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百億の昼と千億の夜

こんなの読んでみたけど。光瀬龍原作、萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』
一種のメタフィジカル・ファンタジーですね。その規模の壮大さはなかなかすごかった。
宇宙の多層次元を飛び回る。私も才能があればこういうメタフィジカル・ファンタジーの小説でも書いてみたいと思う。この作品は、世界観的にはちょっと違いを感じるけれども・・ でも、すでに「マトリックス」的な発想を先取りしている部分もある。ある意味で、すべての現実は共同幻想なりと読み切って、そこから多層の現実が共存する宇宙ヴィジョンを導いている。それらすべても根本的に幻想だと示唆しつつ・・

「ナザレのイエス」も出てくるが、その描き方には腰を抜かす(笑) わたし的にはかなりウケたけど。イエスとユダヤ教の教えの関係は、完全に逆である。
それと阿修羅王。すごいかっこいい。よく見ると女の体をしているが、その凛とした表情にはかなりしびれたりする(まあマンガを読むには、そういうミーハーの要素もありだろう)。

坂本政道の『死後体験III』で、宇宙の果てのヴィジョンを見てしまってしばし呆然とするというシーンがあったが、そのような虚脱感をもたらすような圧倒的な宇宙感覚があった。

しかし文庫版のコミックスというのは小さすぎて、目が疲れていけない。少し年を取ったら読めないね。

百億の昼と千億の夜百億の昼と千億の夜
光瀬 龍 萩尾 望都


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雑談、そして知的スピリチュアリティーについて

久々の更新である。実は一回、ブログのデザインを変えてみたのだが、ちょっと読みにくい感じもあって、元に戻してみた。

レッツノートは相変わらず快適で、毎回持って行っている。やることは前のコンピュータとそんなに変わらないが、液晶の質がよくなり、起動や終了も速いのでストレスが軽減される。一太郎もOFFICEも軽々。XPの起動の早さにはびっくりである。Windows98だと起動までに2分くらいはかかっていたし、サスペンドなんかも三回に一回くらい失敗していた。もうすぐ新OSが出るということだが、コンピュータでの情報処理ということでは、昔思い描いていたことはほとんど実現してしまった感じ。

ただ、やはり光学ドライブはめったに使わないので、Tタイプ+軽量バッテリーにして少しでも軽くした方がよかったかもしれない。もっとも車での移動で、駐車場から歩くだけだからたいした問題ではないが。

古いコンピューターの方だが、売るのはやめてもうしばらく手元に置くことにした。あまりたいした金額にはならないし、万一故障したときの予備用もあった方がいいからである。

やることは変わらないと言ったが、唯一、新しくできるようになっととは「ゲーム」である。ゲームだけはCPUを要求する。ゲームといっても私の場合、囲碁だけである。囲碁は高校から大学の初めくらいまでしかやっておらず、たいしたことはないのだが、『ヒカルの碁』を読んで、また少しやってみようと思っていたのだった。私がこれまで持っていた囲碁ソフトは98年製で、これはあまり強くなかった。それから6年でどのくらい強くなっているのだろうと思って買ってみると、なかなかのものである。メーカーでは初段と言っているが、それはどうだかわからないにしても1~2級はあるだろう。私は最初のうち片っ端から負けていた(笑) それでこれではいかんと少し囲碁の本を入手して目を通し、ようやく互角にまで勘が戻ってきたところである。『ヒカルの碁』にも出てきたネット碁も、ブロードバンドになって簡単になった。しかしマンガというものは数々あれど、一番多く読み返したのは『ヒカルの碁』であったと言っていいだろう。これは原作(脚本?)と絵の両方がすごい高いレベルにある傑作だった。碁を知らなくてもおもしろいが、少し知っていると3倍くらいおもしろいのである。(ちなみに「業界モノ」では最近「のだめ」があるが、どうもパリ編になって以来、クラシックを知らない人にはあまりおもしろくない話になっているような気がする。ちょっとストーリー停滞気味である)。

なお囲碁ソフトはものによって棋力に差がある。強いと言われるのは「最強の囲碁」と「銀星囲碁」というソフトである。店では「AI囲碁」ていうのがよく売っているがこれはあんまり強くない。安いソフトでは「最強の囲碁」のちょっと前のバージョンが入っている「100万人のための囲碁」がおすすめ。

