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2006.03.31

これは何か・・・

どうもわからん・・家族の同意を得て延命治療を中止することのどこがそんなに問題なんだ?
そんなことは全国の病院で事実上いくらでも行われていることではないか。こんなに騒がれてしまったんで、いま、すべての病院で「中止は絶対しません」ということになってしまっているはず。
延命治療については早くから自分の意志を明確にしておいた方がよいのだろうね。自分が意識を失ってからでは遅い。どういう死に方をしたいかあらかじめ考えておかないといかん。

「ミリオンダラー・ベイビー」ていう映画のラストは、「えっ、そんなことしちゃうの?」とびっくりだった。あれは誰が見ても殺人と言うしかないが・・ アメリカでもそういうことはうるさいはずだが、ああいうのにアカデミー賞なんてあげちゃって大丈夫だったんだろうか、と人ごとながら心配になった。
悪い映画ではないが、あの救いのない結末は受け入れがたい。思ったが、アカデミー賞の映画ってけっこう暗いのも多くて。ハリウッドって人気取りのくだらない作品が多いから、ちょっとシリアスに作るとほめてあげたくなるのかもね。

それと、「割りばし事故」で医者を訴えた事件。医者を有罪にすることが、死んだ子の供養になるなんて、そりゃ違うんじゃないか。それは親の執着以外の何ものでもない。子供が死んだ悲しみを医者への怒りに転化して生きてきたんだろうけど、この人たちは一生それを抱えて生きていくつもりなのかなあ・・ その子供の魂がいま、どういう世界にいるのか、誰か教えてあげてください。

2006.03.27

魂と前世

この前書いた「もう一人の自分」という感覚というのは、あれが佐藤美知子さんの『瞑想から荒行へ』に書いてあったことなのかもねえ・・と思ったりもする(しかし相当コアな本であるのによく売れているようだ。このブログのリンクから買った人の数がわかるシステムになっているが、なんと17冊の売り上げである)。

その大きな自分、であるかのようなエネルギー場には、人間レベルを超えた巨大な愛が含まれているようにも感じられる。しかし自分とはそんなに大したものではないと知っているので、いやまさか、自分の中にそのような愛が存在するはずがない、と思うわけである。

しかしそのことを徐々に受け入れざるを得なくなってくる。そういうプロセスをとることもあるようだ。

このことを理解するのは、伝統的な仏教の「無我」というコンセプトより、「神我」というコンセプトの方がわかりやすいと思う。
シュタイナーが言う「自我」というのは、実は「神我」という意味で使っている。
神我とは宇宙的な自分である。自分即宇宙の境位である。
魂と言われるものは、この神我の分かれ、神道的に言えば「分霊」になる。
その分霊が、多次元の宇宙のさまざまな平行宇宙においてある表現型を取るとき、それを「転生」と呼ぶ。

だいたいそういうことだが、こういう理解は現在、それほど奇異なものではなくなっているのだろう。

前世療法も、そのような、「本来の自分とは意識連続体であって、転生はその表現形式である」というコンセプトに基づいている。
前にも書いたことがあるが、私は前世の存在とは客観的に証明できないからそのような療法をやってはいけない、という考えは間違いだと思う。セラピストとクライアントが同じ世界観を共有するという同意の上で行うなら、それがメインストリームの医学界と異なるコンセプトでもいっこうにかまわないのである。医師法的にもそれを規制する根拠はないはずである。

日本で前世療法をやっている医者には、越智啓子、奥山輝実がいる。
奥山さんはオーソドックスな退行催眠であるようだが、越智さんはもっとサイキックな感じらしい。
調べてみると、最近、この二人が急速にブレイクしている。

著書のリストを調査すると、

【越智啓子】
1999.09 生命の子守歌
2001.12 生まれてきてよかったね
2003.06 人生のしくみ
2004.07 人生の癒し
2005.02 だれでも思い通りの運命を歩いていける
2005.04 人生の創造
2005.06 Drケイコの心の診療室
2005.08 ソウルメイトの不思議
2005.12 すべてはうまくいっている!
2006.02 あたたかい愛に満たされて生きる本

このほかに彼女を主人公にしたマンガ版までが、2005年11月~06年1月にかけて3巻本で出版されている。
見てわかるように、去年から突然ものすごい点数が出始めている。

【奥山輝実】
2000.11 生きがいの催眠療法(飯田史彦との共著)
2004.09 前世療法ハンドブック
2005.01 前世物語――光のエチュード
2005.04 前世療法へようこそ

こちらも、最初は飯田史彦のネームバリューを借りて出ていたが一昨年あたりから一気に出始めた。

これは何だろう? と考えると、思いつくのは「オーラの泉」などによる江原啓之のブレイク、それによる過去生、輪廻というコンセプトの急速な浸透である。
江原は大衆意識を変えるという使命を持っている人だが、確実に社会意識が変わっていることがうかがえる。

これはむろん喜ばしいことである。
そもそも輪廻転生のコンセプトは日本の伝統文化の一部であり、オカルトでもニューエイジでもないのだ。
そして一つのポイントなのは、転生というコンセプトは、同時に、転生を通じても変わらざる「私の本体」というコンセプトに接続していくことだ。
そこが、従来の「無」を強調する東洋哲学論では解決できないところだ。西田幾多郎や西谷啓治、久松などを持ってきても転生や私の本体は解けないのである。
そのへんがこれからの考えどころである。

阿字観と禅密気功

衝動的に、ヘンなCDを買ってしまった。「密教・阿字観瞑想」なる二枚組。
ディスク2に大御所・山崎泰廣師による阿字観瞑想ガイドの実況録音が収録されている。
ディスク1にはなぜか、理趣経の現代語訳を、読経や鳴り物をバックに朗読するというフシギな音源が収録されているが、これがけっこう来てるんです。
声楽をやっている坊さんだということで、声も読み方もかっこいいのです。
理趣経の内容は、なんだかよくわからない(笑) しかしめちゃカッコイイのです。その多次元に共鳴するようなエネルギーが。
めくるめく万華鏡のような密教のイメージ・エネルギー世界は私にはしごくアットホームで、上座部や禅のような世界は自分には合わないのだと痛感するわけだ。
密教というのはエネルギー的にわかるのが第一で、あんまり教理とか解釈をうるさくやりはじめると、本来のパワーがそがれるような気がしてならない。何も、この世的な知識の体系の中に位置づけようと一生懸命になることもない。そういう努力は善意であっても、密教を裏切る部分もあるかも、だ。もっともらしく「現代的意義」など説かなくても、そこに本当のエネルギーを込めてかっこよく決めれば、ついて行ける人は必ずいるのだ。
エネルギーが伝わることが根本で、あとは全部そのための方便なのだ。
というわけでややハイになっているためか、キケンなまでの断定であります。

