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ペンギン・ガイド

出ましたね~~ ついに。クラシックCDコレクションのバイブルである。2年ぶりの新版。

まあ気がつくと、最近あんまりCDは買っていないんだけれども。しかしバイブルであるので、買わないというわけにはいかない。1600ページ。活字は前の版より小さくなったような・・
私は日本の音楽評論家の文章はぜんぜん読んでいない。これ一本。といっても盲信してるわけでもない。たとえば私のお気に入りの、ジュリーニ+ウィーンフィルのブラームス全集などは無視されているのだが・・
芥川也寸志の項目が追加され(ナクソスから出た「エローラ交響曲」のCD)、武満と並んで日本人は二人になった。しかし、知らない作曲家がこれほどいるとは・・という感じ。

Penguin Guide to Compact Discs And Dvds, 2005-2006 (Penguin Guide to Compact Discs and Dvds)Penguin Guide to Compact Discs And Dvds, 2005-2006 (Penguin Guide to Compact Discs and Dvds)
Ivan March Edward Greenfield Robert Layton


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フランス語の読書から世界認識の話

『現出の本質』もいいが、上巻を読んだところで今度は『受肉』の再読の方へ行ってしまった。こっちはなんと言ってもヨハネ福音書の「ことばは肉となった」の哲学的解釈なのであるからこっちのほうが私にはダイレクトにくるわけである。『我は真理なり』『受肉』『キリストのことば』がアンリの神学三部作と言われるもので、私にとってこの三冊の徹底読解が今のところの哲学の勉強の中心かな。これに『精神分析の系譜』と『現出の本質』。読んでみると、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティがなければこの思想はありえなかった、ということがよくわかる。逆に言えばこの三者の思想にある程度通じていればアンリの理解はそれほどむずかしいものではない。また、結局何が問題になっているのかということは、新田義弘の『世界と生命』も役に立っている(ただしこの本の中でのアンリ論は表層的なものであるが)。しかし神学三部作については、『我は真理なり』に英語訳、『受肉』にドイツ語訳があるだけだ。たぶん邦訳の計画はあるのだろうと思うが、当分は『受肉』についてはフランス語で読むしかない(ドイツ語はフランス語以上に読めないので)。といっても私のフランス語というのは、「仏検」というのがあるがあれでいえばたぶん3級しか受からない。2級の問題集を見ると無理そうである。会話や作文などは全くやっていないし。とはいっても抽象概念の単語は英語とほとんど共通しているから、基本的な文法さえ把握していればなんとか読めてしまう。旧制高校の外国語と似たような感じであろうか、専門書を読むことのみに特化した偏った勉強法である。そんなわけでフランス語の専門書はこれまでも多く読んできたが、時間がかかるのはやむを得ない。よっぽど読む価値のありそうな本に限らなくてはならない。

『受肉』のテーマというのは、存在するということは身体性を持つことだということなのだが、これは勝手に拡張していえば、物質界のみに妥当することではなく、あらゆる中間的領域にもあてはまる。つまり物質界というものが存在するように思われるのは、物質界的な身体性を付与されているからだということになる。世界を作り出すのはある種の身体性のあり方なのである。だから物質界とは少し違う原理でできた身体性のあり方というものを仮定すれば、そこに非物質的存在領域が成り立つことにもなる。菩薩のレベルにしたって、物質的ではないがきわめて微細な身体性を有しているのであり、だからこそ微細ではあるがなお存在の領域であって絶対ではないということができるのだ。

そのような身体性の多次元性という考えはさすがに正統哲学者であるアンリにはないが(だから一般の人々は読まなくてもいいと思うが)、存在の階層性という考え自体はアンリ・コルバンや井筒俊彦など偉い学者も言っていることであって、決して「怪しいもの」ではない。

なぜ霊的な次元というものを考えることが今の日本では「怪しい」と思われてしまうのか、とお嘆きの諸兄姉も多いと思うが、それは科学主義から来る「客観主義的世界了解」が学校教育やマスコミを通して一般人に刷り込まれていることが最大の原因であると思う。その世界了解自体に根拠がないことは、すでに百年以上も前から哲学においては看破されているし、科学基礎論・科学哲学による科学主義の相対化も進んでいるので、学問的にはすでに決着のついていることがらである。ただ、客観主義的に世界を理解してしまうという「素朴実在論」的な性向というのは、そもそも人類という種にそなわっている生物的本性なのであろう。犬とかあるいは蚊のような生物は、人間とは異なる形で世界を了解しているに違いないが(それについては日高敏隆『動物と人間の世界認識』参照)、彼らは自分の認識している世界こそが実在世界であると確信しているに違いないのである。自分の環境世界こそが絶対の実在界だと認識するように、生物というものはできているのだ。だから、それを疑うというのは人間のみに可能な高度な認識の可能性を示すのである。つまり、そうした素朴実在論への本性的傾向と科学主義的客観主義との結合が、唯物論的な世界モデルを生み出している状況なのであろう。

