盛鶴延老師の『気功革命』だが、その良い点は秘伝(重要なコツ)を公開しているというだけではない。私が思うに、「気功が上達するというのはどういうことか」が実に明快にわかるということがそれ以上によいところではないだろうか。まず下丹田に気をためるところから始まり、最終的には精・気・神の神、つまりスピリチュアルといわれる領域まで深まっていく道筋というものが実によくわかるのである。つまり、「深さ」の点もまた並ならぬものがあるのだ。だから初級からかなりの上級までレファレンスとして役立つのである。
まず原理編、それからスワイショウ(日本語読みで「セイシュ」と言っているが)とタントウ、動功、自発動功、静功を基礎として述べ、それから樹林・自然環境気功や部位別の治療的功法(これはある姿勢を保つタントウ的なものが中心)もある。それと男女双修つまりセックスを気功にする方法が述べられているのも特徴だろう。こういう気功の本はあまりない(チア老師の翻訳版はあるが)。しかしこれも中国気功(少なくとも道教系)の重要な部分であろう。
というのも人間が「精」のエネルギーを浪費する最大の原因はセックスであるからだ。もしスピリチュアルな領域まで深まっていこうとすれば精のエネルギーを自分の中にためていかねばならない。だからこそインドのヨーガでは禁欲が基本となっているのだが、道教では在家の人がふつうの夫婦生活を続けながら修行を可能にする方法として房中術が発達した。下手にすれば精を浪費するものを逆に気功法に変えてしまおうというものだ。もっとも、インドにもそういうタントラというのがあるが、それはもう少し秘儀的なもので、ふつうの人が行うようなものではない。
伝統的な道教では少し男性中心主義的なところもあるのだが、それを現代風にアレンジしたものがアメリカなどではかなり出ている。チア老師のものもその一つであるが、ほかにもたくさんある。人がセックスで精を浪費せず、むしろそれを通して気のレベルを高めるようになればたぶんそれは平和な社会につながるであろう。そういう意味で盛老師が男女双修法を書いているのはたいへんよいことであろう。内容的にはほかのモダン・タントラ系の本に書いてあることとだいたい同じだが、この本にしか出てない(私に見る限り)こともいろいろある。
もっともそれをするには男女とも心身健康でなければならず、ストレスなどがあると相手にそれを転写してしまうという。つまり二人とも各自気功をやり、ある程度のレベルに達していないといけないわけだ。となるとセックスを気功に変えるというのも決して容易ではない。性というのは肉体だけではなく気レベルの交流であるので、相手の気が自分に入ってくることを受け入れるということでもあるわけだ。だから、よい条件のないところで無理にしようとしないということも大切だ。欲望に負けて無理をしてしまうと大変に気のレベルが下がるわけだ。
陰陽の気の交流というのは絶対にセックスが必要だというわけではなく、自分の中に陰陽の気はすでにあるので、それを自分の中で交流させることも出来るということで、「大周天」が紹介されている。だから大周天ができればセックスする必要はないと書かれている。
また面白いのは「神交不形交」だ。これは、実際には体を触れあわず、男性が女性の中に入っていくとイメージして(逆でもよい)気を一体化させるという方法である。私はあるものの本で読んだことがあるが、霊的世界においてセックスに当たるものはそういうものであるらしい。その合一の感覚は肉体的な合一よりもはるかに圧倒的であるといわれている。もしかするとそれは「愛」ということの本質に近いかもしれない。そこでは肉体的なセックスにまつわる禁忌とか独占とかいう要素はなるなるのかもしれない。「神交不形交」は、たとえば、配偶者以外の異性と「合一」を体験したいという場合なんかにも使えそうな気がする。気・神レベルの「合一」が肉体的な結合を通してしか得られないというのは、あくまでこの肉体世界の制約に過ぎないのかもしれない。肉体的な快感というのも「かの世界」における美と愛の「遠いこだま」ではなかろうかと思うことがよくある。肉体が大切なのは、肉体を最終的に離脱するためである、というのがこの物質界の逆説というものだ。
そういえばブックス・エソテリカで『性愛術の本』が出るという。どんなものだろうか。こういう話題を扱うについては、それを語る人の霊的レベルが重要になってくるような気がする。レベルが低い人が語ると、どうしても「話が落ちて」しまうのだ。世間には興味本位でしか見ない人が多いので、注意せねばならぬ。語る人の波動をよく見極めることが必要だ。高○○一郎みたいな本には絶対に手を出さないことだ。
と、思わず男女双修についてのコメントが長くなったが、ともあれ『気功革命』は大変なものである。