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スピリチュアル思想超入門

・・と、ほめたと思ったらすぐ、一太郎はフリーズの連発。プログラムの再インストールまでしたがだめで、どうもファイルそのものが怪しいらしく、全文コピーで新規ファイルに移し、保存し直したら治った。人騒がせだが、覚えておいていいリカバリー手法である。

一太郎が重いという印象があったのはWindows3.1や95の時で、いまはマシンパワーも上がっているし全然問題はない。ふりかえると、パソコンの環境が成熟してきたのはWin98くらいからだろう。実はこのマシンもWin98であるが、インターネット、ワープロ程度なら何の問題もなく使える。98が出るまでは過渡期であって、コンピュータがめざそうしている理想とマシンパワーとの間にギャップがあり、あの数年間は1,2年ごとにマシンを買い換えなければならなかったように記憶している。486SX33, 486DX2-66, Pentium133などと買い換えたがすぐに使えなくなった。ところがWin98が出てすぐ買ったマシンは、メモリの増設をしただけで7年も使える。数ヶ月前のWin95モデルを買っていたら1,2年で買い換えなければならなかったろう。過渡期と安定期というのはこうも違うものか。いまから思うに、このWindowsの過渡期にはMACで過ごし、Win98以降の安定期になったところでWindowsに乗り換える、というのが最も賢かったようだ。しかしこの早い時期からインターネットなどもやりHPを立ち上げたりしたことから、いろいろな出会いがあって今日に至っていることも事実なので、コンピュータへの投資は無駄ではない。いまはこれ以上不必要な投資はいらないという感じだが。ただ、無線LANやプリンタ複合機などで「Windows98SE以上対応」というのがぼつぼつ出始めて、もうすぐおしりに火がつく可能性はある。

ともあれ最近は地味に過ごしているが、時間がとれる時期になったので、少し原稿にも着手している。今度のは「魂のロゴス」と内容的には似ているが、もっと一般読者向けのものである。江原とか坂本などでこういう世界に興味を持った人々を主なターゲットにして、実はそういうことはマイナーなぶっ飛び話ではなく、東西の伝統に根ざした「思想の本道」とつながっていることなのだ、ということを示す、というコンセプトである。いわば「スピリチュアル思想超入門」といった感じ。これはアカデミズムの権威でハクをつけるという意味ではなく、思想本来の力を回復させるということ。つまり「人間はどこから来てどこへ行くのか」という問いへの取り組みが思想であったはずだし、宇宙とは何なのかというヴィジョンでもある、ということだ。一方で、ここのところの現象学への取り組みも反映されると思う。

ようやく復活

山場のセンター試験もなんとかノートラブルで乗り切り、そのあと代休なしで講義の最終回などが入り、ようやく落ち着いた。現実的に、ある程度まとまった時間が取れないと長いものを書き下ろしていくことはむずかしい。結局のところ冬休みにやりかけたところから再スタートである。

私は縦書きでないと思考できないので、最近はもっぱら「一太郎2004」を使っている。これは実際よくできている。このところ一太郎のシェアは落ちていると思うが、Windowsが出始めた頃の一太郎はたしかに使いにくく、ワードが数段勝っていた。その後のバージョンはやたらに重かったので、見切りをつけてワードに乗り換えた人が多かっただろうと思う。私が使ったのは6,9,13と2004だけだが、13では見違えるくらいよくなっていた。2004では普通の文章を書いている限り(画像バリバリだとわからないが)、特に重いと感じることもない。ここのところは横書きの事務的文書はワード、縦書きは一太郎と完全に使い分けである。石川九楊の『縦に書け!』ではないが、文章を縦に書くか横に書くかは決してどうでもいいことではないので、このような物質的条件は精神にも影響を与える。それを感じないほど鈍感にはなりたくないものである。

もっとも私はMSオフィスの方も特にバージョンアップする必要を感じないので、ワードは98、エクセルとパワーポイントは97である。最新のファイルも読み込めるし私の業務には全然問題ない。