したがって、まず、世界がこのように実在しているように思われるということと、「私」において今作用している認識作用とは緊密に連動している、という自覚に至るということが、「哲学的な問い」の第一歩としてきわめて重要になってくる。そのようにしてまず素朴実在論から離陸しないと何事も始まらない。

つまり、「客観的な世界」が実在すると信じているということは、「原理的に、私が経験する世界と他者が経験する世界は同一のものである」という確信を生み出すことになる。その結果は明らかだろう。「自分にとってありえない経験は、客観的に存在するものではない。したがって、他者がそのような経験をした、と主張しているのは客観的な世界を認識したものではなく、ある種の幻想であるに違いない」という了解がもたらされるわけである。したがって、自分の体験の地平にはないことが他者には経験されている、ということを事実として認めることができない。要するに、そんな馬鹿なことがあるか、頭がおかしいんだろう、という反応に至るわけである。このような態度が生み出されるのは、客観的な世界が実在するという根拠のない確信に基づくのである。

繰り返していうが、そんな考えに根拠のないことは哲学者なら誰でもわかっているし、いまさら学問的な解明など必要のない、すでにわかる人にはわかってしまっていることにすぎない。ただ、そういう考え方を学校で教えることがなく、日常生活の大部分が客観主義的な世界モデルをベースに構築されている以上、「多勢に無勢」というのが正直なところなのである。

なぜ私が、茂木健一郎のような人間的にはとてもイイ人のことをブログで批判しているのかといえば、茂木への加熱した関心というものは、結局、客観的な世界了解を手放すことができないまま、何となく認識の問題の重要性に気づいている、というような世間の人々の哲学的なあいまいさの現れであり、今の時代状況からする一過性の現象に思われるからである。茂木の本ではすべての認識には主観性が伴っていると主張しながら、脳という一個の存在者だけは客観的に存在することを前提するというのは誰でもわかるような自己矛盾、前提の先取なのだが、このような不徹底さに気がつかない読者はやはり哲学をきちんと勉強したことがないのである。その点で一つおもしろかったのは、茂木と天外伺朗との対談、たしか『脳で心は解き明かせるか』とかいう題のブルーバックスだったと思うが、この本の最後では天外伺朗が唯識のことをちらっと持ち出して、「そもそも意識が先にあったと考えてはなぜいけないのか」と茂木に迫っている。茂木はそれにタジタジとなり、そう考えてはいけない理由はないということを認めている(このような正直さがあるのが茂木のイイ人であるところなのだが)。脳科学は脳が実在することを前提としているが、そもそも脳というものが客観的に実在する(つまり我々の主観とは独立して)ということは決して論理的に証明できないということは、茂木ほどの頭があれば気がつかないはずがない。それでも何となく脳について語るのはやめないのはどういうことなのか、その辺の脳科学ばなしのあいまいさ、いいかげんさというものが私は好きになれないのである。

音楽と「光の世界」

話は変わるが、最近、音楽の聞こえ方が少し変わってきた。先ほども、モーツァルトの交響曲(ハフナー、リンツなど)を聴いたが・・そこにはっきりと光の世界が現出していることを感じるのである。それはもう圧倒的な光明であって、それが次から次へと、時には強烈に、またあるときはふんわりと、どこまでいっても極めつくせない無限の広がりの中に輝きわたっているのであった。昔であれば、このようなものを感じればそれを神秘体験かと思ったかもしれないが、最近は音楽に限らずときどきあるので、それはすでに私の世界の一部といってもよい。しかしこれはまったく永遠の生命という言葉で呼ぶしかない。私は天界の実在をありありと感じる。

音楽というのは実に不思議なもので、しばしば、霊的世界と直接コンタクトしているのではないかと思えるほど、その光明を強く感じることがある。つまりその瞬間には私の精神がある霊的な実在の世界と同調している状態にあるのだろう・・とプラトン的美学の立場からは言うことができる。

