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夏の総括・・というほどでもなく

最近はマリナーによるバッハ・管弦楽組曲がお気に入りのBGMとなっている。これ、1980年代くらいにLPで聴いていた記憶があり、その音がふと懐かしくなって注文してしまった。マリナーの録音は何種類かあるらしいので迷ったが、まさに「その音」であった。ハイデッガーではないが、「存在への郷愁」への気分に浸れる曲。80年代の私はこれにどれだけ助けられたかわからない。

3枚組でブランデンブルグもプラス千円でついてくるというのでそれにしてしまったが、実際ブランデンブルグは余り聴かないので、管弦楽組曲だけの「duo」でもよかったかもしれぬ。

B000065TV3Bach: Brandenburg Concertos; Orchestral Suites
Graham Sheen Denis Vigay Johann Sebastian Bach
Philips 2002-06-11

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ところで・・ 夏休みの成果は? というと、

「北の国から」 最初の連ドラシリーズからスペシャル版まですべて、ビデオ21本を完全制覇! これはすごかった。7月31日から始めて8月21日まで22日間かかった。夏休みでなければ不可能な企画である。これは、夏休み前に見た映画「四日間の奇蹟」の流れで、吉岡秀隆つながりで「Drコトー診療所」を見、さらにそのつながりで「北の国から」になだれ込んだわけです。これはやはり最初の24回連続ドラマが重厚で、これを見ないと後のものも完全にはわからない。スペシャル版では特に「87」「92」「95」がクライマックスだが、そうはいっても途中を飛ばしてはよくわからなくなるので全部順番に見なければならない。「98」はちょっと長すぎだと思うので全部で3時間半くらいまでにつづめたほうが緊張感がもっと出るのではないか。草太が死んで螢が結婚するというだけしか出来事が起こらないのに5時間とは・・これではワーグナーも真っ青である。でも「2002」の比較的静かな展開、その終わり方もなかなか余韻を残す感じで好きである。(なお、87まで行ったときに「あとのは暗い話だから見なくていいよ」という親切?な忠告をくれたMくん、はっきり言ってアナタは性格悪いですよ。もう少し素直な気持ちというものを、倉本センセイから学びましょう)

しかしこれのDVD版は売るのみでレンタルしていない。しかも、VHSでは1巻に3話入っていたのにDVDでは2話のみで12本もある(最初の連続シリーズ)。これってあからさまなモウケ主義・・ フジテレビ、制作部門はともかくも営業部門はいただけない。

で、そのあとついでに、倉本聡の流れで、

「優しい時間」 も制覇。といってもこれはDVD6本(1本90分しか入ってない)なので楽勝だが。「コトー」は倉本の弟子の脚本家によるもので、これもいいと思ったが、さすがに師匠である、これだけの完成度を持つドラマはそう簡単にお目にかからない。その感想は・・「自然や、音楽や美術などの作品も美しいが、人の持つ純粋な思いもまた、美しいものである」という感じ。

倉本さん、ちょっと説教くさいところがあるので嫌いな人もいるかもしれないが、「北の国から」「優しい時間」に関してはやはり他を寄せつけないレベルの高さを持っている。

ついでに、

「のだめカンタービレ」既刊12巻制覇! ・・って何じゃそれ? という感じだが、まあ、クラシックのお話ですから。この度ついに千秋真一がCDデビュー、R☆Sオーケストラによるブラームスの交響曲第一番のCDが2800円で出る・・いやマンガではなくてマジにリアルワールドで発売されるというのにはびっくりである。それも予約が殺到しているとのことだが・・ まあ「ヒカルの碁」で碁がはやったようにこれでクラシックに興味を持つ人が増えるのはけっこうなことである。でもブラームス一番は初めて聴くにはハードだと思うよ。私はモーツァルトから入るのがいちばんいいと思うが、まあよけいなお世話か。それとオーディオ装置だって多少ましなものでないとダメなんだけど、この話を書くときりがないからやめておく。

どうでもいいことだが、これのサブキャラクターでは「ハリセン先生」がけっこう好きだったりする。
私自身にも少しあてはまるかもしれないのだが、かなりの才能を持ちながら、欲がないというか、向上しようという意欲がなかなか出ない人というのは多いんですね。やっぱりハリセン先生のような人が世の中には必要ですよ。ハリセンとの出会いがなければ、のだめの将来は開けなかったわけでしょ?

