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2005.10.30

秘伝について

「秘伝」について・・

「拳児」ワイド版第五巻315ページ~ 台湾の蘇老師は、拳児に馬歩站庄をやらせ、そして氷や火の玉をイメージさせる。

蘇老師: ただ漠然とやるよりも、イメージすることによって効果が異なることがわかったかね? ただし、正しい段階でやらなければダメだ。
拳児: わかりました。
蘇老師: 同じ套路を学んでも、ただ形だけを学ぶ者と、それにともなうイメージを学んだ者とでは、練習の効果や内容が異なってしまう。
拳児: それが秘伝なんですね。
蘇老師: そうだ。秘伝を授けられたものと形式だけを学んだものとでは大きな違いが生じるが、外見からは判断できない。我々の八極拳には、姿勢、動作、呼吸、技の用法のすべてに特別な秘訣があり、それは学ぶにつれて段階的に変わっていく。劉老師から正式入門の許可を得た拳児は、これからそれを修行するのだ。
拳児: はい!

やはり秘伝とはイメージ法だったのだ。それは固定したものではなく、修行の段階ごとにあるのだということ。
よい師につくということは、ここの差なのである。そういう秘伝は弟子の段階にあわせて口伝で伝えるのが中国の伝統であるらしい。今まで出ている気功や武術の本なども、すべてそうした前提の上で、少し上級のイメージ法は一切書いてないと思わなければならない。本というのは自分の弟子になることを誘うための便法にすぎないのかもしれない、と言ったら言いすぎであろうが・・ 『気功革命』が「革命」であるゆえんはそういうことなのである。

2005.10.29

『気功革命』について

盛鶴延老師の『気功革命』だが、その良い点は秘伝(重要なコツ)を公開しているというだけではない。私が思うに、「気功が上達するというのはどういうことか」が実に明快にわかるということがそれ以上によいところではないだろうか。まず下丹田に気をためるところから始まり、最終的には精・気・神の神、つまりスピリチュアルといわれる領域まで深まっていく道筋というものが実によくわかるのである。つまり、「深さ」の点もまた並ならぬものがあるのだ。だから初級からかなりの上級までレファレンスとして役立つのである。

まず原理編、それからスワイショウ(日本語読みで「セイシュ」と言っているが)とタントウ、動功、自発動功、静功を基礎として述べ、それから樹林・自然環境気功や部位別の治療的功法(これはある姿勢を保つタントウ的なものが中心)もある。それと男女双修つまりセックスを気功にする方法が述べられているのも特徴だろう。こういう気功の本はあまりない(チア老師の翻訳版はあるが)。しかしこれも中国気功(少なくとも道教系)の重要な部分であろう。

というのも人間が「精」のエネルギーを浪費する最大の原因はセックスであるからだ。もしスピリチュアルな領域まで深まっていこうとすれば精のエネルギーを自分の中にためていかねばならない。だからこそインドのヨーガでは禁欲が基本となっているのだが、道教では在家の人がふつうの夫婦生活を続けながら修行を可能にする方法として房中術が発達した。下手にすれば精を浪費するものを逆に気功法に変えてしまおうというものだ。もっとも、インドにもそういうタントラというのがあるが、それはもう少し秘儀的なもので、ふつうの人が行うようなものではない。

伝統的な道教では少し男性中心主義的なところもあるのだが、それを現代風にアレンジしたものがアメリカなどではかなり出ている。チア老師のものもその一つであるが、ほかにもたくさんある。人がセックスで精を浪費せず、むしろそれを通して気のレベルを高めるようになればたぶんそれは平和な社会につながるであろう。そういう意味で盛老師が男女双修法を書いているのはたいへんよいことであろう。内容的にはほかのモダン・タントラ系の本に書いてあることとだいたい同じだが、この本にしか出てない(私に見る限り)こともいろいろある。

