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「ゲロンティウスの夢」とスピリチュアリティー

この間、「わかっていない人は語ってはならない」などと書いたが、そういってしまうと自分で自分を縛ることにもなるわけで、究極意識に達していなければ一言も語ってはいけないということになると、スピリチュアルな言説というものはほとんど成立しなくなってしまうだろう。それに、ウィルバーがそう言うからには自分はほとんどすべてを知ったという前提でなければならないわけで、それは果たしてどうなのだろうか、という問いが生じる。たしかにある程度のことはわかっている人にはちがいない、しかし、それは昔から言われている「無上のさとり」、神人合一の段階を指すのであろうか。私は、ウィルバーはそこまでは行っていないのではないかと推測するのである。というのは、この数十年というもの、急速に霊的文献に人々が接する機会が増えてきているが、それらにだいたい共通している要素と、ウィルバーの理論とは必ずしも合致していない部分があるからだ(具体的には、アストラル界=微細界と物質界との関係などの議論が、うまくかみ合っていない。それとこれは個人的なことだが、私がウィルバーをそれほど好きではないというのは、私はキリスト教的なものも好きなので、ウィルバーが西洋人であるにもかかわらずキリスト教的霊性に背を向けているようなところがなじめないということがある)。

ここの読者も、最近いわゆる精神世界と呼ばれているジャンルにおいて、宇宙の構造とか死後の経験などについていろいろな情報が出ており、それは必ずしも単一のグループからではないにせよ、そこにはある程度の共通性が見られることに気付いていると思う。それはシルバーバーチなどのスピリチュアリズムであったり、インドや日本の「霊覚者」(と思われる人)の言っていることであったり、あるいは一般の人々が何らかの形で「のぞいてきた」ものであったりする。それらをすべて「幻想」の一言で片づけることはあまりにもたやすいが、結局それは、そう言う人はこれらの情報とまともに向き合いたくないということを示しているだけで、そこに何らかの根拠や証明があるわけではない(そもそも「何が幻想なのか」ということは哲学的な難問であって、そのように簡単に言ってのける人はこの世界の本質について真剣に考えたことがないことを示している)。とりあえずそういう情報というのは「現代の神話」と言ってよかろう。そして私たちは神話を信じる権利もあるわけである。それはユングが主張したことであるし、また『構造主義科学論の冒険』で出てきた「恣意性の権利は科学的理論に優先する」という公準を持ち出してもよい。科学が描く唯物的実在論にべつに哲学的根拠がないのであれば、私たちは何を信じるも自由なのであり、そこで、それならばこの現代の神話において生きてやろう、と考えることも自由である。これは実存的決断なのであって、べつに理論的・合理的に要請されるようなものではない。ただそれを間違いであるとか幻想であるなどと言う権利が他人にはない、というだけである。そういう権利があると思っている人が多いということが問題なのである。「意識の死後存続」を信じることがオカルトであるなどというのは全くの妄言、暴言であるということである。スピリチュアリティーに関して知的活動が役立つのは、そのような「信じる権利」を守り、妄言・暴言を許容しないという思想的環境を整えることにあるのかもしれない。

こんなことを考えたのは、エルガーの大作オラトリオ「ゲロンティウスの夢」を聴いたからである。これは言うなれば「臨死体験もの」である。エルガーは「死んだらどうなるのか」というのをこういう風に理解していたのか、ということがわかる。それはもちろん、時代的に、かなりキリスト教の枠組の中にはまってはいる。しかしなかなかどうして、かなり、真実に迫っている部分もありそうだ。ゲロンティウスは死の床で恐怖におびえるが、そこに天使が来て慰め、魂を送る。ゲロンティウスの魂は、肉体から解放されると軽々とした気分を覚える。そして天使に導かれ、「裁きの部屋」に入る。そして一瞬、「絶対なるもの」のヴィジョンを見るのである。それは巨大な閃光のようなもので、それが音楽で表現されている。ゲロンティウスはそして煉獄に行くことになるが、煉獄での修行を経てまたその神のところへ行ける日があることを知り、希望を胸に抱くのである――というような話である。詩はたしかにちょっと古いところもある。しかし、さまざまな情報と比較すると、次のところはかなり一致する。
1. 死の床では天使的存在が現れる。
2. 肉体から離脱すると身の軽さを感じる。
3. 一瞬、強烈な光と出会うことがある。これは、「チベットの死者の書」で言っている「クリアー・ライト」のことだ。
4. 煉獄へ行くというのは、つまり、神の光との合一でも、また地獄的な領域でもなく、その中間階層へ行くということである。実は、私たちの大部分は、中間界に行くことになるわけである。もちろん、キリスト教の煉獄というイメージはかなり限定されてはいるが。
というわけで、キリスト教的な限界はあるが、大枠では、死後に起こることをある程度反映しているのではないか、と推測できるのだ。

「ゲロンティウスの夢」はたしかに傑作である(聴くのは疲れるが)。クライマックスの「神の光」の一撃はかなり衝撃的だ。まあ、神学的に言えば、そういう光は神そのものを見たのではなく、神に発出するエネルギーのようなものであろうが、そういう細かいことはいいだろう。最後の曲も浄化された美の世界である。ボールト指揮の録音はかなり前のものだが、最近のリマスター技術というのはたいしたもので、合唱も驚くほどクリアである。ペンギン・ガイドで「ロゼッタ」をもらっているだけある見事な演奏である。そのほか、ヒコックス、バルビローリ、ヒルなどの演奏が評判いいようである。ヒルのナクソス盤をあげておく。

B0000014APElgar: The Dream of Gerontius
Edward Elgar David Hill Waynflete Singers


