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ブラームスのドイツ・レクイエム

ブラームスの「ドイツ・レクイエム」はひじょうに特別な音楽である。これは、現代人が「キリスト」を体験する一つのあり方を示している、と思う。

キリスト教音楽というと、一昔前ではバッハの「マタイ受難曲」が最高とされていて、ことにカール・リヒターの演奏などは神格化されんばかりであった。あれこそがキリスト教のエッセンスを示している、という評価も多かったが、いま、この2006年になってみると、そういう評価はもう終わってもいいと思う。はっきり言って、現代人(特に日本人)にはこのキリスト教理解は合わない。曲の美しさはわかっても、本質的なところでは理解を拒絶するものがあるに違いない、と思う。

というのは、決してマタイ受難曲をけなすわけではなく、あれが偉大な曲であることには何の異論もないのだが、あのキリストのとらえ方が「典型」とか「最高」というのは違う、という気がする。マタイ受難曲は、「人類の罪」をあがなうために、イエス・キリストが苦しみを受けるということが中心であり、その苦難をこれでもか、と描くことにある。はっきり言うと、こういうキリストのとらえ方はもう古い。こんなキリスト教は「普遍的霊性」にはなりえないのである。

個々の魂におけるキリストとの出会いを描いている、新しいキリストの把握が「ドイツ・レクイエム」にはあるのだ。歌詞はブラームス自身が旧約・新約から引用を集めたものなのだが、よく見るとあんまり「イエス」のことは出ていない。歴史的なイエスの受難なんてことはどうでもよくて、いかにして魂がキリストという「光」を知るに至るのか、という内的なプロセスだけが表現されているのだ。

私はあなたがたに再び会うであろう。 そしてそのときの喜びは、けっして失われることはない。

というヨハネ福音書の引用があるが、その意味が本当に「わかる」ということが、キリストのことがわかるということなのだ(この際、「キリスト教」はどうでもよろしい。ここでは「キリスト」の話をしている)。
キリストとは、光であり、真理のことである。
キリストに会うとは、「光を見る」ということである。
つまり「ドイツ・レクイエム」は、苦悩に満ち、「生きることの意味」を必死に求めている魂が、ついに光と出会って、「永遠の生命」を自覚し、その尽きることない喜びを知るに至る、というきわめて霊的なプロセスを描いていることになる。

「光を見る」というのは、いわゆる「悟る」ことではない。
「悟り」とはあくまで神と合一する究極的な段階のことを言うのであり、「光を見る」とはその第一歩であるに過ぎない。
しかし逆に言うならば、魂が苦悩から救われるのは、何も悟らなければいけないわけではない。まず、光を見る(キリストに出会う)だけでいいのだ。それは、悟るよりはるかに簡単である。悟らなくても、そこまで行けば、基本的に苦悩からは解放される。仏教でも解脱に至るプロセスとして、たとえば「不退の位」とかそういうものがあるが、それが「魂の救済」に相当するかもしれない。
悟らなくてもいい。魂の救済はもっと簡単なことだ。
それは、私自身がこれまでの探求で理解したことである。

まあ、たしかに、キリスト教ではふつうこの「魂の救済」が最終目標になってしまって、そこから先の「神人合一」までの道があることを知らない(一部を除いて)、というのも普遍的霊性という観点から見れば欠落ではある。
しかし同時に、そういう究極目標があることは知っていても、「魂の救済」というプロセスがその中間にあるということがよくわからず、最初から悟りをめざしてしまってかえって回り道する、というのも、西洋的霊性が入っていないところにはありがちな欠落なのである。
普遍的霊性とは、この両者の統合にあるのだ。

「ドイツ・レクイエム」の演奏だが、機会があれば実演に触れた方がいいと思う。
オーケストラと合唱という曲は、録音がむずかしく、2チャンネルの再生ではそう簡単にその曲の真価を表すことはむずかしい。ミニコンポくらいでは話にもならないのである。最低でも、合唱と同時に低音弦のラインがはっきり聞きとれるくらいでないとこの曲の音の厚みはわからないのだ。
演奏自体はよく、実演ならいいんだろうけどこの録音では駄目だなあ、というCDがいくつもあった。
一般にはガーディナーのCDが定評あるようである。
これも悪くないが、録音の良さであっと驚いたのがヘレヴェッヘ指揮のCDだった。本当にほかの盤とレベルが違う。驚くべき細部まではっきりとわかり、しかも全体が見事に溶け合っているので、とにかく「音の美しさ」では比類がない。音楽とはまず第一に「美しい音」を聴くことにある。精神性なんてものはそのあとで初めてついてくるもので、雑音ガリガリのヒドイ音の塊から必死になって聴き出すものが精神性ではない(私がフルトヴェングラーを聞かないのもそういう理由である。指揮が悪いというのではなく、録音された音として駄目なのである)。

最近、アバド指揮のDVDを入手したが、これもなかなかよかった。演奏している人の表情が見えるというのはよいものである。合唱の人が、時には必死になったり、また美しいメロディーを歌う時に喜びに満ちた表情をしたりしている。肉体をもった人間が力を合わせて、ある霊的なプロセスを創造している、という感覚が伝わってくるのである。またこのDVDでは、バーバラ・ボニーの独唱がことに素晴らしかった。

ブラームス:ドイツ・レクイエムブラームス:ドイツ・レクイエム
ヘレヴェッヘ(フィリップ) ブラームス エルゼ(クリスティアーネ)


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※注: この文章で「光」と言っているのは、よく瞑想中に体験するような、いろいろな色のついた光のことを言っているのではない。よく読めばわかると思うが、念のために。

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