宇宙モデルの話
きのうはやや過激なことを書いたが、さいわいにまだ抗議メールは来ていない。
もし、「上座部仏教なんて、あれこれ言葉で分析するばっかりで、そんなことで悟れるわけないでしょう」と言ったら、それは一知半解の不当な批判である。残念ながら、スマナサーラ師の他宗教に対する批判は、その程度の次元のものが多い。これは決して彼をバカにするということではなくて、言うべきことは言っておきたいというだけのこと。しかしながら、自分の師を選ぶという場面に立った時には、そういう言葉が出てくるという事実は判断の材料になる、ということ、私が言いたかったことはそれだけである。
ヴィパッサナーは確かに効果的な技法である。だが私は、それが上座部仏教の価値観とセットで提供されている限り普及に限界があると思う。ゴエンカ師のグループでさえ「人生のドゥッカ(苦)を超えるにはこれしかないんです」というような言葉を言うそうであるが、そこまで言うと宗教になってしまう。スマナサーラ師の団体は最初から宗教法人であるから当然であるのだが、私が思うにヴィパッサナーがこれほど広まったのは、宗派の枠を超えたその技法の有効性にあると思う。だから、ヴィパッサナーを学ぶには、むしろそういう宗派的なからみのない西洋人系の方がよろしいかもしれない。西洋人の書いたヴィパッサナーの本もたくさん出ているので、そちらの方が現代人向けだろう。サイコセラピーとの併用などもさかんに試みられている現状である。決して、上座部仏教がいまさら日本に復権するという話ではないのである。特別な機縁をもっている人を除いては、そんなことはありえないと思う。(同時に、チベット仏教をいまの日本でそのままやるんだ、なんてこともありえるはずがない)
しかし、唯識とならんでアビダルマを学ぶということはひじょうに有効であるので(伝統的には、アビダルマを八年やってから唯識に進むことになっていたのだが)、スマナサーラ師のアビダルマ講義シリーズには大いに期待してよいと思う。
ともあれ、「人生はドゥッカであり、早く出離せよ」という教えは、一面の真理をもつが、部分的真理であって、それだけでは現代の霊性として十分でない。それなら「神との対話」シリーズの方がよっぽどいい、と思っている。
スマナサーラ師の『死後はどうなるの?』は上座部仏教の立場から死後世界を解説したものだ。要するに、どういう世界に行くかは心の持ち方で決まる、ということで、それはそうに違いない。その具体的な説明としては、六道輪廻が中心となっている。しかしこれも、師が超感覚で実際に見たというよりは、教典や宗派の教えを解説しているに過ぎない、という感じがする。
「永遠の哲学」による宇宙の基本モデルによると、宇宙はこの物質界の他、アストラル界、コーザル界、プルシャ界、そして絶対(無、空)という次元に大別されるといわれる。六道輪廻(地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天)というのは(人のレベル以外は)基本的にアストラル界のことをいうようだ。仏教で「三界」と言った場合にはだいたい、物質界・アストラル界・コーザル界を総称しているようだ。そこまでがカルマによる輪廻がありうる領域である。カルマを超える、輪廻から抜け出すというのはプルシャ界以上に行くという意味になる。
三島由紀夫の小説にもある「天人五衰」というのは、よいカルマによって天に昇った魂も、そのカルマを消費してばかりだとそれが尽きてしまい、いつかは転落するという話だが、これはアストラル上界のことを指すらしい。
スマナサーラ師は、神々もまた落ちることがあると言っているが、それがアストラル上界なのか、コーザル界なのかよくわからない。一般に神々と言われる存在はプルシャ界の次元であり、そこはカルマを超えているので、転落は起こらない。私の立場からは、スマナサーラ師は間違っていると明言することはできないわけだが(自分で見たわけではないので)、少なくとも、上座部仏教における宇宙次元のとらえ方は、永遠の哲学のモデルとは異なっているということは指摘しうるだろう。プルシャ界、コーザル界などについての明確な概念を持っていない、ということになる。『死後はどうなるの?』という本を書くからには、自分が実際に超感覚で見たことを書いてくれるのを読者は期待するわけで、ただ教典の解説くらいなものでは「はぐらかし」であるだろう。(そういえば、ウィルバーの「死後世界解説」も、『チベットの死者の書』の解説に終始していていて「はぐらかされた」という感想を持ったことを思い出すが)
いま、日本でヴィッパサナー指導者として有名になっている人がいる。彼がまだタイで修行生活をしているころ、その人の奥さんがある大学の図書館に勤めており、私はそこへ非常勤で行っていたので、何度か話をしたことがある。
ヴィパッサナーを始める前は五井昌久先生の「世界平和の祈り」をやっていたと言っていた。それに見切りをつけた理由は、五井先生が亡くなったときに「神界に帰った」と言われたことであるという。その夫婦の理解では、「神界」とは「天界」のことであり、天界というのはよきカルマが尽きてしまえばそこから落ちるわけなので、そういう先生について行っても駄目だと思った、というのである。それを聞いて私はちょっと信じられなかった。明らかにそこには概念の混同がある。五井先生が「神界に帰った」とすれば、その「神界」というのはプルシャ界のことなのである。ところが「天人五衰」が起こりうる天界とはアストラル上界のことを言うのである。こういう区別がわからないらしいのである。
永遠の哲学における宇宙次元モデルについては、右にのせてある『忘れられた真理』に詳しく説明してあるので、知らない人はぜひ参照してもらいたいと思う。
自分には何もわからないから判断しない、というのはどうだろうか。少なくとも世に提出されているいくつかの考え方を比較して、どれがいちばん真理に近いのか、その時点で自分のもっているすべてを動員して何らかの判断をするということは、どうしても必要になると思う。そもそも「悟り」とはいったいどういうことであるのか、それについてまったく何のイメージも持てなかったら、どのように進歩していくのだろうか。目的地がわからずに歩き出すことはできない。あとで間違ったとわかってもいいから、いまそこで自分にできる限りの霊的判断(それを「サニワ」と言うが)はしなくてはいけないものと思う。
私はそのような立場から、上座部仏教における宇宙次元のとらえ方には限界があり、永遠の哲学でのモデルの方がより全体的であり、現代の霊的地図にふさわしい、という判断をするのである。