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ヨーロッパではずっとこうした宗教曲、つまり霊性をまともにとりあげた音楽作品が作られ続けている。それは最近になってもタヴナー、ペルトなどがいるわけで、神とか魂についてまともに向き合うという文化伝統は決して死んではいない。逆に言えばニーチェの「神は死んだ」というニヒリズムの宣言は、それだけ深刻なのであり、神がいないというのは実に大変なことなのである。それをどこかの島国のインテリなどは、神のことなど一度も考えたことがないくせに、ポストモダンがどうのこうのと表層ばかり追いかけるというのは、その腰の軽さにいささかあきれてしまう。特に最近思想哲学関連の新書などが出るが本当に内容が軽い。神がいなくても平気だというのはどういう感性なのか、私には理解できない。逆説的だが、そういう人にニーチェがわかるはずがないと私は思う。もちろん神と言ってもキリスト教的イメージの神である必要はない。問題は、「神について考えるというのはいったいどういうことであるのか」を理論的だけではなく「感性的」に理解できる資質ということである。

私は音楽からスピリチュアルな感覚を感じ取ることは十分に可能であると思うが、宗教曲というジャンルの中で、特に私が傑作だと思うのは次のようなものである。

モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」(時空間を超越する感覚あり)
J・S・バッハ「ミサ曲ロ短調」(受難曲よりこちらのほうがよい)
ヘンデル「メサイア」(私は、このリストの中でもベストだと思います)
モーツァルト「レクイエム」(特に浄めに効く。9.11のあともこれが演奏された)
メンデルスゾーン「エリヤ」(知られていないが、ものすごい作品である)
エルガー「ゲロンティウスの夢」(というわけで、ランク入りである)

べつに当たり前のリストである。このほかにも、宗教曲ではないがハイドンの「天地創造」も神への賛歌であり、すばらしくスピリチュアルな曲である。私がここでスピリチュアルというのはべつにむずかしいことではなく、単純に、高いエネルギーが流れ込んでくるという意味である。私は神というものをエネルギー的に理解しているのである。そして、「高いエネルギーを感じるというのはどういうことなのか」が少しずつわかるようになるということが霊的進歩だと思っていて、そのトレーニングとしてこういうエネルギーの高い音楽を聴くことが早道の一つであると考えている。感じるようになったら、それを今度は自分から発出していくような練習もするわけである。

ラディカルな経験主義

講義が始まったが、準備の出来ていない人にあまりコアな話はするつもりない。私がとりあえず確認したいことは、「絶対に確実と言いうるものは、世界が現象しており、それを経験する私が今ここにあるということだけ」ということである。それが近代哲学で得られたただ一つの(といってもいいが)重要な結論である、というのが私の理解である。そのような私と世界現象を可能にしている「地平」が問題となり、それを可能にせしめている、不可視の「X」(エックス)が視野に入り始めた・・というのが、ハイデッガーであり、アンリであり、新田義弘なのだ、というのが、私の哲学理解を圧縮した結論なのである。しかしこれは本当に「不可視」なのであろうか。こうした地平ではなお「こちら側」に立って予感を感じ取るというところまでしか行けない。それを超えるためにはその「X」が自己限定したものがこの私なのだという言い方になるしかないが、これはその「X」を実体化する危険が潜む。当然西田哲学にしてもそうなるはずである。ウィルバーのシステムも、最初に「これは究極から見ればウソだよ」と断った上でこれを思い切り実体であるかのように扱っている、そういう意味で哲学ではなくて形而上学というカテゴリーになる言説であろう。しかし私は、これはどうにも仕方がないことではないかと思う。言語で語ろうとする限りどうしてもそうなるのだ。それよりも、実際に、自分自身がはっきりとその限界に挑もうとする意思を持ち、それを実践することが重要だ。そのようにキモが坐っているということが思想家には求められる。坐禅を実践しながらやっている人が京都学派にはいるが、その姿勢は少なくとも認めることができるだろう。

話があっちへいったが、ともかく「今ここで現象を経験している」ということのみが疑えないことで、それ以外のものは幻想であるのかもしれないということ。であるとすれば、安易にある経験のことを幻想であるとは呼べないことになる。きのうとりあげた池田清彦の『科学とオカルト』がいいかげんな文章だというのは、「今ここでの現象の経験とそれを経験する私以外に確実なものはない」という思想的な立場を前半では肯定していながら、オカルト論になると、「こういうことは幻想に決まっている」などという文が出てくることだ。しかし、私とその経験のみが確実であるというなら、他者の経験を「幻想」と呼びうる根拠はどこにあるのだろうか。それは多数者の共同的リアリティと一致しないというにすぎないだろう。こういうところが、つきつめて考えていないところである。

それと、「人間は死ぬと決まっているということがわかったことが現代の最大の特徴である」という文もまったく妄言というしかない。私が死ぬということはこれまで私に現象した世界には存在しない以上、それは論理的に、確実な知識とは言えないのである。ただ私は、他者において、肉体機能が停止すると通常のコミュニケーションが不可能になるという事態を経験できるに過ぎない。その事実から死について推測しているだけなのだ。要するに、そのラディカルな現象学的立場が何を意味するのかを池田は本当にはわかっていないわけで、それを都合のいいところだけ使って他のところではいつのまにか世間的常識を無批判に持ち込む議論をしているわけだ。

現象学的立場は「ラディカルな経験主義」に帰結するのである。つまり、「何であれ、あなたが経験したものは現実である」ということだ。ただ、その現実が他者とどの程度共有されているのか、ということしかない。

だから、たとえば「超感覚的知覚」について言うなら、もしそれが実際にわかっていないのであれば、それは「わかっていない人によるわかっていない人のための議論」にしかならないのであって、実際に経験していないものを「こんなもんだろう」と勝手に推測しておいて、それがいいとか悪いとか言っているのはまったくの無駄話にしかならないわけである。「わかっている人だけが集まって話し合えばいいんだよ」ということ、これは実はケン・ウィルバーの方法論のカナメである。「ぶっちゃけて」言えばそういうことなので、彼は、「わかっていない人なんて相手にする必要はない」と断言しているのである。これはよく読めば本当だとわかるだろう。彼は、わかっていない人を説得・論破するための議論をしているのではないのだ(そういう誤解をされがちだが・・いや正確には、「わかってない人は口を出すな」ということは説得したいと思っているのであろう、そして具体的議論はわかっている人だけでやろうと考えているのだろう)。私はウィルバー批判者だと見られているかもしれないが、それは宇宙論・発達論に関することで、認識論に関しては彼の功績を高く評価しているのである。

