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「霊性学入門」はアクセスできません

気がつくと「霊性学入門」のサイトは現在アクセス不能になっている。これは、私がプロバイダを変更したにもかかわらずなぜかそのまま残っていたもので、その旧プロバイダがいまごろになって削除作業をした、ということらしい(アマゾンのサーチボックスに画像が出ないのもそのせい。これはそのうち何とかするが)。正直言うとあれはかなり更新していなくて、現在の自分の考えや感性とはずれてきている面もあるので、このへんが潮時かもしれないと考える次第で、あえて新しいサイトに移さなかったというわけだ。しかしまた新しくつくるのも大変なことだ。せめて本の紹介ページくらいは何か考えようと思うが。少なくともこのブログがあるので、私としてはこれでも十分なのだが。サイトというのは、文章はいいけどデザインも考えなきゃいけないのが面倒なのだ。というわけで当分の間は、「霊性学入門」へリンクしていた人は、このブログへリンク先を変更しておくといいと思う。なお、コメント機能は使っていないが、しばらく前から右側にメール宛先を記載してあるので、何かある人はメールを送ることができる。ということで、

映画の話など

しかし・・週に一回しか書かないのは「日記」ではないですね。これは「ブログ」である、ということなのだが・・ 私の中では、日記は自分のために書くもの、ブログは人に読ませることで自分が楽しむもの、という位置づけで区別されている。というわけでこれは「日記」のつもりで書いてはいない。どうもこのブログの文章を書き始めると止まらなくなって思わず長くなり、いつのまにか一時間、二時間とたってしまうので、なかなかそれだけの時間をブログに割くこともできない、という状況だ。

現在、オペラとバレエのDVDを収集中。映画のDVDはレンタルで見る。映画といえば、「未知との遭遇」のスピルバーグが今度は「宇宙人侵略もの」の映画を作ったらしい、と聞いたがそれはどういうことなんでしょうね? 思わず耳を疑ったが。すでにどこかに書いたと思うが、「未知との遭遇」とか「E.T.」は、人類と宇宙との関係という壮大なテーマを秘めた傑作である。その彼がなぜに宇宙人が地球を侵略するなどという馬鹿なステレオタイプの作品を作るのか。まあ、もう少し情報がないとよくはわからないが。

ところで、昔なつかしい、大林宣彦監督「時をかける少女」を見た。1983年作品でご存じ(かどうか知らないが)原田知世の出世作でもある。ちなみに私は同じ原作をドラマ化した、70年代の「タイムトラベラー」というNHKの少年ドラマシリーズというのも見た記憶があるのだが。しかし「時をかける少女」は筒井の原作なんて枠組だけで、ほとんどが大林監督の思い入れによる作品である。これを「原田知世を売り出そうというアイドル映画でしょ」なんて甘く見るのはとんでもないことで、基本的にこれは少年少女では十分にそのよさがわからない、オトナ向けのノスタルジックな作品であると思う。そもそも冒頭から、「真実の愛を知ることは、人にとって幸福なのだろうか、不幸なのだろうか」といったエピグラムが入るのだが、いい年をしてこんなことを真剣に考えているオジサンというのは実に尊敬に値する存在である。しかし、すべてのことが美しく調和している、深い幸福感に満たされた作品だなあ、と思う。それはまた、「かけがえのない時」に対する深い郷愁と哀切が伴っているが・・それが大林監督の世界なのだが、やはりこれはその代表作の名に恥じないのである。ある世界への扉が開かれているのだ。特に、最後の「再会」のシーンと、その後の「カーテンコール」みたいなエンドロールのところの余韻の感覚は何ともいえない。その「終わり方」という点では私がこれまでに見た映画の中で最高ですね。思わずそこだけ三回くらい見直してしまう。「カーテンコール」では知世が主題歌を歌うのだが、確かにこれを聞くとレコード(CDではない)を買いに走りたくなった気持ちもわかる。この松任谷由実の歌も映画の内容にこれ以上ないくらいマッチしているし、やはりこの作品ができるにあたっては一種の天使的知性の介入があったのかもしれない、と思わせるほどの調和であった。なんというか、エンドロールのところではいろいろなシーンがフラッシュバックするような感じなのだが、それが何か、生が終わったときにその一生をフラッシュバックで見るという話を思い出す。もちろん、この映画を見て死後体験のことなど連想するのは私くらいのものであろうが・・(笑) というのはそのすべてが何かある大きなものに包まれて肯定されているような感覚がそう思わせるのかもしれない。オジサンにのみ可能な超ロマンティシズム全開である(女性というものはそれほどロマンチックではないらしい。偉大なロマンティシストはみなオジサンである)。