新しいパソコンもそろそろ買おうかと思うのだが、とりあえず私のやろうとすることは間に合ってしまうので、なかなかモチベーションが出ない。買うならメーカーの直販サイトで、最低限のスペックを選んで安くあげるつもりだ。文書作成がメインということならば静音性も重要なポイントである。だからデスクトップは対象外である。

ま、とにかく、「何でどう書くか」はどうでもいいことではないのだ。日本語入力の環境ということではかなり気にしている。ATOKだけは最新のものにしたりする。

『科学と日常性の文脈』

講義の準備として、ひさびさに村上陽一郎の『科学と日常性の文脈』を読んでみた。
まあ、だいたいは私の理解している通りだったし、それを確認したということ。特に新しいものはなかったが、本当は哲学のひじょうにこみいった議論になるものを、できるだけ日常語を用いてわかりやすく書こうと奮闘しているのはアッパレ、という感じの本である。

テーマとしてはフッサールの『危機』書である。まあ、村上が言うようなことはほとんどフッサールがすでに書いているとも言えるが。

つまり「リアリティとは共同主観なのだ」というパラダイムであるし、その共同性のレベルというのは無限にあり、いわば階層的でもあるということ。そのような共同主観の重層という世界にあって、科学の意味世界は上位層にある。しかし最も基底的なものはわれわれの「生」なのであり、上位の抽象的意味体系である科学を絶対的基準軸として「生」をとらえようとするのは転倒である・・

・・あっと、簡潔に書こうとするとやっぱり言葉がむずかしくなってしまう。これでは普通わからんな。そこのところをかみ砕いて書こうとしている村上はたいしたものだ。

古い本だがロングセラーというのかまだ売っているようである。古本のゲットがおすすめか。

科学と日常性の文脈科学と日常性の文脈
村上 陽一郎


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どうでもいい話だが

自動車保険は、結局、全労済を継続することに決めた。というのも、ソニーは全労済からの引き継ぎだとインターネット割引きが使えなくなるため、それだとほとんど保険料が変わらなくなるのだった。だとすれば、乗り換えるのもめんどうだし、前の事故のときの全労済の対応にはべつに不満はなかったということもある。それとソニーのサービスセンターは他の通販系より多いとはいえやはり関東なので、その点がどうかなあ・・という所も。まあ外注で契約してる人があるんでしょうけどね。というわけでもう一歩乗り換えのエネルギーが出ず。ためしに同条件で損保ジャパンのWEB見積もりをしてみたら13000円くらい高かった。東京海上なんかもそんなものだろうから、共済やソニーはそれでも安いわけだ。

さて・・目前に迫るのはセンター試験。実はうちでは本会場になるのが今年初めてなので、学内にはやや緊張が走っております。日頃ぐーたら生活を送っているので、二日間の長丁場を乗り切れるか。まあ監督は、問題を解くより楽には違いないけれど。

そういうわけで、年末にアンリの原語読解に「タイム」が入って以来そのままで、このところあまり勉強しているとは言えませんな。少し仕事が片づいたら、アンリのほか、現象学からの空間論とか、空間デザインへの展開といったところを勉強してみたいと考えている。たとえばボルノオとかバシュラールの「空間の詩学」なんて、ずいぶん昔に読んだけれども、ああいうのを新たな視点で、ということ。つまり、スピリチュアルというのは心の問題ではあるが、心の問題ということは「何をもって美しい生活というのか」という問題でもあるのだ、ということだ。したがって、スピリチュアルに目覚めた人々は、自分のまわりの世界を少しずつ美しいものにしていくようになる・・はずなのである。本当に美しい生とは何なのか・・というイデー(理想といってもいいが)は、文明というものの基礎なのではないか。お金をたくさん儲けた人が偉いという社会になってはもはや文化はオシマイである。なーにが「勝ち組」だ。笑わせちゃいけないということである。