・・と、いうようなことばかりやっている場合じゃない。いろいろ、次の原稿のことを考えているのだが、どうも、このようにスピリチュアル本が増えてくると、いまさら何を書けばいいのかという気もしないでもない。昔はぶっ飛びと思われていたことも今ではかなりあたりまえだったりする。いろいろなスピリチュアル本を見ていると内容的にはある程度収斂してきているというか、それほど大差はなくなっている。これはそれなりに「普遍神学」的なものが期せずして醸成されてきているとも見ることができようが・・ どういうものが受け入れられてきているのか、いちおうある程度ウォッチングはしている。ここ数年で急速に進んできたのは「生まれ変わり」というテーマが受け入れられつつあるという状況だ。さらにそれは「なぜ生まれ変わるかというと、魂が進歩してゴールに至るためだ」という理解とセットになっている。こういうコンセプトはすでに、東西の霊的思想の融合である。東洋の輪廻観には、魂が進化していくというコンセプトは入っていない。それはユダヤ・キリスト教的な発想である。こうした融合的なヴィジョンは二十世紀初頭にシュタイナーがはっきり述べていたことであるが、それから百年たって受け入れられ始めたということだ。これを、上座部仏教のスマナサーラ師の輪廻論など比較すると、こういう伝統仏教だけでは不十分だということがよくわかってくる。それはもう部分的真理でしかないのだ。

こちらの本はそういう意味でたいへんおもしろい。

エーテル界へのキリストの出現エーテル界へのキリストの出現
ルドルフ シュタイナー Rudolf Steiner 西川 隆範


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まったく、輪廻転生は日本の伝統文化の一部でありながら、日本の思想家でこれとまともに取り組んでいるものがほとんどないとはどういうわけなのか・・(なお、講談社現代新書で出ている『輪廻転生を考える』はたぶん期待はずれだと思うので買わない方がいい)。

最近の萩尾望都のマンガ「バルバラ異界」にも前世療法セラピストが登場するのだとか・・(まだ読んでないが、近日中に読む予定)。

過去生体験や、体外離脱なども驚くことはない、という風になってくれば、その次にブレイクするのはスピリチュアル・ヒーリングの領域かも・・

私も以前は、スピリチュアリティーとアカデミズムを結ぶだの、そういうことを言っていたが、最近はそういうのがだんだんどうでもよくなってきつつある。一昔前は、スピリチュアルに関心のある人が中沢新一を読んでいたりしたものだが、今はもうそんなことはない。いまの中沢新一はインテリ読書層のマーケットを相手にしているのであって、スピリチュアルへの関心層とはかなり分離してきていると私は分析している。つまりスピリチュアルに関心があっても、アカデミックな権威づけというものをまったく必要と感じない人々が多数派になっているのだろう。それは私が最初にHPを立ち上げた十年くらい前と比べても、はっきり感じられる。その当時はそれでも「スピリチュアリティーとアカデミズムを結ぶ」というようなコンセプトがかなり意味を持っていたのだが、いまはそうでもない。「トランスパーソナル」が一時はやったのもそういうわけだったろうが、今は売れなくなり、『意識のスペクトル』や『アートマン・プロジェクト』などさえ絶版になっているくらいだ。今でもウイルバーの新刊はいちおう出ているから、つまり、ウイルバーの読者層はまったく拡大しておらず、前から読んでいた人は新刊を買うが、新しい読者は増えていないということを意味している。このような「結ぶ」というコンセプトの出版はかなり困難になっている情勢だ。大著『進化の構造』が訳されても、日本の思想界にはまったく何の影響も与えていない。日本では「知的スピリチュアリティー」というコンセプトそのものがなかなか成立していないのである。そういう分野における対話の領域が確保されていないのだ。これはもともと、日本には本当の意味での思想・哲学が存在してこなかったという「非哲学的民族性」のゆえかもしれないが、それを言っても仕方がなかろう。いま、スピリチュアル本を求める人のニーズは、経験的であること、すぐに生活に応用できること、であるように思われる。