そういうときには、このような永遠の生命の世界が実在すること、この輝かしい光明の世界が実在することを一人でも多くの人に知ってもらいたい、という切なる願望を感じる。それは、こうした光明が支配している世界秩序が実在することの記憶であり、それが地球においても実現することへの希望である。神学的な立場から言えば、そのような永遠の世界が地上に樹立されることは、神の精神の中においてはすでに実現されているのだということである。

振り返ってみると、この永遠の生命が自分の中を流れていることを直覚できたとき、この世に生まれてきたことの「第一課題」はクリアされたと言ってよかろう。つまりそれはいいかえれば光明の世界が実在するという確信を得るということである。どうもそういう感じがする。それをクリアしたら次は「第二課題」に入るだけである。ともあれ、そのくらい、この光明の世界を知るか、知らないかというのは決定的な差であり、人生は一変すると言っても過言ではない。本当に一人でも多くの人がそのことを知ってもらいたいというのが、私の「本音の本音」なのである。・・と、そうはいっても「知る」にも無限の段階がある。上に書いたことは、本当の「第一歩」に過ぎないのである。

アンリは「隠れ神秘哲学」?

アンリの哲学も根本から見ればスピリチュアルなものである。つまり、神と人間とは根本的に同一であることを言おうとしている。その意味では東洋哲学に近づいたと思う。ハイデガーではまだ、自分と「それ」との分離感が残っていたようだ。読むたびに、西田幾多郎との近さをはっきりと感ずる。

ここまでやってきて一つの結論としていえることは、哲学から一つだけ何かを学ぶとしたらそれは何か、といえばそれは「超越論的」な考え方だ、ということだ。これを簡単にいうことはむずかしいが、一つのとらえ方としては、「私はこの世界に属してはいない」という自覚として受け止めるのがわかりやすいかもしれない。「私」とは、この「世界」に属しているけれども、同時に、この世界を超えた場所にもいる、ということだ。もちろん私の意識が脳によって生み出されているなどという考えは妄想に近いものであり、まともな哲学者でそんな妄言を信じている人は誰もいないだろう。超越論的な考え方というのはカント以来哲学の伝統としてあるものだが、それがわかってしまえば、唯物論か唯脳論か知らないがそんなものはカッパの屁にも等しいものである。「私」が世界に属していないというのは、「私」という場において、この世界を構成する作用自体が生起しているということである(それは必ずしも今ここの「私」が世界を生み出している、ということとは同じではないのだが)。つまり「私」という場は、世界よりももっと本源的なある場所へ向かって「開けている」のである。いや、むしろ、この「私」こそ、そのある本源的な場所の「自己分与」として成立しているのではないか、というのがアンリの思想である。アンリは要するに「人間は神の子である」という思想をひじょうにむずかしく厳密に言おうとしているにすぎない(と、大胆にも断言しているが・・)。存在の世界はすべて神であり、世界はすべて神が変身したものである、ということだ。私が、「私は私である」という意識を持っているのも、つきつめれば私の本質が神であることに由来している。というわけで単純化してみればアンリの思想は神秘哲学の基本に忠実なのである。エックハルトの現代的形態ともいえよう(ベーメの名もよく出てくる)。アンリはそうした本源的な場の自己贈与として存在者の世界が成立すると考えているが、これは西田哲学ときわめて近い発想法であることに気づく人は気づくだろう。つまりアンリにおいて、ハイデガーが着手した西洋の形而上学的伝統の転回は終局に達し、そこに新しい形而上学の成立を認めることができると思う。

やはり哲学者というのは一流だけを読むべきで、それ以外はあまり相手にすべからず、というのは基本法則かもしれない。入門書としてすぐれた『フッサール起源への哲学』を書いた斎藤慶典にしたって、どこまで見えているのかといったら、どうなのか。今回、斎藤が「ここまで」と筆を止めたところの数歩、いや数十歩先までアンリは見通していた、しかも初期の『現出の本質』においてすでにそうなのだ、ということを確認してしまったのだった。

とは言っても、やはり哲学というのはまだるっこしいといえばたしかにまだるっこしい。文章も要するに外国語のようなものだから(日本語で書かれていても)、まずその言葉を覚えなくては何を言っているのかひとこともわからない。数学を勉強しなければ物理学の本は全く読めないというのと同じことである。というわけで、今すぐに何とか救われたい、という要望には全くこたえられない。哲学というもの自体にそれほど過大な期待を抱くべきではなかろう。それは知的に整理をするための道具の一つに過ぎない。本当に重要なことは哲学の外にある。そのことに気づかないで、哲学書さえ読んでいればいいと錯覚している哲学者を二流というのである。ま、私はべつに哲学という土俵で勝負するつもりはなく、ただ自分に都合のよい部分を使わせていただくだけだと思っているから、気が楽ではあるが。