自動車保険

冬休みが終わるとそうひんぱんに更新というわけにはいかない。

このところ、自動車保険の満期が近いので、いろいろ情報収集。なかなかむずかしく、WEBで何時間もやっていて、疲れてきてしまった。保障内容などはすぐわかるが、問題は事故の時の対応能力である。これはなかなか、実際に事故になってみないとわからないのだが、大手で保険料が高いところならいいかというとそうもいえないらしい。私はいままで共済できているが、一般に共済は対応については評判がよいとはいえない。それでも私は一回だけ事故の経験があるが、特に対応が悪いという印象もなかった。結局は担当者の資質で、どんな会社にも「はずれ」はあり、要はその確率の差なのかもしれない。通販系の会社ではこのサイトの情報がよい。筆者は損保会社の現役調査員であるらしい。

http://www.sonpo-direct.com/

はっきり明言はしてないがいろいろ読むと筆者の意見は明らかで、「通販系で事故対応がよいといえるのはソニー損保だけである」という結論だ。ソニーは通販にしては安いとはいえない。私がHPで見積もってみたところ全労済より数千円安いという程度だが、それでも既存損保よりはだいぶ安くはなる。もっとも激安なのは三井ダイレクトで、「損保業界の吉野家」をめざしているという。当然事故対応に力を入れているとはいえないので、とにかく安いのがいいという人向けなのだろう。

絶対に止めたほうがいいのはチューリッヒである。HPには「顧客満足度第一位」などと書いてあり、通販系で唯一等級プロテクト特約まであるのでいいかと思ったら、よく調べると去年、金融庁の行政処分を受けている。事故対応の体制がダメダメだということで、対人事故の3割が1年以上の滞留、社員一人当たりの担当事故数は他社の二倍以上・・とかとんでもないことになっている。それと、また別の、消費者団体による保険格付けというHPを見ると、他の損保の格付けはみな「会員のみ公開」になっているのに、チューリッヒだけははっきりと「D」と出ていて、「これだけはいかん」という意志が表明されているというのは・・ そんなにヒドイのか? HPだけ信用するとたいへんなことになるので、調査は欠かせない。しかしだいぶネットばかり見ていて疲れてきた。このへんでやめるか。

しかしまあ、全労済継続かソニー損保あたりだろう。JA共済も、等級プロテクトがあってよいのだが、JAは地区ごとに別組織なので、担当者の能力にはかなりばらつきがありそう・・というのがどうか、特にわが地区のJAは少し前、職員の横領事件などが発覚しており・・というのでちょっとね。

ま、紹介したサイト、役立つから見てみ。

縦書き、そして東西の霊性

これから原稿を書こうということで、「一太郎」をインストールしてみた。

これは縦書きで原稿を書くためである。MS-Wordでは縦書きで入力していくことはなかなかむずかしい。私は、印刷時に縦書きになるはずのものは書くときも縦書きでやるべきだろうと思う。そういうことでこれまで縦書きはエディターでやってきた。まえはQXエディターで、最近はWZエディターである。これでもいいのだが、表現上、どうしてもゴシック体を使うとか、文字装飾をやりたいことがある。エディターではそれは無理なので、ワープロで縦書きができるものといえばやはり一太郎なのだ。

インストールしてみると、非常によく考えられている。「書く」という作業をサポートする工夫がいろいろとなされている。特に「プロフェッショナル画面」という機能は大変便利である。エディターほど軽快ではないのはしかたないとはいえ、原稿を書くには十分そうである。縦書きで文章を書きたい人はすぐさま買うべきであろう。実際、ジャストシステムは、そんなふうに書くことに強いコダワリをもっている人をターゲットに設定して生き残りをはかっていると思われるので、縦書き対応はかなり真剣にやっているのであろう。

