいいよ。

4309261353ハリス・バーディックの謎
Chris Van Allsburg


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「海辺のカフカ」とボーズ(無関係)

さて、「海辺のカフカ」。結論から言えば、これはものすごい傑作である。おそらく、世界文学という基準でも一流の部類に入るのではないだろうか。しかし、ふつうの小説しか読んでいない人がこれを読むと、かなり面くらうだろう。作者は外国の現代文学もかなり研究していることはたしかだ。そうでないとこういうふうには書けない。初期の作品だけ見て、「青春小説家」だとあまく見ているととんでもないのである(『ノルウェイの森』だって、私は「恋愛小説」というカテゴリーには入らないと思っているが)。もっとも、ではどういう小説なのかというとそれはたいへん説明がむずかしい。「現実」とは何かという問いもあるように見え、またギリシア悲劇のテーマが見え、また心の闇を探るようでもあり、きわめて多面的だ。この話を私たちの常識でつじつまをあわせようとすると「どういうこと?」と、さっぱりわからなくなる。解釈をやめて、ただそういう話が自分の中を通り過ぎていったという経験を受けとめればよいことかもしれない。この作品の提示する問いはかなり深いので、それはつまり「生きるというのはどういうことなのか」ということだと感じたのだが。これはほんとにすごい小説である。ストーリーの展開や登場人物の面白さも申し分ない。あんまり書くとネタバレになるので控えておく。しかし私の周囲には「海辺のカフカ」について論じ合うような人間はひとりもいないのは残念だ。とにかく本を読まない人たちが多いので。

大学に持っていったボーズのスピーカーだが、どうもあんまり芳しくない。あまり満足できない音なので、これは好みに合わないのか、セッティングが悪いのか、あるいは中古なので本来の性能が出ていないのか、それはわからぬが・・このスピーカーはやはりオークションで売り払って買い替えようと思っている。いくら音楽をかけてもあまり楽しくないのだ。どうも一度いい音を聴いてしまうと、なかなか不満が出てくることが多い。ボーズのAM5IIIだが、27000円で売ります。と言ってもアドレスは公開してないので、知り合いだけになるが。

「神とひとつになること」そして、思想の地位について

このところ、右の「最近読んだ本」と音楽のコーナーを更新してない。はっきり言ってちょっとめんどくさい。あんまり「最近」じゃなくなっているのは気になってはいる。実はこのところ紹介できるようなものはそれほど読んでない。しかし思いつくものは、このブログでときどき触れていきたい。

つい最近でもないが、「神との対話」シリーズの一つ、『神とひとつになること』はかなりよかった。『新しき啓示』の方は、伝統的なキリスト教に対するアンチの姿勢が強く出ていて、あまり日本人向きではないなというところもあったが、この『神とひとつになること』はひじょうにコンパクトにまとまっていて読みやすい。対話体ではなくて「神」の語りという形式である(正確には「絶対の神」ではなかろうというのは、前に書いたとおりだが)。『神との対話』3冊、『神との友情』につづいてこの本も持っているといい。

4763193740神とひとつになること
ニール・ドナルド ウォルシュ Neale Donald Walsch 吉田 利子


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ここで誤解のないように何度でも書いておくが、このようなことがらがいま、科学やら学問で明らかにされつつある、というのではまったくない。「トランスパーソナル」などに、そのようなことを期待するのはまったく間違っている。世間の人は錯覚しているが、アカデミズムなんてほんとうにたいしたことないのだ。つまり、そういう「権威」を打ち立てて、「スピリチュアルな世界というのはほんとにあるんだぞ、わかったか」ということを「わかってない人」にわからせたい、そのために学問がこういうことをやるのを期待する、という発想そのものが、私が前々から言っている「折伏への欲望」にほかならないのだ。スピリチュアルにはなんの「権威」もない。世間的な権威でスピリチュアルの存在をわからせようというのは、ヨーロッパ中世の世界に戻ることになるのだ。もっとも危険な思想的テロルである。