池田清彦は駄文も書くということ

ついでに、池田清彦の『科学とオカルト』という本ものぞいてみたのだが、こちらの方は、科学論の部分はともかく、オカルト論はどうもイケマセンねえ。ちょっと勉強不足がはなはだしいというか。こうなってはタダのオッサンに過ぎないというか。村上陽一郎なんかは「魂のリアリティ」に多少敏感な感性を持っているが、この人にはそういうのはまるでない。なんというか基本的な「気品のなさ」が、こと魂に関する議論になると目についてくる。どういう点がいけなかったというのはアマゾンのレビューに書いてしまったので(匿名だが)数日中に出ると思う。まあ、魂のリアリティというものがわからない人はどのような議論をもってくるのかという知識は得られるが、それ以上のものではない。

簡単に言うと、池田は、神秘体験のようなものは人間に起こりうる現象だと肯定はするのだが、ある種のトレーニングによって超能力が身についたりというのは幻想である、それはコントロールを増大したいという自我的欲求だという論点である。それで例によってオウムをターゲットにするが、これはまあ凡百のオウム論の域を出ない。どういうことかというと、そもそも伝統的なヨーガとか、あるいは禅宗やチベット密教にしたって、みな「システマティックなトレーニングによって高次の意識を得ることが可能だ」という立場に立つのだが、そういうことを何も勉強していない。高次意識ではなく超能力にターゲットを移したオウムというのはそうした霊的伝統のパロディーというか堕落した形態であるが、そういう宗教史・宗教論的なリサーチをほとんどしないまま、単に思いつきを並べているだけのレベルだということだ。世の中のオウム論というものの大半は、そういう伝統の立場についてほとんど知識がなく、最小限の研究もしないまま、自分はそれを論じる資格があると思いこんでいる人々によってなされているように思う。そのへんにはっきり言えば傲りがあると思うし、人類のもっている「魂の探求への歴史」への最低限の礼儀も欠いたふるまいだということだ。池田の論法に従えばそういった霊的宗教の全体がオカルトであり幻想であるということになるが、そのような判断の論拠ははっきり示されておらず、ただ霊的体験のトレーニング体系などというものはあり得ないという自分の常識を一方的に主張しているに過ぎないのである。

つまり、そういう宗教論的な知識がないために、オウムを斬るつもりが、実はその批判点は多くの宗教にもあてはまるものになっている。しかし、宗教とカルトがどのように違うのかという問いに明確に答えられない。人間の宗教現象はちゃんと勉強しなくても論じられるものだ、という発想そのものがアマイのである。もう少しいえば、

自分自身が真剣に「神」と格闘したという経験もない者が、オウムについて何事か言えると思ってるのか?

と、いうことである、要するに私の言いたいことは。そういう「腰の軽さ」を見るのがやりきれないのである。大変残念ながら、池田清彦のオカルト論の部分は、駄文であった。

私が「気品がない」という「美学的批判」をしたのはどういうことかというと、池田は、自分はオウムなんかに走るほどバカではない、という思いを持っていることが感じられるからのである。オウムに行った人を自分より下に見ている。自分はもっとものがわかっているという前提で、見下しているのである。そこには、共感をした上で、どこで間違ってしまったのかを真剣に探求するという姿勢がない。こういう、自分を高いところに置いた上で、他人を裁くことに快感を求めているようなところが、世のオウム論者には忍び入ってはいないだろうか。そこに、現代の「魂の危機」に対して切迫した危機感を持っているような論述こそ、必要なのではなかろうか。ああ、こういうオッサンってほんとにイヤだ、と思った。その波動の低さにガクゼンとしてしまった次第である。そういうことを「気品がない」と言っている。これは悪口ではなくて、「美学的批判」のつもりなのだが・・

・・と、思わず槍玉にあげてしまったわけであるが、考えてみると、たしかに、「霊的現象は、ある程度までは、ある技法によって反復可能である」という論点は、世のなじみがないとも言える。実は、これはケン・ウィルバー、ひいてはトランスパーソナル心理学の基本的な論点でもある。つまり、ある「実践体系」が提示され、それに従えばある程度は反復可能な形である意識変化が起こりうる、そのことが自然科学における「再現可能性」と平行しており、それゆえ、それは霊的体験(そしてその体験で経験されうる世界領域)についての「検証可能性」を示している、というのがウィルバーの意見である。こうなれば、ポパーのいう「反証可能性」という科学の要件を満たすことになるのだ・・というようなことが彼の『科学と宗教の結合』の論点である。

まあ私は、そこまでうまくゆくかなあ・・という疑問もあるのだが、「ある程度までは」ということなら、ある実践体系によりある程度同型の経験、変化が起こりうることは認められると思う。

つまり、「ったく、この程度のことは勉強してから言えよ」ということである。知った上でそれに反論するならまだしも、まったくの勉強不足なのであるから。シロートが勝手なことを言っているのを本にして売るのはやめてほしいものである。逆に言えば、こうした分野できちんとした知識に基づいて論を展開しているものがほとんどないじゃないか・・ということでもある。宗教学者は何をしているか。・・えっ、「おまえが書けば?」という声が来そうだ。たしかに私もそろそろ何か書こうかなと思い始めている。世の中にまともな論が少なすぎると思う。