「ぶっ飛び」をめぐる状況の変化

ついに出てしまいましたね、ブルース・モーエンの翻訳。坂本政道氏のブレイクからしてそのうち出るとは思っていたが・・ モーエンのシリーズは今まで四巻出ていてこれはその一巻目。実は私もこの第一巻は初めて読むものだ。というのは最近になるほどぶっとんでいるだろうと思って、順番に読むのがまだるっこしく、第四巻、第三巻という順序で読んでしまったのだった。というわけで第一巻の翻訳は私にとっても待望のものである。

そもそもロバート・モンローの翻訳は十年以上前から出ていたはずだが、これまでは知る人ぞ知るという感じで、ほとんどトンデモ本扱いされてきたと言ってもよかった。それが坂本氏から突然ブレイクし始めたのは、日本でもこうしたスピリチュアルな情報が急速に受け容れられ始めていることの現れだろう。江原啓之にしても最初の『人はなぜ生まれいかに生きるのか』を出したときは全く売れなかったというから、ここ数年の変化がいかに急速であるか知られる。(そうであるならば『魂のロゴス』だってそのうちにもっと売れ始めるかもしれないが・・ 現状では、このブログをのぞいている人でさえこれを買おうとしない人もかなりいるような雰囲気があるが)。

ともあれ坂本氏だのモーエンなど、臨死体験その他、こうした経験が人間には起こりうるものだということを視野に入れた世界観への変化が進んでいくだろう、ということである。古いパラダイムにしがみついたものは、どんなに権威づけようとしても見向きもされなくなっていくだろう、と思う。やはり、人間の可能性、ひいては人類の未来、地球の未来についてのヴィジョンが必要だろう。そういう視点をもっとはっきりと打ち出してもいいのではないかと思える。

というわけで、こうしたいわゆる「ぶっ飛び」の体験も、実は人間の可能性の一つであり、そして人間の究極的な可能性は何であるか、ということの明確なヴィジョンを示すという方向へいくことが、今後の思想的営みの責任だろうと思う。

私も、ミシェル・アンリとかいろいろ言っているが、そういうことはもっぱら学術雑誌向けの論文などで書くことになるので、昨今の出版事情もあり、そうした本格的な哲学的論述を出版できるとは思っていない。その文体にはかなり工夫を強いられることになるが、まあシュタイナーの講演程度のわかりやすさで表現する必要はありそうだ。
もう少し「売る」ためには、「ぶっ飛び」を強調することも戦略とししてはありうるかもしれない。つまり、坂本やモーエンなどの読者にもアピールするようなものでなくてはいけない。何かご意見があればどうぞ。

というわけで、

未知への旅立ち未知への旅立ち
ブルース モーエン Bruce A. Moen 坂本 政道


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思考について

あるいは、哲学とは単なる理屈あそびにすぎないと思っている人もあるだろう。残念ながら、そのように言われてもしかたのない自称・哲学がたくさんあることは事実だ。だが、真正な、存在そのものを問おうという思考は、深く魂レベルに刻みこまれ、霊的な遺産として残っていく可能性を持っていると思う。というのは、死後世界といわれるアストラル次元にしたって、そのアストラル次元での対象性が存在するわけで、そこに入ってしまえばその世界が実在することには何の疑いももたないであろう。つまり物質世界と同じようなものである。だが「この世界はなぜ存在するのか、存在するとはどういうことなのか」という問いを持つということは、絶対者について思考することであり、絶対者と対象性のある世界との関係について考え抜くことを意味する。そのような思考は、この対象性の世界(つまりはカルマの世界だが)を究極的には超えていくための重要なトレーニングとなるのである。それはシュタイナーの『自由の哲学』にしてもそういう意図のものなので、自分のなかに思考があること、いや、思考が自分であることを自覚するという経験には霊的な意義があるのだ。ただここでシュタイナーが言っている「思考」とは日常的な意味での、あれやこれやと思いをめぐらすことと同じではない。言ってみればそれはある「イデー」に到達し、そのイデーを生きるということかもしれない。『魂のロゴス』では、イデーについてたくさん書かれている。しかしイデーそのものが何であるか定義はしていない。それは予感するしかないものである、というのがそれを書いたときの立場であった。ただ言えることは、私たちは思考の本質に立ち返るとき、ある宇宙的な過程に接触し、ある霊的な世界秩序に自分が組み入れられていることを知るという、そのようなところまで行きうるのではないか、ということである。