・・というわけで、こう書くと、遊んでばっかりのようだが(笑) それからオペラのDVDで「ドン・ジョヴァンニ」と「コシ・ファン・トゥッテ」「フィガロの結婚」のモーツァルトシリーズも見ているぞ。バレエの「ラ・シルフィード」のDVDも。まあ、マジメなお話は、今回はおいといて・・ということで。

夏休み

このブログもずいぶん長く夏休みをとっていた。なんていうか、ネットに近づきたくなくなるモードっていうのがあるんですよね。ネットというのもべつに楽しいことばかりじゃないし。

ま、かなり涼しくなってきたんで、ぼちぼち、というところでしょうか。

ついでに、すごく言い遅れたが、下に書いた『スピリットランド』、地獄の話が大半であるだけに、読むのは波動的にはきついですよ。そういう世界もあるということを知るのは必要だが、ある程度覚悟はしないと。最初に書いておけばよかったか(^_^; あっちの探訪記ならもっと波動のいい世界を扱ったものはたくさんあるんだけどね。

霊界探訪?? と新々プラトン主義

ファーニス『スピリットランド』はごっつく面白い本だった。これは霊界通信ものというジャンルで、かなり昔のものらしい。イタリアの貴族の死後体験談ということだが、この内容がなかなかすごい。低次の霊界に入ってしまい、そこを苦労して抜けて、今度は自分が「地獄レスキュー隊」をつとめながら修行をかさね、徐々に高い階層に登っていく、という話である。霊界通信ものとしてはかなり出色である。地上に、魂のレベルが高い女性がいて、彼女が彼に対して送っている愛が、彼を低次の階層から救い出し、天界に導いたということである。しかし、地獄レスキューの叙述は、下手な映画よりもよっぽど面白い・・と言っては不謹慎かもしれないがそうなのだ。ダンテの「神曲」はちょっと想像っぽいがこちらはリアルですからね。私はほかにも地獄探訪記を読んでいるが、だいたい基本は同じである。東洋も西洋もそれほど違いはないみたいである。(そういうものは「リアル」ではない、という考えもあるかもしれないが、私は基本的に、人間が体験することはすべて現象として発生したという意味で「リアル」であると考えている。ただそのリアリティがどの程度共有されているか、ということしかない。その意味で現象学は「ラジカルな経験主義」の方法論として活用できる。この話はまた著書のなかで詳しく書く予定)

キリスト教でも仏教でも、ほかの宗教でもたいていは天界と地獄というイメージがある。それはたぶん、魂の体験としてリアルなものが核にあって、それにいろいろな想像や憶測がまつわりついて形成されたものだろう。つまり、芯にはリアルなものがあるが、かなりゆがめられ、不正確な姿で伝わっているのがこれまでの宗教だった、と言えまいか。徐々に、そういう憶測に基づく不正確なものが払拭され、しだいに真実が姿を現してくるのだろうか。これからの時代、そうなっていかなければならないだろう。

それにしても『スピリットランド』を一読して、いちばん印象に残ることは、なんと言っても、人間には「向上しよう」という魂の思いこそがもっとも重要なことだ、というテーマである。つまり、善なるもの、美なるもの、真理へ近づいていこうという意志である。それ以上に大切なものはないのだ。地獄にうごめいているのは、そうした志を全く喪失してしまった者たちなのである。自分を浄める、高い世界への憧れを持つということがどんなに大事なことなのか。そういえばシュタイナーなどもそれがいちばん最初に来るべきことだと言っていた。思えばそういう高い世界への志というものが哲学の原初でもあったはずだ。いま、思想の世界はその志を喪失して久しい。それがなければしょせんはすべて「お勉強屋さん」の世界でしかないのだ。そういえば竹田青嗣の言う「エロス」というのも、プラトン的意味での「より<ほんとう>の世界をめざす志向」として理解されているので、その限りでは多少、ポイントに近いところにはある。現象学の解釈についてはかなり疑問もあるけれども、多少はいいところもあるということか。

『スピリットランド』が描くのは、現実にこの宇宙には「善と悪の闘争」があるということである。特にこの地上世界は、人間の魂をめぐって、神的なものと魔的なものが争奪し合う世界だということだ。人間は魔界に転落することもできれば、天界に上昇することもできる。魂のあり方によってその運命が大きく変わってくる。これはまさに、プラトンが「パイドロス」で描いている、善と悪との二頭立て馬車である。もっとも、闘争といっても、スターウォーズみたいに、悪を武力でやっつけてしまおうというのではない。それはこの善悪の闘争ということをきわめて地上的に限定された姿でとらえた結果で、これではジョージ・ブッシュと同じになってしまう。悪との闘争というのは、あくまで光・愛の力によって行うものだ。『スピリットランド』ではそういう光の戦士たちである「同胞団」の活躍が描かれている。それはなかなかカッコいいものがある。

そう考えてみると、たとえば、「ふつうの子供」だったものがいきなり殺人を犯すなどという事件は、何か魔的なものの影響があったのではないか、とも思われる。その子供を少年院などに入れても何の解決にもならないだろう。だが、そのような「外側」から地上世界へどういう影響があるものなのか、そういうことは何もわからないまま必死に七転八倒して生きねばならないのが、この地上的人間の持つ「プログラム」ということなのであろうか。・・だが、それも過渡的なもので、いつかは真実が明らかになっていくのではないか、と思うのだが。「命の大切さ」を教えることもたいへんけっこうだが、「魔的な影響からの防御方法」を学校で教えたりする時代が、23世紀くらいになったらやってくるのだろうか?

