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宇宙モデルの話

きのうはやや過激なことを書いたが、さいわいにまだ抗議メールは来ていない。

もし、「上座部仏教なんて、あれこれ言葉で分析するばっかりで、そんなことで悟れるわけないでしょう」と言ったら、それは一知半解の不当な批判である。残念ながら、スマナサーラ師の他宗教に対する批判は、その程度の次元のものが多い。これは決して彼をバカにするということではなくて、言うべきことは言っておきたいというだけのこと。しかしながら、自分の師を選ぶという場面に立った時には、そういう言葉が出てくるという事実は判断の材料になる、ということ、私が言いたかったことはそれだけである。

ヴィパッサナーは確かに効果的な技法である。だが私は、それが上座部仏教の価値観とセットで提供されている限り普及に限界があると思う。ゴエンカ師のグループでさえ「人生のドゥッカ(苦)を超えるにはこれしかないんです」というような言葉を言うそうであるが、そこまで言うと宗教になってしまう。スマナサーラ師の団体は最初から宗教法人であるから当然であるのだが、私が思うにヴィパッサナーがこれほど広まったのは、宗派の枠を超えたその技法の有効性にあると思う。だから、ヴィパッサナーを学ぶには、むしろそういう宗派的なからみのない西洋人系の方がよろしいかもしれない。西洋人の書いたヴィパッサナーの本もたくさん出ているので、そちらの方が現代人向けだろう。サイコセラピーとの併用などもさかんに試みられている現状である。決して、上座部仏教がいまさら日本に復権するという話ではないのである。特別な機縁をもっている人を除いては、そんなことはありえないと思う。(同時に、チベット仏教をいまの日本でそのままやるんだ、なんてこともありえるはずがない)

しかし、唯識とならんでアビダルマを学ぶということはひじょうに有効であるので(伝統的には、アビダルマを八年やってから唯識に進むことになっていたのだが)、スマナサーラ師のアビダルマ講義シリーズには大いに期待してよいと思う。

ともあれ、「人生はドゥッカであり、早く出離せよ」という教えは、一面の真理をもつが、部分的真理であって、それだけでは現代の霊性として十分でない。それなら「神との対話」シリーズの方がよっぽどいい、と思っている。

スマナサーラ師の『死後はどうなるの?』は上座部仏教の立場から死後世界を解説したものだ。要するに、どういう世界に行くかは心の持ち方で決まる、ということで、それはそうに違いない。その具体的な説明としては、六道輪廻が中心となっている。しかしこれも、師が超感覚で実際に見たというよりは、教典や宗派の教えを解説しているに過ぎない、という感じがする。

「永遠の哲学」による宇宙の基本モデルによると、宇宙はこの物質界の他、アストラル界、コーザル界、プルシャ界、そして絶対(無、空)という次元に大別されるといわれる。六道輪廻(地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天)というのは(人のレベル以外は)基本的にアストラル界のことをいうようだ。仏教で「三界」と言った場合にはだいたい、物質界・アストラル界・コーザル界を総称しているようだ。そこまでがカルマによる輪廻がありうる領域である。カルマを超える、輪廻から抜け出すというのはプルシャ界以上に行くという意味になる。

三島由紀夫の小説にもある「天人五衰」というのは、よいカルマによって天に昇った魂も、そのカルマを消費してばかりだとそれが尽きてしまい、いつかは転落するという話だが、これはアストラル上界のことを指すらしい。

スマナサーラ師は、神々もまた落ちることがあると言っているが、それがアストラル上界なのか、コーザル界なのかよくわからない。一般に神々と言われる存在はプルシャ界の次元であり、そこはカルマを超えているので、転落は起こらない。私の立場からは、スマナサーラ師は間違っていると明言することはできないわけだが(自分で見たわけではないので)、少なくとも、上座部仏教における宇宙次元のとらえ方は、永遠の哲学のモデルとは異なっているということは指摘しうるだろう。プルシャ界、コーザル界などについての明確な概念を持っていない、ということになる。『死後はどうなるの?』という本を書くからには、自分が実際に超感覚で見たことを書いてくれるのを読者は期待するわけで、ただ教典の解説くらいなものでは「はぐらかし」であるだろう。(そういえば、ウィルバーの「死後世界解説」も、『チベットの死者の書』の解説に終始していていて「はぐらかされた」という感想を持ったことを思い出すが)