前に紹介した石川九楊にはそのものずばり『縦に書け!』というタイトルの本がある。日本人が縦に書かなくなったためにいろいろ文化の堕落が起こっていると言っているらしい(読んではいないが、だいたい他の本の内容から推して)。実際、横書きと縦書きとでは文章を書くときの感覚が大幅に違うことは、いつも経験することである。当然に手書きとワープロでは異なるが、さすがに長い文章を手書きで書くのはいまとなってはきつい。昔はそれが当たり前だったのだが。長い論文を清書して腱鞘炎になったというのも昔の話である。ワープロの便利さはなかなか捨てられない。

それからもう一つ、ワープロの利点は「速い」ということがある。思考の速度に書く速度を近づけることができる。手書きの遅さはある意味では物質性の抵抗であり、その抵抗を感じつつ書くのがよいのだという立場もあると思うが、一方で、思考の速度に書くのがついていかないと嘆いていた人も過去には多いのである。哲学者のフッサールは速記法を学んでそれでノートを書いていた。普通に書くのでは遅すぎて、まだるこしくてしかたがないのだろう。石川氏は、物質の抵抗を感じることに価値を見出しているが、一方で、そうした抵抗が薄くなり、徐々にアストラル的世界にこの世界が近づいているということも、事実としてはあることだ。

それはともかく、私が書こうとするのは、いま「精神世界」といわれているものがまだサブカルチャー的な位置づけになっているものを、もう少し「伝統」とつなげていこうという動機に発している。「アカデミズム」と結ぶというのは、実はどうでもよい。それよりももっと広い意味での東西の伝統である。人間の核心がスピリチュアルな次元にあるというのは何もオカルトでもニューエイジでもなく、それこそ本来の伝統の核心であるということである。それを現時点で論ずるとすれば、当然キリスト教と仏教の長所を融合した霊的世界観ということになる。その意味で、霊的な世界観をもっと「まっとう」なものとしていこうという目的は持っている。

ここで注意してもらいたいのは、私がやろうとするのは「東洋の霊性と西洋の霊性」の融合なのであって、トランスパーソナル心理学がいうような「東洋の霊性と西洋の心理学」の融合ではない、ということである。そういう発想は、いまだ西洋の霊性の深みをとらえていない議論であろうし、何より、キリスト教というものの奥深さを知らない人の発想のように思われるのである。私がウィルバーを批判する点も、西洋人でありながらあまりに非キリスト教的であるということが一つある。キリスト教の深みを理解しないということは、それだけ仏教のとらえ方もまた深みに限界があるということでもある。仏教も、キリスト教と同様、合理的知性だけで到達できるようなものではない。キリスト教に比べて仏教は知性的だから良いというような考えは、神を見失った近代知識人のタワゴトなのだ。

スピリチュアルにおける「米とおかゆ」

さて、「関戸本古今集」につづいて「高野切第二種」も読破、つづいていよいよ「元永本古今集」にかかるか、というところ。これはなんと古今集全巻が残っている。紙も美しい。工芸品ですね。

しかし、こんなことばかりもしていられない・・ いちおうここは「スピリチュアル系ブログ」ということになっているらしい。そもそも「スピリチュアル」って何? というソボクな質問がもっともコワイわけだが、それはこう考える。正統派伝統キリスト教では「イエスが救い主であるとはっきり言い表すこと」を信仰の本質であるとしている。その言い方でいえば、スピリチュアルとは、「人間の本質とは永遠の生命であること」をその本質とする、と言っていいだろう。そのことについて、初めはそれを「信じる」ことから始まり、「予感」を経てはっきりと「知る」に至る過程を、スピリチュアルなことだということができる。

まあ、それが根幹なのだが、そのほかにいろいろなことがある。魂とは何かとか、輪廻転生とかの問題だ。これらについては、「これまで地球の各地で伝えられてきたことをすべて総合する」ことによって新しいスピリチュアルな「地図」を作ることが求められている時代だ、ということである。それが『魂のロゴス』で提唱されている「普遍神学」なのである。