現状においては、そういういわば超感覚を発達させている人が少数派である以上、そういう人には実際に「見えている」世界を、見えていない人に説得的に証明する手段はない、と言える。学問によって可能なのは、ふつうのひとが「見えている」ということは、実在そのものを見ているのではなく、ただそのように見えるという「プログラム」によって見えている、ということを示すだけである。問題はその「プログラム」は固定したものではなく、可変的なものだということ--つまり、これまでは見えていなかったものが見えるようになるという可能性もあるということ、これを受け入れるかどうかということだ。それでも、この『スピリットランド』のような内容が、真実かどうかというのはあくまで、自分も実際にそっちへ行って見てくる、という以外に「証明」はありえない。その霊的情報が、ほかのソースから来る情報と基本的に一致する、ということは示せるけれども、それは絶対的な証明にはならない。ただ、現実問題として言えば、そういう超感覚を徐々に発達させるプロセスにおいて、ある程度の概観、地図的なものは絶対に必要になってくるし、そういうものとして、ある程度そういう伝聞による情報を集約して一つの見取り図を作っておくということも重要になってくると思う。その上で、モーエンがやっているような、実際に自分で探求してみる、という冒険者精神が求められるのである。坐っているだけではだめである。行動することだ(ただし、坐っているだけというのは比喩であって、坐っていながら精神は冒険に出ている、ということは可能だ)。

訳者あとがきで、こう書いてある。「人生をどのように生きるべきか、というようなことは色々な方がさまざまに語ってきているし、今も巷にはそういう人生相談というものが盛んに行われている。しかし結局のところ、人間は死んだらどうなるのかという点があいまいにされている限り、真実の解決策を与えることにはならないのではあるまいか」 まったく同感である。そこでこういう「アフターライフ」に関する情報があるわけだ。出すべきものは出した上で、どうとらえるかは各人の自由、ということだろう。「自由」とは重いことである。それは、地獄へ行く自由、天界に行く自由でもあるのかもしれないから。

臨死体験についてはかなり知られてきたが、あれだけだと、人間は死ねばみんな光の世界へ行く、みたいなイメージを抱くかもしれない。でもそれは必ずしもそうではないかもしれない。あれはあくまで「帰ってこれた人に共通している要素」であって、帰ってこなかった人の方が圧倒的に多いのだ。だからあれはあくまで帰ってきた人のデータであって、人間の死後体験一般に拡張して考えることはできない。結局そういう世界の探求がもし可能だとすれば、それはこういった通信とか超感覚とか、そういうものにならざるをえない。

こういう情報に対しては、心理学主義というか、これを人間の無意識からくるイメージなのだという解釈がある。私にいわせると、もうユング心理学などは中途半端なものになってきているので、そろそろご退場ねがってもいいのではないか。ユング心理学とは、実はオカルト的なもの(時代のリアリティ構成から逸脱した世界体験に関わるもの、という意味)を知的世界に受け入れさせるためのカモフラージュであったということはますますはっきりしてきている。間違っているわけではないが、あまりにもまわりくどい表現といわねばなるまい。これからの知的生産は、「リアリティの地平」をはっきりと見据えて、世界の彼方という領域への視線を持って行かねばならない。その点ミンデルはかなり進んでいる。まだ完全ではないがいいところはとらえている。ユングは基礎教養として、ミンデルをもっと論ずるべきだろう。ミンデルのパラダイムをもっと拡張していけば、リアリティの多次元性ということを射程に収めることもできるだろう。それと、トランスパーソナル心理学の中では、スタニスラフ・グロフが、こうした天界・地獄的な体験について詳細に述べている。ただグロフの立論も心理学主義の残りが認められないことはない。基本的に、宇宙とはどのようなリアリティ構成によってできているのか、という視角が必要なのだが、それは広い意味での形而上学ということになる。つまりすべての霊的経験をカバーしうる形而上学への要請が高まっているということではないか。

つまり、「高次の世界」への魂の憧れを基軸とした思想--それはオカルトではない。それこそが真性のプラトン的哲学である。つまりは、「新々プラトン主義」の思想である。それこそが生み出されるべきものだ。