いま、日本でヴィッパサナー指導者として有名になっている人がいる。彼がまだタイで修行生活をしているころ、その人の奥さんがある大学の図書館に勤めており、私はそこへ非常勤で行っていたので、何度か話をしたことがある。

ヴィパッサナーを始める前は五井昌久先生の「世界平和の祈り」をやっていたと言っていた。それに見切りをつけた理由は、五井先生が亡くなったときに「神界に帰った」と言われたことであるという。その夫婦の理解では、「神界」とは「天界」のことであり、天界というのはよきカルマが尽きてしまえばそこから落ちるわけなので、そういう先生について行っても駄目だと思った、というのである。それを聞いて私はちょっと信じられなかった。明らかにそこには概念の混同がある。五井先生が「神界に帰った」とすれば、その「神界」というのはプルシャ界のことなのである。ところが「天人五衰」が起こりうる天界とはアストラル上界のことを言うのである。こういう区別がわからないらしいのである。

永遠の哲学における宇宙次元モデルについては、右にのせてある『忘れられた真理』に詳しく説明してあるので、知らない人はぜひ参照してもらいたいと思う。

自分には何もわからないから判断しない、というのはどうだろうか。少なくとも世に提出されているいくつかの考え方を比較して、どれがいちばん真理に近いのか、その時点で自分のもっているすべてを動員して何らかの判断をするということは、どうしても必要になると思う。そもそも「悟り」とはいったいどういうことであるのか、それについてまったく何のイメージも持てなかったら、どのように進歩していくのだろうか。目的地がわからずに歩き出すことはできない。あとで間違ったとわかってもいいから、いまそこで自分にできる限りの霊的判断(それを「サニワ」と言うが)はしなくてはいけないものと思う。

私はそのような立場から、上座部仏教における宇宙次元のとらえ方には限界があり、永遠の哲学でのモデルの方がより全体的であり、現代の霊的地図にふさわしい、という判断をするのである。

上座部仏教とキリスト衝動

上座部仏教の長老、スマナサーラ師の著書をいくつか読んでみた。「釈迦の瞑想法」シリーズの3『自分につよくなる――サティ瞑想法』と『ついに悟りをひらく――七覚支瞑想法』、それに『死後はどうなるの?』、『ブッダの実践心理学』である。

これを見て確かに上座部仏教の立場はよくわかった。またヴィパッサナーがきわめて有効な技法であることもあらためて確認できた。それにもかかわらず、やはり、上座部仏教はそれだけでは「普遍的な霊性」とはならないなあ、とも感じた。つまり、こういうものであるとしたら、それはやはり一宗一派なのであって、それ以上のものとはならない。また、いまの日本人がヴィパッサナーを再発見するのは、霊的レパートリーを増やすという意味では意義があることだが、一方で、大乗仏教という大きな伝統を捨ててまで、いまさら上座部仏教にはいっていくということも、過去の特別な機縁がない限りなかなかないかもなあ、とも思う。しかし、上座部仏教というものがどういうものかはよくわかるので、それを契機として、それじゃあ大乗仏教っていったい何だったんだろうと考え直すよい機会にはなるということでもある。

