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アンリは「隠れ神秘哲学」?

アンリの哲学も根本から見ればスピリチュアルなものである。つまり、神と人間とは根本的に同一であることを言おうとしている。その意味では東洋哲学に近づいたと思う。ハイデガーではまだ、自分と「それ」との分離感が残っていたようだ。読むたびに、西田幾多郎との近さをはっきりと感ずる。

ここまでやってきて一つの結論としていえることは、哲学から一つだけ何かを学ぶとしたらそれは何か、といえばそれは「超越論的」な考え方だ、ということだ。これを簡単にいうことはむずかしいが、一つのとらえ方としては、「私はこの世界に属してはいない」という自覚として受け止めるのがわかりやすいかもしれない。「私」とは、この「世界」に属しているけれども、同時に、この世界を超えた場所にもいる、ということだ。もちろん私の意識が脳によって生み出されているなどという考えは妄想に近いものであり、まともな哲学者でそんな妄言を信じている人は誰もいないだろう。超越論的な考え方というのはカント以来哲学の伝統としてあるものだが、それがわかってしまえば、唯物論か唯脳論か知らないがそんなものはカッパの屁にも等しいものである。「私」が世界に属していないというのは、「私」という場において、この世界を構成する作用自体が生起しているということである(それは必ずしも今ここの「私」が世界を生み出している、ということとは同じではないのだが)。つまり「私」という場は、世界よりももっと本源的なある場所へ向かって「開けている」のである。いや、むしろ、この「私」こそ、そのある本源的な場所の「自己分与」として成立しているのではないか、というのがアンリの思想である。アンリは要するに「人間は神の子である」という思想をひじょうにむずかしく厳密に言おうとしているにすぎない(と、大胆にも断言しているが・・)。存在の世界はすべて神であり、世界はすべて神が変身したものである、ということだ。私が、「私は私である」という意識を持っているのも、つきつめれば私の本質が神であることに由来している。というわけで単純化してみればアンリの思想は神秘哲学の基本に忠実なのである。エックハルトの現代的形態ともいえよう(ベーメの名もよく出てくる)。アンリはそうした本源的な場の自己贈与として存在者の世界が成立すると考えているが、これは西田哲学ときわめて近い発想法であることに気づく人は気づくだろう。つまりアンリにおいて、ハイデガーが着手した西洋の形而上学的伝統の転回は終局に達し、そこに新しい形而上学の成立を認めることができると思う。

やはり哲学者というのは一流だけを読むべきで、それ以外はあまり相手にすべからず、というのは基本法則かもしれない。入門書としてすぐれた『フッサール起源への哲学』を書いた斎藤慶典にしたって、どこまで見えているのかといったら、どうなのか。今回、斎藤が「ここまで」と筆を止めたところの数歩、いや数十歩先までアンリは見通していた、しかも初期の『現出の本質』においてすでにそうなのだ、ということを確認してしまったのだった。

とは言っても、やはり哲学というのはまだるっこしいといえばたしかにまだるっこしい。文章も要するに外国語のようなものだから(日本語で書かれていても)、まずその言葉を覚えなくては何を言っているのかひとこともわからない。数学を勉強しなければ物理学の本は全く読めないというのと同じことである。というわけで、今すぐに何とか救われたい、という要望には全くこたえられない。哲学というもの自体にそれほど過大な期待を抱くべきではなかろう。それは知的に整理をするための道具の一つに過ぎない。本当に重要なことは哲学の外にある。そのことに気づかないで、哲学書さえ読んでいればいいと錯覚している哲学者を二流というのである。ま、私はべつに哲学という土俵で勝負するつもりはなく、ただ自分に都合のよい部分を使わせていただくだけだと思っているから、気が楽ではあるが。

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