同様に、ユングなどを持ち出してこういうことに学問の権威づけを求めるような日本に見られる傾向も苦々しい感じがする。よその国ではユングなんてオカルトでしょと考えられていることだって多いし、「ユング心理学では・・」などといえばわかった気になるような学問的権威なんて外国ではほとんどないのが実情。これほどユング心理学の人気が高い国はないわけで、ユング心理学者が文化庁長官になるなんてびっくりすることもある。しかしまあ、ユング心理学が悪いと言っているわけではない。ああいうものが存在するのは世の中のためによいことである。ただ私が言いたいのは、今の日本人は結局、思想とか哲学の問題というのを回避しているということ。本来、思想の問題として考えるべきことを、「心理学」とか、そういう科学めいたよそおいにしていかないと信頼しない、という傾向が見られることだ。いいかえれば、本当は思想としてやるべきことを、既成の学問に求めてしまっている。本来、哲学に向かうべき人びとが、心理学に走っている。つまり本当は何かスピリチュアルなことを考えたいという人が思想・哲学へ行かず、心理学という枠組みを選んでいるという状況があるわけだ。大学が学生集めに苦労している中で臨床心理学系だけは押すな押すなの大盛況である。これは、本来的に今の大学では「魂」を語れるスペースはないので、ただ心理学のみがその「隠れ蓑」になっているということだ。

要するに「魂の問題」をやっていきたいという人は多いのに、それだけの受け皿がないということなのだろう。それは私も、自分のやりたいことをやっている学科がなくて困ったという経験があるからよくわかる。見方を変えると、哲学や文学というものの権威がいかに低くなっているかということでもある。たしかに今の状況をみると、アカデミックな哲学からは実質的に「魂」の問題は追放されている。文学でさえある程度そうなっていて、これは大学に残るには「魂」のことなど棚上げにして「学界」が気に入りそうな論文をせっせと書かねばならないというシステムになっていて、そういうシステムに自分を合わせることに成功した人間のみが生き残るからである。そうした日本の知的世界の中でユング心理学というのは隠れ蓑的な役割を演じてきたと言える。だが、そういう状況そのものがそろそろ変化しなくてはいけない。

だけど、本来、権威なんてないのがあたりまえなのだ。結局、自分でやる、自分で考えるしかないのだ。あたりまえのことであるが。

トランスパーソナルだって権威ではない。それはまあ、いかがわしいと思っている人に対しては、アメリカでは大学院だってありPh.Dもとれるんですよというようなことも言ったりするが、それは世間がそういうことで人を信用するという習慣にやむなく合わせているだけのことだろう。世間でどう評価されるいるかなんてまるで関係ないだろうということはよほどのお馬鹿でない限り誰でもわかることだと思うが。問題は、神(宇宙や存在の始原)とか魂というようなことを語るのがなぜいかがわしいのか、なぜトンデモなのか、どうして世の中はそういうイメージを抱くまでに無神論に支配されてしまったのか、ということだろう。シュタイナーならアーリマンと言うところだが。いまの日本の精神的な病根は、思想する力の衰弱だと私は思っている。だから私はトランスパーソナルも思想の一つだとして受けとめている。それには賛成する点もあるし、反対する点もある。私の立場は決して「トランスパーソナル」と同一ではないので、その点にも誤解のないように願いたい

こんなことを書いたのは、「神との対話」シリーズに手を伸ばすのは、社会的に認知された世界から一歩踏み出すことになるからだ。ぜんぜん気にしない人も多いが、中には、世の中で受け入られている枠組みからはみ出すことを恐れて、なかなかその一歩を踏み出せない人もいるらしい。そういうふうに育ってきた人にはなかなか大変なことなのだ。

魂とか神についてのことがら(つまり「思想」だが)を勉強するのは独学をすすめたい。これまでにどういうことが言われているのか、そういう知識をまんべんなく教えてくれるコースなどはまずいまの大学などにはありそうもないし、考えてみるとそういう入門書みたいなものもない。なければ書くしかない、と思いもするが、元来私は過去の知識を体系的にまとめるなどという作業はあまり得意ではない。そこで、このブログを使って少しずつ読書案内めいたことなどをやっていこうか、とも思っている。

「海辺のカフカ」と死後体験など(何の関係もなし)

休養日。というのはだいたい、DVDと読書と、庭を少し、それから太極拳など。

村上春樹、つづいて「海辺のカフカ」を読んでる。上巻終了。いやこれも、抜群に面白いです。
小説というのはこういうぐあいに、相当程度に長くて、そして世界の複雑さのメタファーとなるくらいの複雑さをそなえたものがよろしい。ベストセラーといっても「セカチュー」みたいにびっくりするような数字じゃない。だいたい100万部を超えるという話になると、ふだんほとんど本を読んだことのない人も買わないとなかなか達成できないんじゃないか? この文庫本も巻末の広告には漱石、芥川、太宰にディケンズ、ドストエフスキーなんかまであって、読者層があくまで正統派の文学好き人間であることを示している。しかし「海辺のカフカ」のどこが面白いのかというとなかなか説明がむずかしい。

