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中間的知性について

さて、このまえ「中間的知性」について少し書いたが、「中間的知性について書いてある本はあるのか」という問い合わせをもらった。これについては、今のところ『魂のロゴス』くらいであろう。右側にそのリンクがある。なにせ、これは現代の知的世界における最大のタブーの一つであろうから、ほかにはあまり見あたらないと言っていい。しいてあげれば、稲垣良典『天使論序説』(講談社学術文庫)。これは、世の中には、本気で天使を学問的に論じようという人がほかにいるのか、とかなりびっくりした記憶がある。ただ、著者はトマス・アクィナスなどを専門としていて、これもカトリック的な中世哲学をベースとしている(その当時は、「天使論」はきわめてまじめな学的領域であった。つまり、神学・テオロギア、天使論・アンゲロロギア、人間論・アントロポギアが三分肢としてあったのである)。そのために、「現代的」かというとあまりそうではない。

4061592327天使論序説
稲垣 良典
講談社 1996-06

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中間的知性について語るためには、同時に「人間的知性」と「神的知性」も解明されなくてはならない。この三つは常にセットで考えるべきなのである。

昔の思想で言えば、クザーヌス、ライプニッツなどがすこし参考になる。

思想をめぐる雑感

ある人が、中沢新一のやっている「ゾクチェン研究所」の機関誌のようなものを送ってきた。その人の文章がのっていたのだが、それはいまそれとして、こういうものがあるっていうのは、ゾクチェンをまじめに広めようとしているのだなあ、と思った。中沢新一も、結局ゾクチェンを日本に紹介するということがライフワークとして重要なので、現代思想とかいうものとドッキングさせようという文章のたぐいは将来に残ることはないと思うけど。つまりこれが彼の本来の道なのかな、ということを言うのはおこがましいけれどもそう思った。ただ、その文章の中で中沢は、みんな「宗教」になってしまったからダメなので、自分の中にある知性として「それ」を追求しようとしたのはゾクチェンだけなのだ、とゾクチェンの優位性を強調するのだが、そういうのはいまの私にはちょっと乗れないなあ、と思う。どうしてゾクチェンだけなのかな、というのは、私がゾクチェンの思想を知ったとき、これは禅と同じなのだな、と思ったのだ。もちろん細かいところを言えばきりがないかもしれないが、いかなる対象化も認めず純粋に「叡知」のみをめざすという姿勢において禅と変わりがない。というと、私たち日本人は禅の伝統をもう一度学び直すことの方がわかりやすいのだし、いい師匠も見いだしやすいのではないだろうか。何もわざわざチベットやヒマラヤに行かなければ悟りへの道は歩めないということはなかろうし、と思う。チベットというのは一種のあこがれを感じさせるものではあるが、それも一つのブランド信仰のようなものかもしれない。といっても私はもちろんゾクチェンをまじめに探求しようという姿勢に敬意を払わないというわけでは決してない。それでも、なぜゾクチェン? というのは、現実にいま日本に生きている私たちにとって、それを「どう学ぶのか」がなかなか見えないからだ。つまりゾクチェンというのは文献だけ読んでいたってしようもないもので、要するに「やる」しかないもののはずなのだ。まず第一に師を見つけて弟子にならなくてはならない。そういうシステムになっているものが、果たしてどれだけの日本人にアピールするというのか。もちろん欧米などでは、けっこうワークショップスタイルみたいなチベット仏教の教え方も広まってはいるのだが。

つまりいまさらチベットを持ってこなくても、自分の中にある純粋な叡知として霊性を知ろうとするのは日本の伝統の中にもあるわけで、それを中軸として霊性思想を樹立しようという試みも、久松真一とかその他いろいろあるわけなので、チベット仏教というのはあくまで「まあそれに縁のある人はやったらいいんじゃないですか」という以上のものではないように思うのだ。もちろんチベット仏教を知ることによって仏教の本来の叡智的伝統を再確認するというのはたいへんいいことには違いない。しかし現実の実践の道としては、いろいろあるうちの一つというもの以上にはならないだろう。「これしかない」ということはないと思う。

それにしても、叡知というものが内在しているという原則論を確認するのはいいことだとしても、それを外部に求めて宗教にしてはダメなのだ、と断定していいものなのか。つまり、ヒューストン・スミスの本にも出てくるけれども、「究極の無としての神」(つまりそれはもはや神という名で呼ぶこともできない、「空性」という仏教の表現に近くなるが)だけではなく、「有の相における神」の意味というものが、むしろ日本人(特にインテリ層)にはわかりにくいし、いまの日本の思想にはむしろそういう理解の方が必要かもしれない、と私は思うのだ。有の相、というのは要するに、いまの私たちの外部にあると意識される、人間でも絶対者でもない「中間的知性」であり、つまり天使とか菩薩、神々、マスターなどという言葉で表現される叡知存在のことである。それは究極的には存在しない。しかし私たちのような部分的自覚しか持たない意識存在にとってはリアルなものとなりうる。そしてそこからの「恩恵」や「指導」が存在するということも人間の経験しうる範囲としてあるのだ。私はこういうことを、初期キリスト教や東方キリスト教の世界にしばし沈潜している時に確信するようになった。そして恩恵や指導は私にとってはきわめて現実的な経験としてもあるものだった。それを抜かしては結局本当には霊性への道を歩むことは難しいという実感があるのである。そういうことをふまえていうと、中沢が少なくともその文章で言っているようなことは、過去に多くの日本の思想家が言ってきたこととそれほどかわらないし、宗教思想家として特にインパクトのある発言ではないと思う。中沢新一は、自分が知っているはずの「リアルなもの」をはっきりと書き表すことから結局は逃げて、知識層にも受け入れられそうな無難な表現にしているのではないか。つまりは「叡知というものがありますよ」ということは一生懸命言うが、人間は死んだらどうなるのかというような重大事には何も口を開かないのは、ケン・ウィルバーと似たところがあるような気がする。私に言わせればそれは逃げである。やはり世間にどう思われるかが怖いのではないか。

