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エネルギーワークについての随想

最近何をしているかって? 春休みに読もうという本はたっぷりと仕入れてあるんだが、そのほうは二の次で、エネルギーワークに力を入れている。

やはり、どんな知も、最初に経験・感覚から出発するわけで、そこのところで何か決定的なものを持たないと、創造的なことなんてできません、というのがこのところの実感かも。というわけで自己ヒーリングのようなことをやっている。私には、「修行」というより「セルフヒーリング」という入り方の方がしっくりくる。伝統的な「修行」のスタイルは、得てして、かえってエゴが強くなりがちなところがあって、「修行している自分はこんなに偉いんだ」というような正反対の方向へ行ってしまう人がよくいる。それもまた「こっちの世界で偉くなってやろう」という我欲であるわけで。どうしても「行者」の世界というのはそういうのが多いんだ。そういう、自分のもっているある種の欠損感を埋め合わせるために「精神世界」を求めるのも、そのうちに否応なくそういう自分をわからさせられる時が来る。そういう自己浄化を拒否すると、最悪の場合サイキックな力だけはついて「黒魔術師」の道へ転落することさえある。いまの世でもホントにそういうことはあるんですよ。

「癒しなんて、何を生っちょろいことを言っておるかーー!!」なんて言う人もいるけど、そこでの一つのポイントは、そのように言っている人の「身体状況」はどのようなものであるかということ。どこかで体を硬くして、ブロックを作っていることはないか。早い話、その「ものの言い方」をちょっと聞けば、その人がどのくらい体がゆるんでいるか、どういうブロックを抱え込んでいるのか、見る人が見れば一発でわかってしまうものだ。言葉では何とでも言えるが、エネルギーレベルというのは隠してはおけないのである。言葉というのは辞書的意味よりも「言いよう」が重要だというのはそういうことだ。言葉の背後にある身体とそのエネルギーのありようが問題なのだ。

というわけで、修行ではなくてセルフヒーリング、その目安は「ゆるむ」ことだ、というような意識を持ってやれば、エゴを増幅する方向へは行かないだろう、という気がする。「荒行」の場合は、佐藤美知子師のように、エゴの増幅をすぐに叩きつぶしてくれる厳しい師匠が必須かもしれない。師匠なしでは絶対に邪道にそれる。だから「これは」という師と出会わない限りは荒行などやってはいけない、と思う。あくまで「修行」というのはそういう機縁のある少数者の道で、ほとんどの場合は、セルフヒーリング、「ワーク」という概念でとらえていく方が今日的ではないかと思うのである。

以上はべつに理屈のつもりではなく「つれづれなる思い」に過ぎない。というわけでエネルギーワークだが、BGMはフランク・ローレンツェンの「ハンズ」や「センタリング」。ややマニアックだろうか?

やっぱりいまの世の中、自分の身体やエネルギーレベルで何かをつかんでいるわけではなく、ただ概念をいろいろ組み合わせて一見面白そうなことを書いてるだけの本って、残念ながら多い。最近、そういう本を読むのが苦痛でかなわない。世間でいいと言われていても、いやなものはいやなので、これではなかなか学者なんて商売はできませんね。といってもそれほど悩んではいないのだが・・ま、いいようになるでしょう。そんな本を読むくらいならば、DVDでいい映画でも見てたほうが精神上好ましい。

神秘体験みたいなものも、そのためにエゴが増幅してしまって、「あの人、前の方がよっぽどいい人だったよなあ」というふうになることも経験としてある。ホントにこの道はトリッキーで、落とし穴がいっぱいだ。

大事なのはやはり「まかせる」ということかもしれない。宇宙にまかせる。
エネルギーワークの場合は、ヒーリング能力もついてくるが、その場合も「自分」で癒すのではなく、自分は媒体にすぎないのであり、宇宙が癒すのだということ。その点レイキなんかは、最初からぜんぶ「あっちにおまかせ」の世界だから、エゴ増幅のしようもない、というところが一つの長所だ。媒体は透明であればあるほどいいわけで、いかにエゴの介入を少なくするか、という発想になる。

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