4101001545海辺のカフカ (上)
村上 春樹


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ともあれ、私もいつも「あっちの世界」のことばかり考えているわけではないので、映画や小説をよく見るというのは、それだけ、「人間の経験」というものに興味があるということなのだろう。というより、私は完全に「こっち」と切り離された「あっち」というものには関心がないわけで、そういう世界があるとしても(あるのだが)とりあえず今の自分とは関係ないし、「あっち」と「こっち」が相互浸透することこそ面白いわけではなかろうか。人間の経験というものをたくさん知るということは、経験を重ねることがここに生を受ける意味なのだとすれば、それは魂の進化と深い関係があることであろう。と、そのような理屈をつけて小説を読むわけではなく、映画や小説は単に面白いから見るというだけだ。お勉強ではないのである。

もっとも、そうはいっても、一部で評判の坂本政道「死後体験」シリーズをついに私も読んでみることにした。まあ、モンローものは既にいくつか見ているし、そういう世界があることは知識として知っているので今さらという気もするのだが・・でも誰も私に対して村上春樹論なんかを期待する人はいないし、やっぱり「あの『死後体験』ってのはどういうものなんでしょうね~」という論評を人は私に期待しちゃったりしているかもしれない。そういう期待にこたえようという責任感や使命感など私にはさらさらないのであるが、まあ読んではおこうと思った。実をいえばそういうスピリチュアル世界探訪ものというのは、私は今までにけっこう読んでるんですね。そういう世界、中でも巷のサイキックなどが見ているような次元じゃなくて、もっと高次の世界というのが人間にも体験される可能性のある世界としてあるということはやっぱりもっと世間に広まらねばいかんと思う。既得権益にしがみつくお偉方が何を言おうとそんなことは関係なし。本当のことを書けば人びとの魂の深い部分に痕跡を残すことになる。たとえその時に表面意識では否定したとしても、死ぬまぎわになればいろいろな現象が起こるし、その時に「そういう話もある」ということを知っていただけでも大きな違いとなるわけである。・・ということだが、坂本氏の本、買っただけでまだ読んでない。レビューはまたのお楽しみ。

そういう「通信もの」というのはスウェーデンボルグとかの時代からたくさんある。科学や学問で扱う話ではないので、要するに一種の新宗教的な文書ということだろう。魂の不死や死後の世界について論じることは、いつしか哲学の領域から追放されてしまったわけだ。近代の理性主義の背後には、スウェーデンボルグの影がある。スウェーデンボルグがどういう人かっていうのは右の本のリストにある水木しげるの「神秘家列伝その一」を見るとわかる。それからこんなのもある。

4042776019霊界日記
エマヌエル スウェーデンボルグ Emanuel Swedenborg 高橋 和夫


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これはもう「信じようと信じまいと」の世界なので、私はこういうのを受け入れろと押しつける気はない。こういう文献にもニセモノもあるしだまされることも実際にあるからだ(自分をだますことも含めて)。宗教とはすべて自己欺瞞であると信じている人もあるが、その人は現時点ではそういう世界に住みたいのだからどうもしかたがない。「海辺のカフカ」にも、「想像力の欠けている人間を相手にしているといくら時間があっても足りない」とかいう言葉があったが。想像力というのはつまり、「この世界のことはもう私にはわかっている」のか、それとも「この世界はあまりに巨大であり、基本的に何でもありなのだ」とするのか、そういう基本的な前提の問題である。つまり未知というか、闇というものを感じて生きているのか、いないのかということかもしれない。私は、納得するかどうかというのは魂レベルの問題で、論理性のみによって説得された人はかつていたためしはないと思うので、決して「論破」はするつもりはない。わかってない人を論破してやろうというのは某宗教団体の「折伏」と同じわけだが、こういうことをする人のスピリチュアルな理解度は初級レベルだということだ。しかし誰しも通る道ではあるので軽蔑するつもりはない。