まあそうはいってもそれは考え方の違いなので、べつに批判をするつもりではない。ゾクチェンの紹介ということもそれなりの功徳を積むことではあるので、決して否定はしていない。私はそれと違うものを求めている、というだけの話である。つまり私は禅とかゾクチェンとか、そういう「自力系」の教えにはいまあまり興味がないのだ。むしろ浄土系、他力系の霊性に関心を持っている。それが霊的思想として成り立つためには、中間的知性の存在を理解できるようなコスモロジーが必要になるのだ。そういう宇宙的交流があるということが、世界の実相だと考えている。このような新たな宗教思想をもう少しメジャーなものにしていきたいと思う。

ところで、なぜこれほどまでに、死後の世界とか、そういう話がうさんくさいと思われているのか。その答えを探すことはむずかしくない。それは、「世界は客観的に存在する」という思いこみのせいである。つまり、世界を記述する方法として自然科学の方法が絶対だと思われているせいである。そうなると物質世界の客観性というものが無条件に肯定され、意識というのはそれへの付随物だという考え方である。このような科学主義と素朴実在論が合体したようなものが現代人の世界観的常識となってしまっているが、これに対する批判としてはすでに現象学がある。実のところ、このような科学的客観主義は、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という本で徹底的に解体されているので、いまなおこういう思想が幅をきかせているのは、徹底した思考というものがいかに理解されないかということでしかない。意識と世界とは相関しているものだという考え方は徹底して推し進められている。ある意味でそれは唯識で比較しうるところまで来た。

現象学はよく独我論の危険があるという。ここで、そもそもなぜ独我論ではいけないのか、という素朴な疑問がわく。哲学はいかなる先入観をも排除すべきなのだから、独我論はいけないものだという前提そのものを問う必要はないのだろうか。それは、独我論、つまり世界には「私」があるだけだというのはどこか間違っているという直観があるのかもしれない。しかしこれは「私」ということにあるレベルの相違があることがよくわかっていない考えでもある。究極的に言えば、この宇宙は私そのものだし、私以外のものは何も存在しない。それがユダヤ=キリスト教でいう、神の名とは「I AM」(ギリシア語では「エイミ」だが)ということの意味なのだ。だからもっとも深い意味における「私」は宇宙であり、その意味で究極的には宇宙は同一のものであり、したがって独我論なのである。そういう意味で「私」をとらえないといけない。究極の意識(それを人は悟りと呼ぶが)に至ったら、世界は私になるのだ。その意味で独我論は間違ってはいない。ただそれをふつうの意味における自我と混同するからわからなくなるのだ。この「私」の意味がわかっているかどうか、そこで本物の哲学者か、単なるお勉強屋さんかの違いがわかる、と言っても過言ではないと思う。それはつまり「私」というものの深みを直観できているか、ということなのだ。だからすぐに、独我論だからダメですね、などと言うのは三流だということがわかる。そのように精神の深みを受け止めることが哲学なのである。

現象学的還元というのは、つまりはカスタネダに出てくる「世界を止める」ということだ、というのが私の理解である。その世界を止めたときに、その見ている自分というのは何だ、ということである。そこで「見る」というのは、ふつうの知覚の意味での「見る」とはちがうのである。その「私」とは・・ベルクソン、フッサール、ハイデッガーはこの深みに気づいていたような気がする。ここまで見えて始めて、唯識との対話も始めることができようというものである。ところが現象学者の中には、そういう「私」の深みを見ず、間主観性によってそれを完全に消去してしまおうとする人がいる。日本の場合は、それがかなり通俗的な「無我」という方向への欲求として現れてしまうようだ。山口一郎は、『現象学ことはじめ』は好著であるけれども最後の方ではこうした自我消去の欲求が見えるし、貫成人も歴史世界へと結びつけて自我を消そうとしている。それは廣松渉とたいして違わない地平だといえないか(それにしても廣松渉ほど、ひところの流行から急速に忘れられた思想家もあるまい。まあ、たいしたことは見えてなかったのだ。この人にしか見えてないというような地平はなく、ただ勉強で作られたものでしかない)。「私」の成立という謎を的確に捉えているのはやはりミシェル・アンリである。これこそ現象学の進む方向を示しているといえる。新田義弘も悪くはない。ラントグレーベは『現象学の道』の中で現象学からの形而上学の可能性に触れているが、方向としてはアンリに近いと思われた。ラントグレーベは、現象学は実はアウグスティヌス的なものの復権でもあるのだ、と思想史的にとらえていて、それはなかなか新鮮だった。確実にあるといえるのは「私」なのである。そこから出発すべきだし、そこにしか思想の拠点はない。独我論はダメだとか、何もわかっていない人々の世迷い言である。

・・と、断っておくが、私はこういうことを考えるのが本業なのであって、ややアヤシキ本を読んだりしているのは、個人的探求・実践の領域ということなのである。

ブルース・モーエンの近刊

さて、Bruce Moen の Voyage to Curiosity’s Father を読んだ。モーエンの「アフターライフ探求」の四作目である。とはいっても私は、四作目がいちばん飛んでいるだろうと考えて、それを最初に読んだのだが、期待通りかなりのものである。モーエンについては坂本政道氏の本にも出てくるので聞いたことがあるかもしれない。モーエンはもともとモンロー研究所のヘミシンクから探求を開始したが、最近ではヘミシンクなしで変性意識に入るようである。ここでは、「パートナーと探求する」というテーマで、これは誰か他の人と一緒に変性意識であっちへ旅をして、その後でお互いにその体験を比較し合うというものだ。その体験には「向こうのモンロー研究所」も出てきて、そこに大きな水晶があり、その中に入ってエネルギーをチャージするそうである。現物のロバート・モンローも出てくる(もちろん非物質的なモンローである)。パートナーはデニーズという女性で、モンロー研究所のプログラムで知り合ったそうで、違うところに住んでいて、時間を合わせて旅をし、あとでeメールで体験を交換する。そのほか、同様にモンロー研で一緒だった何人かが加わったりする。その探求というのは、非物質界にある、あるセンターのような場所に行って、そこにいる Consciousness Worker (略してCW)に質問し、その答えを得るというものだ。その質問というのは、地獄(低次アストラル界)とそこから抜ける方法、偽の天国、あるいは宇宙の基本的目的(ビッグ・プラン)などだ。