漢字読みの理趣経もCD買おうかな~と思っております。ちと高いんだが・・

密教 阿字観瞑想密教 阿字観瞑想
ヒーリングミュージック


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阿字観瞑想はまだやってない(笑) これはそれ用の阿字の掛け軸がないと本式にはできないのだが・・
根本的には、これは自分のエネルギー体を、宇宙大に拡大したり、丹田の一点に縮小するというワークである。
実はこれが、密教瞑想の一つのポイントなのかも。
というのも密教から発展した禅密気功では、慧功という中級功があり、そこでは実際に気の身体を宇宙大に拡大し、また丹田に収納する。阿字観とまったく同じ構造であるが、それはびっくりすることではない。
禅密気功でのポイントは、密処、つまり第一チャクラを解放することにある。阿字観もそういうふうにやればうまくいきやすいかもしれないのだが(この発言は無責任であるので注意)。同時に禅密では基礎訓練で中心軸を浄化するから、そういう基礎の上で第一チャクラをゆるめることが、エネルギー体の活性化をもたらしている。非常によくできている功法で、マジメにやれば相当速く進めると思う。「禅密気功」で検索すればわかるのでそれ以上の情報は省略する。

2006.03.26

光の導き

なんか、光の感覚がかなり強化されたような気がしますね。

人々の意識は急速に変わっている。そろそろ、人間の本質は高次元連続意識体であるということが開示されてもよいかもしれない。前世療法などはそれを示唆しており、飯田史彦あたりはそれを一般向きに広めている。

問題は、臨死体験・退行催眠などで経験するような「光」あるいは高次元存在(エネルギー)との出会いを、多くの人が経験するか、ということ。そしてその光を日常の中に取り入れ、常に光の中で生きるようなところまでいく人がどのくらい出てくるか、ということ。そのへんに、地球の意識変化が成功するかどうかがかかっているかもしれない。

ブライアン・ワイス博士なども、高次元存在の導きが存在するということ、そして私たち自身の本質も高次元にあるということをはっきりと言っている。そのようなことはもう「言ってもいい時代」になったのではなかろうか。

ワイス博士も最初の本を出すときには相当の勇気が必要だったろうが、実際のところ、光の感覚が強くなってくると、だんだんそういう恐怖感はなくなってくる。それも不思議なものだが、人があれこれ言うようなことはだんだん気にならなくなってくるもののようだ。これは光明化の恩恵の一つである。

光は、何も、死にかけなければ出会えないものではない。もっとはるかに簡単なものだ。それと、地球人類全体のレベルも変化しているので、以前に比べてひじょうにやさしくなっていると思う。

私もいちおうスピリチュアル思想研究と言っているからには、いろいろなことを体験しようと思っている。研究というのは本を読むことだけではない。それに、本にもいろいろ「読み方」があり、概念だけを追うのが読むということでもない。エネルギー的な読み方というものもある。

そんなわけで、いろいろ知らねば、と思って、「アセンション」と言われるジャンルの本をのぞいてみた。これは精神世界の中でも最もハードコアのものであるわけだが、実際、あまりのすごさに頭がくらくらしてきた。これはどうも、普通の本のような読み方はまったく通用しないものと思わねばならない。思ったが、宇宙や地球についてとんでもない荒唐無稽のようなことが書いてあるが、これは全部「神話」として受け取ればよいということだ。言い換えればすべて「方便」であって、根本から見ればウソだということ。つまり、私たちの宇宙や地球に対する既成概念はいったん破壊されねばならないということだ。どのみちいまの科学や歴史など、人間のボロな頭で考え出したものは、宇宙から見れば大ウソ、ゴミのたぐいにちがいない。そのウソをホントだと思いこんでいる狭い考えを破壊するためのウソ、それが神話なのだ。まあいちおうそういう感じに受け止めておく。そうやって中に入り込むと、たしかにある種の強いエネルギーは感じるのである。つまりこういう本は「理解」しようとすることをやめて、そのエネルギーに自分の中を通過させると、何らかの変容がもたらされる、ということかもしれないと思われた。エネルギー的に読む、といのはつまり、詩のように読むということだ。

地球が50億年前にできた天体である、なんて話そのものが大嘘かもしれないわけで、そういう既成概念を壊したところで、自分と宇宙ということがらへ入っていけるようになるためには、荒療治も必要だということだ。本をエネルギー的に読む人には、そこに入っているエネルギーがかなりすごいものであることが理解できる、ということかもしれない。いずれにせよ、フツーの人にはまったく???の世界である。気が狂ったと思われかねないので、そういう本を読んでいることはあまりやたらと人にはしゃべれないであろう(私はいちおう「研究のため」という大義名分がありますからね・・(^_^;)

まあチャネリングということで引いていては「神との対話」も読めません。コーランもチャネリングである。
しかしいまのチャネリングが昔と違うのは、いずれも、本来のことがらは人間の三次元言語では表現不能であって、そこに書かれたのはあくまで一つの表現にすぎず、チャネラーのフィルターを媒介したものだ、ということが一般に了解されていることにある。
いいかえれば、すべては真実ではなく、ある意味ではウソ(方便)なのだ、ということだ。
全部は方便だというところから始まるのが現代の霊性の重要なポイントであって、「これこそが真実だ」という教条主義はもう過ぎ去った古い宗教のパターンだ、ということになる。
その意味で、アセンションも新しい文学ジャンルとでも思っていればいいのだ。ある種の表現方法を多用してあるエネルギーを伝達しようという一つの方法だ、と思う。それもまた現代において一定の存在意義はある、ということかもしれない。

追記: あとで思いついたが、あの荒唐無稽さの意味というのは、ブラバツキーなんかと共通したものがあるのかもしれない。現代におけるブラバツキー的なるもの、というのがアセンション文献なのかも。

2006.03.25

初出動

18日に植物園が開園し、24日、ようやくデジカメ初出動である。
このデジタル一眼は本体だけで、レンズは以前からの28-300の高倍率レンズを流用しているわけだが、結果的にはこれでまったく問題なかった。一般的なデジタル一眼の場合、レンズの焦点距離がフィルムカメラの1.5倍になるので、28-300は実質的に42-450のレンズとなるわけである。この焦点距離は植物園の場合にちょうどよかった。ズームが必要になることはあるが、広角は実際あまり使わないものである。広角というのはむずかしく、シロートが広角を使っても、広い範囲がいろいろ写っているがポイントのはっきりしない写真になりがちなものである。むしろ最高450mmのズームはありがたいし、そこに手ブレ補正が加わるので、ズームを多用する場合にはありがたい。デジタル専用の18-200などというレンズを買う必要があるかな、と思っていたが、今すぐには大丈夫のようだ。