もっともそれをするには男女とも心身健康でなければならず、ストレスなどがあると相手にそれを転写してしまうという。つまり二人とも各自気功をやり、ある程度のレベルに達していないといけないわけだ。となるとセックスを気功に変えるというのも決して容易ではない。性というのは肉体だけではなく気レベルの交流であるので、相手の気が自分に入ってくることを受け入れるということでもあるわけだ。だから、よい条件のないところで無理にしようとしないということも大切だ。欲望に負けて無理をしてしまうと大変に気のレベルが下がるわけだ。

陰陽の気の交流というのは絶対にセックスが必要だというわけではなく、自分の中に陰陽の気はすでにあるので、それを自分の中で交流させることも出来るということで、「大周天」が紹介されている。だから大周天ができればセックスする必要はないと書かれている。

また面白いのは「神交不形交」だ。これは、実際には体を触れあわず、男性が女性の中に入っていくとイメージして(逆でもよい)気を一体化させるという方法である。私はあるものの本で読んだことがあるが、霊的世界においてセックスに当たるものはそういうものであるらしい。その合一の感覚は肉体的な合一よりもはるかに圧倒的であるといわれている。もしかするとそれは「愛」ということの本質に近いかもしれない。そこでは肉体的なセックスにまつわる禁忌とか独占とかいう要素はなるなるのかもしれない。「神交不形交」は、たとえば、配偶者以外の異性と「合一」を体験したいという場合なんかにも使えそうな気がする。気・神レベルの「合一」が肉体的な結合を通してしか得られないというのは、あくまでこの肉体世界の制約に過ぎないのかもしれない。肉体的な快感というのも「かの世界」における美と愛の「遠いこだま」ではなかろうかと思うことがよくある。肉体が大切なのは、肉体を最終的に離脱するためである、というのがこの物質界の逆説というものだ。

そういえばブックス・エソテリカで『性愛術の本』が出るという。どんなものだろうか。こういう話題を扱うについては、それを語る人の霊的レベルが重要になってくるような気がする。レベルが低い人が語ると、どうしても「話が落ちて」しまうのだ。世間には興味本位でしか見ない人が多いので、注意せねばならぬ。語る人の波動をよく見極めることが必要だ。高○○一郎みたいな本には絶対に手を出さないことだ。

と、思わず男女双修についてのコメントが長くなったが、ともあれ『気功革命』は大変なものである。

2005.10.28

本二題

なんか最近、読書メモのページと化してきた。

4056035024中国武術の本 幻の拳法と奇跡の技の探究
藤巻 一保 松田 隆智


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学研ブックスエソテリカの一冊で、このシリーズの基本的なフォーマットの通りに作られている。有名な武術家の列伝、各武術解説、最後には実践編、それにいろいろインタビューなども織り交ぜ・・という感じだが、私は「拳児」を読んだ後だったのでかなり楽しめた。というのはこのマンガの登場人物のモデル、実物や各拳法などがたくさん登場してくるからだ。台湾の劉老師とか写真を見るとマンガにそっくりだし・・ 蘇老師も実在の人物でしたか。まあこれも、「拳児」の原作者である松田氏が監修しているのだから当然と言えば当然か。巻頭の松田氏へのロングインタビューは、「拳児」の背景をうかがわせて興味深い。「武術には精神性はない。武術の道を行き着いたところに精神の世界がある」という意味のことを言っていたが、なかなか意味深長だ。ほかならぬ松田氏が「武術とは戦いのための技術に過ぎず、それ自体には精神性はない」と断言しているのは重い意味がありそうだ。

この本によると楊式太極拳の楊露禅も、実戦としては陳式太極拳を教えており、楊式は文人に教えるためのものだった、ということだが・・ 私は楊式をやっているが、これがどこまで実践的な拳法たりうるのか、正直言うとまだよくわからない。たしかに、内部の勁力を強めればそれなりのパワーは持ちうるであろうが、私がやっているものはあくまで「武術のマネをすることによって気の力を強める」という段階のものであろう。