これらの本に優れた点は多々あるのだが、一宗一派的だといったのは、自分の教団の教えが一番優れていることを不動の前提として、何とかその価値観の正しさを説得しようという動機が読み取れるということ。つまりやっぱり「坊さんの説法」になっている。それと、大乗仏教やキリスト教、ヒンドゥー教などの他宗教を、深く理解しようという欲求もなしに、あからさまにバカにしたりちくちくと嫌みを言ったりするところがところどころに出てくるので、どうもそれが気になった(つまり、各宗教を「その最高の高み」においてつかまえた上で比較するのではなく、ごく低次レベルでつかまえて批判している)。「この人は師匠としてはどうだろうか」という目で見るときには、その論の展開の正しさということよりも、むしろそういった「気になり方」が重要な要素になってくるものである。
確かに上座部仏教の訓練システムというのはそれなりに優れていて、修行を続けるとある境地まで行けることは間違いない。それについては特に『ついに悟りをひらく』で詳しく説明されている。ただその境地というのは解脱なのであろうか。どうも私の感ずるところでは解脱ではないように思われる(こんなことを書くと、「生意気な、おまえは何様のつもりだ?」というような抗議メールが来たりすることもある。そういうメールを送る人こそどういう何様なのか尋ねたいところだが、もちろん私は自分が「解脱」しているというポジションから判断を下しているわけではない。ただ、「師を選ぶ」という視点で考えた場合、自分のいまの判断と直観などによって、「より深く行っている道はどれなのか」という選択をせざるをえない。たとえそれが不十分な判断だったと結果的にわかったとしても、その時点においては自分にとって最善の選択だったとはいいうるはずである。そのような意味で、何らかの判断をせざるを得ないときは、ぎりぎりのところで、自分の直観、経験、信頼している情報などをもとに考え、最終的には「賭け」の要素が出てくるのもやむをえない、と思っている。私がここで大胆に書いているようなことは、そういう意味で言われていることである)。

スマナサーラ師の本には、伝統的な上座部仏教の立場を反映して、「出世間的」な価値観が強調されている。つまり、この俗世間というのは何の意味もないのだから、さっさと見切ってしまえ、ということである。この世が「苦である」ということがわからないのは大馬鹿者ではないか、という価値観があるが、こういう価値観がセットになっている限り、ヴィパッサナーは単なる技法ではなく「宗教」になってしまう。ヴィパッサナーをやるからといってそういう価値観に賛同しなければならないわけではない。そういう価値観はある一部の人にしかアピールしないのは確実であって、たとえば人によっては、「過去生では生の意味を否定するような生き方をしていたが、今生では、生きていることは素晴らしいということを学ぶ、というプログラムをもって生まれてきている」ということもありうるだろう。身体には何の意味もないと言ってみたって、たぶん多くのオリンピック選手がそうであるように、「この肉体を限界まで使うことにチャレンジする喜びを感じる」というプログラムで生きている人にとっては何のアピールも持たないだろう。そのように魂の目的というのは多元的であるということを視野に入れていないというのはどうか(いや、そもそも魂の実在を認めない以上、それは考える必要がないのか)。

というわけで、他にもいろいろそう判断する理由はあるのだが、要するにスマナサーラ師は、ある一定の境地には達しているんだろうが、決して悟ってはいないと思う(おっと、抗議メールが恐い・・)。彼は、唯識で言う阿頼耶識なんてあるかどうかわからないのだからそんなもの空論だと断定しているが、ヴァスバンドゥとか唯識思想をつくった祖師たちは、瞑想の深みにおいて阿頼耶識を実際に直覚し、その経験をもとに書いていたのだと思う(玉城康四郎も阿頼耶識を直覚していたらしいが)。スマナサーラ師にはそのような経験がないのでわからないというだけの話ではないだろうか。というか、上座部仏教にはそうした経験を促すような修行法はないし、そういう経験が出たとしてもその意味を否定していくだろう。(なお、私が魂といっているのはほぼ阿頼耶識に相当する。それはもちろん究極的見地から言えば実体ではない。しかし阿頼耶識が存立している次元より低次の世界から見れば、それは個別的実体と錯視されるものである)。