さて植物園の現況は

ザゼンソウ――見頃
オウレン――見頃
マンサク――咲き始め
ショウジョウバカマ――咲き始め
オオミスミソウ(雪割草)――1~2分咲き
キブシ――見頃
ミズバショウ――咲き始め

どういう花なのかはこちら
http://www.niks.or.jp/syokubut/

ヒーリング

少し前だが、ちょっと出かけてきて、エネルギーワーク的なヒーリングを人にやってみる機会があった。それから、その翌日にはまた別種のエネルギーワークを習う、というような日程だった。

ヒーリングというのも、なぜ効くのか、その理由はわかっているつもりだが、実際によく効いてみると不思議ではある。気功と違って、邪気を抜くとか、よい気を入れるとか、そういうことは特に意識しないのである。そのあたりは自動調整である。それがまた既成概念を超えるところで、だから気功をやっている人ほどこれには懐疑的になることもあるだろうと思う。しかしながら、もしかするとそういう自動調整型の方が未来的な形態なのかもしれない、という可能性は頭に入れておいてもいいはずだ。

ヒーリングをやっている間、またその後しばらく、不思議な感覚があった。それは、「自分がもう一人いるように思える」という感覚だった。そのもう一人というのは身体の中にいるものではなく、エネルギー的な形で、その広がりはずっと大きく、上空の方まで拡大している感じである。そこには人間レベルを超えた「愛」が含まれているようにも感じる。それが「魂」といわれているものかもしれないが、それはよくわからない。この感覚は初めてではなく、ずいぶん前から時々感じるものだが、実は私が「意識エネルギー場」というコンセプトについて書いているのはそういう背景があるわけである。それが「もう一人の自分」だというのは確たる証明があるわけではないが、どうしてもそのように思えてしまう、というようなものである。理論的にはそういうことを知っていても、実際に経験すると実に不思議なものなのである。

さてその翌日のワークでは、さらに自分をとりまくエネルギー場の感覚が強まったような感じである。その場(人によっては「オーラフィールド」などと呼ぶかもしれないが)がずっと拡大し、光を増したような感覚がある。そのエネルギー場と、究極的な「光」の領域とのつながりが太くなったという感じがする。だがこれについては、この場では詳細を書くことを差し控えたい。

2006.03.17

リカバリー

8年目になるパソコンは実は二台ある。その中の一つがどうにもぐちゃぐちゃしてきたので、ここで思い切ってリカバリー決行! というのは家で使っている方のが去年、ファイルシステムが毀れてリカバリーしたら、意外にもそれから調子がよくなったので、これは時々やった方が健康にいいらしいと気づいた。というわけで春休みを利用して決行だが、けっこうめんどくさい。

ファイル、ドライバーのバックアップ(お気に入りも忘れずに・・)
周辺機器の最新ドライバーをダウンロードしておく
リカバリーCDを実行
Windows98のセットアップ(プロダクトキーが必要。ちなみにオークションでプロダクトキーだけを売っていることがあって、何に使うのだろうと思っていたがこういうことなのね。つまりリカバリーしたいがWindowsのCDをなくしてプロダクトキーがわからないという人がけっこういるわけだ。私はCDは行方不明だがキーの番号をメモしてあったのだ)
まずLANカードの設定(これはCD-ROMで)
ネットワークの設定
IEを6にアップデート
Windows update
余分なソフトを削除
USBメモリーのドライバ(Win98では必要)
ポータブルハードディスクのドライバ
アンチウイルスのインストールと設定
メールソフトのインストールと設定

これでまだ半分くらいか~ やることは手順さえ間違えなければむずかしくはない。これから周辺機器の設定といろいろソフトのインストールがある。全部で4,5時間はやっぱりかかる。
起動がずいぶん速くなった。
Win98SEにアップデートしたほうがいいのか、考えるところである。ま、新しいのを買うことも考えはいるのだが、まだ使えるものは使いたいという心理が基本的にあり、少しは粘ってみたい。

2006.03.15

デジカメなどの話

ついにデジタル一眼を買ってしまった。コニカミノルタのα-sweet digital である。コニカミノルタのカメラ事業撤退ということで、今後入手しにくくなるかもしれないので、思い切って手に入れてしまった。しかし今のところまだ撮るものがない。だいたい植物写真が多いのだが、いまはまだ雪の下である。

このカメラにしたのは銀塩のミノルタカメラをもっていて、レンズが多数あったためと、コニカミノルタにしかない「デジタル一眼での手ブレ補正機能」のためである。私はどうも三脚などというのがめんどうでならないので、手持ち撮影では手ブレ補正の威力は絶大だ。それはパナソニックのデジカメで思い知った次第だ。

しかし特にミノルタのレンズなどを持っていなくて、特に一眼にこだわらない人はむしろパナソニックのデジカメが私の一押しである。高倍率のFZ30や、広角28ミリからのFX01,LX1など、数年前には考えられなかったすごいカメラで、パナソニックの商品開発力には恐れ入るほかない。このような高品質な電子製品をかなり安価に買えるというのは日本人に生まれたことの最大のメリットの一つであろう。よその国では、相当割高な値段になって、金持ちしか買えないものであるかもしれない(ヨーロッパでは大衆車にすぎないVWの車が日本では金持ち向きと見なされていることを考えてみれば想像できる)。

ミノルタもよいカメラを作る力は十分にあるのに、経営戦略の見通しが甘くてアカンことになってしまったのは残念である。なんといってもデジタル一眼を出すのが遅すぎた。キヤノン、ニコンなどが普及価格帯のデジタル一眼を競って発売しているときに、銀塩一眼レフの普及機を出したりするんだものなあ(それ自体はとてもよいカメラであるのだが)。

それにしてもこの数年はちょうど銀塩からデジタルへの端境期だったため、その間にかった銀塩用レンズはかなり無駄になり、ここ一二年で続々出ているデジタル用設計のレンズに多少は買い換えなくてはいけないらしい。今のところその予算はないので、前からのレンズでしのぐ。

それと、そろそろコンピュータも買い換え時期である。なんといってもコンピュータの世界で8年使用というのは長い。まだ使えるものを捨てるのはもったいないのであるが、プリンタなどの周辺機器のスペックが合わなくなってきている。コンピュータの世界もXPによってほぼ安定期に入り、いま買うものはまたかなり長期に使えそうだという見通しである。こういうものは端境期か安定期かで大いに使用寿命は違ってくるものだ。デジカメもそろそろ安定期に入ると思う。