この前、質問を送ってきた人がいて、その趣旨は「いわゆる中間的な世界(アストラル、コーザルなどと言われるもの)の経験を経ずして、絶対の経験に到達することはあるのだろうか」ということだった。私は、そのようなことはあり得ない、もしあるとすればそれは絶対とは言えない、と答えた。というのは、絶対というのは存在の根拠なのであって、およそ存在するものはすべてそこに発している。その絶対と合一した精神というものがあるとすれば、それは神なのであり、存在する宇宙すべてが自分であるという状況であるはずである。宇宙にあるすべてのことを直接に知ることができる「全知」である。これを仏教では「大円鏡智」などという。だから絶対に達している以上、存在する世界領域すべてが自己の内にあるものとして無媒介に認識できる。当然そうした世界領域のなかには、非物質的次元、つまり物質界と絶対との「中間」にある領域をもすべて含むことになろう。つまり、このような質問が出てくること自体、絶対と存在について思考を徹底していないからなのである。よく考えれば、中間世界をバイパスするような絶対というのは決して「絶対」ではありえず、それは絶対という概念に矛盾することがわかる。だから、中間世界の認識能力がないままに経験された世界領域は、絶対的なものではなくそれもまた一つの中間的領域であることは論理的明らかだろうと思う。

このような思考は、スピノザ的な神概念を参考にするとわかりやすいだろう。有限な存在者の世界認識は、常に部分的であり、ある一定の視野に映っているもののみを実在世界だと誤認している状態にある。つまりモナドである。私たちはそのような認識限界を拡張していくことのできる潜在能力を持つ。神とは、すべての部分的認識をその内に含む全体集合的なものである。すべてであり、「一」なのである。「無」とは同時に「すべて」なのだ。多くの人は、無というのを単なる対象性の消去された世界領域として思い描くが、これは端的に言って誤りである。禅の老師に「化け物の棲む真っ暗な穴ぐらにもぐっていてどうするのだ」などと言われてしまうであろう。そうした無の世界は、一つの過程として現れてくる一つの中間的領域にすぎない。これを「絶対無」などと誤認してしまうとそれまでであって、そこがきちんとした師匠についてない者の悲しさだ、ということになってしまうだろう。言うまでもないが、「無を覚る」ということは「仏になる」ことと同義である。これは当然「キリスト意識に達する」こととも同義である。そのような神的存在の段階に至ったときに、そこに現れる英知と神的能力はいかばかりのものであろうか。それは想像を絶する。しかし霊的な成長とは、そのような光のエネルギーを知覚する能力を少しずつ高めていくことにあるのだろう。つまり、神的存在がどれほどまで偉大であるかということも徐々にわかっていくものである。

さて、ひきつづきアンリの『現出の本質』である。幸いにしてこの翻訳はたいへん読みやすい。ありがたいことである。訳者はあまり知らない名前だが、略歴を見ると五十を過ぎて非常勤講師だけで、定職にはついていないらしい・・なかなかキビシイ世界である。しかしアンリの研究者として知られている中敬夫の翻訳(『実質的現象学』『身体の哲学と現象学』)ははっきり言ってひどいもので理解不能だったので、出版社もそれを考慮して、ネームバリューよりも翻訳能力を重視して人選したのであろうか。それはともかく、『現出の本質』は決してやさしいとは言いがたいが、アンリの考えようとしていることがら自体が非常によく理解できるので、私にとってはきわめて楽しい読書である。大げさに言えば、西洋哲学はここでようやく本来の道に戻った、とまで言えよう。『自由の哲学』と同じように、存在への思考を徹底することによって、すべての対象性の世界を超越しようという意志が感じられるのである。言語による思考自体はこの物質次元にしか作用しないが、そのような思考を遂行しようとした経験は魂次元に深く蓄積され、良きカルマとして残るのであろう。・・この本を読みながらそんなことを考えているのは世界中で私くらいなものであろうが(笑)。

「ある」ことの問い

私がなぜ現象学に注目しているのかといえば、簡単に言えばそれは「唯識への導入」だからだ。つまり、この世界は実在そのものというよりは「識」によって生成しているのだということ。その「識」とは「世界生成作用」といえばいいだろう。と、こう書くとき私の頭には、映画「マトリックス」とか、カスタネダの本に出てくる「集合点」とか、そんなことも視野に入っているのである。