ルネサンスの時代、新プラトン主義を復興させた、フィチーノとかピコ・デラ・ミランデーラなど・・こういったルネサンス思想には、かなり、実際に「あちら」とコンタクトする技術(それを「マギア」と呼ぶのだが)が含まれていたようだ。あれはある意味で現在の思想状況とかなり似ている。つまり、フィチーノなどを歴史的に「研究」するのではなく、この21世紀初頭にあって、フィチーノみたいに生きたとしたらどうなるか、ということだ。フィチーノらは伝統アカデミズムからはいかがわしいものと見られていたであろう。本当に未来を開いたのはどういう生き方であったか、ということである。

4877950028スピリットランド―地上と霊界の純愛物語
A. ファーニス A. Farnese 岩大路 邦夫
コスモトゥーワン 2000-04

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美的体験について

最近HMVでだいぶCDを買っている。そこにちょっと出ていたが、リヒテルによるバッハの平均律全曲が2291セット受注とか・・なにせ全曲四枚組で二千円ちょっとだからということもあるが、これは私にとっても重要な意味を持つCDである。実は最初にLPで持っていたが、その当時は六枚に分売されておりそれぞれ二千円以上したと思う(二十年以上前の話)。しかし針を落として第一巻のハ長調のプレリュードが流れはじめた瞬間、そのあまりの美に、魂がほかへ行ってしまうのだからしかたがない。いや、ほかに行ってしまうというのは正確ではないかもしれない。私は確かにそのとき「ある世界」を見たのだと思う。確かにそういう確信があったのだ。そして曲が変わるたびにまた違った世界があるのだった。それは言ってみれば違う惑星の風景を垣間見たようなすごく神秘的な感覚だった。それはワーグナーの「パルジファル」みたいな、「いかにも」という意識的な神秘主義ではなく、ただそこに存在していて、しかもそれがある世界への「窓」となっているというようなものである。私は、この平均律のそれぞれの曲に対応する世界があるのではないか、と想像した。それはいずれもこの地上よりもはるかに美しい世界で、人間は肉体を持ってそこへ行くことはできないが、しかしなぜか魂的にはその世界の感覚をかすかに感じることもできるのではなかろうか、という気分であった。そうすると、そういう地上ではない世界というのはたくさんあって、しかもその多数の世界が完璧に調和しているというのが宇宙なのであろうか。バッハの平均律は、その存在自体が、そのような宇宙ヴィジョンを表現していることは明らかだった。それはその当時、漠然とした感覚だったが、いまになってみれば、その宇宙ヴィジョンが決して間違ったものではなかったことがわかる。私はそこで、ヨーロッパ文化の根源にある宇宙的ヴィジョンに触れていたのである。というか、正確にはギリシアからヨーロッパ近代のヘルメス主義までつづくものだが。

ともあれ私は、宇宙とはそのような諸世界が並立し、それが完璧な美的調和を保っている--というギリシア的宇宙観の信奉者である(近代ではライプニッツなどにそうした直観が存在したわけだが)。それが現代ではいかに馬鹿にされていようともそれが真実であることに疑いを抱いていない。なぜならそのような真実は、多くの美的、霊的直観において直接に体験されうると思うからだ。平均律だけではない、モーツァルトだってそうした宇宙的ヴィジョンを直観することは容易なのである。

それはなんというか、「窓が開く」かのような瞬間が訪れるのだ。そのときははっきりと「そこにある」ことが見えるのである。そこにあるものははるかに地上を超えた至高の美である。そのとき、この地上にある美はすべて天界の美の反映として美しいのである、というプロティノスの言葉が正しいことが痛感される。わかるとかわからないとかよく言うが、べつにむずかしいことはない。たとえばある音楽を聴いて、そこで何かを感じ、そして作曲者はじめそれに関わった人すべてへの感謝とともに、「ああ、あなたはこんなにすばらしい世界を見ていたのですね!」と心の底から言うことができれば、それがわかったということなのだ。私は幸いに最近では週に数回くらいの感じでこういう直観を体験している。この間はグリーグのピアノ協奏曲の最後あたりで「窓」が開いた。そのときは本当に、その瞬間何かと通じたことがわかるのである。なぜそんなことがわかるのかは合理的に説明できないことだが、わかるものはわかるのであるからしかたがない。そこでかいま見るところの世界が、どれほどまばゆい光輝の世界であるか、それは残念ながら言葉で言い表すことができない。とはいっても、それは向こうだけがすばらしくてこちらはダメだということではない。そういうふうに考える人はやっぱり実際に体験していないで想像しているだけであるわけで、その光の世界はこちら側をすべて愛で満たすかのようなエネルギーを放射してくれるものである。そうなってしまえばすべては良いという言い方もできるわけである。ともかくその世界が「見える」ということはこの世がリアルである以上にリアルなことなのである。魂というのは本来すべてその世界を故郷としているのだから、本当はその世界を認識する能力は必ずすべての魂のなかに存在するはずだと思う。自分の生を与えている宇宙への愛を必然的に呼び起こすものが真の美である。

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