坂本政道『体外離脱体験』ほか

坂本政道の『体外離脱体験』を読んだ。「東大出エンジニアの」なんていうサブタイトルをつける出版社の策は好きではないが、この本はかなりいいものと言ってよかった。

特に、体外離脱体験を三つに分類しているのが秀逸な視点だと思う。つまり真性の体脱のほかに、体脱はしているが意識は夢の映像を見続けているという場合がある。つまりこれは「第二の身体」の感覚は明らかにあるのだが、それがその第二の身体的な知覚ではなくて、夢の映像に変換されて見ているということだ。これは明晰夢(覚醒夢)に近い状態といえようか。また、最初は真性体脱のように始まるが、途中から夢の世界になっていくということもあるという。この記述は、かなり正確であるようだ。私自身も、完全に微細身的な知覚は生じないものの、明らかな体脱感覚を感じる場合は少なくなく、その状態を明確に定義したのはこの書が初めてであった。

世の中には「体外離脱とは明晰夢以外の何ものでもない、神秘体験ではなく単なるエンターテインメントだから、楽しめ!」などという妄言を述べているインターネットサイトなどがあるが、そのようなものにまどわされてはいけない。この『体外離脱体験』ではその両者の区別は明確にされている。そのように主張する人は坂本の言う「タイプ2」の体験をとらえてそんなことを言っているのではないか。まあ、神秘体験というものの定義からして問題だが、私は、微細界(いわゆるアストラル界)をさまよっているだけのものを特に神秘とは言わない。

『体外離脱体験』の第六章は「考察・感覚器官と脳の機能について」とあって、「非物質の自己」があるという前提に基づいた一種哲学的考察を行っている。これは暗に、「非物質の自己こそがより根源的なもので、物質的な自己はその派生形態である」という前提を含んでいるわけだが、私もその通りだと思っているのでそれはよいとしよう。そこで坂本が言うのは、非物質の自己だけでは物質界の感覚作用は持っていないため、物質世界で外界を把握するための感覚作用が発達した」ということだ。そこで唯識も引用されている。つまり、物質的な感覚作用・感覚器官は、非物質の自己が物質世界で生きるためのツールであると言うのだ。これも私の基本的な考えと一緒で、私は肉体とはいわば「地球服」であると思っている。地球で生きるためのスペシャルな衣であって、そのようなものを着ていること自体は、実は本来の私にとってはきわめて例外的な状態であるということである。坂本の考えではまた、「意識」とは非物質の自己がもつ機能であって、脳が意識を生み出すのではないという。

この辺は哲学的に言うとなかなかこみいった問題があって、たとえば、唯識に従えば、そもそも私たちの感覚作用とその「外界」は同時に成立するもので、物質的な外界が独立して存在するとは見なされない。外界の存在の問題は唯識的論理構成だと難問となってしまうが、私は唯識の言う「共業」の問題などから『魂のロゴス』でこれを解決しようとしている(例によって、そこまでわかってくれる人はほとんどいないが)。簡単に言うと唯識では「種」の問題をとりあげていないため、独我論的アポリアの危険が出てくるが、「種」というコンセプトを導入するとそれは回避される。そのヒントは「今西錦司の進化論」にある、といのが私の着想である。その他「意識」の問題もフクザツだが今はそれは略する。