心理学については

そういえば、発展系レイキについては、Reiki Sourcebook という本に網羅的にいろいろな情報がのっていて、参考になる。レイキのいろいろな技法も出ているが、土居裕の『癒しの現代霊気法』の英訳が欧米にけっこう影響を与えていることがわかる。

なお、このブログで主に扱っているのは、世界観、宇宙モデル、身体技法、ヒーリング・・などの話であって、心理学や心理療法については扱っていない。

思えばユングなんかを面白いと思っていたのが遠い昔のような気がする。心理学については、ミンデルをのぞいてほとんど興味がない状態だ。ミンデルも、コンセプト的には非凡だが限界はあると思っている。ユングについては、正直言うとこの2006年にもなってかじりついているのはちょっと古すぎるような気がする。橋渡し的な人ではなかろうか。こういう中途半端なものはもういいか、という感じかも(ユング自身の功績は評価するけれども)。

実際、エネルギーパラダイムに立つと、「心」というものを明確に分けてそこへアプローチしていく、というやり方はどうも一面的に感じるので、心と身体はエネルギーレベルにおいては一体であることをまず基本の前提としてやってくべきではないの、という感じである。ファーカシングでいうフェルトセンスというのも、一種のエネルギー的な知覚であるように思われるが。エネルギーレベルの知覚に明確にフォーカスしたのがミンデルの功績なのだが、さて、そこから何処へ、という状況であろうか。TFTなんかも新しいエネルギーパラダイムによる療法の可能性を見せているものかもしれない。

エネルギーパラダイムに立って行われているセラピー的な行為の多くは、いまだ学問的認知の領域外にある。実はそっちの方にはすごい本物とめちゃくちゃなガラクタとが入っていることになる。社会的に認知されていない世界に足を踏み入れるのはコワイ、という気持ちもわかるが、それでは本当にオモシロイものには触れられない。

ファジーな境界領域にトランスパーソナル心理学がある。そこでやってることも、「認定外」でやっているホンモノに比べると大したことないとも言える。しかしまあそれは、境界を少しずつ動かすのが使命であるのだから、やむを得ないだろう。だがやはりトランスパーソナルの方でも、もう少し理論的な拡大を図らないとだめだろう。ウィルバー理論に依拠していても、決して領域内に取り込めないことがらが多数ある。もっと包括的なものでなくては。とはいってもあまりに踏みこみすぎると社会から拒絶されるし、そのへんはむずかしい。つまり、これは常に社会の動向とのかねあいで「さじ加減」を決めていくことなので、それは、個人としてどこまでもホンモノを求めていく、という行動とは質的に違うのである。だから、トランスパーソナルなどというのは心理学者やセラピストが考えるべきことで、それ以外の人は学問でどういわれていようと気にせずに、自分のこれと思ったものをやればいいだけである、と思う。私の知る限り、トランスパーソナル派の多くは「心理療法や精神医療の中に何らかの意味でスピリチュアリティーを取り入れよう」としているだけで、霊的なことがらの実在を学問的に立証しよう、などという研究をしているわけではない。そういう期待を抱くのは筋違いなので、誤解しない方がいいだろう。この実在の世界とは何であり、それを超えた世界はあるのか、という問題は形而上学という分野なのであり、それは広義の哲学に含まれることになる。(日本のトランスパーソナルの現状については、前に紹介した石川勇一『スピリチュアル臨床心理学』がほぼ伝えていると思う)

レイキと世界観の問題

発展系レイキの中では、メジャーなのはカルナレイキとセイキムレイキである。この二つはかなり日本でも広まってきて、臼井レイキと合わせて基本三点セットという感じになる。その次にスピリットレイキ、クンダリニーレイキがあり、その他のエネルギーワークとしては、シルバーバイオレットフレーム、アバンダンスレイ、ラベンダーフレイムオブクアンイン、アテナウィズダムレイ、エンジェルリンク・・なんてのがある。そのほか、インド系のディクシャ、西洋神秘学系のものだとか・・

百花繚乱状態だが、これはある意味では、ちょうどルネサンス期のイタリアに近い精神状況で、その当時も、教会の支配から解放されて、一気に神秘学的な思想や技法が流入していったのだった。新プラトン主義の思想には、そういう「現実的な神秘学的技法」の世界が背景にある。私が「新々プラトン主義」を提唱するについてはそういう時代背景の類似ということもある。

教会の権威の崩壊というのは、いまでいえば、唯物論的世界観の権威の崩壊ということだ。そしてアカデミックな知的世界の近代主義の崩壊ということでもある。

気功と比べてレイキなどのエネルギーワーク(エネルギー伝授システム)はさらに反近代主義的である。
なぜかというと、この前書いたようにこれらは密教的なシステムであり、つまり、「超人間的な知性との契約」という概念なしには成立しないシステムなのである。つまり、この人間の作り出している世界(いわばそれは共同幻想だが)の外側にいる高次元存在があり、それとの契約によってあるエネルギーが、この物質次元の外側から物質次元の中へと流れていくことになっている、ということを意味するわけだ。つまり、この物質次元以外にも別種の世界秩序が存在し、その次元間の交流が行われている、という宇宙モデルへのシフトがそこには含まれている。

アカデミックな、というか、社会のメインストリームである唯物的世界観への信頼がまだ残っている人にとっては、とても受け入れられるようなパラダイムではない。つまりそうすると、レイキ的なことがらが受け入れられるためには、まずそういう近代主義的な世界モデルが揺らがなければならない、ということになる。

しかしながら、近代主義的な世界モデルには確固たる根拠はなく(それが「科学的に証明されている」と考えるのは、科学の本質について無知なことによる愚かな考えである)、それ自身は一つの形而上学でしかない。ここで考える必要があるのは、いろいろな世界次元が何重にも重層して、かつ調和している、という宇宙ヴィジョンである。これはある意味ではライプニッツ、スピノザ的世界観の復権でもある。

話がむずかしくなったが、つまり、気功と比べてレイキ系はさらに「コア」であり、受け入れるには時間がかかることが多いだろう、ということになる。気は認めても高次元存在との契約などというコンセプトは受け入れがたい、ということが多いのだ。それは、「悟り」といえばインテリにも受けるが、「聖霊による救済」といわれると宗教ぽいと感じてギブアップする、というパターンと似ている。つまり、合理主義的な世界了解からジャンプできていない。気とか悟りとかいうコンセプトは、一見すると、近代合理主義をほんの少し拡張すれば理解できるように見えるのだ。しかしそういう理解では浅いところまでしか到達できないし、さらに追求するとディープな世界にならざるをえないのだが。

