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「世界の中心で、愛をさけぶ」と「ノルウェイの森」

DVDをいろいろ見ているわけだが、公開の時に見逃していた日本映画もずいぶん見た。「たそがれ清兵衛」「雨あがる」「阿弥陀堂だより」「半落ち」「鉄道員(ぽっぽや)」「ホタル」なんてのはやはり評判通りのことはあるものだ。映像的にもたいへん美しい。ついでに中井貴一の「壬生義士伝」だが・・映画の作り方としてはB級映画っぽい。脚本もいまいち練りが足りない感じだし、主人公が死んでからなお二十分も続くというのはちょっと間延びである。しかし中井貴一の演技がいいので見るには耐える。日本アカデミー賞ということだが作品賞を取るほどの作品かね? とは思ったが。それから小泉今日子が好きな人には「センセイの鞄」をおすすめしておく。私は30代になってからの彼女がなかなか好きで・・(ちなみにメグ・ライアンも30代の方がずっとよいと思うが)

そんな流れでついに「世界の中心で、愛をさけぶ」も見てしまった。映画館では600万人が見たという大ヒットだったそうだが・・まあ若い女性やカップルばかりの映画館には行きにくいというわけではなく、去年はあまり映画を見る習慣がなかっただけなのだが(そういえば去年は「ロード・オブ・ザ・リング」と「ハウルの動く城」くらいしか行かなかったかも)、今年「北の零年」を見て、行定監督というのはなかなか大したものだと思って、「世界の中心・・」も同じ監督だというので見てみる気になったというわけ。映画としてはなかなかよくできていると思った。見る価値はある。長澤まさみというのは初めて知ったが、なかなか魅力的だし、特に声にかわいらしさがあるので役柄には適当だと思う(もっとも最近では、こういう年頃の女の子に対しては「こういう娘がいたらお父さんは楽しいでしょうねえ」などという目で見てしまうが)。映像的にもよい。私が印象を受けたのは「光」の使い方がうまいということである。特に、ヒロインが死に近づいていくところでは、病室全体がだんだん白い光に満たされるように描写していて、死のもつ荘厳さのようなものが表現されている。この作品のテーマが「死」であることを理解していて、それを映像的に表現しようという努力がうかがえる。日本アカデミー賞では撮影賞・照明賞も取ったがそれだけのことはある。映画というのはそういうところをしっかり見るべきものなので、「泣けた」「泣けなかった」などという単純な二分法での毀誉褒貶がネットにはあふれていたりするが、そういう単純な二元思考をする人ははっきり言って頭が悪いとしか思えない。世の中には、「よし泣くぞ!」とハンカチやティッシュを用意して身構えて見始めて、その期待がかなえられないと怒り出してその映画をぼろくそにけなしたりするという人が少なくないらしいが、そういうのはコメディ映画には絶好のキャラクターといえますね。私としては泣くほどのものではなかったけれども、客観的に見て星四つくらいの出来ではあるし、行定監督の力は出ていると思う。しかし、脚本は今ひとつわかりにくいところがあり、たとえば、なぜ高校生の男女が二人でオーストラリアに行ったりできるのよ(それも学校の授業期間中に)という疑問がわいたりする。演技・映像はいいので、脚本の点ではもう少し頑張ればもっといいものになったのではないか(と、このように「・・・にすればもっとよくなった」という言い方はちょっと教師的な習癖かもしれないが)。

しかし、思想的に「愛」のことを考えるということも私の一大テーマである。根本的に宇宙の存在自体が「愛」そのものであるということが神秘思想の基本であり、神秘思想はある見方からすれば「愛の思想」でもある。それだけ言うと何か自分から遠い世界のように感じるかもしれないが、私たちが身近に経験している「愛」もまた、その宇宙的な愛を分有しているからこそ愛として成立しているはずである。そこで、私たちが特にロマンティックな関係において経験する愛というのは、この根本的な宇宙的愛とはいかなる関係にあるのか? すべての愛の経験は、「あの愛」を知るためのステップではないのか・・それがまさにプラトンの「饗宴」のテーマではないか・・ などと考えていくと、いま世の中の人がかなり「純愛」に関心を持っているという現象を無視するわけにはいかない。そういうわけで「世界の中心で、愛をさけぶ」のベストセラー現象についても考えねばならないだろう。ということも映画を見た動機の一つだが、ここは本の方も読まねばならぬ。「世界・・」は200万部を突破しているが、日本の小説で200万部を超えたのは、ほかには村上春樹の「ノルウェイの森」があるだけだという。ならばひとつ、ここはこの二つの読み比べといきましょう。言い遅れたが、私はいちおう学部・大学院では比較文学を専攻しており、文学ではプロとしての訓練を受けている。小説のよしあしくらいはわかるつもりである。ただ昔はもっぱら古典ものを中心に読んでいるんで、最近の日本の小説というのは大江健三郎くらいまでしか知らなかった。