霊的なことがらが徐々に社会に受け入られつつあるという時代の変化を多くの人が感じているだろう。それはいまのところサブカルチャー的なものであるが、これからも社会の変化は確実に進んでいく。

それにしても・・江原啓之は最初『人間はなぜ生まれいかに生きるのか』というマジメな本を出したものの全く売れなかったが、だんだん、「スピリチュアルな考えを広めていくには、『米』よりもまず『おかゆ』を差し出すことも必要だ」と気づいて、女性向けの軽いノリの本を出し、それがヒットした。そして有名になってから、本格的な「米」の本も書き、ある程度は売れるようになった。『スピリチュアルな人生に目覚めるために』というのは文庫の書き下ろしだが、コンパクトに「霊的な知識」をまとめているものだろう。

まだまだいまの世の中ではスピリチュアルについて「おかゆ」的なものが求められているし、江原とはまた違った角度からかみ砕いてスピリチュアルな世界観を解説するようなものも必要だろう。昔あった「まんだら浩+珍太郎」の対話ではないけれども、あの種の「おかゆ」もこれからは作ってみたいと思う。『魂のロゴス』なんかは、どうしてもすでにある種の「感覚」が開いている人にしかわからないところがある。とはいっても、もちろん、そういった「感覚」がないのに本当にわかるということがあるはずもないのだが、しかし、そういう世界への道筋をつけるということも大事なことではある。坂本政道がブレイクしたのも、結局、ああいう人材がいま必要とされているのに、需要に対して供給量が少なすぎるからそれに集中してしまうのであろう。


スピリチュアルな人生に目覚めるために―心に「人生の地図」を持つスピリチュアルな人生に目覚めるために―心に「人生の地図」を持つ
江原 啓之


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「本音」で書いてあるところが面白い。いちばん書きたいのはこういうものだそうで、テレビからは折を見て引退したいと言っている。
つまりいちばんわかってほしいことは、「永遠の生命の自覚に至るまでの霊的な成長」ということなのである。そこをしっかりおさえているところが大事なところだ。

かるたと占いの話

ことしも始まったが・・ 年末はアンリの哲学書(フランス語!)をがんばって読解していたのだが、大晦日にはもう疲れが限界に来た。やはり「哲学はきわめて健康に悪い」ということは事実のようで、どうも人間の基本的なバランスを崩してしまうほどの左脳過多になるのだろうか。最近、音楽なども減っているので、もう少し身体性の世界に接しなくては、と思う。

そんなわけで正月からは思い立って、「筆文字のテキストによる古典の読解」という趣味的な世界に走っていた。たとえば古今集を筆写した「高野切」などの本だ。実は、どう書いてあるか脇の方に活字で示してあるので、それを対照すれば解読はむずかしくない。こうやってみると、ふだん楷書の活字体で日本語に接しているのはやや偏った世界なのだなと思う。手書き文字には「ことばの身体性」が豊富に含まれているが、活字はそれを捨象し、純粋な記号にしてしまうのだろう。手書き文字をあまりに軽視するようになると、ことばに対する感覚が狂ってきて、ひいてはそれが精神のいびつさをももたらしかねない・・というようなことを、石川九楊という評論家がさかんに書いているが、たしかにそういうところはある。ただ、彼の本にはちょっと飛躍が多く、「ことばの身体性」というテーマを哲学的に掘り下げるような部分がもう少しあればいい、と思うが。

それから正月ということで、百人一首も・・こちらも、活字で書いてあるかるた札では雅趣が半減する。昔の歌かるたにかんする本を見てみると、尾形光琳のつくった歌かるたというものがある。これはすばらしいものだ。1989年に小学館から出た『百人一首の手帖--光琳歌留多で読む小倉百人一首』という本に全部出ているのを入手した。古本屋検索サイトで見つかるはずである。文字の方も光琳が自ら書いたらしい。