4434044303気功革命―癒す力を呼び覚ます
盛 鶴延


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『気功法の本』の巻末に出ていた盛老師の気功法にかなりのパワーを感じたので買ってみたが、これは期待以上である。私もずいぶん気功関係の本をたくさん見てきているが、明らかに、気功法の本としては他を圧してダントツに優れたものである、と断言することをためらわない。そのくらいよかった。どこがいいのかといえば、ほかの本はだいたい気功の原則と、あとはやり方の説明が出ているくらいのものが多いのだが、この本では具体的なイメージの持ち方と、そこで出てくる「気感」をどう広げていくかということの説明が詳しいのである。こういうことはふつうは本には書かず、弟子にだけ教えてくれるものであるらしいが・・ 「秘伝を惜しげもなく公開している」というのは決してウソではない。というのも、上の『中国武術の本』にも出てきたが、実際に、秘伝といわれているものは何か特別に難しい秘法のようなものではなく、ちょっとしたイメージの持ち方のようなことを教えてくれるものであるらしいのである。それは言われてみればどうということもないものだが、しかし言われなければ決して気づかない種類のもので、それを意識してやると練功の質がぐーんとアップしていくというようなものであるようだ。例えばその『中国武術の本』では、「馬歩で立つときにある臓器の位置を意識する」ということが秘伝だったという話が載っている(何の臓器かは本で公開するはずがないが)。『気功革命』ではたしかにそういう感じのコツのような情報がいろいろと載っている。その価値はたぶん、多少気功をやってきた人のほうがよくわかるのかもしれない。ともあれここから気功に入門するのも理想的だし、またこれまで多少気功に親しんできているが、どうも今ひとつよくつかめないという人にも最適かなと思う。(気功師として優秀な人は盛老師のほかにもいろいろいると思う。ここでいうのは「気功法の本」としては最高レベルだということである)

2005.10.25

身体論路線

また身体論路線への興味が再燃。

4341018310自律訓練法
佐々木 雄二


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一冊目は自律訓練法。佐々木先生は学会で会ったことがある。なかなかイイ人である。穏やかで、患者思いのお医者さんという感じである。自律訓練法というのはシンプルであるが、有効な技法として知られる。CDも出ているが、本だけでもできそうだ。つまりはイメージ法である。自律訓練法には基本メニューと、その人ごとのいわば特注のメニューを作れるそうだが、その特注というのは要するに「アファメーション」と同じことである。きわめてリラックスした状態でポジティブな言葉を発し潜在意識から変えていくというやり方である。それが、否定形ではいけないとか、現在形でなければいけないというのが、いわゆる精神世界で言われていることと全く同じである。ダイアーなんかもよく言っていることだが、基本原則というのは同じなんだと思った。ともあれ自律訓練法とはどういうものかを知ってやってみようというのにはこの一冊で十分だろう。イメージ法が自分では出来にくい人は佐々木氏の作ったCDを利用すればよい。

4062572230姿勢のふしぎ―しなやかな体と心が健康をつくる
成瀬 悟策


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4062573350リラクセーション―緊張を自分で弛める法
成瀬 悟策


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成瀬先生の二冊。成瀬先生は有名である。私でも名前を知っているくらい。自律訓練法を日本で初めて紹介したのも彼だという。上の二冊はなかなかの好著である。『姿勢のふしぎ』では、動作療法によって心理的・精神的な問題もかなり治ってしまうことが紹介されている。これまでの心理療法があまりに「身体」を軽視していたのではないか、という鋭い指摘がなされている。人間はまず身体運動によってこの世に定位する、という当たり前の事実から人間存在を考えさせるものがある。最後には、こういう身体への気づきということが全く学校教育ではないがしろにされている、という指摘もあるがつくづくと同感する。ただ『姿勢のふしぎ』では実践的なものは少ない。

『リラクセーション』では、「自体軸」という概念がポイントとなる。これは高岡英夫が言っている「センター」であり、中心軸のことだ。人間がいかに自分でゆがみを作り出しているか、ということが述べられ、そのゆがみをとるための体操的なものが多く紹介されている。これはもう、日頃から気功、整体、ヨーガなどに関心を持っている者にとってはひじょうに共感しうるアプローチである。自分の身体を整える必要に気づくというのは、意識レベルの気づきにおいても一つの大きなポイントであろう。高岡英夫のゆる体操も、ヨーガのポーズも基本的に同じ発想に立つものだろう。