というわけで、私にとってはべつにぶっ飛びではないが、そう感じる人もいるかもしれない。そこで書かれていることは私がすでに抱いている宇宙ヴィジョンと基本的に一致しているし、矛盾点は見あたらなかった。同様の宇宙ヴィジョンはすでにいろいろな形で地球に降ろされているのではないか、と思う。やはり確認したことは、もっとも重要なことは、モーエンが言うPUL、つまり 純粋・無条件の愛 Pure Unconditional Love を知る、気づく、受ける、ということである。おもしろいのは、モーエンたちがCWからメッセージを受けるときは、当然それは言語的なものではなく、強烈なPULの波動そのものが押し寄せてくる、とたびたび述べられていることだ。その波動がこめられていなくて、ただ言葉だけ繰り返してもしかたがない、と言っているのはまったく同感だ。そもそも言語にした瞬間に全部ウソであるのは当然であるので、それはあくまで「たとえ」で、それを通してあるエネルギーが伝わるかどうか、というだけだ。それはすべて芸術と同じことだろう。私は、霊的思想について書くことは芸術と同じだと思っている。大事なことはエネルギーがそこに流れるかである。

また、人間のように意識が個々別々のように体験されている世界というのは、宇宙の中ではかなり特殊なものらしい。意識というのは本来そういうものではなく、すべてがつながっているものとして経験されるのが「宇宙的常識」であるらしい。しかし地球も、それらの個別意識がやがて一つの大きな意識として体験されるという方向へ進化し始めているという。そもそも人間というのは単独で生きているものではない。それは他人がいないと生きられないという通俗的な意味ではなく、人間はより大きな意識体の一部として存在している、という基本的な原則のことだ。『魂のロゴス』の言葉で言えば「意識場」があって、その一部が個別化する形でいまの私の意識ができている。仏教の唯識などではこうした意識場に気づいているものの、それを個別的にとらえすぎるように思うので、まだ完全ではないと思う(これは私の持論であるが、現在は、これまでは隠されてきた霊的情報が急速に開示されてきている時代である。だから、「古典」ばかりに権威を求めすぎるとかえって進歩が遅くなる。いま現在に開示され、人々に読まれている霊的情報を真剣に考慮の対象とし、それと古典とを比較検討するということが必要である。私は、シュタイナーでさえ、時代的にまだ開示されない部分が多く、それだけを読んでいてもあまりよくわかってこないのではないかと思っている。たとえ玉石混淆の危険はあっても、いままさに書かれている霊的探求の記録をよく読むべきだ。私はウィルバーの功績を認めないわけではないが、アカデミズムに受け入れられようという意識が強すぎ、その霊的情報には「生々しさ」が欠けたものになってしまっていると思う。つまり「ぶっ飛ぶ勇気」が不足しているというのが私の評価である。ただし私が彼のことを全否定しているというのは誤解なので、間違えないように)。

それからもう一つ、この物質世界というのは実にいろいろな人間が、いろいろな場所から来ているということ。これはほかの世界にはない大きな特徴である。マジで、地獄からやっと抜け出して更正のチャンスを与えられた人がたくさんいるのである。だが、結局自分の持っているエネルギー傾向に負けてまた罪を重ねてしまい、さらに深い地獄へ転落する人も多いということだ。だからこの世に何でこんな奴がいるのかという悪人が存在するのは当然のことだ。そうした悪に直面したときに、その人間に少しでもPULの存在を感じさせることができたら、それは一つの魂を救ったことになるわけだ(『レ・ミゼラブル』に出てくる、ジャン・ヴァルジャンに銀の燭台を与えた神父のように。『レ・ミゼラブル』のフランスにおける映画化では、そのときに神父が与えた「光」がのちにどれだけ大きく広がるものであるか、が描かれていたように思う。一方、「悪」の存在と格闘しているのは「グリーンマイル」なのだが、こちらでは悪の不可解さが語られ、その更正可能性を信じ切れていない描き方である)。地獄出身者と上位の霊的世界出身者(時には神々レベルまでも)が同居しているこの世界を「面白い」と思った方がいいのだろう。自分と波動のあわない人間がいることにこの世界に来た意義がある。向こうに行ってしまえば自分と同じ波動の人ばかりである。まあそんなことが、モーエンの本を読んだ感想として出てくる。

ともあれこのモーエンの本は、存在の究極問題へと向かっていくので、それを受け取るには読む方にもかなり気力が必要だが、それだけの価値はある。地球の意識がシフトしつつあるということを実感させる。坂本氏をきっかけに日本でもモンローがはやってきたから、いつか訳されることがあるかもしれない。いつも言っているが、こういうものは「そういう体験をした人もいるのだな」という事実そのものを、よけいな解釈なしに自分の中に沈殿させるのがいちばんよい読み方であると思う。もし本当であれば、いつかは自分でも同じようなことを体験するであろうから。結論を急ぐ必要はまったくないのだ。

探求はあくまで探求である。学問ではない。ただいろいろな本を並べてみていちばんもっともらしい結論を引き出すという学者的やり方では解決できない。どっちにしても、自分のすべてを投入して探求に賭けるという以外に、何も方法というものはあるまい。

スピリチュアルというのは要するに、どれだけPULを感じ、PULの中に生きられるか、大事なことはそれしかないということだろう。PULではない何か別世界を経験したとしても、ただそれはそういう経験をしたというだけで、スピリチュアルではない。スピリチュアルというのは「Spirit」に関わるということだが、Spiritとは結局宇宙的なPULのエネルギーだからだ。不思議な世界を見たというだけのものは、スピリチュアルとは区別して「サイキック」と呼ぶべきものかもしれない。宇宙にはどれほど巨大な愛があるものであるか。それにどのくらいフォーカスできるものか、そこに幸福への鍵があるように思われた。