それから1984年に平凡社から出た『歌留多』という本を図書館で見つけたが、こちらはかなりの豪華本。それを見ると、歌かるたの歴史がわかる。百人一首を選んだのは藤原定家であるが、それをかるた形式に仕立てるというのは、南蛮文化の時代に西洋のカード(いわゆるトランプ)が渡来して、それに刺激されたためだろうという。その時代の西洋のカードは、まだタロットカードとトランプとが分化していない時代であり、その図像をみるとだいたいマルセイユタロットに近い。それに刺激されて日本で「天正かるた」が創られたのが、日本でゲーム用カードができた最初のものである。それから「うんすんかるた」という75枚のものができた。そのすべてが『歌留多』にのっているが、マルセイユタロットとくらべると、大アルカナがなくてスイートが5つある。太鼓の文様のような「三つ巴」のスイートが追加され、各スイート15枚。数札は1から9までであとは絵札。その中になぜか一枚「龍」が入っていて、残り五枚は武者姿。女性は入っていない。どういうふうに使うのかはよくわからない(当時の西洋での遊び方もよく知らないのだが、当時はたぶん占いではなくトランプのようにゲーム、賭博に使用されていたはずである)。こうした天正かるた、うんすんかるたは賭博として大いに隆盛したが、賭博を問題視する幕府の禁令が寛政の改革で出され、そのためかるたの代わりに作られたのが花札である、と説明されている。

よくできたカードというのは美しいものである。最近は日本でも増えてきたが、英語圏では「カード付き」というものが精神世界系の本にはかなりよくある。ドリーン・ヴァーチューのエンジェルカードなどは日本でも有名だろう。ちょっと絵がいまいちのものも多いのだが、ヴァーチューの Archangel Oracle Cards はなかなかきれいである。

およそ「遊び」の本質の一つとして「偶然性に身を任せる」ということがあり、それは「宇宙に身を任せる」ことの快感として感じられる、と古来(ホイジンガ以来)の遊び論でいわれていることである。占いを馬鹿にする人は男性に多いが、あまりに左脳中心になっている人は、自我を一時的に宙づりすることの快感を楽しむということがわからない。女性はそのような快感に敏感である。というわけで、宣伝もしないのに女子学生がたくさん「タロット占いをしてくれ」とやってくるのだが、最近はベーシックなライダー・ウェイトのカードを使っている。これにもいろいろバリエーションがあるが、Radiant Rider Waite というものである。こちらは色遣いがかなりはっきりしているが、実際に占うにはとても使いやすいものである。ウェイト系では Universal Rider Waite もいいが、こちらはやや母性的で優しい波動をしているように感じられる。タロットに限らず占いとは遊びであり、遊びでよいのである。ただ遊びというのはなかなか深いものである。宇宙的な遊びというのもあるのだ。

占いを批判する人は、どのカードが出たらあなたはこう、と機械的に決まるものだと思っているらしいが、実際にはそんなに単純なものではない。同じカードが同じ位置で出ても、その読み方は千差万別で、だいたい相手を見ながら直感的に浮かんだことをしゃべることが多い。占いとは実は半分以上はカウンセリングであるというのが実感だ。占いというシチュエーションで、出たカードを前にすると、不思議と相手は自分の心のある部分を開き始めるので、それを敏感に察知して、その人の心の奥に動いているエネルギーを感じ取り、その状況において何か適切なことをそのカードからの連想で思いついて言う、という感じで実際には進んでいく。そういうふうに「自分の心が受け止められた」と感じた場合、それを「当たった」と理解するわけである(だからガードの固い人は「当たりにくい」ことになる)。べつに神秘的なところがあるわけではない。

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品切れなので古本になるが、1000円前後で買える。


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石川九楊は最近かなりはやっている。たとえばこれ。いささか強引な論法も目立つが・・


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英語力要。日本語版もあるのかもしらんがよくわからない。
男でもっている人はあまりいないかもな・・


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