『構造主義科学論の冒険』をめぐって

池田清彦『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)を読む。といっても、数式など出てくるところは斜め読みだが。内容は、まあまあ。要するに科学が前提としている素朴実在論的なパラダイムは根拠がないものであるという主張だ。カントやフッサールなどを取り上げてそれを論じているところは、なかなかわかりやすく、ここまで易しく書けるというのはちょっとした才能である(とは言っても、大学一年生レベルにはまだ難しいが)。科学は、他の認識と同様、「同一性」の発見であるという。ところで、ではその「同一性」はなぜ生じてくるのか、つまり現象学的な言い方をすれば、何故、世界がまさにこのようなディテールをもって実在しているように私には信憑されるのか、という問いについては、どうもあまりはっきりしない。そこでプラトンのイデア説を批判するのはいいのだが、その存在信憑が発生する根拠については、はっきりしないがソシュール的な「恣意性」という考えに傾いているようにも読めるのである。ただ、人間が考えることはだいたい似たようなものだ、ということで、人間という存在に内在する一種のパターンがあるような言い方もしている。もっともそれではその内在する構造はイデア的なものではないのか、それが存在する根拠はどこなのか、そもそも「人間」という種はアプリオリに存在すると考えているのか、・・といった、哲学的なツッコミを入れる余地はかなりある。つまり哲学としてはまだ徹底して考えられているものではないので、そこまで期待をしてはいけないが、とりあえず、一般に流布している誤解、つまり「外部世界が実在することは科学的にも証明されている」などという考え方が実は大ウソである、ということだけはかなり伝わる本であると言えよう。科学理論もある意味では「恣意的」なもので「真理」ではないということ。これはまあ、村上陽一郎その他相対主義的科学論ではおなじみだ。

わかりやすく言えば、地球が太陽の周りをまわっている、というのは普遍的真理ではない。世間がみなそのように考えるようになったから、それが真理として通用しているのだ、ということである。

最後の方ではこうした、フィクションであるはずの「科学の真理性」が権力的にも作用するということを述べている。著者の主張は要するに、「これが科学的な考え方だ、どうだ参ったか」という言い方をすることは許されないということ、いいかえれば、「科学的だかなんだか知らないが、私はそんな考え方は嫌いだから、ヤだね」と、それを受け入れることを拒否する権利があるのだ、ということだ。その際、べつにこっちも科学的、論理的に「反論」や「反証」をしなければならないという義務はまったくなくて、ただ、「私はそういうのは嫌いだからイヤだ」と言う権利を市民は持っているのだ、ということである。これを池田は「恣意性の権利は科学理論の正当性に優先する」といっている。すなわち「個人の恣意性の権利に抵触するときは、科学的という枕詞の妥当性をチェックすることなく拒否できるという原則を、社会理念として普遍的にすることはより重要であります」(242) 私もこれはとても重要なことだと考える。つまり科学の社会的権威をもっと低下させることが必要なのだ。人々は無意識的、意識的な科学への劣等感により、科学が前提としている素朴実在論が正当なものと思いこみ、その結果、自分の意識の存在自体が派生的なものであるかのごとき錯覚に陥っている。このことが、現代においてスピリチュアルな感覚というのがアンダーグラウンドに追いやられている最大の要因であろう。本当に確実に存在すると言えるのは私が経験する現象とその「私」が存在しているという事実だけである。フッサールはデカルト主義をそのように徹底化したが、それはすべての出発点となりうるのである。

本には書いていないが、こういうことであろう。たとえばあなたが何かとんでもない霊的な体験をして、あっちへ行って帰ってきたとする。だが、現行の科学のパラダイムではそういうことはありえないので、それは妄想であり、精神病ではないかということになる。そのようなレッテルを貼られ、下手をすれば強制入院なんてことになれば、これは立派な人権侵害であり、権力の濫用である、ということになるだろう。そもそも精神医学なんてものは、「そういう考え方でもって治療をすれば、たまには病気が治ることがあるかもしれないので、まあ存在するのもいいだろう」という程度のものであって、もしかすると治せないところか逆にひどくしたり、病気でない人を病気だと言い張ったりすることもあるかもしれないもので、そういうものが麗々しく「セイシンカンテイ」だという権威を持って流通し、それで裁判の結果なんかも左右されてしまう、などということはかなり恐ろしい社会ではないかと思う。そういう状況はヤバイということだ。特に医療分野というのは、もっとも専門家独裁がはなはだしい領域であろう。

ともあれ、相対論のところとかはちょっと難しいが、全体としてかなり読むに値するものではあった。

4061593323構造主義科学論の冒険
池田 清彦


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20世紀のシンフォニー

磯田健一郎『ポスト・マーラーのシンフォニストたち』を入手。これは、20世紀の交響曲の紹介本である。20世紀といっても無調で無定型の不可思議な音塊で音楽と称しているものではなく、わりとふつーに聞ける音楽もあるぞ、というコンセプトである。シベリウス、ヴォーン=ウィリアムス、ショスタコーヴィチになぜかアイヴズが大きく取り上げられていて、それからエルガーやニールセン、等々で伊福部昭、吉松隆まであるという趣向。絶版だが欲しかったのでマーケットプレイスで定価より高く出ていたのを買ってしまった。送料併せて1600円近くである。で、書き方はかなり軽めのタッチで、全部が網羅されているわけではないので、まあ定価の980円なら妥当だろうが、1600円出すにはちと高いかな、という印象もある。

私はショスタコーヴィチもヴォーン=ウィリアムスも少し聞いてみたがどうもちと相性が悪い。ヴォーン=ウィリアムスの「田園交響曲」あたりは悪くないけれども。この本を見て聴いてみようと思ったのはニールセンとスクリャービン、伊福部昭あたりだ。

私は、音楽とは基本的に「存在感覚」であり、また「宇宙感覚」でもあると思っているので、同時代の人間がどのような表現をしているのか、それにはやはり興味があるのだ。

最近はエルガーの一番にハマり気味で毎日聴くが、これには魂の高貴さといったものがある。まさに「成熟」とはこういうことを言うのだ、という感じである。私はハンドリー盤なのだが、ナクソスのディスクも三つ星になっていたので、それをあげておく。

B00005F475エルガー:交響曲第1番
ハースト


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それと、スピリチュアル系な現代曲ということならば、私に思い浮かぶのは黛敏郎の「涅槃交響曲」である。これは傑作である。しかも、なかなか聴きやすい。鐘の音が幾重にも交錯するところなどめくるめく「インドラの網」の世界を連想してしまう。