こういう、からだのゆがみを矯正するシステムとしては、世の中にヨーガほどすぐれたものはないと思うが、成瀬氏のヨーガ論を聞いてみたいところだった。ヨーガについては触れられていない。

気功とヨーガはそれぞれ特徴があり、一方が他方の代替にはならないだろう。ゆがみ直しについては気功よりもヨーガに一日の長があるような気がする。気功をやっても初心のうちはあまり気が感じられないことが多いが、そういうときはヨーガを少しやっていくと気が感じられるようになるだろう。感じ始めたら、あとはむしろ気功的な方法でその気を動かしていく技法のほうが早いのではないか。そんな感じで併用していくと効果的ではないかという気がする。

『リラクセーション』で述べられているのは、きわめてゆっくりと動かしていく手法で、ヨーガやゆる体操とはまた違いがある。こちらも研究してみたいと思う。

2005.10.24

『気功法の本』

さいきんまた気功づいている。そこで「四大気功入門」につづいて買ってみたのが、学研のブックス・エソテリカシリーズの一冊、『気功法の本』。それほど期待してなかったが、意外といい。特に、出口衆太郎による静功のセクションと、巻末にある盛鶴延による実践編がよかった。出口氏の実力についてはすでに知っているが、盛鶴延の実践編もかなりのもの。スワイショウのバリエーションによって、気の「瀉」と「補」を使い分けられるというようなことも初めて知った。文字を通してだけだが、相当いい「気」の持ち主のように感じた。静功と巻末の実践編だけでも買う価値アリ、だ。

「四大気功入門」からは、とりあえず坐式六字訣のやり方を自分のレパートリーに加えようと思う。もう少し立つだけのタントウ功をやるべきであろうが・・ 静功としては『気功法の本』にものっている「臥式静功」を時々やっていた(最近はあまりないが)。少し静功(つまり瞑想であるが)の比率を高めようと思う。

4056040311気功法の本
藤巻 一保


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2005.10.23

気功のこと

このところ身体技法としてはもっぱら太極拳で、伝統楊式を一通り通すとかなり気を感じるようになったので、これを継続してやろうと思う。楊式についてはいろいろ中国のVCDやDVDでも研究しているが、細かい動作についてはけっこう師匠の系統による違いも多く、絶対はないというカンジ。まあ、あまりその辺は気にしなくていいのだろう。それよりも気感的なものを追求してみよう。

気功といえば、昔買ったきりしばらく見ていなかった、沈再文「気功外気練習法」というビデオを引っぱり出して見た。基礎・応用と二巻ある。今はもう発売していないと思うが・・ それを見ていると、見ているだけで気がどんどん入ってくる。やはり本物の気功師というのは、ビデオを通しても気が伝わってくるもののようだ。前に紹介した『クォンタム・タッチ』の本もそういう感じだったが・・ この「気の共鳴」というのはかなり大事なことかもしれない。しかし気功・ヨーガのビデオなどはけっこうたくさん見ているが、ここまで気がびんびんと響いてきたのは珍しい。沈再文老師は要マークかもしれない。この外気練習法も簡単なようだが奥が深そうである。私はこのところ太極拳をやっているせいか、かなり簡単に気が流せるようになるが・・

それと、『四大気功入門』というDVDつきの本を買った。これはあの『実践 伝統四大功法のすべて』のダイジェスト版であるらしい。津村喬の書き下ろし編集らしいが、これもかなりいいかもしれない。楊名時版八段錦や坐式六字訣なんかが入っていて、私にもいろいろ参考になる。ここには『実践四大功法のすべて』の詳しい紹介も出ているが、それを見るとそれも買いたくなってきた(7980円もするが)。私はこれは中国で編纂された「健身気功」バージョンかと思っていたがそうではなく、伝統バージョンが四つの功法についてそれぞれ複数のっているというのだ。津村喬書き下ろしによる気功概説編にもちょっと注目。