1571742034Voyage to Curiosity's Father (Exploring the Afterlife Series)
Bruce Moen
Hampton Roads Pub Co Inc 2001-06-01

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「レ・シルフィード」などとプラトン主義美学

それからもう一つDVDの話を・・ アメリカン・バレエ・シアターのガラ公演のDVDで見た、「レ・シルフィード」もよかった。これはまた、「これは天界か?」というような美の世界なのだった。バレエには「・シルフィード」というのもあるのでややこしいが、「レ」のほう。フランス語の複数形で、「風の精たち」というような意味か。いかにもロマン派の極致みたいなもので、詩人らしき男性が、その夢想の世界においてたくさんの風の精(シルフ)たちと戯れる、というこれといったストーリーらしきもののない作品なのだが、やはり、もし自分がこの詩人の立場であれば、かくまで多くの美しき女性・・いやシルフに囲まれて踊るというだけでも至福の世界、これこそ天界であるというのは明らかであろう。音楽はショパン。といってもショパンがバレエ音楽を作曲したわけではなく、ワルツとかマズルカとかの有名な曲をオーケストラに編曲したものだ。しかしこの曲と踊りの作り出す世界が天界的な美の世界なのですね。

私の書くものに親しんでいる人は知っていると思うが、私は「美」を通して天界の至福を味わうことにかなり情熱を傾けている人間である。それをロマン派というのだが、つまりロマン派的な美というのは、天界の美の追憶なのである。三浦雅士氏は『バレエ入門』の中で、バレエとは本質的にロマン主義的な芸術であると述べている。たとえば「バヤデール」とか「ドン・キホーテ』などにお約束のように出てくる夢・幻想の場面にしたって、「けっきょく、幻想の中にかいま見られる天界の美こそ、この仮象の世界よりも真実に近いのではないか?」という強い思いがそこにあるわけで、その思いこそがまさしくロマン主義的精神というものなのである。つまりバレエというのは本質的に「天界の美」に憧れるという性質を持っている芸術形式なのだ、ということになる。

もっとも私は現在、そういった美は必ずしも幻想の中「のみ」にあるとは思っていない。実は、この世界が「存在している」という事象、そのただ中に、天界の美を追憶することも可能である、と考えるに至っている。それはつまり、どんな何気ないありふれたものであっても、少し視点をずらして見ることができれば、それはきわめてロマン的にもなりうるのである。たぶん、そういうことは絵画のマスターたちは気づいていたことであろう。「見る」ということの中にどれだけの驚きが隠されているというのか。このへんは、メルロ=ポンティなどに学ぶところが多いであろう。イエス・キリストは死んだ犬を見て、「ごらん、なんてきれいな歯をしているんだろう」と言った--ということをシュタイナーがどこかで引用していたそうだが、スピリチュアルに「見る」というのはそういうことであろう。こういうことでは、大林宣彦監督の映画で、尾道とかの小さな路地なんかの描き方とか、そういうことからも教えられるところがある。

ま、とにかく、美とはすべて、天界にある美の追憶として美しいのである、というのはプロティノスが「美について」などで言っているプラトン主義美学であって、私はその信奉者である。プラトン主義とは美を通して天界に至ろうとする道である。私は「苦行の道」を捨てて「美の道」に転向したのである。

話を戻して・・そういうわけで「レ・シルフィード」における「詩人」に激しく感情移入してしまうが、このDVDの最後に入っている「パキータ」もなかなかである。「パキータ」というもの、全体の話はよく知らないのだが、ここは最後にストーリーとは関係なく踊りまくる場面である。音楽がやたらと楽しげで「ドン・キホーテ」みたいだと思ったら作曲家が同じミンクスである。なんていうか、ミンクスはクラシックの世界ではあまり相手にされていなくて、要するにかなりミーハーな音楽なんだが、このミンクスの音楽で縦横無尽に踊るとこれが楽しいといったらない。私は「ドン・キホーテ」なんてミーハーなものもけっこう好きだったりするのだが、この「パキータ」もそういうノリで楽しめるものであった。それも天界の美なのか? といったらもちろんで、そもそも天界というのが「まじめ一方」であるなんて誰が決めたのだ? ということである。モーツァルトのオペラ・ブッファが至高の美であるのと同じことではないか。

というわけだが、私が買ったのは例によって海外版で半額くらいである。そちらは American Ballet Theatre Mixed Bill というタイトルである。

B0000C4GGWレ・シルフィード、シルヴィア、トライアド、パキータ
アメリカン・バレエ・シアター バリシニコフ(ミハイル) ハーヴェイ(シンシア)
ワーナーミュージック・ジャパン 2003-10-16

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パルジファル

最近見たDVDの中で、特に良かったのはメトロポリタン歌劇場(レヴァイン指揮)の「パルジファル」である。ご存じワーグナーの最後の作品。よくシュタイナーが「神秘劇」ということを言っているが、いまこの世にある作品の中でもっとも「神秘劇」のコンセプトに近いのはこの「パルジファル」であろうと思う。

「パルジファル」は長らく、ジーバーバーグ監督のオペラ映画仕立てのものに親しんでいたが、こちらレヴァインのはきわめて正統的演出。むかしLDで出ていたもので、最近になってDVD化されたのだが、実はこちらを先に見るべきであった(といっても見られなかったわけだが)。台本はよく見ていないがたぶんこっちのほうがワーグナーの指示により忠実なのだろう。「そういうことだったのか」と初めてわかった部分がけっこうあるので、ジーバーバーグのはそこをどのように変えたのか、ということもわかったのである。それより、特に音がよいのでびっくり。DVDなら音が良いのは当たり前だということは決してないので、中にはダメな音のDVDもあるのだが、これはほんとにCDでもなかなかないくらいの見事な録音レベル。また歌手もいうことない。ジーバーバーグ版ではアンフォルタスに「?」が残ったが、こちらはアンフォルタス役はヴァイクルであるので完璧である。