まあ、脳をいくら調べてもどこから「意識」が出てくるのかいっこうにはっきりしないわけで、最近の脳科学者はそのことをはっきり言ってしまっている。要するに、脳からなぜ意識ができるのかはまったくわからない、という白旗状態である。しかしそれなら、そもそも意識は脳から発生したはずだという基本的な前提そのものが違っているかもしれない、と考えることも必要であろう。だいたい私は脳科学なるものの哲学的素朴さにはいささかあきれているので、あまりにまじめにはとりあげていない。茂木健一郎の『意識とは何か』(だったか?)も、意識そのものを解明しなければならないという着眼点はいいのだが、それを昔からやっている哲学についていささか勉強不足であるために、かなり消化不良に終わっている中途半端な本だった。茂木には知的誠実さは感じるが、これがあそこまで売れているというのは一種の「脳ブランド」のせいじゃないだろうか。つまり哲学的な問いの仕方というものをみんな知らないので、中途半端な科学コンプレックスの残存が「脳の本」に人を向かわせるのではないか、と私は思う。

話を戻すが、そもそも体外離脱そのものはたいしたことではない。それは非物質の自己を探るための一つの手段である。離脱したからといって、「それでどこへ行って何を体験するのか」ということがかんじんなことで、その辺のどうでもいいアストラル界(微細界)をさまようだけでは何も精神的変化は生じない。よくそういうレベルで戯れているだけの離脱フリークがHPなどを出しているが、そういうものはあまりたいしたものではないと思う。ただ、非物質の自己というものがあるとはっきりわかるという利点はあり、それは大きなことだが、問題はその先ではないか。離脱すればますます、高い世界へ意識をフォーカスすることの重要性は高まるのである。また、そもそも離脱が絶対に必要なわけでもない。坂本の『死後体験』シリーズにもあるように、物質的意識を一部残したまま「あっち」へ行くことも十分にできるのである。その方が安全性の高い方法である(方法と言うが、実際はその人によりだいたいどちらかに決まってしまうことが多いらしいのだが)。

そういうわけで坂本の『体外離脱体験』は一読の価値ありだ。このほかにロバート・ピーターソンの『体外離脱を試みる』が訳されている。私はこれ、原書で読んだ時は、今ひとつおもしろい本だとは思わなかったのだが、訳されたのはタートの序文のせいかなあ。悪いというわけではないが、今ひとつ深い次元まで行けてないという感じがした。この種のものなら、Buhlmann の本がすごいんで、こっちのほうが訳されるべきだと思うが。体験レベルがモンロー並み。ピーターソンとはぜんぜん違う。もちろん坂本の体験はごく初期的なものである。坂本の本にもヘミシンクが出てくるが、たぶんそれが家でやって今ひとつできなかったのでモンロー研究所を訪れたのであろう。

4812701376体外離脱体験―東大出エンジニアの体験手記・考察 肉体から独立した自己が存在する!
坂本 政道


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「四日間の奇蹟」

映画館で見るのはひさびさ。「四日間の奇蹟」は見ようと思っていた。というのはこの前の「解夏」の石田ゆり子がよかったからなんだが。その他にもいろいろと私の好きなパターンの映画みたいだったので。というのは、1.ものすごく景色のよいところで撮影されていて、2.内面的な、「魂」にかかわるテーマが展開される、というようなことだが、これに属するのは「鉄道員(ぽっぽや)」、「世界の中心で、愛をさけぶ」「解夏」なんかである。映画の話はもっと書きたいのだがなかなか時間がない。

ということだが「四日間の奇蹟」はすべてが美しい作品でした。監督は「半落ち」の佐々部清だが、「半落ち」もよかったがさらにそれを上回る出来だと思う。

で、私の感じたところでは、この映画のテーマはタイトル通り「奇蹟」である。とはいっても、この映画の設定とされている出来事自体が問題ではない。もちろんそれも奇蹟だが、そういうことが起こると本気で思って作ったわけではないだろうし、あれはあくまでも一つの道具である。奇蹟とはでは何なのか。