4056038775四大気功入門―脳とからだが若返る!
津村 喬 帯津 良一


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やはり、「微細エネルギーパラダイム」がこれからの文明変革のキーワードになるだろうという感覚はもともとあったが、私もそろそろこれについての本格的な論述を試みてみたい、と思うようになった。このところ、哲学の方面からちょっとシフトして、また気・微細エネルギーパラダイムの研究に戻りつつある。らせんを描いたような感じもあるが。

2005.10.18

ヒカルの碁のことなど

ちなみにオークションでは、「拳児」は11巻で1800円、「ヒカルの碁」は23巻で3100円でありました(送料別)。そんなにヒマじゃないのに、つい「ヒカルの碁」を読み返してしまう。私が好きなところは、塔矢名人と藤原佐為の対局のシーン。感動的ですらあります。武道と通じるものがある。藤原佐為というのは平安時代の碁の名手で、霊となってヒカルに取り付いたという設定。本因坊秀策も実は佐為だったという話。しかし「取り付く」という言葉から連想されるオドロオドロしいものは全くなく、佐為にはコミカルなところもあり、それでいて真剣勝負の時の顔つきがまた神々しいまでの気品がある。キャラクターとしては佐為がいちばん好きですね。それにしてもこのマンガ、絵が相当うまい。たいした画力である。ストーリーと絵を別の人がやっていたのがよかったのかな。

でもほんとは第17巻の、アキラとの対戦のところで終わりのはずなのだ。その前に伊角さんの中国修行なんかが入っているのは(引き延ばしによる)続編への伏線なのかもしれないし、秀策ゆかりの地をヒカルがめぐるというのもちょっと時間稼ぎのような感じもあったが・・? ほんと、商売の論理でむりに続編を書くことがなければ、もっと名作になったのにねえ・・と思うわけで。

芸事にしても武道にしても「極めよう」とすればそれは魂の世界になっていくのだなーと思う。スピというのは、「いかにも」というようなアッチの世界だけのことをいうのではない、ということだ(アッチを知ることも大切だが)。さて今度は「拳児」を読み返そう。「拳児」はとにかく、描こうとするものがすごく大きいというか、「志が高い」というカンジがする。

齋藤孝の『スポーツマンガの身体』は好著であるが、なぜ「拳児」をとりあげていないんですかねえ。ま、そこに出てくる「バガボンド」にしたってスポーツという枠には収まらないかもしれない。スポーツとは人為的に規定されたルールに基づく戦いだが、剣や拳法の世界にはそういう明確なものはない。相手が自分を殺しに来たら「何でもあり」になる。スポーツには命はかかってこない。それにしても武道の本質を描こうとしているという点では、「バガボンド」よりも「拳児」のほうが上回っているように思ったが。

そういえばこんな本を読んでみた。一つの考え方ではあろうが、なかなか参考になった。
現実に、「本物の太極拳」なんて日本にはほとんど存在はしていないのだなーと思う。中国が国家政策として推し進めた「太極拳の体操化」だが、そういう国策にのらずにやっている流派は中国には無数にあるはず。そういう制定拳の世界はあくまで本来の武術とは別物だろう。しかしそれはそれで、簡単に入門できるし、それなりに動きと気の相関を味わうことができるという長所もある。

4750201731太極拳の科学 (〔正〕)
陳 孺性


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2005.10.16

ひまつぶしのようだが

なんというかね、ここもいちおう「スピ系」のブログということになっているけれども、いまのところ、人に対してわかっているような顔でスピについて語るという気分ではない。それよりも集中的な瞑想などして自分を見つめ直す時期なのかもしれない。ということなので、ここしばらくは、読む人の期待などは一切無視して、どうでもいいようなことをたまに書くという感じになるかもしれない。それでもまあ、まったくスピのことが出てこなくなるというわけでもないだろうが。というのも生活すべてにおいてスピに無関係だというものはないからだ。すべてのことは、それがスピにつながっているようなこととしてもできるし、無関係だとしてやることもできる、と思うのだが・・