そのような、レイキ系にある「高次元世界との契約によるエネルギーの流れ」ということは、シャーマニズム以来、過去の宗教にも普通にあったことであって、そういうコンセプトに今さら「えっ!?」という反応をする必要はない。キリスト教で「旧約・新約」の「約」とは契約の約にほかならない。契約によって聖霊というエネルギーが動くのである。
原始仏教・上座部仏教ではそういう側面を排除しようとしていたみたいだが、仏教でも密教系になるとそのようなコンセプトそのものになってくる。念仏だって阿弥陀仏との契約である。つまり霊的次元との契約というコンセプトはおよそ宗教現象のコアになっているものである。これは超近代主義的な宗教理解であるが、実はそれが本質だと思っている。

「知的権威」の崩壊という現象がある。学校の先生に権威がなくなり学級崩壊などしてしまうのはそのネガティブな面だが、反面、偉い人々がいう「マジメの世界」をあまり信用せず、自分の心の赴くまま平気でコアな世界に入っていく人が増えていっているという面もあり、レイキ系ワークの発展はそういうことの現れでもあるだろう。

キリスト教の世界でも「ペンテコステ派」が世界的に増えている。これはよく知らないが、聖霊のエネルギーを受け取ることに中心をおいたキリスト教で、実際にエネルギーが入って集団でエクスタシーに入ってしまうというような、かなりオモシロイというかアブナイものであるらしい。シャーマニズムの伝統があるアフリカやラテンアメリカ、韓国などでは相当隆盛である。しかしこれこそが原初のキリスト教のパワーなのだ、とも言えるのだ。

一般論的にも、およそ宗教現象には反社会的な性格、つまり既存の秩序を脅かすような要素があるものである。あんまり世の中の常識に忠実に「いい子」になってしまうとパワーを喪失するのがならいである。だから「スピリチュアル思想家」たるものも、多少は世の中に危険人物と思われている方がいいのである。

ま、そういうところである。
それから、このブログで勉強してます、という人があるが、基本的にブログという形式は、体系的な勉強には不向きである。どういう予備知識の人がどこから入ってくるのかわからないので、一から積み上げてきちんと理解していくということはできない。だから基本的に「勉強するつもり」で読むものではないと思っている。他人の仕事場をのぞきに来ている、というイメージの方がよいだろう。私もべつに、勉強してもらうつもりで書いてるのではない。最初から、きちんととした論述をするつもりはないので、時々わけわかんなくなることについては責任を持つつもりはない。ということで・・

2006.03.14

シンボル・マントラ

下記ヒーラーのサイトについて「これですか?」と問い合わせは二件もらっているが、いずれも正解であった。天界から新しいレイキシンボルを降ろすなどということを生々しく日記として公開しているページなんかそんなにあるわけではないと思うので、「これだ!」と思ったらたぶんそれなのだと思う。行き着ける人は行き着けるようであるので、この件についてのお問い合わせはこれにて締めさせていただきます。

ただ、最近、新しいシンボルやマントラを降ろしたという話は大変多く、欧米はもちろん日本でも、そういう新しいエネルギーを伝授しますというところは増えている。たぶんその中には、まったくエネルギーがないのに詐欺で言っているようなのはあまりなく、みな何かのエネルギーはつかんでいるのだろうと思う。問題はそのエネルギーの「サニワ」(霊的識別)になってくるのだが、こればかりは結局自分の責任でやるほかなく、だれかのお墨付きを信じるなどということがあってはいけないのである。私も例のヒーラーさんに関しては「すごーい」と言っただけであって、それを保証するとか推薦するとかいうことはまったく言っていない。たとえ私にとっては「本物」でもあなたにとっては本物ではないかもしれないのである。そういうものだろう。言いかえるなら、こういうことすべては方便にすぎないのである(「方便」というのは良い言葉である)。

それにしてもねえ・・あるシンボルやマントラに、ある霊的なエネルギーが「契約」されているというのは、昔から密教の世界では知られていることだった。アチューンメントというのは密教で言う「灌頂」と同じことである。こういう密教的なことが、封印を破られて一気に大衆化したというのがレイキの歴史的意義であって、発展系レイキもその流れからすれば自然に出てくるべくして出てきたものであると思う。まあ、過去の宗教における「儀式」にしても、エネルギー伝授システムだと思えば理解できる。狭義の密教以外でも、念仏や題目というのも一種のマントラだし、お経を読むこと自体にもエネルギーがある。

しかしそういう封印破りの時代だからこそ、個人による霊的識別の責任は高まっているのである。選択の結果はぜんぶ自分で負うということだ。

これは基本的に密教的なものであるから、わからない人にはまったくわからないのはやむを得ないし、それはしかたがないことだろう。霊的エネルギーというコンセプトが現代社会にはない。それがない限りこういう世界への扉は開かれない。

思うに私自身もそういうエネルギー感覚を使うような方法が最も居心地がよい。ヴィパッサナなど、その効果は認めるがどうにもあまりにもマジメすぎて息苦しくてしかたがないのである。あるシンボル・マントラを使えばすぐに光の波動が呼び出せる、というふうになった方がよっぽどラクだし、楽しいやり方なのではないか、と個人的には思う。

話変わって・・最近、気になっているのは「岩塩ランプ」である。ヒーラーの間ではひそかに評判とか・・? 一つ7000円よりだが、ちょっと欲しいかも。写真を見るとなかなか波動がよさそうなのです。

2006.03.09

先日の話に関して

先日話題にしたヒーラーさんのHP、なんでここにリンク載せないの? と思っている人もあろうと思うが・・ このブログもだれが読んでるかよくわからないし、人によってはレイキというものを激しく誤解する可能性もあると思われた。それとこの人自身が、リンクは許可を得てほしいと書いてある。前に書いたように、こういう要請には法的拘束力はなく、無視してもかまわないのだが、私としてもやはり、この内容はちょっと見る人を選ぶかなあ・・と判断したという次第。すでにヒントはいろいろと与えられているので、何らかのご縁のある人は必ずそこに行き着くであろう。メールで「URLを教えて」といわれても教えないが、「これですか?」という問い合わせには、イエス・ノーで反応するかもしれない(確約はできません)。ということで・・

