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「ゲロンティウスの夢」とスピリチュアリティー

この間、「わかっていない人は語ってはならない」などと書いたが、そういってしまうと自分で自分を縛ることにもなるわけで、究極意識に達していなければ一言も語ってはいけないということになると、スピリチュアルな言説というものはほとんど成立しなくなってしまうだろう。それに、ウィルバーがそう言うからには自分はほとんどすべてを知ったという前提でなければならないわけで、それは果たしてどうなのだろうか、という問いが生じる。たしかにある程度のことはわかっている人にはちがいない、しかし、それは昔から言われている「無上のさとり」、神人合一の段階を指すのであろうか。私は、ウィルバーはそこまでは行っていないのではないかと推測するのである。というのは、この数十年というもの、急速に霊的文献に人々が接する機会が増えてきているが、それらにだいたい共通している要素と、ウィルバーの理論とは必ずしも合致していない部分があるからだ(具体的には、アストラル界=微細界と物質界との関係などの議論が、うまくかみ合っていない。それとこれは個人的なことだが、私がウィルバーをそれほど好きではないというのは、私はキリスト教的なものも好きなので、ウィルバーが西洋人であるにもかかわらずキリスト教的霊性に背を向けているようなところがなじめないということがある)。

ここの読者も、最近いわゆる精神世界と呼ばれているジャンルにおいて、宇宙の構造とか死後の経験などについていろいろな情報が出ており、それは必ずしも単一のグループからではないにせよ、そこにはある程度の共通性が見られることに気付いていると思う。それはシルバーバーチなどのスピリチュアリズムであったり、インドや日本の「霊覚者」(と思われる人)の言っていることであったり、あるいは一般の人々が何らかの形で「のぞいてきた」ものであったりする。それらをすべて「幻想」の一言で片づけることはあまりにもたやすいが、結局それは、そう言う人はこれらの情報とまともに向き合いたくないということを示しているだけで、そこに何らかの根拠や証明があるわけではない(そもそも「何が幻想なのか」ということは哲学的な難問であって、そのように簡単に言ってのける人はこの世界の本質について真剣に考えたことがないことを示している)。とりあえずそういう情報というのは「現代の神話」と言ってよかろう。そして私たちは神話を信じる権利もあるわけである。それはユングが主張したことであるし、また『構造主義科学論の冒険』で出てきた「恣意性の権利は科学的理論に優先する」という公準を持ち出してもよい。科学が描く唯物的実在論にべつに哲学的根拠がないのであれば、私たちは何を信じるも自由なのであり、そこで、それならばこの現代の神話において生きてやろう、と考えることも自由である。これは実存的決断なのであって、べつに理論的・合理的に要請されるようなものではない。ただそれを間違いであるとか幻想であるなどと言う権利が他人にはない、というだけである。そういう権利があると思っている人が多いということが問題なのである。「意識の死後存続」を信じることがオカルトであるなどというのは全くの妄言、暴言であるということである。スピリチュアリティーに関して知的活動が役立つのは、そのような「信じる権利」を守り、妄言・暴言を許容しないという思想的環境を整えることにあるのかもしれない。

こんなことを考えたのは、エルガーの大作オラトリオ「ゲロンティウスの夢」を聴いたからである。これは言うなれば「臨死体験もの」である。エルガーは「死んだらどうなるのか」というのをこういう風に理解していたのか、ということがわかる。それはもちろん、時代的に、かなりキリスト教の枠組の中にはまってはいる。しかしなかなかどうして、かなり、真実に迫っている部分もありそうだ。ゲロンティウスは死の床で恐怖におびえるが、そこに天使が来て慰め、魂を送る。ゲロンティウスの魂は、肉体から解放されると軽々とした気分を覚える。そして天使に導かれ、「裁きの部屋」に入る。そして一瞬、「絶対なるもの」のヴィジョンを見るのである。それは巨大な閃光のようなもので、それが音楽で表現されている。ゲロンティウスはそして煉獄に行くことになるが、煉獄での修行を経てまたその神のところへ行ける日があることを知り、希望を胸に抱くのである――というような話である。詩はたしかにちょっと古いところもある。しかし、さまざまな情報と比較すると、次のところはかなり一致する。
1. 死の床では天使的存在が現れる。
2. 肉体から離脱すると身の軽さを感じる。
3. 一瞬、強烈な光と出会うことがある。これは、「チベットの死者の書」で言っている「クリアー・ライト」のことだ。
4. 煉獄へ行くというのは、つまり、神の光との合一でも、また地獄的な領域でもなく、その中間階層へ行くということである。実は、私たちの大部分は、中間界に行くことになるわけである。もちろん、キリスト教の煉獄というイメージはかなり限定されてはいるが。
というわけで、キリスト教的な限界はあるが、大枠では、死後に起こることをある程度反映しているのではないか、と推測できるのだ。