見渡してみると、メシアンはじめ、最近のタブナー、ペルトなどはキリスト教に回帰しているし、ラウタヴァーラにはどこかフィンランド的な「自然」が見える。結局は「魂の根拠」を自分の中に見出すしかない、ということなのだと思うが、それならば、「涅槃交響曲」のように「内なる東方」へ向き合うことは日本人にとって避けて通れないことだと思う。その意味でこの作品は突出していると思う。岩城宏之のディスクは安いが、なかなかけっこうな演奏である。

B000066ILB黛敏郎:涅槃交響曲
岩城宏之 東京都交響楽団 東京混声合唱団


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最近の本、マンガ

少し、本の話を。

池田清彦『さよならダーウィニズム』。ダーウィン進化論批判の本。ダーウィン進化論についてはヒューストン・スミスもいろいろ書いているが、これは生物学者によるものというので読んでみた。ダーウィニズムとは実体論であるとして、著者独自の「構造主義生物学」の視点から批判している。構造主義進化論だということで、今西錦司はその先駆だという。これはなんと二日間の口述をまとめたものということで、おそるべき促成栽培の本である。そのためいささか軽いし、どうも構成上よくわからないところがあり、たぶん同じ著者の他の本を読んだほうがいいのだろう。しかし基本的なアイデアとしてはおおむね納得できるものであった。実際、実体主義を抜け出している自然科学者などはほとんどいないから、そういう視点から進化論批判をしているというだけでも貴重である。ただ、構造主義とはいっても著者のパラダイムはどうやら丸山圭三郎あたりにとどまっているらしく、その点では物足りない。今西錦司の『生物の世界』にはモナドロジー的宇宙観があったが、そういう存在論的な問題には気がついていないらしい。まあ、科学者にそこまで求める必要はないだろうが。

また、科学の「真理性」についてもその相対化を論じている。これは、村上陽一郎はじめ科学哲学をかじった人には既に常識化された論点であるが、なかなかわかりやすいので啓蒙的にはいいであろう。科学論を論じたほかの本などもいいかもしれない、ということで著者の科学論、科学主義批判関連の本はいくつか取り寄せてみることにした。

著者は科学に潜むプラトニズム、つまりイデア説的発想について指摘している。DNA信仰というのはイデアの実体化されたものではないかというのだ。それはその通りだろう。ここで、「新々プラトン主義」を標榜している私が一言イデアについて言っておくと、私は、プラトンのようにイデアを永遠不動のものとは考えていない。それはむしろ、シェルドレイクの「形態形成場」的に捉え直されるべきもので、つまり、一定の相対的安定性を持つに過ぎないものであり、その形態形成場は各個体の経験からのフィードバックを得て変動してゆくものである。これは実は唯識の考え方に近いものである。したがって、私のいう新々プラトン主義とは、プラトン主義がイデアの固定化という方向へ行きすぎたものを、唯識的な「フィードバックによる漸進的変化」が存在するという形へ修正するということを含んでいる。こうしたアイデアの一端は既に『魂のロゴス』にも書かれている。・・それにしても、そろそろ新々プラトン主義を前面に出した次の本に着手したいところである。夏もけっこう休んでしまったが。

4062581205さよならダーウィニズム―構造主義進化論講義
池田 清彦


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シェルドレイクの形態形成場説についてよく知らない人には、喰代栄一『なぜそれは起こるのか』を勧めておきたい。さらに同じ著者による『魂の記憶』は、シュオルツの仮説を扱ったものだが、これは私が提唱している「意識場仮説」とかなり近いことを言っているもので注目に値する。

4763181351なぜそれは起こるのか―過去に共鳴する現在 シェルドレイクの仮説をめぐって
喰代 栄一


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さて、次の本はうってかわって、二ノ宮知子『のだめカンタービレ第13巻』。話の展開はゆっくりだが、孫Ruiがパリに登場したり、また千秋はついにあるオケの常任に就任することになったが、そのオケがとんでもないもので・・というような話になる。それにしてもこれ、全然クラシックを知らない人が読んでいるようだが、面白いんでしょうかね? 初めのころと比べて、ある程度の知識があったほうが楽しめるという要素が増えてきているような気がするが・・ それにしても千秋はややのだめに惹かれてきている模様・・以前のように「彼女」と言われてもムキになって否定しなくなったし、まあこういった二人の関係の微妙な進展ぶりは、ラブコメの王道路線といったところでしょう。ちなみにこの本、いまアマゾンで売り上げ4位だそうで・・峰竜太郎の絵が描いてあるしおりがオマケについている。それから千秋のCDデビューとか、キャラクターブック、セレクションCDブック、来年用ののだめカレンダーの予約販売など、キャラクターグッズも盛大に発売されているようです。千秋のCDを本当に演奏している「影武者」はどこのオケと指揮者なのか知りたいです。でもクラシック初心者にいきなりブラームス第一番はどうなのだろうか。

4063405605のだめカンタービレ #13 (13)
二ノ宮 知子


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次にはこれ、岡野玲子の『陰陽師12』である。
どうなのだろう? 漫画版「陰陽師」の人気は一時よりも落ちているのかもしれない。陰陽師の漫画版については以前にも書いたが、かなり霊的世界が「リアル」に描かれていて、それはどうやら岡野玲子自身にある程度の霊的感覚があるらしい、ということは、既に知っている人は知っていることだろう。第7巻からは原作を完全に離れたオリジナルとなってすごいワールドに突入していたのである。そのあたりの7~10まではひじょうにすごい世界だったが、私もこの前の第11巻になると少しよくわからなくなってきた。この最新の巻も第11巻の延長線上のようである。はっきり言うと、ふつうのマンガのつもりで読み始めると、何がなんだかさっぱりわからない。ストーリーもほとんどあってなきがごときものになってきた。面白いかどうかというと、少なくともふつうのマンガ、物語というレベルで「面白い」とは言いがたいのである。何か読んでいて異常に重いものがある。これは発売すぐに買ったのだが、そんな重い波動を感じていままで読むことができないでいたが、今度半分くらい読んでみて、やっぱり疲れた。まあこれは、岡野玲子が、既に私の理解できない世界に突入しているということなのかもしれません。しかしそれなら、ふつうにマンガを読む大多数の読者も置いて行かれているのではないかと思う。絵そのものはすごい。何か、時間の感覚がほとんど喪失しているのではないかという表現に感じる。まあ、「陰陽師」読んだことがない人はこの巻からは入らないほうがいいだろう。すぐにコアなものへ行こうと7巻から読んだりすることもやめて、すなおに第1巻から読むのが正解。

