ブルース・モーエンの近刊
さて、Bruce Moen の Voyage to Curiosity’s Father を読んだ。モーエンの「アフターライフ探求」の四作目である。とはいっても私は、四作目がいちばん飛んでいるだろうと考えて、それを最初に読んだのだが、期待通りかなりのものである。モーエンについては坂本政道氏の本にも出てくるので聞いたことがあるかもしれない。モーエンはもともとモンロー研究所のヘミシンクから探求を開始したが、最近ではヘミシンクなしで変性意識に入るようである。ここでは、「パートナーと探求する」というテーマで、これは誰か他の人と一緒に変性意識であっちへ旅をして、その後でお互いにその体験を比較し合うというものだ。その体験には「向こうのモンロー研究所」も出てきて、そこに大きな水晶があり、その中に入ってエネルギーをチャージするそうである。現物のロバート・モンローも出てくる(もちろん非物質的なモンローである)。パートナーはデニーズという女性で、モンロー研究所のプログラムで知り合ったそうで、違うところに住んでいて、時間を合わせて旅をし、あとでeメールで体験を交換する。そのほか、同様にモンロー研で一緒だった何人かが加わったりする。その探求というのは、非物質界にある、あるセンターのような場所に行って、そこにいる Consciousness Worker (略してCW)に質問し、その答えを得るというものだ。その質問というのは、地獄(低次アストラル界)とそこから抜ける方法、偽の天国、あるいは宇宙の基本的目的(ビッグ・プラン)などだ。
というわけで、私にとってはべつにぶっ飛びではないが、そう感じる人もいるかもしれない。そこで書かれていることは私がすでに抱いている宇宙ヴィジョンと基本的に一致しているし、矛盾点は見あたらなかった。同様の宇宙ヴィジョンはすでにいろいろな形で地球に降ろされているのではないか、と思う。やはり確認したことは、もっとも重要なことは、モーエンが言うPUL、つまり 純粋・無条件の愛 Pure Unconditional Love を知る、気づく、受ける、ということである。おもしろいのは、モーエンたちがCWからメッセージを受けるときは、当然それは言語的なものではなく、強烈なPULの波動そのものが押し寄せてくる、とたびたび述べられていることだ。その波動がこめられていなくて、ただ言葉だけ繰り返してもしかたがない、と言っているのはまったく同感だ。そもそも言語にした瞬間に全部ウソであるのは当然であるので、それはあくまで「たとえ」で、それを通してあるエネルギーが伝わるかどうか、というだけだ。それはすべて芸術と同じことだろう。私は、霊的思想について書くことは芸術と同じだと思っている。大事なことはエネルギーがそこに流れるかである。
また、人間のように意識が個々別々のように体験されている世界というのは、宇宙の中ではかなり特殊なものらしい。意識というのは本来そういうものではなく、すべてがつながっているものとして経験されるのが「宇宙的常識」であるらしい。しかし地球も、それらの個別意識がやがて一つの大きな意識として体験されるという方向へ進化し始めているという。そもそも人間というのは単独で生きているものではない。それは他人がいないと生きられないという通俗的な意味ではなく、人間はより大きな意識体の一部として存在している、という基本的な原則のことだ。『魂のロゴス』の言葉で言えば「意識場」があって、その一部が個別化する形でいまの私の意識ができている。仏教の唯識などではこうした意識場に気づいているものの、それを個別的にとらえすぎるように思うので、まだ完全ではないと思う(これは私の持論であるが、現在は、これまでは隠されてきた霊的情報が急速に開示されてきている時代である。だから、「古典」ばかりに権威を求めすぎるとかえって進歩が遅くなる。いま現在に開示され、人々に読まれている霊的情報を真剣に考慮の対象とし、それと古典とを比較検討するということが必要である。私は、シュタイナーでさえ、時代的にまだ開示されない部分が多く、それだけを読んでいてもあまりよくわかってこないのではないかと思っている。たとえ玉石混淆の危険はあっても、いままさに書かれている霊的探求の記録をよく読むべきだ。私はウィルバーの功績を認めないわけではないが、アカデミズムに受け入れられようという意識が強すぎ、その霊的情報には「生々しさ」が欠けたものになってしまっていると思う。つまり「ぶっ飛ぶ勇気」が不足しているというのが私の評価である。ただし私が彼のことを全否定しているというのは誤解なので、間違えないように)。
それからもう一つ、この物質世界というのは実にいろいろな人間が、いろいろな場所から来ているということ。これはほかの世界にはない大きな特徴である。マジで、地獄からやっと抜け出して更正のチャンスを与えられた人がたくさんいるのである。だが、結局自分の持っているエネルギー傾向に負けてまた罪を重ねてしまい、さらに深い地獄へ転落する人も多いということだ。だからこの世に何でこんな奴がいるのかという悪人が存在するのは当然のことだ。そうした悪に直面したときに、その人間に少しでもPULの存在を感じさせることができたら、それは一つの魂を救ったことになるわけだ(『レ・ミゼラブル』に出てくる、ジャン・ヴァルジャンに銀の燭台を与えた神父のように。『レ・ミゼラブル』のフランスにおける映画化では、そのときに神父が与えた「光」がのちにどれだけ大きく広がるものであるか、が描かれていたように思う。一方、「悪」の存在と格闘しているのは「グリーンマイル」なのだが、こちらでは悪の不可解さが語られ、その更正可能性を信じ切れていない描き方である)。地獄出身者と上位の霊的世界出身者(時には神々レベルまでも)が同居しているこの世界を「面白い」と思った方がいいのだろう。自分と波動のあわない人間がいることにこの世界に来た意義がある。向こうに行ってしまえば自分と同じ波動の人ばかりである。まあそんなことが、モーエンの本を読んだ感想として出てくる。
ともあれこのモーエンの本は、存在の究極問題へと向かっていくので、それを受け取るには読む方にもかなり気力が必要だが、それだけの価値はある。地球の意識がシフトしつつあるということを実感させる。坂本氏をきっかけに日本でもモンローがはやってきたから、いつか訳されることがあるかもしれない。いつも言っているが、こういうものは「そういう体験をした人もいるのだな」という事実そのものを、よけいな解釈なしに自分の中に沈殿させるのがいちばんよい読み方であると思う。もし本当であれば、いつかは自分でも同じようなことを体験するであろうから。結論を急ぐ必要はまったくないのだ。
探求はあくまで探求である。学問ではない。ただいろいろな本を並べてみていちばんもっともらしい結論を引き出すという学者的やり方では解決できない。どっちにしても、自分のすべてを投入して探求に賭けるという以外に、何も方法というものはあるまい。
スピリチュアルというのは要するに、どれだけPULを感じ、PULの中に生きられるか、大事なことはそれしかないということだろう。PULではない何か別世界を経験したとしても、ただそれはそういう経験をしたというだけで、スピリチュアルではない。スピリチュアルというのは「Spirit」に関わるということだが、Spiritとは結局宇宙的なPULのエネルギーだからだ。不思議な世界を見たというだけのものは、スピリチュアルとは区別して「サイキック」と呼ぶべきものかもしれない。宇宙にはどれほど巨大な愛があるものであるか。それにどのくらいフォーカスできるものか、そこに幸福への鍵があるように思われた。
![]() | Voyage to Curiosity's Father (Exploring the Afterlife Series) Bruce Moen Hampton Roads Pub Co Inc 2001-06-01 by G-Tools |