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スピリチュアル・フロンティア探訪もの

 ロザリン・マックナイトのもう一冊の本を読む。これは「あちら」の探訪もの。しかしこれはよかった。かなり強烈な光を感じた。

私はべつにこういうことに興味のない人はダメだと言うつもりはない。ただ私は小さいときから、死の彼方にある世界はどういうものか気になってしかたがなかった。思うにその問いこそがこれまで私を動かしてきたものであったのだろう。であるから、そちらの世界のことが書いてあると言っている本はみないちおう読んでみようと思うのは当然である。それをどう判断するかは読んでから決めればよい。私の場合、そこから受ける「気持ちよさ」というか、光の感覚をたよりにその妥当性を判断したりする。ここで私が「光」と言っているのは何を指しているのかは、そもそもそれを経験したことがない人に理解させるのはむずかしい。それは魂の感覚なのである。

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Rosalind A. McKnight


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それにしてもすごい時代だと思う。このように「あちら」の世界についての情報が驚くほどの量であふれている。もちろんそのすべてが信頼の置けるものではないわけだが、それをあれこれ読んでいるとある程度の一致点を理解することも比較的容易である。私は、ともかくも生とか存在について考えようとする以上は、そのような情報が存在するという事実を無視して話を進めることはできない、という立場だが、むろんそんなものが存在しないかのごとく無視を決めこんでいる人々も多い(自称知識人はほとんどそうだが)。このような「あちら」系のことを人間が知りうるとしたら、それは通常の知性ではなく、いわば「トランスパーソナル的な知り方」によるということになるだろう。要するに、そういう「知り方」というものがあるんだよ、ということを認めるのか認めないのか、問題はそこに集約される。それがなぜいま公式に認められていないかといえば、それは現在の知的世界は近代ヨーロッパを模範にして作られており、そこにはそういうパラダイムがなかったからである。つまりトランスパーソナルな知り方がアンダーグラウンドに追いやられていたというのはヨーロッパが伝統的にもつ「文化的なバイアス」であり、私たちは(ましてヨーロッパ人ではないのであるから)それを真に受ける必要はない、というのが私の論点である。35度にもなろうというバカ暑い中背広にネクタイというアホみたいな西洋猿まねの習慣のようやく「クールビズ」の普及で変わり始めた。このへんで、「近代西洋的な『思想』の構造」の自明性も疑い始めてよいのではないか。ちょうどのカントの「影」にスウェーデンボルグがいたように。もしカントではなくスウェーデンボルグが「オモテ」になっていたとしたら、歴史は変わる(なおカントについて、シュタイナーは「このような思想は、自然や生命の力について全く何の感性のない人でなければ思いつかないだろう」という意味のコメントをしていた)。もっともスウェーデンボルグはごく一部に知られていたにすぎないので、きょうこれほどにその種の情報があふれている社会は未曾有だと言ってもいいのだ。東洋ではそういうものは決してアンダーグラウンドではなかったが、それは密教というか、ごく限られた霊的エリートに限られていたわけだ。

そういう状況を考えれば、これまでの思想とか哲学のあり方などというのもすべてひっくり返ってもいいのではないかと思える。文学でも、大古典とされるものにダンテの「神曲」がある。だがはっきり言って、いま読むとどこがそんなにおもしろいのか。神曲ではウェルギリウスとかベアトリーチェなどのガイドによって地獄・煉獄・天国の三界をめぐるわけだが、これは文学的フィクションであって実際の体験ではない。しかし今は実際に体験した人の記録がたくさんある。それとダンテでは地獄では罪人が永遠の罰を受けるということをこれでもかと書いているが、そのように神が罪人を罰するなどということは間違いであるということは最近のたくさんの本に書いてある。つまり神が完全な愛であるということが完全には表現されていないのである。たしかに天国編で最後に神と合一するラストは美しいけれども、霊的真理を表現しようとした書物としてはあまりに限界がありすぎる作品と言わねばならない。この程度の作品を後生大事に古典だとあがめまつっている時代ではないということだ。ダンテが後ろ盾としている伝統的キリスト教自体が、霊的真理と嘘っぱちとの混合物であるのだからしかたがない。古典文学とは言うが、文学専攻でない限り特に読む必要はないものである。ま、はじめからフィクションだとわかっているとあんまり迫力がないわけで、いま出ている地獄探訪モノなんかを読めばもっと興奮するし、そういう場所にも働いている神の愛の力とかもわかるし(そういうことはダンテには書いてない)、ともあれそれを信じるにせよ信じないにせよ、「本当かもしれない」という可能性があるということ自体が大変なことである。

マックナイトの本を読んで改めて感じたが、こちらの世界はアンリアルである。リアルではない。あちらの方がはるかにリアルである。これは間違いのないことである、という印象が入ってくる。しかし、そのリアルでない世界、きわめて抵抗の多いハードな世界のただ中において、いかに自分が光であるということを自覚し、生命の輝きのなかにとどまることができるか、その努力こそが魂を鍛えるものである、ということもメッセージとして伝わる。こちらの世界はいやだ、あっちがいい、と思っているというのは、まだ自分の中に十分な光が現れていないからそう思ってしまうのであろう。エネルギー不足の症候である。魂はもっと強くならないといけないのだ。

ともあれ、こういう本は「魂の感覚」で判断するしかないものであり、それが「トランスパーソナル的な知り方」だ。そういう知り方というものがあるのだ、ということがまず前提である。ここでたとえば「科学的な知り方」による知識でなければ信用しない、という人がいるかもしれないが、そのように判断すること自体の妥当性はいかなる科学的実験によっても証明不可能である。「知り方」は物質でないのである。そもそも「ある知り方」が絶対的に優位であることは決して論理的に証明できないことである。すべてそれは「自己言及」になってしまう。この程度のことは少し哲学をかじればわかる。ただ私はべつに論理的に証明されなくてもいっこうに差し支えはないのだが。おそらく読者の大多数もそうであろう。「生の根本的な問題が、論理的思考によって解明可能である」と本気で信じている人は、日本人にはほとんどいないと思う。そんな馬鹿なことはあるまいというのがふつうの発想だろう。ところが欧米にはけっこうそういう信仰がかなりあって、哲学というのはそういう風土に発している。シュタイナーだってそういうところがある。はっきり言ってこういう思想は日本人にはあまり向いていないことは確かだと思う。やっぱりどこかで「しんどく」なってしまうものである。

話を戻すが、こういうフロンティア探訪ものは、日本でもぽつぽつ出始めたが、英語では少なくとも十倍以上はあると言ってよかろう。坂本氏なんかも、日本ではほかにそういう人がいないから引っ張りだこになるが、英語圏ではああいう体験を本に書いている人は数十人はいると思う。そのくらい情報量の差はまだある。やっぱりそういうのはある程度の数が出て、それが本当かもしれないと思う人間の絶対数が多くなるといろいろと変わってくるはずだと思う。坂本氏の本に出てくるブルース・モーエンはウェブサイトをやっていて、そこにはいろんな人による、そうしたフロンティア探訪の体験が大量にシェアされていたりするが、そういうところも日本にはこれから必要になろう。その意味で日本はまだまだ辺境ではある。私は、普遍的な霊性の確立と、その基礎となる「普遍神学」の必要性を主張する立場から、そういう情報がもっと出て、考える材料を提供することを期待している。

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