上座部仏教とキリスト衝動
上座部仏教の長老、スマナサーラ師の著書をいくつか読んでみた。「釈迦の瞑想法」シリーズの3『自分につよくなる――サティ瞑想法』と『ついに悟りをひらく――七覚支瞑想法』、それに『死後はどうなるの?』、『ブッダの実践心理学』である。
これを見て確かに上座部仏教の立場はよくわかった。またヴィパッサナーがきわめて有効な技法であることもあらためて確認できた。それにもかかわらず、やはり、上座部仏教はそれだけでは「普遍的な霊性」とはならないなあ、とも感じた。つまり、こういうものであるとしたら、それはやはり一宗一派なのであって、それ以上のものとはならない。また、いまの日本人がヴィパッサナーを再発見するのは、霊的レパートリーを増やすという意味では意義があることだが、一方で、大乗仏教という大きな伝統を捨ててまで、いまさら上座部仏教にはいっていくということも、過去の特別な機縁がない限りなかなかないかもなあ、とも思う。しかし、上座部仏教というものがどういうものかはよくわかるので、それを契機として、それじゃあ大乗仏教っていったい何だったんだろうと考え直すよい機会にはなるということでもある。
これらの本に優れた点は多々あるのだが、一宗一派的だといったのは、自分の教団の教えが一番優れていることを不動の前提として、何とかその価値観の正しさを説得しようという動機が読み取れるということ。つまりやっぱり「坊さんの説法」になっている。それと、大乗仏教やキリスト教、ヒンドゥー教などの他宗教を、深く理解しようという欲求もなしに、あからさまにバカにしたりちくちくと嫌みを言ったりするところがところどころに出てくるので、どうもそれが気になった(つまり、各宗教を「その最高の高み」においてつかまえた上で比較するのではなく、ごく低次レベルでつかまえて批判している)。「この人は師匠としてはどうだろうか」という目で見るときには、その論の展開の正しさということよりも、むしろそういった「気になり方」が重要な要素になってくるものである。
確かに上座部仏教の訓練システムというのはそれなりに優れていて、修行を続けるとある境地まで行けることは間違いない。それについては特に『ついに悟りをひらく』で詳しく説明されている。ただその境地というのは解脱なのであろうか。どうも私の感ずるところでは解脱ではないように思われる(こんなことを書くと、「生意気な、おまえは何様のつもりだ?」というような抗議メールが来たりすることもある。そういうメールを送る人こそどういう何様なのか尋ねたいところだが、もちろん私は自分が「解脱」しているというポジションから判断を下しているわけではない。ただ、「師を選ぶ」という視点で考えた場合、自分のいまの判断と直観などによって、「より深く行っている道はどれなのか」という選択をせざるをえない。たとえそれが不十分な判断だったと結果的にわかったとしても、その時点においては自分にとって最善の選択だったとはいいうるはずである。そのような意味で、何らかの判断をせざるを得ないときは、ぎりぎりのところで、自分の直観、経験、信頼している情報などをもとに考え、最終的には「賭け」の要素が出てくるのもやむをえない、と思っている。私がここで大胆に書いているようなことは、そういう意味で言われていることである)。
スマナサーラ師の本には、伝統的な上座部仏教の立場を反映して、「出世間的」な価値観が強調されている。つまり、この俗世間というのは何の意味もないのだから、さっさと見切ってしまえ、ということである。この世が「苦である」ということがわからないのは大馬鹿者ではないか、という価値観があるが、こういう価値観がセットになっている限り、ヴィパッサナーは単なる技法ではなく「宗教」になってしまう。ヴィパッサナーをやるからといってそういう価値観に賛同しなければならないわけではない。そういう価値観はある一部の人にしかアピールしないのは確実であって、たとえば人によっては、「過去生では生の意味を否定するような生き方をしていたが、今生では、生きていることは素晴らしいということを学ぶ、というプログラムをもって生まれてきている」ということもありうるだろう。身体には何の意味もないと言ってみたって、たぶん多くのオリンピック選手がそうであるように、「この肉体を限界まで使うことにチャレンジする喜びを感じる」というプログラムで生きている人にとっては何のアピールも持たないだろう。そのように魂の目的というのは多元的であるということを視野に入れていないというのはどうか(いや、そもそも魂の実在を認めない以上、それは考える必要がないのか)。