459213222X陰陽師 (12)
岡野 玲子


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ちょっと「魂的な感覚」の漂っているマンガを探している人、水樹和佳子の『月虹――セレス還元』をお勧めいたします! それが良かったら、大作『イティハーサ』を読みましょう。そこで、私がひそかに書いている「SH版イティハーサ最終章シナリオ」を読んでくれれば、言うことありません。

4150306613月虹―セレス還元
水樹 和佳子


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さらに、おまけ。最近買ったCDの中で「当たり」だったもの。ウォルトンのヴァイオリン協奏曲・チェロ協奏曲のカップリング。なかなか聴きやすく新鮮な響き。

B000026CUAウォルトン:ヴァイオリン協奏曲/チェロ協奏曲
ドン・スク・カン


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アマゾンでナクソス盤を買うには

ラウタヴァーラ「光の天使(交響曲第七番)」のナクソス盤のディスク、リンク先を入手しやすい日本流通版に変えておいた(記事は過去ログを)。アマゾンでナクソスを買うにはコツがいる。ふつうに naxos というキーワードを入れて検索すると輸入盤が出る。これだと値段はちょっと安いが、入手に時間がかかる場合が多い。日本代理店を通したディスクを検索するには、ナクソスではなく代理店名の「アイビィー」をキーワードにする。本当は「アイヴィー」なのだがなぜか「アイビィー」と登録されているのでそのようにする。こうすると取り寄せ時間はかなり短縮される。日本流通盤といっても要するにジャケットに日本語の帯・裏表紙がかぶさっているというだけのことで、日本語解説などはない。私はペンギン・ガイドでナクソス盤を調べ、それに星三つがついていると買うことにしている。それはけっこうたくさんある。なぜナクソスかというと、ここN市では輸入盤を扱う店などあるわけがなく、また日本盤さえクラシックなどほとんどおいてない。本屋は大きいのがあるがCDショップだけはまともな店がないのである。そこで大手のT書店という本屋にはなぜかナクソスのCDが大量においてあるので、私がCD屋に行こうとするとふつうはそこしかないのだ。たしかにこんな田舎町でウォルトンだのバックスだのというかなりマニアックなCDを買えるのはナクソスとT書店のおかげである。

アフターライフ探求シリーズ

依然としてエルガーが私的ブーム。今度は「交響曲第二番」と「ヴァイオリン協奏曲」、それに「コケイン」や「序奏とアレグロ」といったオーケストラ作品。特に交響曲には顕著だが、私には「海」が連想される。波が打ち寄せてはまた帰っていくのを眺めているみたいな感覚である。これを退屈と感じる向きもあるかもしれないが、頭を少しボーッとさせて音の波を聴くともなしに聴いていると、なんだかえもいわれぬ快適な波動に包まれるのである。というわけで、波打ち際に座って波をぼうっと見ているのが好きな人には合うかもしれない。その茫洋とした「満ち引き」の感覚がエルガーの特徴である。

さて久々に「アフターライフ探求シリーズ」である。この手の本を読んだのは久方ぶりだがこれは大ヒットであった。キャシー・ジョーダンの『死と呼ばれる誕生』 Kathie Jordan: The Birth Called Death: The remarkable story of one woman's journey to the other side of life だ。138ページの薄い本なので一気に読む。これは彼女が子供の時に経験した「あちら」の探訪記が中心となっている。彼女には何かミッションがあって、死んだ兄がガイドとして現れ、さまざまなあちらの体験を重ねるという話である。彼女の母親もそういうサイキックな人で、そういう体験をサポートしていたという。驚くのはそのときにはまだ子供であったにもかかわらず、すごい高い霊性を示していることである。そしてその探訪というのもものすごい高次元のところへ行っているのだ。探訪といっても、この世に近いあたりをうろうろしているだけのものも多いので、ほんとに奥深くまで行っているのはそんなにない。前に読んだ『スピリットランド』みたいな、地獄的な領域(アストラル下層)の探訪も興味深いが、それだけでは不十分で、やはりもっと光に満ちた世界の話こそ読まねばならないものだろう。それを読むこと自体が光を吸収することであり、いつかは自分で光を体験するための準備となるはずだからだ。

これまで学んだことからすると、この世の人間というのは本当にものすごく多様である。こういう霊的な話というのは、それを受け容れる準備ができていなければ、いくら言っても納得できるものではないだろう。こういう話を人にするというのは、馬鹿にし嘲笑する人がいることを覚悟の上で、いつかみなにわかる時が来るだろうという確信のもとに、反論や論破を試みず、静かに光を放ち続けていくという決意が必要なことであろう。科学というものの最大の強みは、「結果が出れば、たとえそれが気に入らなかろうと否応なく受け入れざるを得ない」ような形で知識が差し出されることだ。それは人類の知というものの中で科学が新たに獲得した画期的なことなのだが、残念ながらこういう手法は魂に関する知についてはまったく無力である(それをカテゴリー・エラーというのだが)。スピリチュアリティーを否定する人に「否応なく認めさせよう」という「論破への欲望」というものがあって、「霊性を学問で扱う」ことに魅力を感じたりするのも一つにはそれがあるのかもしれないが、それはまったく間違った考え方である。

