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フランス語の読書から世界認識の話

『現出の本質』もいいが、上巻を読んだところで今度は『受肉』の再読の方へ行ってしまった。こっちはなんと言ってもヨハネ福音書の「ことばは肉となった」の哲学的解釈なのであるからこっちのほうが私にはダイレクトにくるわけである。『我は真理なり』『受肉』『キリストのことば』がアンリの神学三部作と言われるもので、私にとってこの三冊の徹底読解が今のところの哲学の勉強の中心かな。これに『精神分析の系譜』と『現出の本質』。読んでみると、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティがなければこの思想はありえなかった、ということがよくわかる。逆に言えばこの三者の思想にある程度通じていればアンリの理解はそれほどむずかしいものではない。また、結局何が問題になっているのかということは、新田義弘の『世界と生命』も役に立っている(ただしこの本の中でのアンリ論は表層的なものであるが)。しかし神学三部作については、『我は真理なり』に英語訳、『受肉』にドイツ語訳があるだけだ。たぶん邦訳の計画はあるのだろうと思うが、当分は『受肉』についてはフランス語で読むしかない(ドイツ語はフランス語以上に読めないので)。といっても私のフランス語というのは、「仏検」というのがあるがあれでいえばたぶん3級しか受からない。2級の問題集を見ると無理そうである。会話や作文などは全くやっていないし。とはいっても抽象概念の単語は英語とほとんど共通しているから、基本的な文法さえ把握していればなんとか読めてしまう。旧制高校の外国語と似たような感じであろうか、専門書を読むことのみに特化した偏った勉強法である。そんなわけでフランス語の専門書はこれまでも多く読んできたが、時間がかかるのはやむを得ない。よっぽど読む価値のありそうな本に限らなくてはならない。

『受肉』のテーマというのは、存在するということは身体性を持つことだということなのだが、これは勝手に拡張していえば、物質界のみに妥当することではなく、あらゆる中間的領域にもあてはまる。つまり物質界というものが存在するように思われるのは、物質界的な身体性を付与されているからだということになる。世界を作り出すのはある種の身体性のあり方なのである。だから物質界とは少し違う原理でできた身体性のあり方というものを仮定すれば、そこに非物質的存在領域が成り立つことにもなる。菩薩のレベルにしたって、物質的ではないがきわめて微細な身体性を有しているのであり、だからこそ微細ではあるがなお存在の領域であって絶対ではないということができるのだ。

そのような身体性の多次元性という考えはさすがに正統哲学者であるアンリにはないが(だから一般の人々は読まなくてもいいと思うが)、存在の階層性という考え自体はアンリ・コルバンや井筒俊彦など偉い学者も言っていることであって、決して「怪しいもの」ではない。

なぜ霊的な次元というものを考えることが今の日本では「怪しい」と思われてしまうのか、とお嘆きの諸兄姉も多いと思うが、それは科学主義から来る「客観主義的世界了解」が学校教育やマスコミを通して一般人に刷り込まれていることが最大の原因であると思う。その世界了解自体に根拠がないことは、すでに百年以上も前から哲学においては看破されているし、科学基礎論・科学哲学による科学主義の相対化も進んでいるので、学問的にはすでに決着のついていることがらである。ただ、客観主義的に世界を理解してしまうという「素朴実在論」的な性向というのは、そもそも人類という種にそなわっている生物的本性なのであろう。犬とかあるいは蚊のような生物は、人間とは異なる形で世界を了解しているに違いないが(それについては日高敏隆『動物と人間の世界認識』参照)、彼らは自分の認識している世界こそが実在世界であると確信しているに違いないのである。自分の環境世界こそが絶対の実在界だと認識するように、生物というものはできているのだ。だから、それを疑うというのは人間のみに可能な高度な認識の可能性を示すのである。つまり、そうした素朴実在論への本性的傾向と科学主義的客観主義との結合が、唯物論的な世界モデルを生み出している状況なのであろう。

したがって、まず、世界がこのように実在しているように思われるということと、「私」において今作用している認識作用とは緊密に連動している、という自覚に至るということが、「哲学的な問い」の第一歩としてきわめて重要になってくる。そのようにしてまず素朴実在論から離陸しないと何事も始まらない。

つまり、「客観的な世界」が実在すると信じているということは、「原理的に、私が経験する世界と他者が経験する世界は同一のものである」という確信を生み出すことになる。その結果は明らかだろう。「自分にとってありえない経験は、客観的に存在するものではない。したがって、他者がそのような経験をした、と主張しているのは客観的な世界を認識したものではなく、ある種の幻想であるに違いない」という了解がもたらされるわけである。したがって、自分の体験の地平にはないことが他者には経験されている、ということを事実として認めることができない。要するに、そんな馬鹿なことがあるか、頭がおかしいんだろう、という反応に至るわけである。このような態度が生み出されるのは、客観的な世界が実在するという根拠のない確信に基づくのである。

繰り返していうが、そんな考えに根拠のないことは哲学者なら誰でもわかっているし、いまさら学問的な解明など必要のない、すでにわかる人にはわかってしまっていることにすぎない。ただ、そういう考え方を学校で教えることがなく、日常生活の大部分が客観主義的な世界モデルをベースに構築されている以上、「多勢に無勢」というのが正直なところなのである。

なぜ私が、茂木健一郎のような人間的にはとてもイイ人のことをブログで批判しているのかといえば、茂木への加熱した関心というものは、結局、客観的な世界了解を手放すことができないまま、何となく認識の問題の重要性に気づいている、というような世間の人々の哲学的なあいまいさの現れであり、今の時代状況からする一過性の現象に思われるからである。茂木の本ではすべての認識には主観性が伴っていると主張しながら、脳という一個の存在者だけは客観的に存在することを前提するというのは誰でもわかるような自己矛盾、前提の先取なのだが、このような不徹底さに気がつかない読者はやはり哲学をきちんと勉強したことがないのである。その点で一つおもしろかったのは、茂木と天外伺朗との対談、たしか『脳で心は解き明かせるか』とかいう題のブルーバックスだったと思うが、この本の最後では天外伺朗が唯識のことをちらっと持ち出して、「そもそも意識が先にあったと考えてはなぜいけないのか」と茂木に迫っている。茂木はそれにタジタジとなり、そう考えてはいけない理由はないということを認めている(このような正直さがあるのが茂木のイイ人であるところなのだが)。脳科学は脳が実在することを前提としているが、そもそも脳というものが客観的に実在する(つまり我々の主観とは独立して)ということは決して論理的に証明できないということは、茂木ほどの頭があれば気がつかないはずがない。それでも何となく脳について語るのはやめないのはどういうことなのか、その辺の脳科学ばなしのあいまいさ、いいかげんさというものが私は好きになれないのである。

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