私が感じたのは、映画が終わりに近づくにつれてどんどん「神聖な世界」に接近していくという強い感覚であった。それはあの教会のシーンで頂点に達する。神聖な世界とはむろん、「死」の門をくぐったその彼方の世界である。真理子はその世界に近づくことによって、その深い「愛」の世界に目覚めていき、それがあたり一面に満ちていく・・私は、そのような巨大な「愛」が存在すること自体が「奇蹟」なのだ、というふうに感じたわけである。つまり「向こう側」から見たとき、この世界、この生が無限の愛に抱擁される・・という、死期を悟った人だけが見えるような世界をかいま見たような感覚なのであった。監督は公式サイトで、つたえたかったのは「感謝」だといっているが、その感謝が魂に生まれてくるのは、さらにそのもとになっているある大きな力が動いているからであろう。監督はそれを言語化してはとらえていないが、明らかに理解し、表現しているはずである。というわけで、奇蹟というのは言葉をかえれば「死と愛」でもある。これは「セカチュー」の世界ともかなり似ていますね。あの映画でも、アキが死に近づくにつれて荘厳な光に包まれるように描かれているが・・ 死は「深い思い」を呼び起こし、それを通して私たちはあの輝かしい世界のことを少しずつ思い出すのではないか。「四日間の奇蹟」で流れる「月光」の曲も、きわめて魂の憧れに満ちた音楽だとあらためて思った。何かを強烈に求めている。

そういうことを直感的に理解している人が、日本にもずいぶん増えてきたのかもしれない、というようにも思う。私はこの「四日間の奇蹟」は、かなりに「スピリチュアルな映画」だと表現したい。私が「スピリチュアル」という言葉で呼ぶのは、あの、巨大な愛であり、光である世界を感じ、体験することに関する事象の総体である。別の言い方をすれば、「どの魂も、その根抵ではそれを求めている」という、その何かである。そういう魂の深い欲求を表現することに成功した作品であると思った。ふだんは隠されているその「何か」がそこに降臨しているという、「聖なる瞬間」にたどり着くことをめざしている話なのである。だから、あのシーンは一つの厳粛な儀式のようにも見えるのであった。あそこは何かとても霊的な世界に行っていたような感覚が残るのである。そこはすべてが美しく、愛以外のものは存在しない。それこそが魂の真の故郷ではないのか、と思える。

死と和解したときはじめて、私たちは真実の愛に気づきはじめるのだなあ、と実感する。

「セカチュー」や「解夏」をいいと思った人は必見。ついでにいえば、「解夏」の最後で主人公が失明して白い霧の中に入るのだが、あれももしかして「光の世界」なのかもしれない。そのように思わせる表現だった。

それから一言言っておくが、それは、あまりウェブでの映画評などは読まない方がいいということだ。ホントに、自分の好きでない映画をコテンパンに酷評していることなんかがよくあるが、そういうのは、映画にかこつけて自分の中にある邪気をはき出しているだけである。それを読んだ人がうっかりその邪気を吸い込むと、書いた本人はすっきりするのだ。そのような、ネガティブな波動をウェブに乗せることの意味もわからない人々が書いた文章など、しょせんは読む価値のないゴミである。うっかりゴミを口に入れないようくれぐれも注意。なおこれは「批評」を否定するわけではない。問題は、適当な理由をつけて、ただネガティブな感情を吐き出しているにすぎない自称・批評が多いということだ。

ヘミシンク

最近はヘミシンクを日本で体験できるというところも出てきているようだ。ヘミシンクは確かに、瞑想状態にかなり容易に入れるので、ツールとしての有効性はある。日本で体験できるのはアウトリーチ・プログラムというものでフォーカス12までのプログラムである。21までいくというワークショップもあるが、モンロー研究所で正式に認可されているのは12までで、それ以上のフォーカスレベルはそのインストラクター独自のプログラムだという位置づけである。値段は4日間で15万ということだが、これはモンロー研究所にくらべて高いとはいえない。ただ、これまでの情報を見る限り、レジデンスプログラムの効果が高いのは、モンロー研究所自体がひじょうに特別な場所であるということが大きいのではないかと思われる。日本でセミナーハウスなどを借り切ってやるのは、それと同等の効果が期待できるだろうか? という気もしないわけではない。ただ、家で少しずつCDを聴いているよりはいいということはいえると思うが。モンロー研究所ではフランス語のプログラムをやっているが、今度日本語のもできるらしい。日本から行くと合計30万はかかりそうなので、なかなかお金持ちでないとそうたびたびは行けない(坂本氏の場合、シリコンバレーはやはり儲かったのだろう。稼ぐだけ稼いだらさっさとリタイヤして好きなことをやる、というのもアメリカ的である)。