その上で、いったい哲学というのは何だろうと考える。「あちら」のことを全く何も体験できないふつうの人間が、一生懸命考えたところでいったい宇宙の真理について何を知ることができるのだろう。哲学者として生きるということは、何かとんでもなくばかばかしいことで、それならもっと世の中の役に立つことを仕事にすべきなのではなかろうか。こういう哲学という行為自体に対する深い懐疑を抱いていないような鈍感な人間を、私は哲学者という名で呼びたくない。そのへんの哲学教授は「哲学史研究家」という名称で分類するのが妥当である。ハイデッガーとかそういう現代の一流と呼ばれる人にしたって、「あちらのことを何も体験できない人にしてはかなりがんばった」という程度のものではなかろうか? という懐疑が私にはどうしてもぬぐい去ることができないのだ。プロティノスやパタンジャリ(「ヨーガ・スートラの著者」)がはやっていないのも、ほとんどそれを理解できる人がいないからだろう。

私が考えるのは、中世とはまた別の意味で、「哲学は神学の侍女」ということである。その意味は、哲学とはあくまで補助手段であり、スピリチュアルな経験こそが主であるということだ。それは禅で、「お経というのはトイレットペーパーみたいなものだ」という言葉があるのと同じ意味である。つまり、間違った考え方や癖のために、霊的なエネルギーが通りにくくなっている状況を治療するために存在する知識システム、ということだ。その間違った思考の癖というのは、「リアリティというものは物質的なものが唯一のものだ」ということがまずある。この考えの誤りは、哲学で治療できる。そういう手段としてすぐれているものが現象学であり、そこを入り口として唯識などに入っていくのが、もっとも霊的なものに思想的に接近できる早道である。その唯識をもう少し拡張し現代化することを提唱しているのが『魂のロゴス』という本なのである。

1883991773The Birth Called Death: The Remarable Story of One Woman's Journey to the Other Side of Life
Kathie Jordan


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エルガーの音楽

きょうはエルガーにはまっていた。エルガーのコレクションを始め、届いたCDの中から、「威風堂々1~5・交響曲第一番」(Elgar: Symphony No,1, Pomp & Circumstance Marches 1-5. London Philharmonic Orchestra, Vernon Handley)。演奏はたいへんすばらしい(いちおう、ペンギンガイドでチェックしてから注文するので、滅多にはずれることはないが)。まず超有名な「威風堂々第一番」、これはやはり何度聴いても感動的。というか、これに感動できるのは精神が健康な証拠ではないかと思う。いいかえればこれがダメだという人はどこか精神に健全でない部分があるのではないか・・などとも思う。しかし第一番以外も高揚感のある曲だ。交響曲第一番の方はさらにすごい。なんというかエルガーの音楽には器の大きさとか、包容力のようなものがある。絶対にネガティブな波動が入らないので、基本的な安心感がある。というわけで私の中では既にドヴォルザークと肩を並べるくらいの存在になってきている(ドヴォルザークもまたきわめて健全な音楽である。ドヴォルザークは毎日六時前に起きて森の中を散歩していたという人で、そういう人でなければ表現できない世界があるのだ。「のだめ」にも出てきた交響曲第五番などその典型である)。

実は、私は音楽を聴くこともまたスピリチュアル・ワークであり得ると思っている。『黎明』というニューエイジ界で評判の高い本にも「音楽は喜びに満ちた悟りへの道となりうる」とか書かれていたようだが・・ 実際この世界はどこまでいってもきわまりはないのである。私が再生装置のことをうるさく言うのもほかでもない、そういう自分の経験からなので、つまり、音楽から得られるスピリチュアルな体験の質というものが、ある程度以上の音質でないと十分に得られないからなのだ。私は十万円くらいの投資で、それまで安いコンポの時に経験していたものの少なくとも十倍以上の何かがそこに現れるのを経験したのである。その程度のお金を惜しんでそれをいつまでも知らないでいるのはあまりにももったいないので、そういうことを言っているわけだ。なおこれはクラシックには特にあてはまるが、ほかのジャンルでも同様だと思う。

『椿姫』

また音楽ネタばかりなんだが、ゲオルギューがヴィオレッタを歌った、『椿姫』のDVDはすごかった。およそオペラのDVDは数々あれどこれほどまで完成度が高いものはそう滅多にお目にかからない。この『椿姫』のゲオルギューは、ルックス、声、歌唱、演技とも最高度である。ここまで完全無欠でありうるというのはどういうことだろうか。たいていオペラ歌手というものはなかなかルックスと歌との両立が難しいものであるのに。DVDのジャケット写真にもゲオルギューが映っているがこれは写真写りが悪くてちょっとおばさんぽい。実際の映像ではもっと若々しくて美人です! 『椿姫』ではあのゼフィレッリが監督したオペラ映画で、ストラーサスとドミンゴが出てるのもなかなかなんだが、ストラーサスはすごく美人ではかなげな雰囲気がいいのだけれども、歌唱の点ではあと一歩だった(それにしてもメトロポリタンの『ラ・ボエーム』で見たストラーサスは、『椿姫』の映像と比較してあまりの容色の衰えにガクゼンとしたのだった。特に第三幕でミミが死にそうな場面でアップになるのだが、その顔のアップはもう恐ろしいという部類であり、物質界の美ははかないものであるという真理を再認識させられるものがあった)。こうなれば、ゲオルギューのミミ(ラ・ボエーム)が見たい・・という欲望は今のところはかなえられません(映像ソフトなし)。「トスカ」はあるが、6300円という値段で・・ しかしゲオルギューがスーパースターであるという理由はよくわかった。このDVDでも、終演後のロイヤルオペラハウスは大興奮のるつぼと化しており、ほとんど怒号に近いようなブラヴォーの嵐である。解説によると、指揮者のショルティはリハーサルの段階で「これは大変な公演になる」と確信し、映像化の予定はなかったのに初日の一週間前に急遽BBCにかけあって録画してもらったのだという。それほどに非日常的なまでの公演なのである。ヴィオレッタだけでなくアルフレードもジョルジュもたいへんすばらしかった。