結局、今の既成の学問では、霊的な次元は何一つとして解明されない。それは何故かといえば、ほとんどの学問は「世界がそこに実在する」ことを自明の前提として出発しているからだ。たとえば、「霊的な世界とは本当にあるのか?」という問いがあるとする。だがそこで、そもそも「世界」とは何なのだ? そして「ある」というのはいったいどういうことなのか。本当にあるというのはいったいどういうことで、それを証明するとかあきらかにするということはいったい何を意味するのか。「ふつうの学問」をしている学者は、このような問いに答えられるのだろうか。そもそも考えたことがあるのか。たしかに、普通はこのような問いを発する必要はない。そんな問いなしでも日常生活には何の問題もない。だが、結局霊的な問題というのは、まさにこうした「存在」そのものが問われることになるのだ。存在するとはどういうことなのか。この問いの解明を回避したところで、霊的な次元について語ることには全く何の意味もない。したがって、宗教や霊的現象を「実証的、客観的」に研究するなどという学者は、決定的に頭がぼけているとしか思えないのである。そんなことは最初から自己矛盾そのものであって、破綻するか、とてもつまらないことをくだくだ述べるだけで終わってしまうことになるのだ。「存在の問い」を自らに引き受けることがあって初めて、霊的な事象についての問いが許されるのである。

そもそも「ある」ということがすでにわかってしまっている、自明のことだ、と思っている人は猛烈なるオバカサンである。あまりに××[ = horse+deer]すぎて話にならないくらいなものなのである。・・と、思わず波動の悪い単語を使ってしまったが、「存在への問い」はいかなる問いにも先行するということ、その意味で、何ものも存在論的な問いより根源的なものはない。そういう意味での哲学の根源性を、人々が全く理解していないこと、これが問題なのだろう。哲学の権威失墜というか、いかに世間の人々が存在への問いという思考を知らないのか、ということには驚かされる。いろいろな先端的な科学理論を寄せ集めたり、脳科学が何事が意識について明らかにしてくれるなどと思うというのは、哲学を全く知らないから可能なことである。養老孟司とか茂木健一郎のような人がはやるのは、哲学が権威失墜しているという状況を表しているのかなあ・・ 茂木も悪くはない。たしかにいい方向のものは出ているのだが、根本的は、脳科学の所見と哲学者としては二流の哲学的考察とのアマルガムのようなものである。「存在の問い」に少しだけ迫りながら、その周りをぐるぐるまわっていていっこうに本丸への攻め方を知らないような感じである。こういうのに満足できる人は、いまだに本当の哲学のすごさ、根源性というものを知らないのである。

と、あれこれ文句を書いたようだが、つまり、この世界、存在の世界を生み出している「世界構成作用」というものが見えているのか、ということが決定的となる。そのときに初めて素朴実在論からジャンプできるわけで、霊的な次元に関する話はすべてそこから始まる。それはカスタネダが「世界を止める」ことができたとき、ドンフアンの見ている世界への入口に立てた、ということと全く同じなのである。そのときに、「私」がこの世界に属していないということもわかる。ということであるなら、「私」は本当はどこにいるのか。そういう問いに接続していくわけであって、すべては、「私」がこの世界とは違う場所にもいるということがわからなくてはならない。そのことがわかる、という事態があるのだ。それを経験した人は私がいったい何のことを言っているのかわかるだろう。

『エーテル界へのキリストの出現』2

『エーテル界へのキリストの出現』から、キリスト論とは直接関係がないけれども、「生きる意味」ということではいろいろ考えさせる言葉を引いてみたい。「精神的な新時代とキリストの再臨」という文章だが、

・・人間は二つの流れのなかに立っているということを、私たちは自分の内面に銘記すべきです。一つの流れは、私たちを日常生活の中に置きます。別の流れをとおして、心魂は未来の王国を見上げます。その流れをとおして、心魂は全体との関連において理解すべきものを、初めて明らかにできます。
 そのように考えても、「あまり気持ちにそぐわない今の仕事は、全世界のいとなみにとって、ほかの仕事よりも意味深くない」と評価するようになることは、決してありません。どんなものであれ、私たちが行うことのできるものは全体にとって等しく重要だ、ということを明らかにしなくてはなりません。
 生活は、個々の小石を組合わせたモザイク画のようなものです。個々の小石を組合わせる作業をする者は、モザイク画のプランを考えた人よりも重要でない、ということはありません。神的・霊的な世界秩序に関しては、最小のものが最大のものと同様に意味深いのです。そのことを洞察すると、人生に容易に入り込む多くの不満から自分を守ることができるでしょう。