スピリチュアル方面に関心のある人は、ワーグナーに入門するのに「パルジファル」から入ったりする。中にはそもそもこれが最初のオペラ鑑賞だ、なんて場合さえあるが、はっきり言ってこれは邪道である(実は私もその邪道の口であるが)。ワーグナーなら「タンホイザー」や「ローエングリン」から見ればよいし、オペラというならまずモーツァルトかプッチーニとかあるからだ。「パルジファル」から入っちゃうなんてコアもいいところである。しかしどうも見ていると結構そういう人がいるのだ。それもあながち批判はできないだろう。というのも、このような「霊的な世界への魂の憧れ」というものをオペラにした、などということは空前絶後だからだ。これにもっとも近いものといえば同じワーグナーの「ローエングリン」だろうけれども(私は5,6年前くらい、ローエングリンの第一幕への前奏曲のテーマを「私のテーマ曲である」と公言していた。つまり、私の魂の気分をもっとも的確に表現している音楽だ、という意味である。いまはそうでもないが)

下には日本語版をあげておくが、私が買ったのは国際版である。英、仏、独などヨーロッパ語と中国語の字幕がつき、リージョンフリーになっている。値段は日本語版の半額くらい。とにかく日本語版のオペラ・バレエDVDは高い。英語字幕でなんとかわかるなら、リージョンーフリーDVDプレーヤーに投資しても海外版を買うのが正解といえる。

B000793AOMワーグナー:舞台神聖祭典劇《パルジファル》
レヴァイン(ジェイムズ) ワーグナー メトロポリタン歌劇場管弦楽団 メトロポリタン歌劇場合唱団
ユニバーサルクラシック 2005-02-23

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それからジーバーバーグ監督の映画版はこちら。リージョンはオールのようで日本製プレーヤーでも再生できる。問題は字幕の英語がかなり時代調というか、古風で難解なこと。しかし「パルジファル」といったら絶対におさえておくべき名作であることにかわりない。なんというか独特のミステリアスな雰囲気は何とも言いがたい。特にクンドリーの描き方が秀逸。

6305131112Parsifal / (Sub)
Urban von Klebelsberg Hans-Jürgen Syberberg
Image Entertainment 1999-03-30

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ホイットマンの神秘体験

なぜか思い立って、ホイットマンの「ぼく自身の歌」という長編詩を読み返し始めた。ホイットマンとはアメリカ最大の詩人であると言われ、「ぼく自身の歌」は『草の葉』という詩集に収められている彼の代表作である。つまりこれは・・「スピリチュアルな意識」、言ってみれば一種の宇宙意識の状態にある「私」を表現している希有の作品である。「私」が宇宙大に拡大しているという世界感覚を歌っている。少しずつ読んでいるが、ほんの少し触れただけでもうただならぬ波動がびりびりと伝わるのである。本物を見た人だけが表現できるあるエネルギーが放射されているのだ。幸いにして原文と日本語訳、語注がのっている本が大学書林から出ている。これは繰り返し味わうべき名著ですね。ただ英語は、相当むずかしいと言っていい。並大抵の英語力で歯が立つものではない。でもこのエネルギーは原文にしかないものだから(訳文ではエネルギーは10%くらいまで落ちる)、がんばって読まねばならない。まあ、日本語ではそういうのは宮澤賢治がいるからそれを読めばいいのだが・・だがホイットマンの作品は賢治をも超えている。

例によってといっては失礼だが、編者の英文学者にはそういうことはまったくわかっていないので、この詩で言う「私」とはいったい何であるのか、その解説の文章など信じてはいけない。これは、日本のほとんどのインテリには「私」というのがいったい何であるのか深く掘り下げた経験がないのだから仕方ないのだ。それは、シュタイナーがなぜ、究極の意識レベルを「Ich」(私)と言っているのか、ということにもつながる(ちなみに、シュタイナーの「Ich」を「自我」と訳したのは致命的にまずい翻訳だったのではないか。シュタイナーかぶれの人と話をしていると根本的な語彙において話が食い違ってしまう。「自我」はふつうの日本語ではエゴ、つまり唯識で言う我欲の根源としてのマナ識のことをいう)。「私は私である」というのは実は神の名である。この宇宙は「私は私である」ということ以外に本当に存在するものはないのだ、という意味なのである。

そういう意味での「私」というのが、ホイットマンの不滅の傑作で語られていることである。なお、こういうことは日本の英文学者は滅多に言わないことだが、ペンギンブックスの Leaves of Grass 初版本(この詩集は数度改訂されているので、その初版の形を収めたペーパーバック、という意味)の解説者は、ホイットマンの世界を「ウパニシャッド」にたとえ、その神秘体験的な側面を指摘している。れっきとした学者も言っていることで、決して私の世迷い言ではないのだ。

少しでも「それ」を体験したことのある人は、「あっこの人はあれを見たのだ」とすぐに気がつくに違いない。

なお、対訳とタイトルにあるが、訳文は巻末にまとめられていて、左右対照にはなっていない。

4475022185ぼく自身の歌―英語対訳
W.(ウォルト) ホイットマン 岩城 久哲


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スピリチュアル思想の基本について

ところで、このへんで私の「スピリチュアル思想」について少し述べておきたい。

●永遠主義の哲学
私の考えの基本は「永遠主義」の哲学である。それはヒューストン・スミスの『忘れられた真理』とかオルダス・ハックスリーの『永遠の哲学』に書かれている通りなのだが、近代以前にかなり普遍的に存在していた神秘的哲学である。それを単に研究対象とするのではなく、それは実は、かなり(人類が知的に理解できる限界において)「真理」に迫り得ているのではないか? 我々はそれと大まじめに向き合い、文明を再構築すべきではないのか? という考え方というわけである。こうした永遠主義思想の中でも代表的なものが、プロティノスの新プラトン主義思想、インドのヴェーダーンタ思想、仏教における華厳思想などである。思想とは新しくなければいけないというものではないのだ、ということである。

