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ひまつぶしのようだが

なんというかね、ここもいちおう「スピ系」のブログということになっているけれども、いまのところ、人に対してわかっているような顔でスピについて語るという気分ではない。それよりも集中的な瞑想などして自分を見つめ直す時期なのかもしれない。ということなので、ここしばらくは、読む人の期待などは一切無視して、どうでもいいようなことをたまに書くという感じになるかもしれない。それでもまあ、まったくスピのことが出てこなくなるというわけでもないだろうが。というのも生活すべてにおいてスピに無関係だというものはないからだ。すべてのことは、それがスピにつながっているようなこととしてもできるし、無関係だとしてやることもできる、と思うのだが・・

「拳児」はかなり面白かった。自分はやらないにしてもちょっとでも中国拳法に興味のある人にはこたえられない内容であろう。ついに太極拳の本場・陳家溝とか少林寺なんかを訪ねたりするし、中国拳法、いや武術というものの深い世界もかいま見させる、すぐれた内容をもつものである。それにしても私の知っている人が出てくるのはびっくりした。原作者の知り合いなのであろうが、全日本太極拳協会の中野春美師とか、私が太極拳を習った神山さんまで出てきてびっくりである。マンガではすごい美人に描かれているが、実物とはあまり似ていない・・(え・・いや、絵を描いた人は会ったことないんじゃない? という意味で・・) しかし少年漫画の定石だとはいえ、やはり、若い子がある道に打ち込んで精神的に成長していく、というストーリーは読んでいて気持ちのいいものですなあ。中年のオジサンは、惰性に流れて理想を見失った自分を反省すべきですよ。それに、そういう少年の成長を支えようとする周りの大人たちもよく描かれているんだね。まあ、「成長しようとする意志」、それが生きているということの根本だと思うし、それが「スピ」だということだと思うけど・・と、ここで無理にスピに関連づけなくてもいいか。でも、生きる力がないということがいちばんダメなことなんだなとあらためて思うわけで・・ たしかに人より強くなろうなんていうことは、くだらないといえばたしかにくだらないことだけど、たしかにそれもつきつめればある大きな世界につながっている、ということだ。

それにしても高岡英夫の本に書いてあることが本当だとしたら、彼もこういうマンガに出てくるような神技のようなことができる武道家だということになる。頭の上1センチのところから打つのをはねのけたということだが、たしかにそういうことができる人もいる、というのはわかる。触れずして倒すということも、神秘ではなく、熟達の末に出てくる技術であることには変わりない。いいかえれば人間の可能性はそれほど奥深いということでもある。

それからこの際、前から読もうと思っていた「ヒカルの碁」を読むことができた。「えっ全部? あなたいつ仕事してるの?」という突っ込みはおいといて・・(以下、読んでいない人には面白くない話ですよ) 私はどうも最近、クラシック音楽の「のだめ」とか、特殊な世界を舞台にしたものを好むようだが、碁は高校生のころ囲碁将棋部にいたので、全盛期は初段くらい打てたかも。今は長い間やっていないので、たぶん2~3級に落ちたかもしれない(碁は長年ブランクがあっても、初心者レベルまで落ちることはない。しかしあんまりやってなかったので、コミが六目半になったことも最近知った)。そんなわけだが「拳児」をオークションで買ったときに「ヒカルの碁」もかなり安く出ていたので買ってしまったということ。読んでみるとたしかにヒットしただけのことはあってストーリー的な面白さは抜群だ。ほかのものだと、「じゃあ今日はこのくらいにして続きは明日」ということなのだがこのマンガはなかなかそれができない。つい次の巻に手を伸ばしてしまう。というのも碁を知っている人間にとっては、プロになろうとしている子どもたちの生活はどういうものなのかとか、碁界の雰囲気的なものなども大いに興味深いということもある。・・とはいっても、抜群に面白いのはヒカルがプロになるあたりまでで、それ以降はややテンションが落ちてくる。それはなぜかと思ったら、どうやらテレビアニメが始まった関係で、当初の予定よりも連載を長引かせたということらしい。やはり佐為という魅力的なキャラクターがいなくなってしまってはこのマンガの面白さは半減してしまう。佐為が消えて、ヒカルが自分の中に佐為がいるということを自覚し、アキラ(あるいは塔矢名人)と対決する、というあたりで話が終わるのが当然というものでしょ。こういうふうに商売の論理で作者の意図がねじまげられてしまうというのは、やっぱりなんだかんだいってもマンガが「文化」にも「芸術」にもなりきれない限界ということかもしれない。それと、ヒカルの顔が、小さい頃はすごく可愛いんだが、中三あたりになると描き方がかわり、青年ぽい顔になるのだけれど、その顔がいまいち魅力的じゃあない。脇役の個性的な表情に比べて個性に乏しいような感じ。これもやっぱりヒカルが「大人」になった時に物語が終わりになるのが自然だったような気がする。というわけで、第15巻以降の展開にはやや納得できないものがあるのだけれど、佐為が消えるところまではほんとによく出来てた。これも「ある一つの道に打ち込むことによって成長していく」という、王道を行く物語であるわけだ。

で私もこれを機に碁を再開か、と思うかもしれないがそうはならない。やっぱり基本的にそういう強い者が偉いという世界はもう入りたくないし、だいいち碁会所ってタバコの煙が立ちこめてオジサンくさいからね(自分はオジサンだとは思っていないのである)。もっとも、ネット碁もあるか。

それにしても、塔矢アキラと「千と千尋の神隠し」のハクは似ている・・あまりに似すぎているような・・という気もしないでもない・・ 

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