というわけで、他にもいろいろそう判断する理由はあるのだが、要するにスマナサーラ師は、ある一定の境地には達しているんだろうが、決して悟ってはいないと思う(おっと、抗議メールが恐い・・)。彼は、唯識で言う阿頼耶識なんてあるかどうかわからないのだからそんなもの空論だと断定しているが、ヴァスバンドゥとか唯識思想をつくった祖師たちは、瞑想の深みにおいて阿頼耶識を実際に直覚し、その経験をもとに書いていたのだと思う(玉城康四郎も阿頼耶識を直覚していたらしいが)。スマナサーラ師にはそのような経験がないのでわからないというだけの話ではないだろうか。というか、上座部仏教にはそうした経験を促すような修行法はないし、そういう経験が出たとしてもその意味を否定していくだろう。(なお、私が魂といっているのはほぼ阿頼耶識に相当する。それはもちろん究極的見地から言えば実体ではない。しかし阿頼耶識が存立している次元より低次の世界から見れば、それは個別的実体と錯視されるものである)。
そういうことで、ある意味では、この前紹介した佐藤美知子さんの方が深いところもあると思うし、さらに佐藤さんの師匠である本山師と比べるならば・・・という感じである。佐藤美知子師は『瞑想から荒行へ』の中で「超感覚的な次元の自分」を知覚することについて語っている。その「もう一つの自分」を大切に守り育てていかねばならないのだという。だがもし、そのグループの中においては「超感覚的な次元の自分」などが理論的に想定しえない、という枠組になっていたとしたら、そのような感覚を修行者が報告したとしても、それは幻想だとして退けられ、そういうものにとらわれないように、という指導がなされるだろう。このように、指導者の考え、というより理解の程度によって、修行のプロセスは決定的に異なって来るということに注意しなければならないだろう。師を選ぶということは、そのくらいの違いが出てくる。「頂上へ行く道はいくつもある」ことは確かだが、逆に言えば行き着く前のプロセスにおいては巨大な差異があるのであり、自分に合わなければ挫折するだろう。それにすべての道が終着点まで続いているとは限らない。ある道は途中までで終わっているかもしれない。途中までは同じでもあるところから分岐して違うところへ行くのかもしれない。電車にたとえれば、高尾に行くつもりで飛び乗ったらいつのまにか青梅に行ってしまうことがあるようなものである。あるいは三鷹で終点になって、三鷹より先の駅はないんだろうと思いこむようなこともありうるだろう。
話を戻して、上座部仏教と大乗仏教との相違は何だろうなあと考えていくと、そこに「キリスト衝動」というシュタイナーの用語が思い出された。上座部仏教の話ではないのだが、インド的な「マーヤ(幻)からの出離」という理想と、それを超えようとするキリスト衝動との関連について、「バカヴァッド・ギータとパウロ書簡」は参考になるかもしれない。
「なるほど私たちも、いたるところでマーヤーが私たちを取り巻いている!と言うでしょう。けれども私たちはこう言うのです、いったいこのマーヤーのなかには神の顕現がないのか、すべては神的-霊的なみわざではないのか、いたるところに神的ー霊的なみわざがあるということを理解しないのは冒涜ではないのか?と」。http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/Gita/gita5.html
いくらスマナサーラ長老が一生懸命に「この世は幻なんだから、それから自由になりなさい」と説いても、「どこか違う」という思いがわき起こってくるのは、このようなキリスト衝動を私たちはすでに経過しているからなのではないだろうか? つまり、穢れた世を去って清浄な世界に行くというだけでなく、まさにこの地球世界を霊化、神化させるためにも私たちはここに存在しているのではないか、という霊的衝動が流れているのだ、と言うことはできないものなのだろうか。それは法華経の中にも流れているのであり、宮澤賢治などはそれを受信したのである。ティク・ナット・ハンなんかにもそれは入っていると思うのだが・・
だから上座部仏教がすばらしくないということではない。ただそれは、そのままでは普遍的な霊性となるには不十分なのである。新しい普遍的霊性は、このキリスト衝動的なものを一つの核として持つのである。
一つ確認しておくと、私が解脱と考えているのは神と合一することである。ここで神というのはプロティノス的に言えば「一」であり、全宇宙であり全生命システムだとも言える。その「全体意識」として自分を自覚することを神化と言う。これは伝統的神秘思想の基本であり、かつ「神との対話」シリーズのヴィジョンとも合致する、と考えている。このような合一者の近代における例は、たとえばラーマクリシュナやパラマハンサ・ヨガナンダではないか、と思っている。
それからスマナサーラ師の本が読む価値ないと言っているわけではない。実際、上座部仏教についてこれほどよく教えてくれるものはあまりない。特に釈迦の瞑想法4と、『ブッダの実践心理学』はよいと思った(後者はアビダルマ思想のきわめてわかりやすい解説書である。他宗教の悪口を言うところだけはいやな感じだが、それ以外はひじょうに優れた著作である)。