●トランスパーソナル心理学との関係
一部は「トランスパーソナル心理学」とも重なる部分がある。正確に言えばトランスパーソナル心理学とは、永遠主義哲学の復興という潮流と、ユングやマスローなどの深層心理学のラインとが交わったところにできた心理学の一派であると考えることができる。つまり「心理学とは科学でなければならない」という前提を捨てて、「心についての学問は一つの形而上学にまで至らなくてはならない」という学問原理の変更がなされているというのが重要なポイントである。これは基本的に心理療法へスピリチュアリティーを導入する試みであるので、心理学者、心理療法家のやるものである。従って私は心理学者ではないし、当然トランスパーソナル心理学者ではない。永遠主義思想はあくまでトランスパーソナル心理学の隣接領域である。ま、位置づけとしてはそういうことである。

スピリチュアル思想を現代に展開するにおいてはいくつかのポイントがある。勉強をしていく場合にはそれが「必須科目」ということになろう。

1.「科学主義」の批判 ……現代人はあまりに科学を絶対視しすぎている。科学的方法論の有効性の限界についての議論、またあらゆる知的営みに付随する形而上学的前提について、科学は世界観を構成することができないことについて、などの論点。この点を勉強することは絶対に必要である。というのは、科学を至上の価値とする価値システムを持っている限り、すべての神秘思想、形而上学は「うそくさく」思えてしまうからである。なお、「科学的世界観」となどという言葉を平気で使う人は全く思想哲学の勉強をしたことがない素人であるので、そのようなHPなどに目をくれる必要はない。現在の「脳ブーム」(養老孟司や茂木健一郎など)も、中途半端な科学信仰が生み出したあだ花でしかない。参考書・・村上陽一郎『新しい科学論』『奇跡を考える』その他、大森荘蔵『知の構築のその呪縛』、フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

2.この世界はどのように成立しているか(素朴実在論からの離陸)
これは哲学的論点なのだが、結局のところほとんどの人がこれを理解できていないので、科学主義につけこまれてしまうのだ。科学主義は結局、素朴実在論の批判という哲学の問いを回避しているにすぎない(素粒子物理学の一部にはそういう問題意識が生じたが)。みな、世界がそこにあることが「あたりまえ」だと思っている。だがそうではない。なぜ世界があるのか、いや、本当に世界というものがそこにあるのかどうかということが、大きな問いであるのだ。この問いがわからなければ、「思想」はない。「スピリチュアル思想」である以前に、「思想」に入門しなければならないのだ。そのポイントが、この「存在の問い」を理解することなのである。この点に貢献しているのが、ヨーロッパの近代哲学と仏教の唯識であるだろう。近代哲学の中でも特にデカルトの問い、その先鋭化としての現象学の思考である。

たとえば、世界はなぜこのようにあるのかという問いに対して、宇宙は150億年前にビッグバンによって発生して、地球というものができて生命の誕生が云々・・といった答えを始めるのは、もう最初から全然終わっているのだ。そのような答え方ではまったくダメなのである。それはまったく何もわかっていないのである。そのような発想法で、なぜ世界があり、そこに「私」があるのかということを解明できるのだと本気で思うのは、ヘソでお茶を沸かすに等しいのである。ビッグバンなんてありはしない。ただそういうものがあるという夢を見ているだけの話かもしれない。そんなホラ話かもしれないあやふやな話の上に、もっとも重大な問いの答えを依拠させるわけにはいかない。

いや、さらに言えば、「地球」なんて本当にあるんだろうか。もしかするとみんなで「地球」というものがあるという夢を見ているだけかもしれないのである。そうでないという確実な証明があるのだろうか。地球が太陽の周りを回っているということも、みんながそう思っているからそれが正しいとされているだけかもしれない。・・これはアマノジャクではない。哲学というのはそのように考えるものなのである。ウソだと思ったら永井均の本を読んでもらいたい(永井均よりハイデッガーの方がいいけれども)。現象学というものも、こういった「存在の問い」の一つの徹底化なのである。

おそらくこの点が、「精神世界」系の人々がよく理解していないところなのだろう。だが、哲学における根源的な問いというものを理解すれば、私たちは、科学者によって提供される「物語」を疑う権利を有することがわかる。そうすれば何も怖いものはない。あなたは、思考というものが徹底的な自由であることを知るだろう。

哲学が面倒くさい人は、カスタネダの一連のドン・フアンシリーズは、ほとんど同じことを述べていると指摘しておこう。つまり、これは、カスタネダが素朴実在論から脱して、「世界と意識との関係」について徐々に気づいていく話として読めるのである。

つまり、どういうことか。それは、「世界の果てはいま、ここにある」ということだ。また、「私は、宇宙の中心に立っている」ということでもある。それはもっとも「まともな思考」によって導かれる結論なのである。

世界と意識とは分離不能である、ということである。

まだポイントはいくつかあるが、きょうはこの辺で。

ウェブ公開について

「最近読んだ本」というリストがむかし右側にあった。最近は更新していないのでひっこめていたが、要望もあるのでとりあえず「まえに読んだ本」と改題してそのまま復活させることにした。これは読んだ順番に並べているだけなので、私のお気に入り本とかオススメ本とイコールではない。そこで特にこれはという本を「ブックリスト」としてリストアップしたのを作ってみた。ただ右上にリンクのあるアマゾンのリストとある程度重複するのは了承ねがいたい。それから断っておくと、私に影響を与えた本の半分以上は英語で書かれたものである。それらは利便性を考えて、あえてリストには載せていない。最近、「いい日本語の本」はそれほどたくさん読んでいないという気がする。

それと、現在お休み中の「霊性学入門」だが、そのままで復活させる予定はないものの、自著の紹介などのページについては近いうちに場所を変えて再掲する予定でいる。また、これからの基軸になるべき「スピリチュアルな世界観」の概要的な叙述も必要になるだろうと思う。私はまだ完全にアウトプットモードにはなっていないのであるが、いずれ時期が来ればいろいろ書くこともあろう。