で、「ノルウェイの森」だが、結論から言えばこれはひじょうによかった。上下二巻だが一気に読んでしまう。次から次と変わった人が出てきて退屈しない。宣伝文句には「100%の恋愛小説」などと書いてあるが、私はこれは恋愛小説とは呼ばない。テーマとしては「喪失」ということだと思う。つまり、私たちは喪失の重さに耐えながらもなんとか生きていくしかない、というようなことを書こうとしているように感じた。読後感としてはやや冷え冷えとしているところがある。透明な悲哀感というようなトーンが文章に感じられる。トーンというか、要するに文章が持っている波動的なものが文学ではいちばん大事なことで、それだけでその作家が一流かどうかわかるのだ。このトーンが好きな人は村上春樹にはまるでしょうね。私もなかなか嫌いではない。この作品も場合は特に人物造型がよくできていて、出てくる人がみな普通ではなくて面白い。

この小説の主人公は文学部で演劇専攻の学生という設定である。世の中の普通の学生とはちょっと違っていて、今では絶滅寸前の「文学青年」という人種である。主人公が療養所を訪ねていくシーンで、トーマス・マンの「魔の山」を持っていて読んでいる場面がある。いまの学生はトーマス・マンなんて名前を聞いたこともないだろう。読者は「魔の山」という作品が、療養所を舞台にしていて、生と死という問題がテーマになっているということを知っておく必要がある。知らなくても読めるが、知っているとこの小道具の意味がわかるしくみだ。つまりこの「ノルウェイの森」は読者もある程度文学を知っていることを前提としているように見える。「世界の中心・・」が、日ごろほとんど本を読んだこともない若い女性などに受けていたのに対し、「ノルウェイの森」はあくまで日常的に本を読むことが好きだという人びとを対象として書かれているようなのだ。

「世界・・」を買いにブックオフへ出かけた。こういうベストセラーものはたいがい大量在庫があって200円か300円で買えるだろう・・ともくろんでいると意外にも750円もする。思惑が外れたがともかくも入手してみた。で・・う~~ん・・ファンの方にはたいへんもうしわけありません。映画を先に見たせいもあるとは思うが、私にはひどく退屈だった。半分ほど行ったところでそれ以上読む気力が減退。再度、たいへんもうしわけありませんのですが、作家としての筆力という点では、村上春樹とはまったく比較することもできません。やっぱり、文芸誌の新人賞くらいのレベルなんですよね・・素人くささが抜けないというか。小説としてはキャラクターの造型が弱いと思う。朔太郎とかアキとか、いったいどういう人物であるのか、心にどういうものを抱えて生きているのか、そのへんがさっぱり書きこまれていない。もっと綿密に書かなくてはね・・正直言うともうちょっと面白いかと思ったけどこの程度なんですか? という感じだったね。根本的に文章力弱いですよ。たとえば村上春樹の、「彼女の瞳の奥の方ではまっ黒な重い液体が不思議な図形の渦を描いていた」(「ノルウェイの森」講談社文庫上巻16ページ)みたいな表現なんかいっこも出てこないんですから。小説家たるもの、「あ~、この表現はすごいねえ」と読者を唸らせるところがなくちゃだめなんですよ。なんというか、細部の美しさというものも大事なのだ。登場人物の会話なんかも、あんまし面白くないんだよなあ・・