・・生活のなかに何らかの不満があるのは、大きな宇宙秩序のなかでいかに不適切かということを、内的な沈潜をとおしてしばしば明らかにすると、人智学者はずっとよく行動できます。無意味なように見えるものを私たちが生活のなかで正しく遂行しないと、宇宙全体が進化できません。正しく遂行すると、存在の重大な諸現象に対して正しい感受性を保つことにもなるでしょう。

・・私たちの心魂がなすものを用いて神的・霊的な宇宙秩序が企てるものは、神的・霊的な宇宙秩序に委ねなくてはなりません。私たちが自分の心魂に働きかけ、カルマの合図に注意すると、私たちが行わねばならないものが見えてくるでしょう。

・・私たちが心魂のなかで達成したものを、外的な社会的地位によっては、世界のなかで用いることができないということがありえます。学んだものを世界のなかで役立てるのがよい人智学者だ、という考えは最も誤ったものになりかねません。
 たとえば、何十年も自分の内にある人智学衝動を役立てることができない、ということがありえます。だれかと一緒に駅へ行って、ほかでは言えない重要な言葉を語ることができるかもしれません。この行為が、広範囲な行動よりも重要かもしれません。私たちは自分が行えるものを明らかにしなくてはなりません。そして、それを役立てるべきときは、カルマの合図によって私たちに示される、ということを明らかにしなくてはなりません。
p.35-37

ここだけでも、「生きる意味」ということについては多くの洞察が含まれていると思うのだが、どうだろうか。
何よりも、この文章に流れている「神的・霊的な宇宙秩序」に対する畏敬の感情が、たいへん心地よい波動として伝わってくるのが感じられる。
この「神的・霊的な宇宙秩序」に対する信頼という根本的な気分を保つことこそ、この地上生活における「幸福」にとって不可欠ではないか、と私は信じるものである。それを保つことができれば、自分が何をすればよいのかということはおのずとわかってくるのではないかと思う。

哲学的山登り

哲学関係は私はあくまで専門家ではなく、自分のスピリチュアル思想の基礎づけという意味でいろいろ勉強しているのだけれど、前から書いているように、現代の哲学では現象学が最も「ことの真相」に迫っているのではないかと考えている。つまり、世界とか自己というのはなぜここにあるのかということである。現象学から唯識の立場へ深まり、さらに唯識をも超えていくというのが、もっとも知的に霊的思想をとらえることができる道筋であると考えている。その辺まで行くと、プロティノスと出会うこともできるだろうと思う。『魂のロゴス』では現象学の部分が少なかったので、そのへんは次の仮題となっている。

最近ではダン・ザハヴィの『フッサールの現象学』がよかった。これはひじょうにわかりやすい。
といっても哲学に縁のない人がいきなり読んでわかるものではない。ザハヴィに行く前にまず斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』、山口一郎『現象学ことはじめ』をお勧めすることにしている。それから谷徹『現象学とは何か』と、クラウス・ヘルトの『二十世紀の扉を開いた哲学』、新田義弘『世界と生命――媒体性の現象学へ』そしてこのザハヴィと、フッサールに関してはそんな本が特に参考になった。また巷では竹田青嗣がはやっているが、この人はちょっと自分の関心に引きつけすぎるところがあるのでやや注意が必要であろう。竹田についてはヘルトくらいまでを読んで正統的な解釈を知ってから接するほうがいいかもしれない。フッサールを理解できるようになると世界が変わる。それがどうしてスピリチュアル思想と接続するのかというのは、簡単には説明できない。フッサールを理解できるようになったらその先が見えて来るということである。その「先」ということをかなり明確にとらえているのはミシェル・アンリである。実はこの冬休みにはアンリの大著『現出の本質』を読破することを計画している。夏頃に待望の翻訳が出たのだが読む時間がないままでいた(夏休みはかなり休んでしまったのだが)。本格的な山登りのような気分で読み始めるが、30ページくらい読んだところで、予想通りこれはすごい本らしいということがわかってきた。今はまだあまり知られていないけれど、これはことによると、ハイデッガーの『存在と時間』にも匹敵する、いや超えるような二十世紀哲学の大傑作なのでは? という予感もし始めた。苦労してそれを踏破した人間のみが見ることができる風景というのがあるわけで、哲学書を読むことは登山に近いものがあるようだ。しかし、上下巻で千ページ以上、投資額は一万四千円ですか・・