そういうことで、ある意味では、この前紹介した佐藤美知子さんの方が深いところもあると思うし、さらに佐藤さんの師匠である本山師と比べるならば・・・という感じである。佐藤美知子師は『瞑想から荒行へ』の中で「超感覚的な次元の自分」を知覚することについて語っている。その「もう一つの自分」を大切に守り育てていかねばならないのだという。だがもし、そのグループの中においては「超感覚的な次元の自分」などが理論的に想定しえない、という枠組になっていたとしたら、そのような感覚を修行者が報告したとしても、それは幻想だとして退けられ、そういうものにとらわれないように、という指導がなされるだろう。このように、指導者の考え、というより理解の程度によって、修行のプロセスは決定的に異なって来るということに注意しなければならないだろう。師を選ぶということは、そのくらいの違いが出てくる。「頂上へ行く道はいくつもある」ことは確かだが、逆に言えば行き着く前のプロセスにおいては巨大な差異があるのであり、自分に合わなければ挫折するだろう。それにすべての道が終着点まで続いているとは限らない。ある道は途中までで終わっているかもしれない。途中までは同じでもあるところから分岐して違うところへ行くのかもしれない。電車にたとえれば、高尾に行くつもりで飛び乗ったらいつのまにか青梅に行ってしまうことがあるようなものである。あるいは三鷹で終点になって、三鷹より先の駅はないんだろうと思いこむようなこともありうるだろう。

話を戻して、上座部仏教と大乗仏教との相違は何だろうなあと考えていくと、そこに「キリスト衝動」というシュタイナーの用語が思い出された。上座部仏教の話ではないのだが、インド的な「マーヤ(幻)からの出離」という理想と、それを超えようとするキリスト衝動との関連について、「バカヴァッド・ギータとパウロ書簡」は参考になるかもしれない。

「なるほど私たちも、いたるところでマーヤーが私たちを取り巻いている!と言うでしょう。けれども私たちはこう言うのです、いったいこのマーヤーのなかには神の顕現がないのか、すべては神的-霊的なみわざではないのか、いたるところに神的ー霊的なみわざがあるということを理解しないのは冒涜ではないのか?と」。http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/Gita/gita5.html

いくらスマナサーラ長老が一生懸命に「この世は幻なんだから、それから自由になりなさい」と説いても、「どこか違う」という思いがわき起こってくるのは、このようなキリスト衝動を私たちはすでに経過しているからなのではないだろうか? つまり、穢れた世を去って清浄な世界に行くというだけでなく、まさにこの地球世界を霊化、神化させるためにも私たちはここに存在しているのではないか、という霊的衝動が流れているのだ、と言うことはできないものなのだろうか。それは法華経の中にも流れているのであり、宮澤賢治などはそれを受信したのである。ティク・ナット・ハンなんかにもそれは入っていると思うのだが・・

だから上座部仏教がすばらしくないということではない。ただそれは、そのままでは普遍的な霊性となるには不十分なのである。新しい普遍的霊性は、このキリスト衝動的なものを一つの核として持つのである。

一つ確認しておくと、私が解脱と考えているのは神と合一することである。ここで神というのはプロティノス的に言えば「一」であり、全宇宙であり全生命システムだとも言える。その「全体意識」として自分を自覚することを神化と言う。これは伝統的神秘思想の基本であり、かつ「神との対話」シリーズのヴィジョンとも合致する、と考えている。このような合一者の近代における例は、たとえばラーマクリシュナやパラマハンサ・ヨガナンダではないか、と思っている。

それからスマナサーラ師の本が読む価値ないと言っているわけではない。実際、上座部仏教についてこれほどよく教えてくれるものはあまりない。特に釈迦の瞑想法4と、『ブッダの実践心理学』はよいと思った(後者はアビダルマ思想のきわめてわかりやすい解説書である。他宗教の悪口を言うところだけはいやな感じだが、それ以外はひじょうに優れた著作である)。

『明日の神』について

『明日の神』を読んでいるが、なかなかいい内容である。前の二作、『神とひとつになること』と『新しき啓示』は、いまひとつ物足りなかったのだが、これはまたよくなっている。

特定の宗教という枠組を解体した「新しい霊性」を樹立するという意味で、私は「神との対話」シリーズを高く評価している。たしかに、ほんとに「神」と対話しているのかどうかというのは気になるところかもしれないが、それは、内容さえよければどうでもいいと思う。まあ私の見立てでは、究極的にはすべて「神の意志」であるという意味では神と対話しているわけだが、直接的な「担当者」は天使やマスターレベルの高次元存在かもしれない、などと思ったりする。(こういう中間的な高次存在ということも「新しい霊性」は避けて通れないというのが私の思うところであるが)