「拳児」はかなり面白かった。自分はやらないにしてもちょっとでも中国拳法に興味のある人にはこたえられない内容であろう。ついに太極拳の本場・陳家溝とか少林寺なんかを訪ねたりするし、中国拳法、いや武術というものの深い世界もかいま見させる、すぐれた内容をもつものである。それにしても私の知っている人が出てくるのはびっくりした。原作者の知り合いなのであろうが、全日本太極拳協会の中野春美師とか、私が太極拳を習った神山さんまで出てきてびっくりである。マンガではすごい美人に描かれているが、実物とはあまり似ていない・・(え・・いや、絵を描いた人は会ったことないんじゃない? という意味で・・) しかし少年漫画の定石だとはいえ、やはり、若い子がある道に打ち込んで精神的に成長していく、というストーリーは読んでいて気持ちのいいものですなあ。中年のオジサンは、惰性に流れて理想を見失った自分を反省すべきですよ。それに、そういう少年の成長を支えようとする周りの大人たちもよく描かれているんだね。まあ、「成長しようとする意志」、それが生きているということの根本だと思うし、それが「スピ」だということだと思うけど・・と、ここで無理にスピに関連づけなくてもいいか。でも、生きる力がないということがいちばんダメなことなんだなとあらためて思うわけで・・ たしかに人より強くなろうなんていうことは、くだらないといえばたしかにくだらないことだけど、たしかにそれもつきつめればある大きな世界につながっている、ということだ。

それにしても高岡英夫の本に書いてあることが本当だとしたら、彼もこういうマンガに出てくるような神技のようなことができる武道家だということになる。頭の上1センチのところから打つのをはねのけたということだが、たしかにそういうことができる人もいる、というのはわかる。触れずして倒すということも、神秘ではなく、熟達の末に出てくる技術であることには変わりない。いいかえれば人間の可能性はそれほど奥深いということでもある。

それからこの際、前から読もうと思っていた「ヒカルの碁」を読むことができた。「えっ全部? あなたいつ仕事してるの?」という突っ込みはおいといて・・(以下、読んでいない人には面白くない話ですよ) 私はどうも最近、クラシック音楽の「のだめ」とか、特殊な世界を舞台にしたものを好むようだが、碁は高校生のころ囲碁将棋部にいたので、全盛期は初段くらい打てたかも。今は長い間やっていないので、たぶん2~3級に落ちたかもしれない(碁は長年ブランクがあっても、初心者レベルまで落ちることはない。しかしあんまりやってなかったので、コミが六目半になったことも最近知った)。そんなわけだが「拳児」をオークションで買ったときに「ヒカルの碁」もかなり安く出ていたので買ってしまったということ。読んでみるとたしかにヒットしただけのことはあってストーリー的な面白さは抜群だ。ほかのものだと、「じゃあ今日はこのくらいにして続きは明日」ということなのだがこのマンガはなかなかそれができない。つい次の巻に手を伸ばしてしまう。というのも碁を知っている人間にとっては、プロになろうとしている子どもたちの生活はどういうものなのかとか、碁界の雰囲気的なものなども大いに興味深いということもある。・・とはいっても、抜群に面白いのはヒカルがプロになるあたりまでで、それ以降はややテンションが落ちてくる。それはなぜかと思ったら、どうやらテレビアニメが始まった関係で、当初の予定よりも連載を長引かせたということらしい。やはり佐為という魅力的なキャラクターがいなくなってしまってはこのマンガの面白さは半減してしまう。佐為が消えて、ヒカルが自分の中に佐為がいるということを自覚し、アキラ(あるいは塔矢名人)と対決する、というあたりで話が終わるのが当然というものでしょ。こういうふうに商売の論理で作者の意図がねじまげられてしまうというのは、やっぱりなんだかんだいってもマンガが「文化」にも「芸術」にもなりきれない限界ということかもしれない。それと、ヒカルの顔が、小さい頃はすごく可愛いんだが、中三あたりになると描き方がかわり、青年ぽい顔になるのだけれど、その顔がいまいち魅力的じゃあない。脇役の個性的な表情に比べて個性に乏しいような感じ。これもやっぱりヒカルが「大人」になった時に物語が終わりになるのが自然だったような気がする。というわけで、第15巻以降の展開にはやや納得できないものがあるのだけれど、佐為が消えるところまではほんとによく出来てた。これも「ある一つの道に打ち込むことによって成長していく」という、王道を行く物語であるわけだ。