坂本政道氏の『死の壁を越えるSUPER LOVE』は・・どうも、坂本氏が著者だから出版された、という感じのもので、他の人が書いたらまず却下になるだろう。どうも、こういう思想系の文章はあまり向いているとはいえないのではなかろうか。あんまりよく書けているとは言いがたい。また今度『超意識・あなたの願いをかなえる力』というのが出たようだが、これもあんまり読む必要はないように思える。

スピリチュアル・フロンティア探訪もの

 ロザリン・マックナイトのもう一冊の本を読む。これは「あちら」の探訪もの。しかしこれはよかった。かなり強烈な光を感じた。

私はべつにこういうことに興味のない人はダメだと言うつもりはない。ただ私は小さいときから、死の彼方にある世界はどういうものか気になってしかたがなかった。思うにその問いこそがこれまで私を動かしてきたものであったのだろう。であるから、そちらの世界のことが書いてあると言っている本はみないちおう読んでみようと思うのは当然である。それをどう判断するかは読んでから決めればよい。私の場合、そこから受ける「気持ちよさ」というか、光の感覚をたよりにその妥当性を判断したりする。ここで私が「光」と言っているのは何を指しているのかは、そもそもそれを経験したことがない人に理解させるのはむずかしい。それは魂の感覚なのである。

1571744134Soul Journeys: My Guided Tours Through the Afterlife
Rosalind A. McKnight


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それにしてもすごい時代だと思う。このように「あちら」の世界についての情報が驚くほどの量であふれている。もちろんそのすべてが信頼の置けるものではないわけだが、それをあれこれ読んでいるとある程度の一致点を理解することも比較的容易である。私は、ともかくも生とか存在について考えようとする以上は、そのような情報が存在するという事実を無視して話を進めることはできない、という立場だが、むろんそんなものが存在しないかのごとく無視を決めこんでいる人々も多い(自称知識人はほとんどそうだが)。このような「あちら」系のことを人間が知りうるとしたら、それは通常の知性ではなく、いわば「トランスパーソナル的な知り方」によるということになるだろう。要するに、そういう「知り方」というものがあるんだよ、ということを認めるのか認めないのか、問題はそこに集約される。それがなぜいま公式に認められていないかといえば、それは現在の知的世界は近代ヨーロッパを模範にして作られており、そこにはそういうパラダイムがなかったからである。つまりトランスパーソナルな知り方がアンダーグラウンドに追いやられていたというのはヨーロッパが伝統的にもつ「文化的なバイアス」であり、私たちは(ましてヨーロッパ人ではないのであるから)それを真に受ける必要はない、というのが私の論点である。35度にもなろうというバカ暑い中背広にネクタイというアホみたいな西洋猿まねの習慣のようやく「クールビズ」の普及で変わり始めた。このへんで、「近代西洋的な『思想』の構造」の自明性も疑い始めてよいのではないか。ちょうどのカントの「影」にスウェーデンボルグがいたように。もしカントではなくスウェーデンボルグが「オモテ」になっていたとしたら、歴史は変わる(なおカントについて、シュタイナーは「このような思想は、自然や生命の力について全く何の感性のない人でなければ思いつかないだろう」という意味のコメントをしていた)。もっともスウェーデンボルグはごく一部に知られていたにすぎないので、きょうこれほどにその種の情報があふれている社会は未曾有だと言ってもいいのだ。東洋ではそういうものは決してアンダーグラウンドではなかったが、それは密教というか、ごく限られた霊的エリートに限られていたわけだ。