この本では「神とは生命である」というテーゼが特に強く押し出されているという印象である。

この本にはちょっとだけ瞑想法が出ていて、それは、1.第三の目の奥にある空間を凝視する、2.呼吸とともに光を身体に導き入れる、という二つだけなのだが、私もいろいろなやり方を試してみて、たしかにエッセンスを徹底して抜き出せばこれになるよなあ、と感じる。それからもう一つ、「自分の意識に気がつく」というのがその前提としていわれている。これもちょっとだけだが、深い。ヴィパッサナとかサティもつきつめればそういうことになるわけだし。この本の「神」も、詳しいことは他にたくさん本があるからそれを見るように、と言っている。

翻訳はだいたいにおいてわるくないが、あげられている文献に邦訳が出ているかのリサーチに甘いところがある。
邦訳なしとされている中で、259ページの「四つの約束」はコスモスライブラリーから出てる。それから「あるヨギの自叙伝」もだが、こちらはあとの415ページでは森北出版と出てくるのはなぜか? 324ページの「ボランタリー・シンプリシティ」はずいぶん前に訳が出ていて、いまは手にはいるかどうか。258ページの「仏の教え」は中公文庫で出ていますが? 編集者がリサーチしたのかどうかわからないが、プロとは思えないな。

258ページ以下に読むべき本にリストが出ているが、私としては「新しい霊性」の基本的な考えとして最初に読むべきものとしてはこの『神との対話』がまず第一のおすすめですね。まず最初の三部作を徹底して読む。それから『神との友情』がいい。
そのほかには、ウェイン・ダイアーなんかもいい。
それからヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」、それにマルキデスが描いているダスカロス三部作(右のサイドバーにリンクがある)。このあたりが特にいい。
シュタイナーなんかもいいんだが、あれは、果てしなく「オカルト情報」を追いかけて、そういう知識をため込んでいくことが進歩だと思うというような外道に入る危険性がある。それは、本来限られたサークル相手に話した講義録のたぐいが膨大に邦訳されているせいなのだが、この外道にはちょっと注意が必要だ。解説書としては高橋巌のものを選ぶのが無難だろう。角川選書から出ているシリーズがおすすめかも。

それにしても思うが、世の人って、ほんとに本を買わないのよね。もう驚くくらい、本にお金を使わない。出版界というのは「猛然と買いまくるごく一部の人」によって成り立っているのかも。WEBで無料で読める情報なんて、98%はガラクタですよ。

無限の感覚

佐藤美知子『瞑想から荒行へ』、反復読書中。前にも書いたように、べつに「荒行」をやるつもりのない人でも、霊的成長とは何かという視点で読むとたいへん勉強になる。特に気に入った部分を抜き出してみる。

「見よう、見ようとする心が邪魔をするから見えないのです。目で見るのではない。目は脳が進化して突出した部分だから、脳の新しい働きを生むには、見ることを超えなくてはならないのです。そのために、心を遠くにやることを教えているのです」p.118

この、「遠くにやる」というのがここでのポイントだ。

「見ようとする心をなくしてしまうと、すっと、自分が離れていくような、そういう状態になるとすごいものが見えてくるのです。たとえば、空を見てもね、平面的に絵のように見てはだめです。宇宙の奥行を感じなければ」 

「青空の百キロメートル先、千キロメートル先、いや、もっともっと先、その無限に伸びてゆく奥行、それをつかまなければ、宇宙意識なんてわかりっこない。自分のこせこせした苦しみから、出られるはずがないのです。宇宙の一点になりなさい。自分のチャクラに集中する? そんな狭いところで考えているから、変わらない。人生が、変わらない。宇宙の果てまでも、ただ一途に、ずっと見ていくのです。その意識のレベルは、だんだんと伸びてゆく。そのレベルをしっかりと覚えていて、次に瞑想するときは、そこから入っていくこと。思考を動かしたらだめ。これが先生のいう遠くかな、なんて大脳で考えているうちはだめです。だから超意識が目覚めない。みんな、頭で、遠くを想像している程度なのです。考えることをやめて、ただ、ただ、この莫大に広い宇宙へ意識をとばしなさい。もう、考えている自分がなくなってしまうほど、どんどん、気が遠くなるほど、心を遙かにのばしなさい。それは、すごい空間が出てきます。」 p.119