「きょうのできごと」二回目

ヒマであったのかなんとなく「きょうのできごと」を二回目に見てしまった。続けて二回見るなんてめったにしないので珍しいことなのだが。英語字幕もおもしろいが、よく見るとこの映画はけっこう笑える場面がたくさんある。しかしなんというか、この監督は「愛」のエネルギーを持っているんですね。それが浸透しているから妙な気持ちよさがあるわけだ。最後には何か静けさのようなものが漂っている。こういう空気感の質を味わうべき映画ということかな。

ロマン主義者でありかつプラトン主義者である私にとっては、「スピリチュアル」というのは要するに「真実の愛」ということとまったく同じ意味である。そして、人間とはすったもんだしながらも少しずつ真実の愛へむかって進んでいく生き物である、というのが基本的な人間観だということになる。こういうことを共有できる人はみなそれなりに「スピリチュアル」だといえる。べつになにもむずかしいことではないのだ。ただいえることは、愛というのは私がふつう想像しているよりもはるかに大きなものである、ということだ。ただその直観というのは誰しも魂の底には持っているものでもあると思う。「あなたは愛そのものである」とも古来から言われているが、それはどういう意味か完全に理解するのはなかなかむずかしい。

そしてもう一つは「生きる意志」。意志のことはアサジョーリも主題としていた。アサジョーリは心理学者の中でもっとも偉大である。彼のテーマはまさしく「生きる意志」と「無条件の愛」なのだ。この二つこそが人間の本質を解明する鍵なのだ。

というわけで、これだが

B0002ESL32きょうのできごと スペシャル・エディション
田中麗奈 行定勲 妻夫木聡 伊藤歩


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いや、べつにDVDを買ったわけではないけどね。それにしても伊藤歩ちゃんってカワイイですね・・ 田中麗奈のハナレ目がなんともいえない・・

ヨーガビデオの話

綿本彰サンの『シンプルヨーガLesson』DVDつき、ってのを買ってあるが・・これ、シンプルとはいっているがどうして、なかなか本格的です。たしかに「教室そのままレッスン」と言っているだけはある。準備体操から呼吸法、アーサナからリラクセーションまで40分みっちり。アーサナは意外ときつい。むむ・・これ、初心者向けなんですかね? たしかに、ひじょうによくできていてよく効く。しかし通してやるとかなり汗をかく感じ。教室のレッスンだから週一回やる、って感じになってしまう。かくいう私はこれがなかなかいいということは認めつつ、ちょっと大変なので、もっとラクな「AM Yoga」に行ってしまう。毎日やるには、これじゃあカンタンすぎない? っていうところから始めるのがいいのでは、と思う。このAM/PM Yogaなどのシリーズとか、あるいは Yoga Workout for Dummies なんかのアメリカのヨーガ入門ビデオでは、世の中にはびっくりするほど体の硬い人がいるっていうことをどこかで意識した作りになっている気がするが、日本のヨーガものというのは、からだの調子がよくなくて「健康」や「体質改善」を求めてやるというよりは、明らかに、いまのところからだに悪いところはないが、もう少しやせたいという「美容」のニーズに焦点を合わせている気がする。もちろんアメリカでも美容のヨーガというのはあるんだけど。でもなんとなく、日本では「私はカラダが硬いからヨーガはできない」なんていう考え方が多い。これはすごく間違っているのであって、カラダが硬い人こそヨーガをやると変わるはずなのだが、日本のヨーガに対するイメージというのは「健康で体の柔らかい人がさらさる美容を求めてやるもの」という方向になりがちではないか、という気がするのだ。というわけでヨーガの本やビデオを求める人にはからだの悪くない人が多くて、やっても全然疲れないような軽すぎるものではかえって人気が出ないんじゃないだろうか。

パワーヨーガというのもそういう路線である。アメリカでもパワーヨーガははやっているから日本だけの現象ではないけれども、私が言うのは「これじゃ簡単すぎる、ってレベルで毎日やる方がいいんだ」ということ。その手のビデオがあんまり日本語版ではお目にかからないなあ・・ということを言っているわけ。やっぱり「健康な人がさらなる美をめざす」系のものが多いんじゃないか、と。綿本サンもやっている「プチヨーガ」というは、「簡単すぎるものを日常的に」っていうコンセプトなんだと思うけど。本格的なのを週一回やってあとはやらない、ではダメなのよね。それでもぜんぜんやらないよりはいいけれど。

でもこの「シンプルヨーガLesson」がいい出来だということは認める。途中でちょっと音声が不鮮明になるところがあるけれど。ちょっとかじってみる、というより本格的入門としてのオススメというところかな。

なお、DVDではなく「和書」のカテゴリーである。

4405081867シンプルヨーガLesson―DVDで覚える
綿本 彰


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また映画の話

この前「時をかける少女」に感心したが、次に大林監督の新・尾道三部作の一つ「ふたり」を見た。いや、これもよかったですねえ。石田ひかりの映画主演第一作だが、すごくよい。私は「ひらり」のイメージが強かったんだがそれとはぜんぜん違うキャラクターを見事に演じている。これは少女の成長を描いた話だといえばいいのだろうが、そこにやっぱり、魂の底にある「生きようとする意志」が表現されている。こういうのもまた見事に「スピリチュアル」なのだ、と私は思うのですがね。もちろん魂の体外旅行だとか、そっち系のアドベンチャーの意義もじゅうぶん認めるのだが(現在の研究テーマはそっちの方だったりするが)、でも、心の奥底にある深い意志のレベルを感じることができたら、それはまたものすごく深いことだと思う。

映画というのは本来成熟した表現ジャンルであると思う。つまり、音楽では十代でメジャーになるということもあるが、映画監督というのは三十代にならないとできない。青春を描いたとしても、それはその渦中にあるという視点ではなく、もっと成熟した地点からそれを包み込むという表現になることが多い(ただし、単に若者に媚びているだけの駄作もありはするが、それは論外)。

