『エーテル界へのキリストの出現』2
『エーテル界へのキリストの出現』から、キリスト論とは直接関係がないけれども、「生きる意味」ということではいろいろ考えさせる言葉を引いてみたい。「精神的な新時代とキリストの再臨」という文章だが、
・・人間は二つの流れのなかに立っているということを、私たちは自分の内面に銘記すべきです。一つの流れは、私たちを日常生活の中に置きます。別の流れをとおして、心魂は未来の王国を見上げます。その流れをとおして、心魂は全体との関連において理解すべきものを、初めて明らかにできます。
そのように考えても、「あまり気持ちにそぐわない今の仕事は、全世界のいとなみにとって、ほかの仕事よりも意味深くない」と評価するようになることは、決してありません。どんなものであれ、私たちが行うことのできるものは全体にとって等しく重要だ、ということを明らかにしなくてはなりません。
生活は、個々の小石を組合わせたモザイク画のようなものです。個々の小石を組合わせる作業をする者は、モザイク画のプランを考えた人よりも重要でない、ということはありません。神的・霊的な世界秩序に関しては、最小のものが最大のものと同様に意味深いのです。そのことを洞察すると、人生に容易に入り込む多くの不満から自分を守ることができるでしょう。
・・生活のなかに何らかの不満があるのは、大きな宇宙秩序のなかでいかに不適切かということを、内的な沈潜をとおしてしばしば明らかにすると、人智学者はずっとよく行動できます。無意味なように見えるものを私たちが生活のなかで正しく遂行しないと、宇宙全体が進化できません。正しく遂行すると、存在の重大な諸現象に対して正しい感受性を保つことにもなるでしょう。
・・私たちの心魂がなすものを用いて神的・霊的な宇宙秩序が企てるものは、神的・霊的な宇宙秩序に委ねなくてはなりません。私たちが自分の心魂に働きかけ、カルマの合図に注意すると、私たちが行わねばならないものが見えてくるでしょう。
・・私たちが心魂のなかで達成したものを、外的な社会的地位によっては、世界のなかで用いることができないということがありえます。学んだものを世界のなかで役立てるのがよい人智学者だ、という考えは最も誤ったものになりかねません。
たとえば、何十年も自分の内にある人智学衝動を役立てることができない、ということがありえます。だれかと一緒に駅へ行って、ほかでは言えない重要な言葉を語ることができるかもしれません。この行為が、広範囲な行動よりも重要かもしれません。私たちは自分が行えるものを明らかにしなくてはなりません。そして、それを役立てるべきときは、カルマの合図によって私たちに示される、ということを明らかにしなくてはなりません。
p.35-37
ここだけでも、「生きる意味」ということについては多くの洞察が含まれていると思うのだが、どうだろうか。
何よりも、この文章に流れている「神的・霊的な宇宙秩序」に対する畏敬の感情が、たいへん心地よい波動として伝わってくるのが感じられる。
この「神的・霊的な宇宙秩序」に対する信頼という根本的な気分を保つことこそ、この地上生活における「幸福」にとって不可欠ではないか、と私は信じるものである。それを保つことができれば、自分が何をすればよいのかということはおのずとわかってくるのではないかと思う。
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