それはそうとそういう「通信もの」であまり知られていない面白い本を紹介しておく。これも「そういう話があるということを知るという経験をいま自分はしたのだ」という「事実」だけを受けとめるという考えで接した方がいい。間違っても私がお墨付きを与えたなどというとらえ方をしてもらっては困る。面白いことは保証する。スピリチュアル・エンターテインメントととらえてもいい。だいたいこういう話というのは基本的に面白いものではなかろうか。向こう側がどうなっているのかというのは人類の永遠のテーマなのだ。それについては、どういうことをこれまで人間は経験してきたのか、どういう話があるのかというのをできるだけ集めてから判断するのが妥当な態度ではなかろうか、と思う。そして、臨死体験やモンローの体験なんかを含めて、今の時代ほど、そういう体験についての情報がおおっぴらになった時代はかつて人類が経験していない。そういう重大な局面に際して、それについて何の関心ももたないというのは「思想家」とは呼べないであろう。思想というものの永遠の課題は「魂はあるのか、魂は不死なのか」ということだ。その意味で、確信犯的な時代錯誤が必要なのである。(なお第2巻になっているのは、第1巻はアマゾンでは発送に時間がかかると出てるからだ。全部で5巻ある。版元に直接注文した方が早いのだが)

489214021X私の霊界通信 (第2巻)
村田 正雄


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上のは宗教的な文脈での体験である。もう一つ私が「とにかくこれはどういう意味なのか、受けとめなくては」と思ったのはマイケル・ニュートンによる退行催眠を用いた「霊界探訪」である。ブライアン・ワイスの退行催眠、前世療法というのは既に知られているが、ニュートンのは前世というより「あちらの世界のしくみ」を退行によって探索するという試みである。つまり魂があちらにいたときの記憶を引き出すというわけ。私はそもそもこういう本が存在するということ自体に驚いた。しかしそれだけでなく、アメリカには相当数の退行催眠セラピストがいて、そのセラピストたちの多くがニュートンの本に興味を持って、そういう種類のセラピーのやり方を教えてくれとやって来て、ニュートン博士はいまそういう人たちへのワークショップなどを主にやっていて、マニュアル本まで書いてしまっている。そういうセラピストの団体まであるのである。(もちろんアカデミックな世界で認知されているというわけではない。そういうのはアメリカでも保守的なものである。欧米でそういうスピリチュアルな運動に関わっている人の多くは、個人開業のセラピストという職種である) ともかくびっくりするようなことが書いてあるが、もちろん「これってどこまでホントなの?」という疑問はだれしも感じる。あるいは、たしかにそういうことも間違いではないが、それはあくまで大きな真実の一部かもしれない(これはありそうだが)。しかしともあれ、生と死の問題を考えることを選んだ者は、こういう情報もあるということを受けとめる必要はある、とは思うのだ。無視はいけない。自分の都合の悪いことを無視するのはいちばん怠惰である。これだけの情報が世に出ているのだから、可能な限り情報を集めた上で判断を下すことが必要だ。最初から「それは決して解決できない問題である」と言って、そういうことを知ろうとしないのは、本当にその問題が痛切に身にしみていないからである。どうしても気になるなら、そういう本があれば読んでしまうものである。その上で、判断は魂レベルですることだ。そういう判断が、「サニワ」である。では、その「サニワ」ができるようになるにはどうすればよいのか、というと、今までの私の学んだことを総合していえば、それは「倫理的に生きるようにすること」だと思う。魂の向かおうとする方向が問題だ。これこそプラトンの哲学である。

訳書も出ているんだが、ただ、翻訳がよくないという話もあるので、どうなのか? 私は英語で読んでいるので訳書のできばえについてはコメントできない。いちおうアマゾンのリンクはあげておくが。なお原著は Michael Newton, Journey of the Souls そして Destiny of the Souls の二冊である。

4900550914死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」―退行催眠による「生」と「生」の間に起こること、全記録
マイケル ニュートン Michael Newton 沢西 康史


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さっきも書いたけど私はいつもこんなことばかり考えて生きているわけじゃないんだけどね。正直言うと私としては「この存在の世界の構造はどうなっているのか」という問いについては、知的に接近できるかぎりことは勉強したし、自分なりのイメージを描くことはできたので(それが『魂のロゴス』なのだが)、それ以上に進むには別のアプローチが必要かもしれない、と思っている。だから、やっぱりこういう情報をここに書いたりするのは「読者サービス」の要素があることも否定できない。できれば、私が到達した「世界の構造」についての概略も、いつかネットに載せたいとは思っている。

