「レ・シルフィード」などとプラトン主義美学
それからもう一つDVDの話を・・ アメリカン・バレエ・シアターのガラ公演のDVDで見た、「レ・シルフィード」もよかった。これはまた、「これは天界か?」というような美の世界なのだった。バレエには「ラ・シルフィード」というのもあるのでややこしいが、「レ」のほう。フランス語の複数形で、「風の精たち」というような意味か。いかにもロマン派の極致みたいなもので、詩人らしき男性が、その夢想の世界においてたくさんの風の精(シルフ)たちと戯れる、というこれといったストーリーらしきもののない作品なのだが、やはり、もし自分がこの詩人の立場であれば、かくまで多くの美しき女性・・いやシルフに囲まれて踊るというだけでも至福の世界、これこそ天界であるというのは明らかであろう。音楽はショパン。といってもショパンがバレエ音楽を作曲したわけではなく、ワルツとかマズルカとかの有名な曲をオーケストラに編曲したものだ。しかしこの曲と踊りの作り出す世界が天界的な美の世界なのですね。
私の書くものに親しんでいる人は知っていると思うが、私は「美」を通して天界の至福を味わうことにかなり情熱を傾けている人間である。それをロマン派というのだが、つまりロマン派的な美というのは、天界の美の追憶なのである。三浦雅士氏は『バレエ入門』の中で、バレエとは本質的にロマン主義的な芸術であると述べている。たとえば「バヤデール」とか「ドン・キホーテ』などにお約束のように出てくる夢・幻想の場面にしたって、「けっきょく、幻想の中にかいま見られる天界の美こそ、この仮象の世界よりも真実に近いのではないか?」という強い思いがそこにあるわけで、その思いこそがまさしくロマン主義的精神というものなのである。つまりバレエというのは本質的に「天界の美」に憧れるという性質を持っている芸術形式なのだ、ということになる。
もっとも私は現在、そういった美は必ずしも幻想の中「のみ」にあるとは思っていない。実は、この世界が「存在している」という事象、そのただ中に、天界の美を追憶することも可能である、と考えるに至っている。それはつまり、どんな何気ないありふれたものであっても、少し視点をずらして見ることができれば、それはきわめてロマン的にもなりうるのである。たぶん、そういうことは絵画のマスターたちは気づいていたことであろう。「見る」ということの中にどれだけの驚きが隠されているというのか。このへんは、メルロ=ポンティなどに学ぶところが多いであろう。イエス・キリストは死んだ犬を見て、「ごらん、なんてきれいな歯をしているんだろう」と言った--ということをシュタイナーがどこかで引用していたそうだが、スピリチュアルに「見る」というのはそういうことであろう。こういうことでは、大林宣彦監督の映画で、尾道とかの小さな路地なんかの描き方とか、そういうことからも教えられるところがある。
ま、とにかく、美とはすべて、天界にある美の追憶として美しいのである、というのはプロティノスが「美について」などで言っているプラトン主義美学であって、私はその信奉者である。プラトン主義とは美を通して天界に至ろうとする道である。私は「苦行の道」を捨てて「美の道」に転向したのである。
話を戻して・・そういうわけで「レ・シルフィード」における「詩人」に激しく感情移入してしまうが、このDVDの最後に入っている「パキータ」もなかなかである。「パキータ」というもの、全体の話はよく知らないのだが、ここは最後にストーリーとは関係なく踊りまくる場面である。音楽がやたらと楽しげで「ドン・キホーテ」みたいだと思ったら作曲家が同じミンクスである。なんていうか、ミンクスはクラシックの世界ではあまり相手にされていなくて、要するにかなりミーハーな音楽なんだが、このミンクスの音楽で縦横無尽に踊るとこれが楽しいといったらない。私は「ドン・キホーテ」なんてミーハーなものもけっこう好きだったりするのだが、この「パキータ」もそういうノリで楽しめるものであった。それも天界の美なのか? といったらもちろんで、そもそも天界というのが「まじめ一方」であるなんて誰が決めたのだ? ということである。モーツァルトのオペラ・ブッファが至高の美であるのと同じことではないか。
というわけだが、私が買ったのは例によって海外版で半額くらいである。そちらは American Ballet Theatre Mixed Bill というタイトルである。
レ・シルフィード、シルヴィア、トライアド、パキータ アメリカン・バレエ・シアター バリシニコフ(ミハイル) ハーヴェイ(シンシア) ワーナーミュージック・ジャパン 2003-10-16 by G-Tools |