行定勲監督の「きょうのできごと」(妻夫木聡、田中麗奈)というのもそういう感じかも。これ、ある意味ではかなり実験的な作品だろう。というのは何もストーリーらしいものがなく、エピソードの連鎖でしかない。退屈だという人には極限的に退屈な映画だろう。でもこれは要するに「世界」を描こうとしているかなり野心的な作品であるらしいということを感じた。しかし、特に二人の女の子の演技がいい。なんだか、つまらないのかおもしろいのかよくわからないような映画である。退屈だといえばたしかに退屈だが、独特の詩情があるというか、そんな感じだ。ちなみに、英語字幕があるので、これをオンにすると英会話の勉強にいい。ほんとうにどこにでもありそうなあたりまえの表現、「まあがんばってえな」とか「なかなるやるじゃん」というような言葉が英語ではどのように言うのかわかるので、少なくともこの字幕を入れて見れば退屈度は減るだろう。この英訳はすごい上手です。日本人ではこうは訳せないね。

話の勢いで、行定監督特集。

「世界の中心で、愛をさけぶ」 大沢たかお、柴咲コウ、長澤まさみ、森山未来
前にも書いたけど、なんだかんだいいますが、これはいい映画である。原作よりもいい。映像が美しい。長澤まさみはとても魅力的。これだけでも十分だが、ラストも余韻があっていい。たしかに2時間に話を納めているからストーリーにはちょっと苦しいところもあるが、行定監督の詩情は十分に出ている。映像美では彼の作品でも最高の部類。

「GO」 窪塚洋介、柴咲コウ、山崎努、大竹しのぶ
これは傑作です。在日韓国人青年の話だが、窪塚の演技は抜群である。彼に対しては好き嫌いもあろうが、その演技力は認めざるをえないところ。重いテーマだが、生きようとするエネルギーが燃焼している感じで、たいへん後味のよい映画である。

「ひまわり」 麻生久美子
これはちょっとマイナーかもしれないが捨てがたい佳作かも。幸せの薄いはかない感じの少女を麻生久美子が演じているが、クライマックスの美しさはすばらしい。

「北の零年」 吉永小百合、渡辺謙、石田ゆり子
これはDVDではなくこの前の冬に公開されたもの。これまでとは違った歴史スペクタクル系なんだが、3時間の長さにもかかわらず一瞬も退屈しないすばらしい出来である。「きょうのできごと」とは全く対極的なこういう作品も撮れる行定監督の才能は大変なものだと思う。黒縁メガネをかけていて一見するとちょっとオタクっぽい外見をしているが、若手の監督の中ではもっとも注目でありましょう。

で、行定監督から離れるが、もう一つ書きたいのは、

「幻の光」 是枝監督、江角マキコ
この映画はいったい何? これもかなり驚きのものだった。一人の女性が夫を失って再婚するというその日常を淡々と描くだけで、それ以上のストーリーはまったくない。これも見方によっては退屈の極みともいえるが、実は監督はすごいことを考えているということがわかった。それはどういうことかというと、こういった日常の日々、その「現実」というものをある遠い視点から見ている何かを表現しようとしているらしい、ということだ。こういうことを考えて映画を作っている人が日本人にいるというのはほんとうに驚いた。ほんとに全く売れそうもない映画なんだが。江角マキコは演技が下手なんだかそれとも監督の意図であえてそうしているのかよくわからない。しかし本当に途方もないことを考えているのだなあ、と感じ入った。この映画は映像美を鑑賞する作品なので、小さな画面で見てもおもしろくも何ともないです。大画面のワイドスクリーンTVを持っていない人は借りてもしかたがない。それで見たっておもしろいかかどうかというとよくわからないけど(笑)。全体的に黒が多いので映り込みのない液晶TVの方がいいかもしれんね。

というわけでだいたい私の映画における好みはおわかりであろう。私が「宇宙戦争」だの「スターウォーズ・エピソード3」を見に行くわけがないということも明らかである。「四日間の奇蹟」が終わってしまうととうぶん見たいものがないのだが、今度「涙そうそう」が映画化されるらしいと聞いた。妻夫木聡と長澤まさみが兄妹を演じるそうである。これは少し期待できるかも。

どうでもいいこと

最近、あまりアウトプット・モードではない。「日記」は、毎日ではないが、ふつうのノートに書いているので、それでほとんど充足してしまっていることもある。実は、このようにwebで書くのはまずいような内容がかなり多いのである。かなりぶっ飛びなのである。

先日、ついにオフィスにあるスピーカーをボーズからタンノイに変更。私はどうしてもボーズの音が好きになれなかったので、アットホームなタンノイの音に戻ってきてほっとした。ボーズのAM5IIIだが、正直言っていったいどこが音がよいといわれているのかよくわからない。音の定位が全然悪かった。特にオーケストラはかなり厳しいものがあった。さらにそれ専用のスピーカーブラケットというものが、まったくカッコはいいのだが軽量のためやたらグラグラして用をなさない。もっとも、このスピーカーは中古なので、元のオーナーの鳴らし方で癖がついていたのかもしれない。解像度も悪ければ低音もたいしたことない。ともあれ、ペアでわずか25000円もしないというフュージョン1の方が圧倒的にいい音だと感じる。まあこれも好みの問題ではあろうが。そんな悪口を言いつつオークションで売るかもしれなかったりする。

ボーズといえば私はウェーブレディオも持っていてそっちはパソコンをやるときのBGMなどを鳴らしている。こちらはクラシックはほとんどなく、アンビエント、ヒーリング、それと小野リサしかかけない。ほんというと音のバランスという点ではウェーブレディオの方がAM5IIIを上回っているような・・あるいはこれはAM5IIIはセッティングがむずかしいということかもしれない。ウェーブレディオの方はかなりおすすめできる。ただオーケストラはちょっと厳しい。アンビエント系かボーカルが向いていると思う。

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