霊界探訪?? と新々プラトン主義
ファーニス『スピリットランド』はごっつく面白い本だった。これは霊界通信ものというジャンルで、かなり昔のものらしい。イタリアの貴族の死後体験談ということだが、この内容がなかなかすごい。低次の霊界に入ってしまい、そこを苦労して抜けて、今度は自分が「地獄レスキュー隊」をつとめながら修行をかさね、徐々に高い階層に登っていく、という話である。霊界通信ものとしてはかなり出色である。地上に、魂のレベルが高い女性がいて、彼女が彼に対して送っている愛が、彼を低次の階層から救い出し、天界に導いたということである。しかし、地獄レスキューの叙述は、下手な映画よりもよっぽど面白い・・と言っては不謹慎かもしれないがそうなのだ。ダンテの「神曲」はちょっと想像っぽいがこちらはリアルですからね。私はほかにも地獄探訪記を読んでいるが、だいたい基本は同じである。東洋も西洋もそれほど違いはないみたいである。(そういうものは「リアル」ではない、という考えもあるかもしれないが、私は基本的に、人間が体験することはすべて現象として発生したという意味で「リアル」であると考えている。ただそのリアリティがどの程度共有されているか、ということしかない。その意味で現象学は「ラジカルな経験主義」の方法論として活用できる。この話はまた著書のなかで詳しく書く予定)
キリスト教でも仏教でも、ほかの宗教でもたいていは天界と地獄というイメージがある。それはたぶん、魂の体験としてリアルなものが核にあって、それにいろいろな想像や憶測がまつわりついて形成されたものだろう。つまり、芯にはリアルなものがあるが、かなりゆがめられ、不正確な姿で伝わっているのがこれまでの宗教だった、と言えまいか。徐々に、そういう憶測に基づく不正確なものが払拭され、しだいに真実が姿を現してくるのだろうか。これからの時代、そうなっていかなければならないだろう。
それにしても『スピリットランド』を一読して、いちばん印象に残ることは、なんと言っても、人間には「向上しよう」という魂の思いこそがもっとも重要なことだ、というテーマである。つまり、善なるもの、美なるもの、真理へ近づいていこうという意志である。それ以上に大切なものはないのだ。地獄にうごめいているのは、そうした志を全く喪失してしまった者たちなのである。自分を浄める、高い世界への憧れを持つということがどんなに大事なことなのか。そういえばシュタイナーなどもそれがいちばん最初に来るべきことだと言っていた。思えばそういう高い世界への志というものが哲学の原初でもあったはずだ。いま、思想の世界はその志を喪失して久しい。それがなければしょせんはすべて「お勉強屋さん」の世界でしかないのだ。そういえば竹田青嗣の言う「エロス」というのも、プラトン的意味での「より<ほんとう>の世界をめざす志向」として理解されているので、その限りでは多少、ポイントに近いところにはある。現象学の解釈についてはかなり疑問もあるけれども、多少はいいところもあるということか。
『スピリットランド』が描くのは、現実にこの宇宙には「善と悪の闘争」があるということである。特にこの地上世界は、人間の魂をめぐって、神的なものと魔的なものが争奪し合う世界だということだ。人間は魔界に転落することもできれば、天界に上昇することもできる。魂のあり方によってその運命が大きく変わってくる。これはまさに、プラトンが「パイドロス」で描いている、善と悪との二頭立て馬車である。もっとも、闘争といっても、スターウォーズみたいに、悪を武力でやっつけてしまおうというのではない。それはこの善悪の闘争ということをきわめて地上的に限定された姿でとらえた結果で、これではジョージ・ブッシュと同じになってしまう。悪との闘争というのは、あくまで光・愛の力によって行うものだ。『スピリットランド』ではそういう光の戦士たちである「同胞団」の活躍が描かれている。それはなかなかカッコいいものがある。
そう考えてみると、たとえば、「ふつうの子供」だったものがいきなり殺人を犯すなどという事件は、何か魔的なものの影響があったのではないか、とも思われる。その子供を少年院などに入れても何の解決にもならないだろう。だが、そのような「外側」から地上世界へどういう影響があるものなのか、そういうことは何もわからないまま必死に七転八倒して生きねばならないのが、この地上的人間の持つ「プログラム」ということなのであろうか。・・だが、それも過渡的なもので、いつかは真実が明らかになっていくのではないか、と思うのだが。「命の大切さ」を教えることもたいへんけっこうだが、「魔的な影響からの防御方法」を学校で教えたりする時代が、23世紀くらいになったらやってくるのだろうか?