「ゲロンティウスの夢」はたしかに傑作である(聴くのは疲れるが)。クライマックスの「神の光」の一撃はかなり衝撃的だ。まあ、神学的に言えば、そういう光は神そのものを見たのではなく、神に発出するエネルギーのようなものであろうが、そういう細かいことはいいだろう。最後の曲も浄化された美の世界である。ボールト指揮の録音はかなり前のものだが、最近のリマスター技術というのはたいしたもので、合唱も驚くほどクリアである。ペンギン・ガイドで「ロゼッタ」をもらっているだけある見事な演奏である。そのほか、ヒコックス、バルビローリ、ヒルなどの演奏が評判いいようである。ヒルのナクソス盤をあげておく。

B0000014APElgar: The Dream of Gerontius
Edward Elgar David Hill Waynflete Singers


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ヨーロッパではずっとこうした宗教曲、つまり霊性をまともにとりあげた音楽作品が作られ続けている。それは最近になってもタヴナー、ペルトなどがいるわけで、神とか魂についてまともに向き合うという文化伝統は決して死んではいない。逆に言えばニーチェの「神は死んだ」というニヒリズムの宣言は、それだけ深刻なのであり、神がいないというのは実に大変なことなのである。それをどこかの島国のインテリなどは、神のことなど一度も考えたことがないくせに、ポストモダンがどうのこうのと表層ばかり追いかけるというのは、その腰の軽さにいささかあきれてしまう。特に最近思想哲学関連の新書などが出るが本当に内容が軽い。神がいなくても平気だというのはどういう感性なのか、私には理解できない。逆説的だが、そういう人にニーチェがわかるはずがないと私は思う。もちろん神と言ってもキリスト教的イメージの神である必要はない。問題は、「神について考えるというのはいったいどういうことであるのか」を理論的だけではなく「感性的」に理解できる資質ということである。

私は音楽からスピリチュアルな感覚を感じ取ることは十分に可能であると思うが、宗教曲というジャンルの中で、特に私が傑作だと思うのは次のようなものである。

モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」(時空間を超越する感覚あり)
J・S・バッハ「ミサ曲ロ短調」(受難曲よりこちらのほうがよい)
ヘンデル「メサイア」(私は、このリストの中でもベストだと思います)
モーツァルト「レクイエム」(特に浄めに効く。9.11のあともこれが演奏された)
メンデルスゾーン「エリヤ」(知られていないが、ものすごい作品である)
エルガー「ゲロンティウスの夢」(というわけで、ランク入りである)

べつに当たり前のリストである。このほかにも、宗教曲ではないがハイドンの「天地創造」も神への賛歌であり、すばらしくスピリチュアルな曲である。私がここでスピリチュアルというのはべつにむずかしいことではなく、単純に、高いエネルギーが流れ込んでくるという意味である。私は神というものをエネルギー的に理解しているのである。そして、「高いエネルギーを感じるというのはどういうことなのか」が少しずつわかるようになるということが霊的進歩だと思っていて、そのトレーニングとしてこういうエネルギーの高い音楽を聴くことが早道の一つであると考えている。感じるようになったら、それを今度は自分から発出していくような練習もするわけである。

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