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哲学とマンガ

ここんとこ、必要もあって斎藤慶典の『フッサール 起源への哲学』を読み直している。かなり面白い。名著である。しかし、斎藤が到達した地点ではまだ物足りない。もう少しだ。斎藤はその先として、西田哲学の世界をちらっと示唆しているが、たしかにそこに何かありそうに思える。しかし、新田義弘にしても、西田の名前をちらつかせているが、はっきりとそこに踏み込んではくれないからなー。斎藤慶典は、「私」とは「現象すること」の分肢として成立すると言っている。それは全くその通りなのだが、その「奥」にある「私」、つまり「もう一つの私」というのもあるのではないか。そこまでいかないといけない。しかし斎藤は「根源的な場所性」というものを理解する地点まで来ている。私が展開した「意識場理論」というのも、それを少し「神学化」(つまり神秘哲学化、形而上学化)したものだ、とも言えよう。言いかえれば私はそこに、意識場説の哲学的根拠を見出すこともできるのである。

ところで私は太極拳をやっているが、中国拳法の話だというので「拳児」というマンガを読み始めた。これは「バガボンド」と同じで、武術を通じた人間形成の物語として描いている。いや、「バガボンド」よりも精神性が強調されている印象だ。オークションで安く仕入れたがかなり面白いものである。私は武術などまったくやるつもりはないが、表演系の太極拳といえども武術的原則を理解しているとその深みは違ってくるのだ。たしかに武術ということを意識してやると「気」もよく活性化するようではある。

「バガボンド」は傑作だが、武術にそれほど詳しくないのかと感じるところもあった。たとえば上級の者は相手の「気」を察して動くことができるとしているが、そんなことは中級レベルであって、「気」を感じることなどは当たり前で、その「気」をいかに打ち消すかということまで計算に入れて立ち会うのでなければ上級者とは言えないのである。石洲斎の家にこもった武蔵を石洲斎の高弟たちが探し出せないというのも信じがたい。その程度のことは出来ないはずがないではないか、仮にも高弟なら、と思った。つまり、「力の勝負」ということから武蔵がいかにそれをリファインしているか、という過程がもう少し詳細に語られてもいいのではないか、と思うのだった。その点「拳児」は、有名な拳法家が監修しているだけあり、そういうことはかなりよく描けている。

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