私だって、モロに公開したら必ず「こいつ気が違ってる」と思われるような過去の体験もあるわけね(笑) 私の場合ほとんど面が割れているも同然だから、これでもここに書くことにはかなり自己規制入っているわけ。そういうわけでそういうほんとにオモシロイことは決してここには書かれないのですよ(笑) あしからず・・

2006.03.08

オギュスタン・ベルク『風土学序説』

CDを集めることもそうだが、本についても私は、あるテーマについて手に入れられる限りのものを集めて読もうという情熱は、まったくない。これはと思ったものに繰り返し沈潜するタイプなのである。だから、アカデミズムには向かない。自分で何か書くのでも、できるだけ引用や注釈の少ないものが好ましい。これでもか、と引用文献があっと驚くほど羅列してあるのは、自分の勉強ぶりをジマンしているような感じがしてどうも好きになれない。

思想関係では最近、これといった本に出会わなかったが、久々に面白いと思ったのがオギュスタン・ベルクの『風土学序説』だ。著者はもともと地理学者で、景観や風土の問題をやっているのだが、なぜか哲学、それも存在論に詳しい。そもそも存在するとはどういうことか、というところから話が始まって、プラトンのコーラ(場)や西田の場所論が出てきて、近代的な世界了解を相対化しようということらしい。

私のような「スピリチュアル思想研究家」に何でそれが関係あるのかといえば、そもそも近代人がスピリチュアルの世界と離れてしまったのは、近代特有の世界了解の仕方を無意識にインプットさせられてしまっているからであって、その根源から解体していくことが、実はスピリチュアル回復のためにもっともラディカルな戦略となりうるのである、ということだ。

こういうブログ形式では、そういうことを基礎から積み上げて理解していくというスタイルは取れないし、最初からそういうふうな啓蒙的な意図があるわけではなく、単に自分が書きたいことを書いているのを人が勝手に見ているだけ、というのがこのブログの趣旨である。そのために、断片的に記事を読むだけではとんでもない誤解をされている可能性もあり、たとえば以前には、私は「霊的なことを科学的に証明する学問をやっている」などというむちゃくちゃな誤解をしていた人さえあった(哲学と科学の区別さえついていない)。このブログだけでは決して私の考えていることの全体はわからないので、それはきっちりと書物などの形にしたものを読んでもらわないとだめなのだ、ということは断っておきたい。

『風土学序説』は、まだ半分くらいしか終わっていないが、これまでのベルクの本と比べても深いところから論じていて、たしかに「主著」となりうるものだと思うし、根本的に世界了解を考え直すための存在論の本としても出色だなあ、と思う。基本的には、近代的なデカルト=ニュートン的なパラダイムの批判であり、「そこに何かがあるということ」を考え直すということになるのだが・・ 「そこに何かが存在する」ことには、見えない次元に何かが関わっているということなんである。その見えない次元を切り捨てたのが近代的な世界観だったということ。

つまり、「風土学」なんてタイトルで誤解するような、単に地理的な差異のことを書いているわけではなくて、存在と世界との関係についての原理的考察から、景観や空間デザインの問題までを射程に収めようという壮大な視野で書かれている本なのである。

「そこに存在する、ということは、ある世界性がそこに成立しているということである」ということで、それを提示したのがハイデッガーの「世界内存在」という概念だった・・ ということが、重要な転回として位置づけられているようである。

哲学と景観論の両方がわかるなんていう人はそうそういないので、こういう本を書けるのは彼しかいないですね。

なお、この本は初級者向けではない。かなりの予備知識がないと無理だと思う。


風土学序説―文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に風土学序説―文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に
オギュスタン ベルク Augustin Berque 中山 元


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2006.03.06

もひとつ「ドイツ・レクイエム」のこと

今日のエントリーは趣味に走っております。
この前の「ドイツ・レクイエム」について、「フルトヴェングラーのCDも音は悪くないから聴け!」というようなメールが来た。この場を借りてご厚意に感謝しますが、どうもフルトヴェングラーのことを書くとメールが来ることが多いような気がする。

私はCDコレクションの鬼ではないので、いくら好きな曲だといってもその曲の演奏をことごとく集めてしまうようなことはない。世の中には、入手すべきCDのリストを作ってそれを集めることに気合いを入れている人もいれば、自分の気に入ったCDに当たったらそれ以上集めようとせずそればかり聴いている、というタイプがあるかもしれない。どうも前者は男性に多く、後者は女性に多いような気がする。ことごとくを「制覇」しようとか、少しでもよいものを求めてあくなく追求するといった行為はオス的な所業なのかもしれません。私は他の男と比較して、「男性性・女性性」の比率が違っているようで、女性性の比率が高くなっておるようです。それはともかく、

ちょっとネット検索してみたら、ドイツ・レクイエムCD紹介のページの多いこと。
その中で、私の聞いた5,6枚のCDの印象とほぼ一致していたのが、次のページである。
http://www5.airnet.ne.jp/kawahara/Brahms-dreq.htm

私が最初に聴いたクレンペラー盤については、

このディスクに関しては不満点は音質のみなんですが、これがそれなりに問題ではあって、とくに限界ギリギリの最強奏のところになるとどうしても音が割れるというか響きが濁ってくるところなど演奏自体の迫力からしていかにも惜しいです。

まったく同感。私としては、この最高潮のところで音が割れるというのは致命的!! というのは、私は音楽を一種の「エネルギーの流れ」として聴いているわけで、盛り上がったところで音が割れると、そこまで上り詰めていたエネルギーが解放されずに残ってしまうのである。これが私はどうにも耐えられないくらい不快なことなのだ。大きな宇宙へとエネルギーを一気に解き放つ瞬間こそ最高の至福なので、それが損なわれてしまうのはこの曲を聴く意味がないと言ってもいいくらい。私も、本当に惜しいと思う。

ヘレヴェッヘの演奏については

ヘレヴェッヘ盤の演奏は古楽器アンサンブルの原色的な音色の美感が十二分に発揮された演奏で、その響きの美しさが強い個性を形成していると思います。⑦のガーディナー盤の演奏においては古楽器オーケストラをガンガン鳴らすことによる荒々しい音彩の表出が演奏の迫力を強めていたのに対し、古楽器オーケストラの力感が巧妙に調整されているこちらのヘレヴェッヘ盤の演奏においては音響的な迫力というよりはむしろ、響きの透明感、細やかな色彩美という面において際立ったものがあり、声楽の広がりの充実感という点でもガーディナー盤を一歩凌いでいる感があります。敢えて不満点を挙げるなら、演奏の性格上総じて響きにある種の濃密性が弱く、「ブラームスを聴いている」という感じがそれほどしない点でしょうか。