「世界の中心で、愛をさけぶ」と「ノルウェイの森」

DVDをいろいろ見ているわけだが、公開の時に見逃していた日本映画もずいぶん見た。「たそがれ清兵衛」「雨あがる」「阿弥陀堂だより」「半落ち」「鉄道員(ぽっぽや)」「ホタル」なんてのはやはり評判通りのことはあるものだ。映像的にもたいへん美しい。ついでに中井貴一の「壬生義士伝」だが・・映画の作り方としてはB級映画っぽい。脚本もいまいち練りが足りない感じだし、主人公が死んでからなお二十分も続くというのはちょっと間延びである。しかし中井貴一の演技がいいので見るには耐える。日本アカデミー賞ということだが作品賞を取るほどの作品かね? とは思ったが。それから小泉今日子が好きな人には「センセイの鞄」をおすすめしておく。私は30代になってからの彼女がなかなか好きで・・(ちなみにメグ・ライアンも30代の方がずっとよいと思うが)

そんな流れでついに「世界の中心で、愛をさけぶ」も見てしまった。映画館では600万人が見たという大ヒットだったそうだが・・まあ若い女性やカップルばかりの映画館には行きにくいというわけではなく、去年はあまり映画を見る習慣がなかっただけなのだが(そういえば去年は「ロード・オブ・ザ・リング」と「ハウルの動く城」くらいしか行かなかったかも)、今年「北の零年」を見て、行定監督というのはなかなか大したものだと思って、「世界の中心・・」も同じ監督だというので見てみる気になったというわけ。映画としてはなかなかよくできていると思った。見る価値はある。長澤まさみというのは初めて知ったが、なかなか魅力的だし、特に声にかわいらしさがあるので役柄には適当だと思う(もっとも最近では、こういう年頃の女の子に対しては「こういう娘がいたらお父さんは楽しいでしょうねえ」などという目で見てしまうが)。映像的にもよい。私が印象を受けたのは「光」の使い方がうまいということである。特に、ヒロインが死に近づいていくところでは、病室全体がだんだん白い光に満たされるように描写していて、死のもつ荘厳さのようなものが表現されている。この作品のテーマが「死」であることを理解していて、それを映像的に表現しようという努力がうかがえる。日本アカデミー賞では撮影賞・照明賞も取ったがそれだけのことはある。映画というのはそういうところをしっかり見るべきものなので、「泣けた」「泣けなかった」などという単純な二分法での毀誉褒貶がネットにはあふれていたりするが、そういう単純な二元思考をする人ははっきり言って頭が悪いとしか思えない。世の中には、「よし泣くぞ!」とハンカチやティッシュを用意して身構えて見始めて、その期待がかなえられないと怒り出してその映画をぼろくそにけなしたりするという人が少なくないらしいが、そういうのはコメディ映画には絶好のキャラクターといえますね。私としては泣くほどのものではなかったけれども、客観的に見て星四つくらいの出来ではあるし、行定監督の力は出ていると思う。しかし、脚本は今ひとつわかりにくいところがあり、たとえば、なぜ高校生の男女が二人でオーストラリアに行ったりできるのよ(それも学校の授業期間中に)という疑問がわいたりする。演技・映像はいいので、脚本の点ではもう少し頑張ればもっといいものになったのではないか(と、このように「・・・にすればもっとよくなった」という言い方はちょっと教師的な習癖かもしれないが)。

しかし、思想的に「愛」のことを考えるということも私の一大テーマである。根本的に宇宙の存在自体が「愛」そのものであるということが神秘思想の基本であり、神秘思想はある見方からすれば「愛の思想」でもある。それだけ言うと何か自分から遠い世界のように感じるかもしれないが、私たちが身近に経験している「愛」もまた、その宇宙的な愛を分有しているからこそ愛として成立しているはずである。そこで、私たちが特にロマンティックな関係において経験する愛というのは、この根本的な宇宙的愛とはいかなる関係にあるのか? すべての愛の経験は、「あの愛」を知るためのステップではないのか・・それがまさにプラトンの「饗宴」のテーマではないか・・ などと考えていくと、いま世の中の人がかなり「純愛」に関心を持っているという現象を無視するわけにはいかない。そういうわけで「世界の中心で、愛をさけぶ」のベストセラー現象についても考えねばならないだろう。ということも映画を見た動機の一つだが、ここは本の方も読まねばならぬ。「世界・・」は200万部を突破しているが、日本の小説で200万部を超えたのは、ほかには村上春樹の「ノルウェイの森」があるだけだという。ならばひとつ、ここはこの二つの読み比べといきましょう。言い遅れたが、私はいちおう学部・大学院では比較文学を専攻しており、文学ではプロとしての訓練を受けている。小説のよしあしくらいはわかるつもりである。ただ昔はもっぱら古典ものを中心に読んでいるんで、最近の日本の小説というのは大江健三郎くらいまでしか知らなかった。