というわけで、私の意見だが、作品としての出来は映画の方がずっとよい。映画を見た時はもうちょっと脚本がんばれば? と思ったけれども、この程度の小説からいちおうここまでのレベルの映画を作ったということはスタッフを誉めていいことである。小説ではやや平板なキャラクター描写である登場人物も、キャスティングや演技がなかなかよいのでかなり生き生きしてきている。脚本も原作に比べたらよくできている(そこまで言うか? という意見もあろうが)。たとえば原作では祖父になっているのを山崎努の写真館のおやじに変えたのも、そっちの方がずっといいと思うし。

そういうことで、DVDを借りる価値はあるが、本を読む必要はなし、という結論になったわけだが。「ノルウェイの森」を読んだことのない人はぜひ読むことをおすすめしたい。小説として「愛と喪失」を書いているものとしてたいへん優れていると思う。余談になるが「ノルウェイの森」はビートルズでもややマイナーな曲なので、私はよく覚えていなくて、米国アマゾンのサイトで試聴サンプルを見つけて曲を確認した。聴いたことのあるメロディーだった。私はそれほどビートルズに詳しいというわけではなく、例の赤と青の選集LPしか持っていなかったので、その中に「ノルウェイの森」は入っていなかったのである。

しかしこれでは、「セカチュー」現象から「愛」について考えるというテーマはまだ語っていないわけで、映画と小説版のどちらがいいかという話しかしていない。この現象はつまり「神話」というものが私たちの世の中にも必要だということでもあると思う。本質的なことは神話でしか語れない。あるWEBページで、「この小説でいちばんいい部分は、そのタイトルではないか。このタイトルがよかったのが売れた一因ではないか」という意見があったが、私もそう思う。このタイトルは素晴らしい。が、これは原作者がつけたタイトルではなく、編集者がつけたものだという。原作者はなんでも「ソクラテスの恋」とかそういうタイトルを考えていたらしい。ちょっとこれはセンスないね、というか意味不明。小説の内容は「世界の中心で、愛をさけぶ」というすばらしいタイトルに負けているような気がするが。「愛をさけぶ」は、「叫ぶ」と漢字にしてもだめなので、こういう微妙な語感がわからない人は文学はできない。「世界の中心で、愛をさけぶ」というタイトルはまったく完璧である。私もこのタイトルこそが最大の成功の要因だと思っている。これは一行詩のようなものである。一行だけで、神話としての実質を備えた力強い波動が感じられるのだ。というのも、「世界の中心」というのはいったいどこのことだろう? と考えざるをえなくなってくる。そしてそれはどうも「愛」に関係しているらしい。「世界の中心」は「愛をさけぶ」ところなのか? 著者が考えたタイトルではないので当然ながらその世界の中心とはどこなのか書いてはいない。もちろんウルル(エアーズロック)もアボリジニにとっての世界の中心であるわけだが、私たちも当然ながら自分にとっての「世界の中心」を見つけなければならないという気分になってくるだろう。そういう自己探求と「愛」との関連が、このタイトルには凝縮して表されているようなのだ。その「世界の中心」とはどこか特定の場所なんであろうか? そうでもあり、またそうでもない。神話的ないいタイトルだなあと思う。

長くなったのでこのへんでやめるが、まとめると、

1.「世界の中心」とはいったいどこなのであろうか。「世界の中心に立つ」とはどういうことをいうのか。
2.それと、「愛」と関係があるらしいが、それはどういうことなのか。「世界の中心」に立つということが、「愛」を知るということなのか。それではその「愛」とはどういう愛なんだろうか。

と、いうような問いがそこから出てくるということになる。こういう問いを喚起するということが、このタイトルが人びとの魂に響いたという結果を生んだのではなかろうか。というのはとりあえずの結論である。恋人が不治の病で死ぬなんて話は、「マコ、甘えてばかりでごめんね。ミコはとっても幸せなの」(知らなければお母さんかおばあさんに訊いてください。なぜ私がそんなの知っているのか、という話はおいといて)などいくらでもあるので、結局それは作者がどこまで死とか愛とか、さらにつきつめればここに生きているというのはどういうことかという問いをつきつめて、それを美的に表現できるかということになる。テーマが古いということは問題ではないので、要はその深さである。


ノルウェイの森 上
村上 春樹


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