で私もこれを機に碁を再開か、と思うかもしれないがそうはならない。やっぱり基本的にそういう強い者が偉いという世界はもう入りたくないし、だいいち碁会所ってタバコの煙が立ちこめてオジサンくさいからね(自分はオジサンだとは思っていないのである)。もっとも、ネット碁もあるか。

それにしても、塔矢アキラと「千と千尋の神隠し」のハクは似ている・・あまりに似すぎているような・・という気もしないでもない・・ 

2005.10.13

哲学とマンガ

ここんとこ、必要もあって斎藤慶典の『フッサール 起源への哲学』を読み直している。かなり面白い。名著である。しかし、斎藤が到達した地点ではまだ物足りない。もう少しだ。斎藤はその先として、西田哲学の世界をちらっと示唆しているが、たしかにそこに何かありそうに思える。しかし、新田義弘にしても、西田の名前をちらつかせているが、はっきりとそこに踏み込んではくれないからなー。斎藤慶典は、「私」とは「現象すること」の分肢として成立すると言っている。それは全くその通りなのだが、その「奥」にある「私」、つまり「もう一つの私」というのもあるのではないか。そこまでいかないといけない。しかし斎藤は「根源的な場所性」というものを理解する地点まで来ている。私が展開した「意識場理論」というのも、それを少し「神学化」(つまり神秘哲学化、形而上学化)したものだ、とも言えよう。言いかえれば私はそこに、意識場説の哲学的根拠を見出すこともできるのである。

ところで私は太極拳をやっているが、中国拳法の話だというので「拳児」というマンガを読み始めた。これは「バガボンド」と同じで、武術を通じた人間形成の物語として描いている。いや、「バガボンド」よりも精神性が強調されている印象だ。オークションで安く仕入れたがかなり面白いものである。私は武術などまったくやるつもりはないが、表演系の太極拳といえども武術的原則を理解しているとその深みは違ってくるのだ。たしかに武術ということを意識してやると「気」もよく活性化するようではある。

「バガボンド」は傑作だが、武術にそれほど詳しくないのかと感じるところもあった。たとえば上級の者は相手の「気」を察して動くことができるとしているが、そんなことは中級レベルであって、「気」を感じることなどは当たり前で、その「気」をいかに打ち消すかということまで計算に入れて立ち会うのでなければ上級者とは言えないのである。石洲斎の家にこもった武蔵を石洲斎の高弟たちが探し出せないというのも信じがたい。その程度のことは出来ないはずがないではないか、仮にも高弟なら、と思った。つまり、「力の勝負」ということから武蔵がいかにそれをリファインしているか、という過程がもう少し詳細に語られてもいいのではないか、と思うのだった。その点「拳児」は、有名な拳法家が監修しているだけあり、そういうことはかなりよく描けている。

2005.10.06

どうということもない日々

どうもあっという間に一週間、十日と経ってしまう。どうもあまりアウトプット・モードではないようで、あんまり書きたいことがないんですよね~ 内面的なプロセスはいろいろと動きつつあるような感じもあるが、私はどうも、そういうことを不特定多数にシェアするということに基本的な抵抗があるんですね。ま、それは当然のことで、そういうことは原則的にはウェブなどに書くべきではない、と思っているのだが・・ 沈黙のうちにはぐくむ、ということもアリだと考えるし。それにしても、そういう流れをちょっとばかりスムーズにするのに、バッチレメディーをうまく使うのはかなり効果的だ。

簡単に言えば、「いかに、思いをつねに光の中に入れておけるか」というテーマだ。結局のところ、それに尽きるのではないかというのがいま私がたどり着いている地点だ。いえば簡単だがこれが核心なのだという思いがある。

今日は秋晴れの天気で、たまたま臨時の休みなので、秋植えの球根を庭に植える。

このところ、パソコンの買い換えのことも気になっている。
これなんかは安くてよさそうなので、ちょっと考える。

B0009TSIZGHP Notebook nx6120 (CM360J, 512MB, 15"TFT, DVD/CDRW, 30GB)


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