ちなみにこういう哲学というのは「人生の意味とは何か」というような問いを求める人が読むものではない。そういうものとはちょっと違うのである。最近、「生きる意味とは何か」なんていうテーマの本を新書なんかで書いてしまう人が何人かいるけれども、よくそんなテーマで書けるな~~と感心するというか、何というか。もちろんそういうのは「真理」を語ろうというつもりではなくて、自分のしてきた探求をシェアしようという意図だろうとは思うのだけど、私にはそういう本は書けそうもない。他人の人生を導こうという行為には大きな責任が伴うもので、もし自分のせいで誰かが道を誤れば、そのカルマを引き受けねばならないことになる。つまり相当なる度胸と自信がなければなかなかできることではない。そういう責任を自覚した上で、よしやろうという人には決して皮肉ではなく敬意を表するものである。


4771015015フッサールの現象学
ダン ザハヴィ Dan Zahavi 工藤 和男


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4588008137現出の本質〈上〉
ミシェル アンリ Michel Henry 北村 晋


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『心の対話者』

それからもう一冊、鈴木秀子の『心の対話者』(文春新書)。
これは前著の『愛と癒しのコミュニオン』の続編で、「アクティブ・リスニング」について深く理解できる。読んだ日から実践できるプラクティカルな本であり、お薦めの一冊である。簡単そうに見えて実はなかなかむずかしいということがわかってくる。これを実践するためには自分自身の心がよく見えて、感情に巻き込まれないだけの強さが必要になってくる。しかし、ふだんの会話というものがいかに「ちゃんと聞けていない」ものであるかということもわかる。

これも大きな意味では「ヒーリング」の本だ。

4166604619心の対話者
鈴木 秀子


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『エーテル界へのキリストの出現』

神秘思想の方面で、今月で最もおもしろかった本は、シュタイナーの『エーテル界へのキリストの出現』だった。『ヨハネ福音書講義』や『イエスからキリストへ』など、もともとシュタイナーのキリスト論は大好物であるのだが・・この『エーテル界――』はわかりやすいし、読んでいて光を感じるところが強いので、特にいいかもしれない。印象に残ったのは、「キリスト教に輪廻転生の教えを統合することが、キリスト教の進化である」という主張で、これは全く私の言いたいことそのものである。つまりキリスト教とは、キリスト意識にまで人間の意識が進化していくという教えなのであり、キリスト意識に達するためにはどうしたって一回限りの生では不可能で、何度も転生を繰り返しつつそこまで成長していく、と考えるのが当然だということである。こうした考え方は現在ニューエイジ的思想の中でも相当に受け入れられているが、それはシュタイナーの言っていた方向が基本的に正しいもので、それが多数の賛同を得られるような時代になってきた、ということだと思う。シュタイナーの言っていることが理解されるようになるまで80~90年かかったわけだ。一方で、輪廻を苦とのみとらえそれからの解脱を説くような伝統的な仏教の教え方も、現代には合わなくなっていることは言うまでもないだろう。転生を経て霊的進化をしていくというパラダイムこそ、少なくとも21世紀初頭の地球人類にとって理解しうる限り真理に近い考え方だと思う。そこにこそ仏教とキリスト教の真の融合がありうるわけだ。しかしそれを新しい普遍神学、宗教思想として主張しようとする人が少ないのはどういうわけだろうか――。もはや、転生の問題を抜きにして宗教思想を語ることはできない。ケン・ウィルバーの思想も、決して悪いというのではないが、死後世界と転生について沈黙しているという限りではまだ過渡的な段階の思想であると思う。仏教の伝統がある日本でなぜまともな思想家が出てこないのだろうか。アマゾンのレビューでは、アルテの神秘思想関係の本を意図的にバッシングしている反動的な教条主義者が出没しているが・・こういう人々こそ最も注意すべき反キリスト主義者であろう。

443406973Xエーテル界へのキリストの出現
ルドルフ シュタイナー Rudolf Steiner 西川 隆範


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ひさびさだが

気がつくと、だいぶ更新してないですねえ。このところ、いろいろあったが、最近は大雪でたいへんである。例年、年明けまでほとんど積もらないのだが・・

読んだ本の話など、だいぶたまっているが、冬休みにまたゆっくりと。

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