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2005.05.23

よもやま話(モンローとか)

いや、家のパソコンがとつぜん故障。ファイルシステムが壊れたようなので、リカバリーCDを使って再セットアップ。幸いにハード的には大丈夫なようなので、まだ使える(まもなくまる8年になるマシンだが、ネット関係とワープロ、エクセルくらいしか使わない私には、このスペックで十分なのである)。メールやファイルなどは少し前にバックアップしたのがあるが、ひとつ忘れていたのはブラウザーの「お気に入り」のファイルだ。いまとなってはいちいちサイトを探すのが大変である。しかしまあちょっと面倒なだけでそれほどの実害はない。ただ、バックアップが完全でなくメールアドレスは多少わからなくなったものもあるので、アドレスを知っている人はそちらから一度送っていただきたい。

このまえ綿本彰『瞑想ヨーガ入門』を「超おすすめ」と書いたが、「超」まではいらなかったかもしれない。綿本サンのことを「なかなかわかっている」と書いたが、もちろんそれは江原サンみたいに霊的な世界がわかるという意味ではないのだ。私はむろん、ヨーガが最終的な目標としている大宇宙と小宇宙の合一とは、文字通り「神人合一」だと思っている。つまりそれはプロティノスの言う「一者」であり、そこに到達した人は文字通り、何のメタファーでもなく、神そのものと同一になる、いいかえれば、この宇宙のすべて(それは人間に理解不能な諸世界を含めて)がすべて自分の意識そのものである、という状況を言うはずだ。ただもちろん、肉体を持っていることも事実なので、そこの限界は当然持っているが、意識レベルにおいては神である。この点については何の妥協もなく、その通りであると私は思っている。それがいかに荒唐無稽と聞こえようとも、それを肯定することが人類の霊的文化の伝統なのである。だが、それはあまりにいまの一般の人々の意識からは遠い話だし、また実際にヨーガをすることによってそういう意識レベルにまで達するなどということは何百万分の一もないことなので、とりあえずそういうことは考えず、現状よりも一段上に登ることをめざしていくヨーガも完全にありなのだ、ということだろう(綿本サンがそういう戦略まで考えて書いているかどうかは知らない)。

ヨーガといえばロドニー・イーのインタビュー記事が新聞に出ていた。彼のビデオ日本語版も出るということだが、彼の場合綿本サンと同様その声質にかなり癒しの効果があるので、吹き替えでは効果半減するのでは? という懸念もある。ともあれむこうではすごいカリスマヨーガ講師なのだ。でも指導そのものは綿本サンの方がもっと詳しいかも。

この前予告していた、坂本政道『死後体験』をようやく読み始めた。私はすでにモンローものを英語でもかなり読んでいるので、内容的にはまあ既知のものが多いのだが、それでも読み始めると一気に読めるくらいのおもしろさはある。こういうのは言ってみれば、マルコ・ポーロの東方見聞録を当時のヨーロッパ人が読むのと似ているかもしれないなあ、と思う。既知の世界の外へ冒険してきた人の話を読むということであって、こういう精神の世界こそが今の人類におけるフロンティアなのだということは間違いない。いまはまだ科学的調査の時期ではなく、個々の冒険家が行ってきた体験談を聞くという段階なのだろう。もちろんその気になれば自分で試してみることはできる。私は最近、あんまり「あっち」にのめりこむことを警戒する気分があるのだが、だからといってこのような体験談を否定しているわけではない。とにかく安易な解釈をひかえて、ただ、「そういう体験をした人がいるんだぞ」ということを蓄積していくということはだいじなことだ。坂本氏も、モンロー研究所のアプローチを「死後体験を科学的に証明したもの」として理解しているわけではない。あくまでこういう体験がある、という形で提示している。まだ科学がどうこうというには早すぎる。「東方見聞録」がいかにたくさんの人に知られるか、ということが現段階では重要かもしれない。なお、こうした体験のすべては、神秘哲学の世界観にまったく矛盾はなく、完全に理解することができる。

4892954780「臨死体験」を超える死後体験―米国モンロー研究所のヘミシンク技術が、死後の世界探訪を可能にした!
坂本 政道


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それからモンローものといってきわめつけはやっぱりこれである。モンロー最後の著作。真の「ぶっ飛び本」といえよう。信じるも信じないも自由だが・・

4531080912究極の旅―体外離脱者モンロー氏の最後の冒険
ロバート A. モンロー Robert A. Monroe 塩崎 麻彩子


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で、モンロー研究所というのは結局なんなのか? それは今のところ、「まあ、こういうのも存在することに意義があると、どこかで決めたからできているのではないか」という感じだろうか。どこかというのはむろん「上」のどこかである。およそ宗教というものだって、つまり、このように人間が自分の限界を超えた何かを知ろうとする試みにおいてはということだが、「上」からのサポートは欠かせない。これはソクラテスはじめギリシアの哲学者はみな当然のことと見なしていた「ダイモーン」である。今風に言うと「ガイド」ということになるか。なおポルピュリオスの伝記によると、プロティノスの場合はそのダイモーンがふつうのガイドではなく、もっとはるかに高位の「神々」レベルだったという。これは、なるほど、さもありなんという話だが、例によってふつうの学者にはなんのことかわからないでしょうね。それはともあれ私が言いたいのは、人間がこういう世界を探索するに当たっては、それなりの「道」がつけられているということだ。それにうまく合えば先に進めるのだ。およそ神秘哲学者にとって、この世界のことがらがより大きな世界との関連で動いていることは当たり前すぎることである。この大きな変動の時代にあっては、ある一定数、常識を越えた世界に果敢にチャレンジする人間が存在することが必要なのだ。それをサポートするしくみが宇宙から提供されているのだろう。モンローもその一つだし、また別のレベルで言えば、「神との対話」みたいな本が存在するのもそうしたある大きな計画の一環であることを私は疑わない。何度も言うが、これは現代社会の常識ではぶっとびの考え方であっても、人類史的な伝統の中では少しもぶっとびではない。ギリシアのプラトン主義者なら、私の考え方にパーフェクトに賛成すると思う。

なぜなら、神秘哲学の伝統によれば、宇宙はそれ自身が巨大な「叡智体」なのである。その中の「部分意識」である人類意識体は、その巨大な叡智の導きの中に存在している。このような当たり前のことを忘れ去っていたのがどうかしていたのである。

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