で、「ノルウェイの森」だが、結論から言えばこれはひじょうによかった。上下二巻だが一気に読んでしまう。次から次と変わった人が出てきて退屈しない。宣伝文句には「100%の恋愛小説」などと書いてあるが、私はこれは恋愛小説とは呼ばない。テーマとしては「喪失」ということだと思う。つまり、私たちは喪失の重さに耐えながらもなんとか生きていくしかない、というようなことを書こうとしているように感じた。読後感としてはやや冷え冷えとしているところがある。透明な悲哀感というようなトーンが文章に感じられる。トーンというか、要するに文章が持っている波動的なものが文学ではいちばん大事なことで、それだけでその作家が一流かどうかわかるのだ。このトーンが好きな人は村上春樹にはまるでしょうね。私もなかなか嫌いではない。この作品も場合は特に人物造型がよくできていて、出てくる人がみな普通ではなくて面白い。

この小説の主人公は文学部で演劇専攻の学生という設定である。世の中の普通の学生とはちょっと違っていて、今では絶滅寸前の「文学青年」という人種である。主人公が療養所を訪ねていくシーンで、トーマス・マンの「魔の山」を持っていて読んでいる場面がある。いまの学生はトーマス・マンなんて名前を聞いたこともないだろう。読者は「魔の山」という作品が、療養所を舞台にしていて、生と死という問題がテーマになっているということを知っておく必要がある。知らなくても読めるが、知っているとこの小道具の意味がわかるしくみだ。つまりこの「ノルウェイの森」は読者もある程度文学を知っていることを前提としているように見える。「世界の中心・・」が、日ごろほとんど本を読んだこともない若い女性などに受けていたのに対し、「ノルウェイの森」はあくまで日常的に本を読むことが好きだという人びとを対象として書かれているようなのだ。

「世界・・」を買いにブックオフへ出かけた。こういうベストセラーものはたいがい大量在庫があって200円か300円で買えるだろう・・ともくろんでいると意外にも750円もする。思惑が外れたがともかくも入手してみた。で・・う~~ん・・ファンの方にはたいへんもうしわけありません。映画を先に見たせいもあるとは思うが、私にはひどく退屈だった。半分ほど行ったところでそれ以上読む気力が減退。再度、たいへんもうしわけありませんのですが、作家としての筆力という点では、村上春樹とはまったく比較することもできません。やっぱり、文芸誌の新人賞くらいのレベルなんですよね・・素人くささが抜けないというか。小説としてはキャラクターの造型が弱いと思う。朔太郎とかアキとか、いったいどういう人物であるのか、心にどういうものを抱えて生きているのか、そのへんがさっぱり書きこまれていない。もっと綿密に書かなくてはね・・正直言うともうちょっと面白いかと思ったけどこの程度なんですか? という感じだったね。根本的に文章力弱いですよ。たとえば村上春樹の、「彼女の瞳の奥の方ではまっ黒な重い液体が不思議な図形の渦を描いていた」(「ノルウェイの森」講談社文庫上巻16ページ)みたいな表現なんかいっこも出てこないんですから。小説家たるもの、「あ~、この表現はすごいねえ」と読者を唸らせるところがなくちゃだめなんですよ。なんというか、細部の美しさというものも大事なのだ。登場人物の会話なんかも、あんまし面白くないんだよなあ・・

というわけで、私の意見だが、作品としての出来は映画の方がずっとよい。映画を見た時はもうちょっと脚本がんばれば? と思ったけれども、この程度の小説からいちおうここまでのレベルの映画を作ったということはスタッフを誉めていいことである。小説ではやや平板なキャラクター描写である登場人物も、キャスティングや演技がなかなかよいのでかなり生き生きしてきている。脚本も原作に比べたらよくできている(そこまで言うか? という意見もあろうが)。たとえば原作では祖父になっているのを山崎努の写真館のおやじに変えたのも、そっちの方がずっといいと思うし。