そういう状況を考えれば、これまでの思想とか哲学のあり方などというのもすべてひっくり返ってもいいのではないかと思える。文学でも、大古典とされるものにダンテの「神曲」がある。だがはっきり言って、いま読むとどこがそんなにおもしろいのか。神曲ではウェルギリウスとかベアトリーチェなどのガイドによって地獄・煉獄・天国の三界をめぐるわけだが、これは文学的フィクションであって実際の体験ではない。しかし今は実際に体験した人の記録がたくさんある。それとダンテでは地獄では罪人が永遠の罰を受けるということをこれでもかと書いているが、そのように神が罪人を罰するなどということは間違いであるということは最近のたくさんの本に書いてある。つまり神が完全な愛であるということが完全には表現されていないのである。たしかに天国編で最後に神と合一するラストは美しいけれども、霊的真理を表現しようとした書物としてはあまりに限界がありすぎる作品と言わねばならない。この程度の作品を後生大事に古典だとあがめまつっている時代ではないということだ。ダンテが後ろ盾としている伝統的キリスト教自体が、霊的真理と嘘っぱちとの混合物であるのだからしかたがない。古典文学とは言うが、文学専攻でない限り特に読む必要はないものである。ま、はじめからフィクションだとわかっているとあんまり迫力がないわけで、いま出ている地獄探訪モノなんかを読めばもっと興奮するし、そういう場所にも働いている神の愛の力とかもわかるし(そういうことはダンテには書いてない)、ともあれそれを信じるにせよ信じないにせよ、「本当かもしれない」という可能性があるということ自体が大変なことである。

マックナイトの本を読んで改めて感じたが、こちらの世界はアンリアルである。リアルではない。あちらの方がはるかにリアルである。これは間違いのないことである、という印象が入ってくる。しかし、そのリアルでない世界、きわめて抵抗の多いハードな世界のただ中において、いかに自分が光であるということを自覚し、生命の輝きのなかにとどまることができるか、その努力こそが魂を鍛えるものである、ということもメッセージとして伝わる。こちらの世界はいやだ、あっちがいい、と思っているというのは、まだ自分の中に十分な光が現れていないからそう思ってしまうのであろう。エネルギー不足の症候である。魂はもっと強くならないといけないのだ。

ともあれ、こういう本は「魂の感覚」で判断するしかないものであり、それが「トランスパーソナル的な知り方」だ。そういう知り方というものがあるのだ、ということがまず前提である。ここでたとえば「科学的な知り方」による知識でなければ信用しない、という人がいるかもしれないが、そのように判断すること自体の妥当性はいかなる科学的実験によっても証明不可能である。「知り方」は物質でないのである。そもそも「ある知り方」が絶対的に優位であることは決して論理的に証明できないことである。すべてそれは「自己言及」になってしまう。この程度のことは少し哲学をかじればわかる。ただ私はべつに論理的に証明されなくてもいっこうに差し支えはないのだが。おそらく読者の大多数もそうであろう。「生の根本的な問題が、論理的思考によって解明可能である」と本気で信じている人は、日本人にはほとんどいないと思う。そんな馬鹿なことはあるまいというのがふつうの発想だろう。ところが欧米にはけっこうそういう信仰がかなりあって、哲学というのはそういう風土に発している。シュタイナーだってそういうところがある。はっきり言ってこういう思想は日本人にはあまり向いていないことは確かだと思う。やっぱりどこかで「しんどく」なってしまうものである。

話を戻すが、こういうフロンティア探訪ものは、日本でもぽつぽつ出始めたが、英語では少なくとも十倍以上はあると言ってよかろう。坂本氏なんかも、日本ではほかにそういう人がいないから引っ張りだこになるが、英語圏ではああいう体験を本に書いている人は数十人はいると思う。そのくらい情報量の差はまだある。やっぱりそういうのはある程度の数が出て、それが本当かもしれないと思う人間の絶対数が多くなるといろいろと変わってくるはずだと思う。坂本氏の本に出てくるブルース・モーエンはウェブサイトをやっていて、そこにはいろんな人による、そうしたフロンティア探訪の体験が大量にシェアされていたりするが、そういうところも日本にはこれから必要になろう。その意味で日本はまだまだ辺境ではある。私は、普遍的な霊性の確立と、その基礎となる「普遍神学」の必要性を主張する立場から、そういう情報がもっと出て、考える材料を提供することを期待している。

