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「ある」ことの問い

私がなぜ現象学に注目しているのかといえば、簡単に言えばそれは「唯識への導入」だからだ。つまり、この世界は実在そのものというよりは「識」によって生成しているのだということ。その「識」とは「世界生成作用」といえばいいだろう。と、こう書くとき私の頭には、映画「マトリックス」とか、カスタネダの本に出てくる「集合点」とか、そんなことも視野に入っているのである。

結局、今の既成の学問では、霊的な次元は何一つとして解明されない。それは何故かといえば、ほとんどの学問は「世界がそこに実在する」ことを自明の前提として出発しているからだ。たとえば、「霊的な世界とは本当にあるのか?」という問いがあるとする。だがそこで、そもそも「世界」とは何なのだ? そして「ある」というのはいったいどういうことなのか。本当にあるというのはいったいどういうことで、それを証明するとかあきらかにするということはいったい何を意味するのか。「ふつうの学問」をしている学者は、このような問いに答えられるのだろうか。そもそも考えたことがあるのか。たしかに、普通はこのような問いを発する必要はない。そんな問いなしでも日常生活には何の問題もない。だが、結局霊的な問題というのは、まさにこうした「存在」そのものが問われることになるのだ。存在するとはどういうことなのか。この問いの解明を回避したところで、霊的な次元について語ることには全く何の意味もない。したがって、宗教や霊的現象を「実証的、客観的」に研究するなどという学者は、決定的に頭がぼけているとしか思えないのである。そんなことは最初から自己矛盾そのものであって、破綻するか、とてもつまらないことをくだくだ述べるだけで終わってしまうことになるのだ。「存在の問い」を自らに引き受けることがあって初めて、霊的な事象についての問いが許されるのである。

そもそも「ある」ということがすでにわかってしまっている、自明のことだ、と思っている人は猛烈なるオバカサンである。あまりに××[ = horse+deer]すぎて話にならないくらいなものなのである。・・と、思わず波動の悪い単語を使ってしまったが、「存在への問い」はいかなる問いにも先行するということ、その意味で、何ものも存在論的な問いより根源的なものはない。そういう意味での哲学の根源性を、人々が全く理解していないこと、これが問題なのだろう。哲学の権威失墜というか、いかに世間の人々が存在への問いという思考を知らないのか、ということには驚かされる。いろいろな先端的な科学理論を寄せ集めたり、脳科学が何事が意識について明らかにしてくれるなどと思うというのは、哲学を全く知らないから可能なことである。養老孟司とか茂木健一郎のような人がはやるのは、哲学が権威失墜しているという状況を表しているのかなあ・・ 茂木も悪くはない。たしかにいい方向のものは出ているのだが、根本的は、脳科学の所見と哲学者としては二流の哲学的考察とのアマルガムのようなものである。「存在の問い」に少しだけ迫りながら、その周りをぐるぐるまわっていていっこうに本丸への攻め方を知らないような感じである。こういうのに満足できる人は、いまだに本当の哲学のすごさ、根源性というものを知らないのである。

と、あれこれ文句を書いたようだが、つまり、この世界、存在の世界を生み出している「世界構成作用」というものが見えているのか、ということが決定的となる。そのときに初めて素朴実在論からジャンプできるわけで、霊的な次元に関する話はすべてそこから始まる。それはカスタネダが「世界を止める」ことができたとき、ドンフアンの見ている世界への入口に立てた、ということと全く同じなのである。そのときに、「私」がこの世界に属していないということもわかる。ということであるなら、「私」は本当はどこにいるのか。そういう問いに接続していくわけであって、すべては、「私」がこの世界とは違う場所にもいるということがわからなくてはならない。そのことがわかる、という事態があるのだ。それを経験した人は私がいったい何のことを言っているのかわかるだろう。

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