きわめて妥当な批評で、異論ないです。私としてはそういう、伝統的な「ブラームスっぽさ」がないところが逆によい。ヘレヴェッヘの演奏は、必死に救済を求めて血へどを吐くような魂の叫び、ではないわけだ。言ってみれば、最初から最後まで至福の世界にいて、そこから歌い出しているドイツ・レクイエムなのである。そこがカール・リヒター的なものと対極にあるヘレヴェッヘの音楽性なので、それがいいという人はすごくいいし、いや、やっぱり血を吐くような魂の叫びでなければ、という人は他の演奏を聴けばいいだろう、ということ。このヘレヴェッヘの演奏は決して「鎮魂」ではないので、それとは別のもの。誤解を招く表現かもしれないが、「人間」というより、「宇宙の調和」を表現しているもの。(だからヘレヴェッヘの受難曲はつまらないかもしれない)
ただ、ソプラノ独唱はちょっと物足りなさが残るかもしれない。それは他にいいのがたくさんあるから。

ちなみに「ペンギンガイド」によれば、ガーディナーが鍵マークにロゼッタ。アバドのDVDが鍵マーク。あと三つ星はプレヴィンの2枚、クレンペラー、ノリントンのみ、モノラル参考記録の三つ星がケンペとカラヤン。こちらは「保守的なイギリス人の趣味」としての参考である。

2006.03.04

ブラームスのドイツ・レクイエム

ブラームスの「ドイツ・レクイエム」はひじょうに特別な音楽である。これは、現代人が「キリスト」を体験する一つのあり方を示している、と思う。

キリスト教音楽というと、一昔前ではバッハの「マタイ受難曲」が最高とされていて、ことにカール・リヒターの演奏などは神格化されんばかりであった。あれこそがキリスト教のエッセンスを示している、という評価も多かったが、いま、この2006年になってみると、そういう評価はもう終わってもいいと思う。はっきり言って、現代人(特に日本人)にはこのキリスト教理解は合わない。曲の美しさはわかっても、本質的なところでは理解を拒絶するものがあるに違いない、と思う。

というのは、決してマタイ受難曲をけなすわけではなく、あれが偉大な曲であることには何の異論もないのだが、あのキリストのとらえ方が「典型」とか「最高」というのは違う、という気がする。マタイ受難曲は、「人類の罪」をあがなうために、イエス・キリストが苦しみを受けるということが中心であり、その苦難をこれでもか、と描くことにある。はっきり言うと、こういうキリストのとらえ方はもう古い。こんなキリスト教は「普遍的霊性」にはなりえないのである。

個々の魂におけるキリストとの出会いを描いている、新しいキリストの把握が「ドイツ・レクイエム」にはあるのだ。歌詞はブラームス自身が旧約・新約から引用を集めたものなのだが、よく見るとあんまり「イエス」のことは出ていない。歴史的なイエスの受難なんてことはどうでもよくて、いかにして魂がキリストという「光」を知るに至るのか、という内的なプロセスだけが表現されているのだ。

私はあなたがたに再び会うであろう。 そしてそのときの喜びは、けっして失われることはない。

というヨハネ福音書の引用があるが、その意味が本当に「わかる」ということが、キリストのことがわかるということなのだ(この際、「キリスト教」はどうでもよろしい。ここでは「キリスト」の話をしている)。
キリストとは、光であり、真理のことである。
キリストに会うとは、「光を見る」ということである。
つまり「ドイツ・レクイエム」は、苦悩に満ち、「生きることの意味」を必死に求めている魂が、ついに光と出会って、「永遠の生命」を自覚し、その尽きることない喜びを知るに至る、というきわめて霊的なプロセスを描いていることになる。

「光を見る」というのは、いわゆる「悟る」ことではない。
「悟り」とはあくまで神と合一する究極的な段階のことを言うのであり、「光を見る」とはその第一歩であるに過ぎない。
しかし逆に言うならば、魂が苦悩から救われるのは、何も悟らなければいけないわけではない。まず、光を見る(キリストに出会う)だけでいいのだ。それは、悟るよりはるかに簡単である。悟らなくても、そこまで行けば、基本的に苦悩からは解放される。仏教でも解脱に至るプロセスとして、たとえば「不退の位」とかそういうものがあるが、それが「魂の救済」に相当するかもしれない。
悟らなくてもいい。魂の救済はもっと簡単なことだ。
それは、私自身がこれまでの探求で理解したことである。

まあ、たしかに、キリスト教ではふつうこの「魂の救済」が最終目標になってしまって、そこから先の「神人合一」までの道があることを知らない(一部を除いて)、というのも普遍的霊性という観点から見れば欠落ではある。
しかし同時に、そういう究極目標があることは知っていても、「魂の救済」というプロセスがその中間にあるということがよくわからず、最初から悟りをめざしてしまってかえって回り道する、というのも、西洋的霊性が入っていないところにはありがちな欠落なのである。
普遍的霊性とは、この両者の統合にあるのだ。

「ドイツ・レクイエム」の演奏だが、機会があれば実演に触れた方がいいと思う。
オーケストラと合唱という曲は、録音がむずかしく、2チャンネルの再生ではそう簡単にその曲の真価を表すことはむずかしい。ミニコンポくらいでは話にもならないのである。最低でも、合唱と同時に低音弦のラインがはっきり聞きとれるくらいでないとこの曲の音の厚みはわからないのだ。
演奏自体はよく、実演ならいいんだろうけどこの録音では駄目だなあ、というCDがいくつもあった。
一般にはガーディナーのCDが定評あるようである。
これも悪くないが、録音の良さであっと驚いたのがヘレヴェッヘ指揮のCDだった。本当にほかの盤とレベルが違う。驚くべき細部まではっきりとわかり、しかも全体が見事に溶け合っているので、とにかく「音の美しさ」では比類がない。音楽とはまず第一に「美しい音」を聴くことにある。精神性なんてものはそのあとで初めてついてくるもので、雑音ガリガリのヒドイ音の塊から必死になって聴き出すものが精神性ではない(私がフルトヴェングラーを聞かないのもそういう理由である。指揮が悪いというのではなく、録音された音として駄目なのである)。

最近、アバド指揮のDVDを入手したが、これもなかなかよかった。演奏している人の表情が見えるというのはよいものである。合唱の人が、時には必死になったり、また美しいメロディーを歌う時に喜びに満ちた表情をしたりしている。肉体をもった人間が力を合わせて、ある霊的なプロセスを創造している、という感覚が伝わってくるのである。またこのDVDでは、バーバラ・ボニーの独唱がことに素晴らしかった。