ここには「無限の感覚」が語られているわけで、ある限界を突き破って、本当に無限に接したように感じた瞬間、世界が大きく転回したということは、私の経験としてもある。
ただ、その「遠さ」は、さらに限界なく、広がっているものだ。
何百億光年という距離と言われていても、それはまったく関係ない。私の意識は、どこまでも行ける。
私はそのことを感じたことはあるはずだが、佐藤先生の言うように、もっとそれをねばり強く追求していかねばならないなあ、と思ったのだった。

『瞑想から荒行へ』

『明日の神』も届いているが、その前に・・ 佐藤美知子『瞑想から荒行へ――意識変容をめざして』。これは、かなりすごいですよ。佐藤美知子さんは本山博師の高弟で、この本は佐藤氏の弟子との質疑応答をもとにしたものなのだが、もうビシバシですね。しかしそれがみな当たっているのだからしかたがない。弱いところや自分をごまかしている部分を容赦しません。しかし本当の瞑想修行とはどういうものか教えてくれるのに、これ以上懇切丁寧な本はそうめったにはない。もっとも私は表題にある「荒行」は好きではないけれども(私は基本的に「他力派」なので)。少し路線は違うが熟読すべき本だと思う。ビシバシと厳しく鍛えてくれる師を求めるなら、この人はかなりいいかもしれない。この本は瞑想のハウツーではなく、基本的な心の持ち方のようなことを教えている。

佐藤氏は過去生では、湯殿山系で、即身仏となった行者であったといわれている。つまり絶食の行をして生きながらにミイラになったということである。この本には書いていないが、私はその過去生の時の名前を噂で聞いたことがある。それは湯殿山系では有名であり、いまも湯殿山近辺のあるお寺にそのミイラが安置されているという話である。それが本当だとすると、今生でなぜ女性になっているのかはよくわからないが、やはり行者ならではの厳しさが漂っているのも無理からぬところだろう。正直言えば、自分の「魂の系譜」の中に行者的な資質を持っていない限り、彼女の指導の厳しさについていくことはできないだろう、と思う。

修行とはいかに厳しいものか、というのがよくわかるわけで、自分の心に徹底して向かい合う覚悟が必要なものだ、と納得させられるものがある。自分を浄化することを本気で考える人には、おすすめである。

「上に行く」って、甘くないなあ・・と改めて感じさせられるのである。

瞑想から荒行へ―意識変容をめざして瞑想から荒行へ―意識変容をめざして
佐藤 美知子


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本二題

「神との対話」シリーズの新刊、いよいよ発売ですな。

明日の神明日の神
ニール・D・ウォルシュ


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このシリーズの中には、ちょっと、キリスト教国(特にアメリカ)向けのものもあって、日本にはいまいち合わなかったりするものもあるが(特にセックス問題へのコダワリ方は少し違和感を覚えるが)、やはり、いまの世の中でこれから発展していくべき「普遍的霊性」の一つの形を示すものとして、注目しないわけにはいかない。
最近のものも本当に「神との対話」で書いているのかどうかはよく知らない。たぶんそこが近代的知識人のひっかかるところで、近代的知性はすべて「人間外知性」の存在や、それとのコミュニケーションなどという可能性をあらかじめ排除しているのだから、「神との対話」シリーズを正面から受け止めて論じるなどということができるはずがないのだ。どうしても「はす」に構えざるを得ないだろう。その一線を踏みこえるかどうかというのが、私の立場と旧来のアカデミズムとの決定的な相違になるのかもしれない。今のところ人間外知性の存在を論じるためには「神学」というアプローチに分類されてしまうわけで、それなら、というのが「普遍神学」という『魂のロゴス』で出されたコンセプトというわけである(読んでない人は早く読みましょう)。

