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思考について

あるいは、哲学とは単なる理屈あそびにすぎないと思っている人もあるだろう。残念ながら、そのように言われてもしかたのない自称・哲学がたくさんあることは事実だ。だが、真正な、存在そのものを問おうという思考は、深く魂レベルに刻みこまれ、霊的な遺産として残っていく可能性を持っていると思う。というのは、死後世界といわれるアストラル次元にしたって、そのアストラル次元での対象性が存在するわけで、そこに入ってしまえばその世界が実在することには何の疑いももたないであろう。つまり物質世界と同じようなものである。だが「この世界はなぜ存在するのか、存在するとはどういうことなのか」という問いを持つということは、絶対者について思考することであり、絶対者と対象性のある世界との関係について考え抜くことを意味する。そのような思考は、この対象性の世界(つまりはカルマの世界だが)を究極的には超えていくための重要なトレーニングとなるのである。それはシュタイナーの『自由の哲学』にしてもそういう意図のものなので、自分のなかに思考があること、いや、思考が自分であることを自覚するという経験には霊的な意義があるのだ。ただここでシュタイナーが言っている「思考」とは日常的な意味での、あれやこれやと思いをめぐらすことと同じではない。言ってみればそれはある「イデー」に到達し、そのイデーを生きるということかもしれない。『魂のロゴス』では、イデーについてたくさん書かれている。しかしイデーそのものが何であるか定義はしていない。それは予感するしかないものである、というのがそれを書いたときの立場であった。ただ言えることは、私たちは思考の本質に立ち返るとき、ある宇宙的な過程に接触し、ある霊的な世界秩序に自分が組み入れられていることを知るという、そのようなところまで行きうるのではないか、ということである。

この前、質問を送ってきた人がいて、その趣旨は「いわゆる中間的な世界(アストラル、コーザルなどと言われるもの)の経験を経ずして、絶対の経験に到達することはあるのだろうか」ということだった。私は、そのようなことはあり得ない、もしあるとすればそれは絶対とは言えない、と答えた。というのは、絶対というのは存在の根拠なのであって、およそ存在するものはすべてそこに発している。その絶対と合一した精神というものがあるとすれば、それは神なのであり、存在する宇宙すべてが自分であるという状況であるはずである。宇宙にあるすべてのことを直接に知ることができる「全知」である。これを仏教では「大円鏡智」などという。だから絶対に達している以上、存在する世界領域すべてが自己の内にあるものとして無媒介に認識できる。当然そうした世界領域のなかには、非物質的次元、つまり物質界と絶対との「中間」にある領域をもすべて含むことになろう。つまり、このような質問が出てくること自体、絶対と存在について思考を徹底していないからなのである。よく考えれば、中間世界をバイパスするような絶対というのは決して「絶対」ではありえず、それは絶対という概念に矛盾することがわかる。だから、中間世界の認識能力がないままに経験された世界領域は、絶対的なものではなくそれもまた一つの中間的領域であることは論理的明らかだろうと思う。

このような思考は、スピノザ的な神概念を参考にするとわかりやすいだろう。有限な存在者の世界認識は、常に部分的であり、ある一定の視野に映っているもののみを実在世界だと誤認している状態にある。つまりモナドである。私たちはそのような認識限界を拡張していくことのできる潜在能力を持つ。神とは、すべての部分的認識をその内に含む全体集合的なものである。すべてであり、「一」なのである。「無」とは同時に「すべて」なのだ。多くの人は、無というのを単なる対象性の消去された世界領域として思い描くが、これは端的に言って誤りである。禅の老師に「化け物の棲む真っ暗な穴ぐらにもぐっていてどうするのだ」などと言われてしまうであろう。そうした無の世界は、一つの過程として現れてくる一つの中間的領域にすぎない。これを「絶対無」などと誤認してしまうとそれまでであって、そこがきちんとした師匠についてない者の悲しさだ、ということになってしまうだろう。言うまでもないが、「無を覚る」ということは「仏になる」ことと同義である。これは当然「キリスト意識に達する」こととも同義である。そのような神的存在の段階に至ったときに、そこに現れる英知と神的能力はいかばかりのものであろうか。それは想像を絶する。しかし霊的な成長とは、そのような光のエネルギーを知覚する能力を少しずつ高めていくことにあるのだろう。つまり、神的存在がどれほどまで偉大であるかということも徐々にわかっていくものである。

さて、ひきつづきアンリの『現出の本質』である。幸いにしてこの翻訳はたいへん読みやすい。ありがたいことである。訳者はあまり知らない名前だが、略歴を見ると五十を過ぎて非常勤講師だけで、定職にはついていないらしい・・なかなかキビシイ世界である。しかしアンリの研究者として知られている中敬夫の翻訳(『実質的現象学』『身体の哲学と現象学』)ははっきり言ってひどいもので理解不能だったので、出版社もそれを考慮して、ネームバリューよりも翻訳能力を重視して人選したのであろうか。それはともかく、『現出の本質』は決してやさしいとは言いがたいが、アンリの考えようとしていることがら自体が非常によく理解できるので、私にとってはきわめて楽しい読書である。大げさに言えば、西洋哲学はここでようやく本来の道に戻った、とまで言えよう。『自由の哲学』と同じように、存在への思考を徹底することによって、すべての対象性の世界を超越しようという意志が感じられるのである。言語による思考自体はこの物質次元にしか作用しないが、そのような思考を遂行しようとした経験は魂次元に深く蓄積され、良きカルマとして残るのであろう。・・この本を読みながらそんなことを考えているのは世界中で私くらいなものであろうが(笑)。

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