ブラームス:ドイツ・レクイエムブラームス:ドイツ・レクイエム
ヘレヴェッヘ(フィリップ) ブラームス エルゼ(クリスティアーネ)


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Abbado / Brahms : Ein Deutsches RequiemAbbado / Brahms : Ein Deutsches Requiem
Brahms , Bonney, Terfel, Abbado


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※注: この文章で「光」と言っているのは、よく瞑想中に体験するような、いろいろな色のついた光のことを言っているのではない。よく読めばわかると思うが、念のために。

エネルギーワークについての随想

最近何をしているかって? 春休みに読もうという本はたっぷりと仕入れてあるんだが、そのほうは二の次で、エネルギーワークに力を入れている。

やはり、どんな知も、最初に経験・感覚から出発するわけで、そこのところで何か決定的なものを持たないと、創造的なことなんてできません、というのがこのところの実感かも。というわけで自己ヒーリングのようなことをやっている。私には、「修行」というより「セルフヒーリング」という入り方の方がしっくりくる。伝統的な「修行」のスタイルは、得てして、かえってエゴが強くなりがちなところがあって、「修行している自分はこんなに偉いんだ」というような正反対の方向へ行ってしまう人がよくいる。それもまた「こっちの世界で偉くなってやろう」という我欲であるわけで。どうしても「行者」の世界というのはそういうのが多いんだ。そういう、自分のもっているある種の欠損感を埋め合わせるために「精神世界」を求めるのも、そのうちに否応なくそういう自分をわからさせられる時が来る。そういう自己浄化を拒否すると、最悪の場合サイキックな力だけはついて「黒魔術師」の道へ転落することさえある。いまの世でもホントにそういうことはあるんですよ。

「癒しなんて、何を生っちょろいことを言っておるかーー!!」なんて言う人もいるけど、そこでの一つのポイントは、そのように言っている人の「身体状況」はどのようなものであるかということ。どこかで体を硬くして、ブロックを作っていることはないか。早い話、その「ものの言い方」をちょっと聞けば、その人がどのくらい体がゆるんでいるか、どういうブロックを抱え込んでいるのか、見る人が見れば一発でわかってしまうものだ。言葉では何とでも言えるが、エネルギーレベルというのは隠してはおけないのである。言葉というのは辞書的意味よりも「言いよう」が重要だというのはそういうことだ。言葉の背後にある身体とそのエネルギーのありようが問題なのだ。

というわけで、修行ではなくてセルフヒーリング、その目安は「ゆるむ」ことだ、というような意識を持ってやれば、エゴを増幅する方向へは行かないだろう、という気がする。「荒行」の場合は、佐藤美知子師のように、エゴの増幅をすぐに叩きつぶしてくれる厳しい師匠が必須かもしれない。師匠なしでは絶対に邪道にそれる。だから「これは」という師と出会わない限りは荒行などやってはいけない、と思う。あくまで「修行」というのはそういう機縁のある少数者の道で、ほとんどの場合は、セルフヒーリング、「ワーク」という概念でとらえていく方が今日的ではないかと思うのである。

以上はべつに理屈のつもりではなく「つれづれなる思い」に過ぎない。というわけでエネルギーワークだが、BGMはフランク・ローレンツェンの「ハンズ」や「センタリング」。ややマニアックだろうか?

やっぱりいまの世の中、自分の身体やエネルギーレベルで何かをつかんでいるわけではなく、ただ概念をいろいろ組み合わせて一見面白そうなことを書いてるだけの本って、残念ながら多い。最近、そういう本を読むのが苦痛でかなわない。世間でいいと言われていても、いやなものはいやなので、これではなかなか学者なんて商売はできませんね。といってもそれほど悩んではいないのだが・・ま、いいようになるでしょう。そんな本を読むくらいならば、DVDでいい映画でも見てたほうが精神上好ましい。

神秘体験みたいなものも、そのためにエゴが増幅してしまって、「あの人、前の方がよっぽどいい人だったよなあ」というふうになることも経験としてある。ホントにこの道はトリッキーで、落とし穴がいっぱいだ。

大事なのはやはり「まかせる」ということかもしれない。宇宙にまかせる。
エネルギーワークの場合は、ヒーリング能力もついてくるが、その場合も「自分」で癒すのではなく、自分は媒体にすぎないのであり、宇宙が癒すのだということ。その点レイキなんかは、最初からぜんぶ「あっちにおまかせ」の世界だから、エゴ増幅のしようもない、というところが一つの長所だ。媒体は透明であればあるほどいいわけで、いかにエゴの介入を少なくするか、という発想になる。

2006.03.03

導きについて

ネットの情報には注意しなくてはいけないんだが、たまに面白いものを見つける。今日は、ある女性ヒーラーの過去2年くらいの日誌みたいなのを見つけた。彼女はレイキのヒーリングルームからスタートしたのだが、次第に「導き」に従って、より霊的な経験と浄化のプロセスに入っていった。天界にいる臼井先生など、その他いろいろなガイドや高次元存在とのコンタクトによる導きが詳細に書かれている。そこでついに彼女はいままでのレイキシステムとは異なるエネルギーとシンボルを「伝授」され、そのアチューンメントを始めることになったのだった。

欧米にはよく「発展系レイキ」というものがあり、それらはみなある霊的なコンタクトによってもたらされたものと言われており、カルナレイキやセイキムレイキなどもすべてそうである。欧米では珍しいことではないのだが、日本人でもそのような霊的プロセスによって新しいエネルギーを「降ろす」というような経験をしている人がいるということは初めて知った。しかもそのプロセスが詳細に記録されていて、そこでの自我による抵抗や、身体的心理的な浄化プロセスなどもわかる。それにしても最近書いてあるものなど、世間的基準から言えば、モンローや坂本政道も真っ青なほどのぶっ飛びであろう。しかしそれは世間が無知なだけで、実際に霊的な使命を持っている人の生き方というのは本当にこういうものなのである。私は他にもいろいろ例を知っているからわかる。この前あげた佐藤美知子さんだってこの程度のことはいくらも体験しているはずだ。「導き」ということが存在するのは本当なのだ。普通の人はそこまでスゴイものではないかもしれないが、導きということは誰にも必ずあるのである。自分に起こっていることには理由がある、というのはそういう意味であろう。ともあれ、ヒーラーとして成長していく過程が詳しく描かれていてたいへん興味深かった。そういうことが変な目で見られるような世の中が早く変わってもらいたいものである(そのために私も少しは働かなくちゃね。その前に自分自身の浄化がありそうなのだが・・)。

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