それから、スピリチュアル系で読んだのは、鈴木秀子の『臨死体験・生命の響き』である。これは昔、『神は人を何処へ導くのか』という題で出ていたものと内容的にかなりかぶる、というか、かなり同じで、加筆したという感じのものなのだが、もしその前著を読んでいない人がいたら、これは必読というものかもしれない。鈴木秀子という魂の核心がここに描かれていると思うので。これを読むと、なるほど、「天命」というものがあるのだ、ということが納得される。同時に、人を導いているある力があるということも感覚的にわかる。

この本を読み終わって残るものというのは、

光の世界は実在する。それに気づき、その世界へ向かっていくこと。
ただ、それしかない。

ということである。このメッセージは頭で理解することもできるが、どこまで深く「わかる」ことができるのか、それが問題なのであろう。

臨死体験 生命の響き臨死体験 生命の響き
鈴木 秀子


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リンクは許諾不要なものである

時々ある問い合わせが「リンクの許可」を求めるものである。これについて見解を言っておくと、「基本的に、リンクというものは許可するもしないもない。リンクとは著作者の了承を得ずに行うことができるもの」である。つまり、リンクとは基本的に「勝手にするもの」であって、それはそもそもインターネットのWWWの最初からの趣旨である。誰でもアクセスできるような場所にファイルを置いておいて、リンクは許可がないとできませんなどと言える法的な権利は存在しない。それはたとえば本を出版したら、「『魂のロゴス』という本があって、著者は誰々で、出版社はアルテである」という情報を誰かが人に言うようなことと同じで、それを「こういう仕方で言わなければならない」「こういう人には言ってはいけない」などという権利が著者にあるはずがない。
そこで勝手にリンクするが、弁護士による見解である。

弁護士紀藤正樹のLINC/リンクは自由か?

つまりWEBページの著者に、リンクについて許諾を与えたり、条件をつけるような法律上の権利は存在しない。そういうことが書いてあったとしても、それはあくまで「要望」にすぎず、それを無視してリンクすることには何ら法律上の問題はない。リンクされるのがイヤならWEBページなどアップしてはいけない、というのが基本原則である。リンクについてあれこれ注文をつけるのは、著作権についての考え違いであるが、あまりにそういうページが多いため、日弁連のページさえ間違ってしまった、という話である。世間にそういう勘違いが多いので、何となくマネしてしまうページが多いのだろう。
リンクが著作権法上問題となるのは、自分のページのフレームの中にリンク先のページが表示されるような場合だけである(この場合は、単なる場所の情報だけではなく引用になり、適切な引用であるかを著作権法的に判断される)。

以上のように当方では「リンクには許諾が必要である」という考えそのものが法的根拠のないものと考えるので、そのような許諾要請のメールはもちろん不要である。ただ、リンクしたことを伝えたいという欲求があるならば、そのような通知をすればよいということだろう。

またリンクには著作権法上の問題はないが「ネチケット」であるという意見について。この考えはそもそもWWWというものの成立した理念を理解していない。WWWはまさに「勝手なリンク」によって、世界中に張り巡らされた膨大な情報網を構築することを理念として形成されたものである。リンクに制限をかけようという発想は、WWWの理念に照らしてみるとむしろ「反倫理的」であり、反動的な発想と言わねばならない。

リンクには許諾が必要ないということは文化庁が保証していることであるので、安心して「勝手にリンク」すればよいと思う。

メールフォーム

怒濤のごとく忙しい日々もようやく、区切りがつきそう。

さて、これまでフリーメールへのリンクをのせていたが、迷惑メールが早くも増えてきた。いちおう、アドレスを16進法でコード化していたのだが、それでもだめらしい。そこで、レンタルのメールフォームを使うことにした。右のサイドバーのいちばん上のリンクである。ま、お気軽にどうぞ。返事しにくいものには返答に時間がかかったり、返事が来ないこともありうるのだが・・ Yahooのフリーメールはもう見に行かないので、間違って送らないでください。

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