最近読んだ本のことなど

なんかまた久しぶりである。というのは、最近どうも内的ワークの方にエネルギーが向いていて、そういうことはあまりブログなどで公開したくはないのであった。

最近読んだ中では、メグミ・M・マイルズの『宇宙とつながる気功レッスン』がおもしろかった。これは、気功の実用書ではない。気功の修業体験記といったものだが、なかなか、スピリチュアルな覚醒のプロセスとして読みごたえがあった。しかもそれが、なかなか軽い文体で書いてあるのもいい。名前からして日系の向こうの人かと思ったらそうではなくて日本人である。中国で長く修業していたらしい。これを読むと中国の気功にくらべて、日本でやっているのはお遊びみたいなものですね。しかしまあ、修業ではないタダの健康法としての気功というのも完全にアリだとは思うけれど。マーケットプレイスでも買えるので気功に興味のある人は一読の価値があると思う。

4885031729宇宙とつながる気功レッスン
メグミ M. マイルズ


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それはそうと昨日はサッカーのワールドカップ予選とかいって大騒ぎだったそうで・・一部の人には驚かれると思うが、私はそんな試合があることなど昨日は全く忘れていて、11時にニュースを偶然目にして初めて気がついた。何をしているかというと、本を読むほか、テープやCDを聞いたりDVDを見たりで時間が足りないくらいである。DVDについてはヒマがあればちょっとコメントしたいところだが。

もう一冊最近読んだのはこういうもの。

1571741232Cosmic Journeys: My Out-Of-Body Explorations With Robert A. Monroe
Rosalind A. McKnight
Hampton Roads Pub Co Inc 1999-04-30

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これもモンローものだが、彼女はモンロー研究所の発展に初期から関わっているのでなかなかコアなものがある。しかしこれを読むと、こういった探求の大部分は「ヘルパー」たちの力で行われている、ということになるらしい。

ヘルパー・・というとガイドとか、伝統的には天使とか言われている、人間と神性との中間に位置する「中間的知性存在」なのだが・・思うに、いまのインテリ層と、いわゆる「精神世界」的な宗教性との間にある最大の断層が、このヘルパー的存在を認知するかどうか、であろう。日本の近代思想は、一飛びに「無」とか「空」などということをさかんに言いはするが(京都学派など)、そこへ行くまでに必ずお世話になるはずのヘルパー的存在のことは決して口にしないのだ。大部分の人は口先だけで無とかいっていて、本当の無というのがいかにとてつもないことであるかわかっていないのだろう。わかっている人もそれを口に出したら社会的にまずいのであろう。しっかし・・坂本氏の『死後体験III』でも書いてあったような、はるかこの宇宙の外側に出てしまうという「ぶっ飛びもぶっ飛び」の世界だって、ホンモノの「無」に比べれば全然子供だましのはずなのだ。だって「無」というのはそのすべての宇宙を突き抜け超えたところであるはずだが・・その意味で言えば、西田幾多郎はもちろん、鈴木大拙でさえ本当に宇宙の究極まで行けたわけではない、と私は思っている・・ 話を戻すと、本来の神秘哲学は、意識とは「グラデーション」としてあると理解しているので、無数の段階があることは当然なのだ(これが新プラトン的な世界理解でもある)。そして「上」のものからの導きは常に存在しているのである。断っておくが、私はこのことを単に頭だけで理解しているのではない。それなりの経験をふまえて言っている。

マックナイトの本では Out-of-Body だと言っているが、坂本の本では、肉体的な意識も消え去るわけではなく、意識の一部が向こうに行っているという感じ、いわばバイ・ロケーションに近いと書いてある。実は私の経験もバイロケーション的なものだったので、それはよくわかる。

それにしてもアメリカという国はいろいろと悪いところもあるわけだが、未知の領域に果敢に挑んでいくフロンティア・スピリットというものは尊敬に値する。モンロー研究所のようなものはなかなか日本にはできないだろう。ちなみにゲートウェイのCDシリーズは日本語版が制作中で、第一巻はすでに発売されている。

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