そういうことで、DVDを借りる価値はあるが、本を読む必要はなし、という結論になったわけだが。「ノルウェイの森」を読んだことのない人はぜひ読むことをおすすめしたい。小説として「愛と喪失」を書いているものとしてたいへん優れていると思う。余談になるが「ノルウェイの森」はビートルズでもややマイナーな曲なので、私はよく覚えていなくて、米国アマゾンのサイトで試聴サンプルを見つけて曲を確認した。聴いたことのあるメロディーだった。私はそれほどビートルズに詳しいというわけではなく、例の赤と青の選集LPしか持っていなかったので、その中に「ノルウェイの森」は入っていなかったのである。

しかしこれでは、「セカチュー」現象から「愛」について考えるというテーマはまだ語っていないわけで、映画と小説版のどちらがいいかという話しかしていない。この現象はつまり「神話」というものが私たちの世の中にも必要だということでもあると思う。本質的なことは神話でしか語れない。あるWEBページで、「この小説でいちばんいい部分は、そのタイトルではないか。このタイトルがよかったのが売れた一因ではないか」という意見があったが、私もそう思う。このタイトルは素晴らしい。が、これは原作者がつけたタイトルではなく、編集者がつけたものだという。原作者はなんでも「ソクラテスの恋」とかそういうタイトルを考えていたらしい。ちょっとこれはセンスないね、というか意味不明。小説の内容は「世界の中心で、愛をさけぶ」というすばらしいタイトルに負けているような気がするが。「愛をさけぶ」は、「叫ぶ」と漢字にしてもだめなので、こういう微妙な語感がわからない人は文学はできない。「世界の中心で、愛をさけぶ」というタイトルはまったく完璧である。私もこのタイトルこそが最大の成功の要因だと思っている。これは一行詩のようなものである。一行だけで、神話としての実質を備えた力強い波動が感じられるのだ。というのも、「世界の中心」というのはいったいどこのことだろう? と考えざるをえなくなってくる。そしてそれはどうも「愛」に関係しているらしい。「世界の中心」は「愛をさけぶ」ところなのか? 著者が考えたタイトルではないので当然ながらその世界の中心とはどこなのか書いてはいない。もちろんウルル(エアーズロック)もアボリジニにとっての世界の中心であるわけだが、私たちも当然ながら自分にとっての「世界の中心」を見つけなければならないという気分になってくるだろう。そういう自己探求と「愛」との関連が、このタイトルには凝縮して表されているようなのだ。その「世界の中心」とはどこか特定の場所なんであろうか? そうでもあり、またそうでもない。神話的ないいタイトルだなあと思う。

長くなったのでこのへんでやめるが、まとめると、

1.「世界の中心」とはいったいどこなのであろうか。「世界の中心に立つ」とはどういうことをいうのか。
2.それと、「愛」と関係があるらしいが、それはどういうことなのか。「世界の中心」に立つということが、「愛」を知るということなのか。それではその「愛」とはどういう愛なんだろうか。

と、いうような問いがそこから出てくるということになる。こういう問いを喚起するということが、このタイトルが人びとの魂に響いたという結果を生んだのではなかろうか。というのはとりあえずの結論である。恋人が不治の病で死ぬなんて話は、「マコ、甘えてばかりでごめんね。ミコはとっても幸せなの」(知らなければお母さんかおばあさんに訊いてください。なぜ私がそんなの知っているのか、という話はおいといて)などいくらでもあるので、結局それは作者がどこまで死とか愛とか、さらにつきつめればここに生きているというのはどういうことかという問いをつきつめて、それを美的に表現できるかということになる。テーマが古いということは問題ではないので、要はその深さである。


ノルウェイの森 上
村上 春樹


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連休ということだが

どうも最近あまり本を読んでいないせいか、少し読むと疲れちゃって・・ プロティノスだが、結局、神秘思想としてはやっぱりこれが最高なんではないのか? と思える。ギリシア思想の「美しいコスモス」の感覚があふれていて実に素晴らしい波動である。インド系やキリスト教神秘主義にも学ぶ点が多いのだが、私にはこのギリシア的神秘思想がもっともアットホームである。それは結局、「一神にして多神」だというギリシアのコスモス観が、日本の伝統と基本的に一致しているからだと思う。

それと最近、リスニングルームにさらに大型テレビを入れ、それ以来DVDを大量に見ている。いろいろと面白いものがあるが、それはまたいずれ。

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