ともあれ、話も別に難しいところはないので、全然オペラなんて見たことない、という人でもこれは楽しめる。むしろここからオペラに入門するのもいいのではなかろうか。(ただし、テレビのスピーカーから音を出したりするような野暮なことはいけません。最低でも、コンポの外部入力につないで音を出すくらいのことはしてほしい。私は、ある人にワーグナーのビデオを貸したら、テレビの音で見たというので、「ちゃんとしたオーディオで音が出せるようになるまでもうソフトは貸しません」と宣言した(^^ゞ)

B000087EM0ヴェルディ:歌劇《椿姫》全曲
ショルティ(サー・ゲオルグ) ヴェルディ ゲオルギュー(アンジェラ)


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「光の天使」など

エルガーのヴァイオリンソナタを聴いた。なんというか、落ち着いた渋いめの音楽だが、私としてはなかなか好きな部類である。エルガーはほとんど知らなかったのでこれからいろいろ聴く楽しみができたということか。五嶋みどりのCDでカップリングされているフランクのソナタもなかなかのものである。これはチョン・キョンフアのも持っているが、五嶋みどりのほうが好きかなあ。

この夏は旅行もいかず、CDやDVD・ビデオなどでマインド・トリップ(というと何か聞こえが悪いが)という感じだった。精神というのは瞬時にどこへでも旅できるというのはたいしたものである。最近何となく変化してきたことは、あんまりこの世的な価値にとらわれなくなってきたというか、たとえば「成功すること」などをほとんど意識することがなくなったということである。自分の本拠が向こうにあるということもわかってきたし、いつかはそこへ帰るということも実感が強まってきた以上、世間にどう見られるかなどということより、この一瞬をどのように充実させるかが問題だという感じになってくるわけだ。まあ、また本を書くのもいいけれども、それは何というか、たとえば「北の国から」で五郎が石の家を少しずつ楽しんで造ったみたいな感じでやっていけばいいことであるという感じか(「北の国から」はこの夏のメインイベントであったのでついその比喩になってしまうが)。

それはそうと最近であった音楽の中でかなりショックだったのは、ラウタヴァーラの交響曲第七番「光の天使」かもしれない。ラウタヴァーラはまだ生きていて70代くらいのフィンランドの作曲家。この「光の天使」で一躍世界的に有名になり、いまはたぶんアルヴォ・ペルトとかジョン・タヴナーと並んで最も売れっ子作曲家であろう。こういう最近の人たちというのは、ひところのゲンダイオンガクとは違って、耳に優しい。ああいう一時期の無調、不協和音のオンパレードみたいなものは、もはや時代遅れに聞こえるからフシギである。鬼面人を驚かすことを目的とするようなある種の現代芸術というものは9.11で決定的に終わってしまった。これからは昔通りに、どれほど魂の奥深くまで到達できるかという「精神性」の勝負になってくる。まったく好ましいことである。そういうことを千住博も『美は時を超える』という本で書いていた。

で、「光の天使」である。もうタイトルからして私好みではないか。そうこれは、ウルトラ・ネオロマン主義というべき作風であり、90年代以降のラウタヴァーラはこの作風でブレイクしたのである。それはつまり人々はこういう世界をこそ求めているのだ、ということだろう。スケルツォの楽章は激しいが、その他の楽章はみなゆっくりとした神秘的な音が流れており、ときおりブラスが咆哮したりするのはブルックナーと似ているとも言えよう。基本的には宇宙的な神秘性という感じのもので、武満徹をブルックナー風にしたとでも言えばいいだろうか。これはかなりお勧めですね。ラウタヴァーラの「ヴァイオリン協奏曲」や「天使と訪れ」はいまひとつよくわからない部分もあったが。ともあれ私はあと数枚はラウタヴァーラを買うつもりである。「光の天使」のCDをあげておく(私が聞いたのは Ondine盤である)。(いちおうアマゾンのリンクがついているが、輸入盤はHMVのほうが安いこともある)

B00000378XRautavaara: Angel of Light
Einojuhani Rautavaara Leif Segerstam Helsinki Philharmonic Orchestra


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B00007FKQHラウタヴァーラ・交響曲第7番
コイヴラ


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「のだめ」人気爆発中・・らしい

エルガーのチェロ協奏曲を聴いてみたらけっこうよかったので、エルガーを少し集めるか、とも考え中。情報源の一つは、山尾敦史著『近代・現代英国音楽入門』なのだが・・ エルガーのバイオリンソナタというのも必聴アイテムとしてあげられている。・・これってよく考えたら「のだめ」で、千秋のおじいさんが愛好していたという曲では・・ 五嶋みどりによるフランクのバイオリンソナタとのカップリングをアマゾンで検索する。で、アマゾンでは「これを買った人は、こんなのも買ってます」というのが出ることはご承知だろうが、それが、

モーツァルトのオーボエ協奏曲
モーツァルト・二台のピアノのためのソナタニ長調
ベートーヴェンのバイオリンソナタ「春」
ストラヴィンスキー・「ペトルーシュカ」からの三楽章

・・などが並び、「えっ、これ全部のだめに出てくる曲じゃ・・」というのはあまりに明白。「春」は別として、あとはかなりマイナーな曲といわねばならない。これはある程度クラシックを聴いてる人が、「のだめ」の中に出てくる曲でコレクションにないものがあるのに気づき、それを買おうとしている行動ではないかと思われ。しかし私はもちろんのだめの影響でエルガーを買うのではありません! もっとも、ホリガーによるオーボエ協奏曲も買おうとしていることは事実だが(笑)、それはモーツァルトの管楽器系協奏曲ではオーボエとファゴットだけがないからである(もっともオーボエ協奏曲はフルート協奏曲の編曲版であるらしい)。それにしても「のだめ」人気がいかにすごいかを実感した一瞬であった、というお話でした。

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