現状においては、そういういわば超感覚を発達させている人が少数派である以上、そういう人には実際に「見えている」世界を、見えていない人に説得的に証明する手段はない、と言える。学問によって可能なのは、ふつうのひとが「見えている」ということは、実在そのものを見ているのではなく、ただそのように見えるという「プログラム」によって見えている、ということを示すだけである。問題はその「プログラム」は固定したものではなく、可変的なものだということ--つまり、これまでは見えていなかったものが見えるようになるという可能性もあるということ、これを受け入れるかどうかということだ。それでも、この『スピリットランド』のような内容が、真実かどうかというのはあくまで、自分も実際にそっちへ行って見てくる、という以外に「証明」はありえない。その霊的情報が、ほかのソースから来る情報と基本的に一致する、ということは示せるけれども、それは絶対的な証明にはならない。ただ、現実問題として言えば、そういう超感覚を徐々に発達させるプロセスにおいて、ある程度の概観、地図的なものは絶対に必要になってくるし、そういうものとして、ある程度そういう伝聞による情報を集約して一つの見取り図を作っておくということも重要になってくると思う。その上で、モーエンがやっているような、実際に自分で探求してみる、という冒険者精神が求められるのである。坐っているだけではだめである。行動することだ(ただし、坐っているだけというのは比喩であって、坐っていながら精神は冒険に出ている、ということは可能だ)。
訳者あとがきで、こう書いてある。「人生をどのように生きるべきか、というようなことは色々な方がさまざまに語ってきているし、今も巷にはそういう人生相談というものが盛んに行われている。しかし結局のところ、人間は死んだらどうなるのかという点があいまいにされている限り、真実の解決策を与えることにはならないのではあるまいか」 まったく同感である。そこでこういう「アフターライフ」に関する情報があるわけだ。出すべきものは出した上で、どうとらえるかは各人の自由、ということだろう。「自由」とは重いことである。それは、地獄へ行く自由、天界に行く自由でもあるのかもしれないから。
臨死体験についてはかなり知られてきたが、あれだけだと、人間は死ねばみんな光の世界へ行く、みたいなイメージを抱くかもしれない。でもそれは必ずしもそうではないかもしれない。あれはあくまで「帰ってこれた人に共通している要素」であって、帰ってこなかった人の方が圧倒的に多いのだ。だからあれはあくまで帰ってきた人のデータであって、人間の死後体験一般に拡張して考えることはできない。結局そういう世界の探求がもし可能だとすれば、それはこういった通信とか超感覚とか、そういうものにならざるをえない。
こういう情報に対しては、心理学主義というか、これを人間の無意識からくるイメージなのだという解釈がある。私にいわせると、もうユング心理学などは中途半端なものになってきているので、そろそろご退場ねがってもいいのではないか。ユング心理学とは、実はオカルト的なもの(時代のリアリティ構成から逸脱した世界体験に関わるもの、という意味)を知的世界に受け入れさせるためのカモフラージュであったということはますますはっきりしてきている。間違っているわけではないが、あまりにもまわりくどい表現といわねばなるまい。これからの知的生産は、「リアリティの地平」をはっきりと見据えて、世界の彼方という領域への視線を持って行かねばならない。その点ミンデルはかなり進んでいる。まだ完全ではないがいいところはとらえている。ユングは基礎教養として、ミンデルをもっと論ずるべきだろう。ミンデルのパラダイムをもっと拡張していけば、リアリティの多次元性ということを射程に収めることもできるだろう。それと、トランスパーソナル心理学の中では、スタニスラフ・グロフが、こうした天界・地獄的な体験について詳細に述べている。ただグロフの立論も心理学主義の残りが認められないことはない。基本的に、宇宙とはどのようなリアリティ構成によってできているのか、という視角が必要なのだが、それは広い意味での形而上学ということになる。つまりすべての霊的経験をカバーしうる形而上学への要請が高まっているということではないか。
つまり、「高次の世界」への魂の憧れを基軸とした思想--それはオカルトではない。それこそが真性のプラトン的哲学である。つまりは、「新々プラトン主義」の思想である。それこそが生み出されるべきものだ。
ルネサンスの時代、新プラトン主義を復興させた、フィチーノとかピコ・デラ・ミランデーラなど・・こういったルネサンス思想には、かなり、実際に「あちら」とコンタクトする技術(それを「マギア」と呼ぶのだが)が含まれていたようだ。あれはある意味で現在の思想状況とかなり似ている。つまり、フィチーノなどを歴史的に「研究」するのではなく、この21世紀初頭にあって、フィチーノみたいに生きたとしたらどうなるか、ということだ。フィチーノらは伝統アカデミズムからはいかがわしいものと見られていたであろう。本当に未来を開いたのはどういう生き方であったか、ということである。
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