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池田清彦は駄文も書くということ

ついでに、池田清彦の『科学とオカルト』という本ものぞいてみたのだが、こちらの方は、科学論の部分はともかく、オカルト論はどうもイケマセンねえ。ちょっと勉強不足がはなはだしいというか。こうなってはタダのオッサンに過ぎないというか。村上陽一郎なんかは「魂のリアリティ」に多少敏感な感性を持っているが、この人にはそういうのはまるでない。なんというか基本的な「気品のなさ」が、こと魂に関する議論になると目についてくる。どういう点がいけなかったというのはアマゾンのレビューに書いてしまったので(匿名だが)数日中に出ると思う。まあ、魂のリアリティというものがわからない人はどのような議論をもってくるのかという知識は得られるが、それ以上のものではない。

簡単に言うと、池田は、神秘体験のようなものは人間に起こりうる現象だと肯定はするのだが、ある種のトレーニングによって超能力が身についたりというのは幻想である、それはコントロールを増大したいという自我的欲求だという論点である。それで例によってオウムをターゲットにするが、これはまあ凡百のオウム論の域を出ない。どういうことかというと、そもそも伝統的なヨーガとか、あるいは禅宗やチベット密教にしたって、みな「システマティックなトレーニングによって高次の意識を得ることが可能だ」という立場に立つのだが、そういうことを何も勉強していない。高次意識ではなく超能力にターゲットを移したオウムというのはそうした霊的伝統のパロディーというか堕落した形態であるが、そういう宗教史・宗教論的なリサーチをほとんどしないまま、単に思いつきを並べているだけのレベルだということだ。世の中のオウム論というものの大半は、そういう伝統の立場についてほとんど知識がなく、最小限の研究もしないまま、自分はそれを論じる資格があると思いこんでいる人々によってなされているように思う。そのへんにはっきり言えば傲りがあると思うし、人類のもっている「魂の探求への歴史」への最低限の礼儀も欠いたふるまいだということだ。池田の論法に従えばそういった霊的宗教の全体がオカルトであり幻想であるということになるが、そのような判断の論拠ははっきり示されておらず、ただ霊的体験のトレーニング体系などというものはあり得ないという自分の常識を一方的に主張しているに過ぎないのである。

つまり、そういう宗教論的な知識がないために、オウムを斬るつもりが、実はその批判点は多くの宗教にもあてはまるものになっている。しかし、宗教とカルトがどのように違うのかという問いに明確に答えられない。人間の宗教現象はちゃんと勉強しなくても論じられるものだ、という発想そのものがアマイのである。もう少しいえば、

自分自身が真剣に「神」と格闘したという経験もない者が、オウムについて何事か言えると思ってるのか?

と、いうことである、要するに私の言いたいことは。そういう「腰の軽さ」を見るのがやりきれないのである。大変残念ながら、池田清彦のオカルト論の部分は、駄文であった。

私が「気品がない」という「美学的批判」をしたのはどういうことかというと、池田は、自分はオウムなんかに走るほどバカではない、という思いを持っていることが感じられるからのである。オウムに行った人を自分より下に見ている。自分はもっとものがわかっているという前提で、見下しているのである。そこには、共感をした上で、どこで間違ってしまったのかを真剣に探求するという姿勢がない。こういう、自分を高いところに置いた上で、他人を裁くことに快感を求めているようなところが、世のオウム論者には忍び入ってはいないだろうか。そこに、現代の「魂の危機」に対して切迫した危機感を持っているような論述こそ、必要なのではなかろうか。ああ、こういうオッサンってほんとにイヤだ、と思った。その波動の低さにガクゼンとしてしまった次第である。そういうことを「気品がない」と言っている。これは悪口ではなくて、「美学的批判」のつもりなのだが・・

・・と、思わず槍玉にあげてしまったわけであるが、考えてみると、たしかに、「霊的現象は、ある程度までは、ある技法によって反復可能である」という論点は、世のなじみがないとも言える。実は、これはケン・ウィルバー、ひいてはトランスパーソナル心理学の基本的な論点でもある。つまり、ある「実践体系」が提示され、それに従えばある程度は反復可能な形である意識変化が起こりうる、そのことが自然科学における「再現可能性」と平行しており、それゆえ、それは霊的体験(そしてその体験で経験されうる世界領域)についての「検証可能性」を示している、というのがウィルバーの意見である。こうなれば、ポパーのいう「反証可能性」という科学の要件を満たすことになるのだ・・というようなことが彼の『科学と宗教の結合』の論点である。

まあ私は、そこまでうまくゆくかなあ・・という疑問もあるのだが、「ある程度までは」ということなら、ある実践体系によりある程度同型の経験、変化が起こりうることは認められると思う。

つまり、「ったく、この程度のことは勉強してから言えよ」ということである。知った上でそれに反論するならまだしも、まったくの勉強不足なのであるから。シロートが勝手なことを言っているのを本にして売るのはやめてほしいものである。逆に言えば、こうした分野できちんとした知識に基づいて論を展開しているものがほとんどないじゃないか・・ということでもある。宗教学者は何をしているか。・・えっ、「おまえが書けば?」という声が来そうだ。たしかに私もそろそろ何か書こうかなと思い始めている。世の中にまともな論が少なすぎると思う。

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