それではどうするか、ということだが、それについてはこんなメッセージが入ってきている(どういう風に入ってきたのかは非公開だが)。一言でいうと「心のままに」ということである。つまり「それを書くことが至福へとつながっているか、それが問題なのだ」ということらしい。それが売れるかどうかというようなことは「自動調整」されるので心配する必要はない、ということである。これだけではよくわからない部分もあるが、つまりは、義務とか使命感とかそういうものは不要で、内側の抑制を解除することが重要、というメッセージであったらしい。というわけで、あまり具体的なアイデアというのが来たわけではないのだが・・

すでに一部の人からは「もうあちら側へ行ってしまった人」と思われているのかもしれないが、私には別にこちらもあちらもなく、ただ完全に自由であるというところからスタートしようというだけのことだ。思想や知性を拒否しているわけではなく、偉大なものには敬意を払っている。大学も学会も関係なく、古代の思想家のように自由に生きられればそれでいいのではないだろうか。

奇妙な高値

オークションは思いがけない高値で売れた。

特にびっくりしたのはスピーカースタンドで、なんと13,000円もつけた人がいた。
しかし、よく調べて入札しているのだろうか・・メーカーのページには、定価税込み15,750円と明記してあるはず。
さらにちょいと検索エンジンに入れてみれば、楽天の通販ショップで送料込み13,730円なんて感じのがすぐ出てくるはずだ。中古に13,000円? 送料は着払いだから、1,260円、これを合計したら14,260円、これどう見ても、新品より高いはずだが・・??

写真だってくちゃくちゃになったビニール袋とか写っていたのに。私だったらせいぜい新品の半額、7000円くらいなら買ってもいいかなあ・・という感じだけれど。

前にも、私が入札したらあっさり別の人が高値を更新し、あれよあれよというまにどんどん高くなって新品より高い値段で落札されたことがあった。明らかに、新品価格を調べていない(^_^; そいから、オークションの過去の落札価格を1年さかのぼって調査できるサイトがあり、そこでまずは落札相場を調べてから臨むのが常識というものですぞ。

まあ、もうかったからいいようなものの・・なんだかね~

『ハトホルの書』再び――神話的なるものについて

このところ折に触れて『ハトホルの書』を読んでいたりして(笑) イヤ、これホントにイイんですよ。この手の本を忌み嫌っている人もあるようだけど、私はこの前書いたように、神話は神話として受け取って、イメージ的に読むので、あまりに気にしない。それより基本的に穏やかな愛の波動が流れているような感じでエネルギー的に気持ちのよいものがあります。私は「アセンション本としてはまとも」と言ったのではなくて、実際「スピリチュアル本一般としても一級のもの」と言ったつもりである。アセンションなんていう終末思想的なアオリは皆無である。だから宇宙人とかいっても、それは『神との対話』や『奇跡のコース』がチャネリング起源であるということと同じくらいの意味しかない。内容が問題である。『神との対話』を書いたのが本当に「神」でなくてもいいように、これを書いたのが宇宙人でなくてもいい。そういう意味である。

これはエネルギー体の調整から感情を整え、愛の波動と同調していく過程が詳しく書かれ、プラクティカルでもある。基本的にこの本は、あまりオカルト情報に振り回されることに警告を発し、むしろ地道に自分のエネルギー体を整えていく道を語っているものなのだ。世に言うアセンション情報のノリとは対極的なものがある。

別の言い方をすると、この本を読めば、ほかのアセンション本などは読まなくてもよいということがわかる、というものだろう。表面的なイメージにひきずられてはならない。

このブログを読んで佐藤美智子『瞑想から荒行へ』を買う人が多いようだけど、佐藤氏はあくまで行者を本質とする人なので、かなりコアであり、あまり一般向きとは思えない。むしろ『ハトホルの書』などのほうがすぐに応用できる要素が多いように思うのだが。これは私の持論でもあるが、「荒行」などをやるのは、止めたとしてもどうしてもやりたくてしかたがないようなごく一部の人だけでよく、それよりもいまもっと問題なのは、もっとフツウの人が日常生活と平行しつつ光を高めていく技法なのではないか、という思いがある。

ところでこの前ボブ・フィックスの壮大なる幻想文学を取り上げたが、なぜボブ・フィックスが出てきたかというと、彼の『アセンション・ハンドブック』は意外とかなりまともな本だったからだ。これもむしろ良書と言ってよい。

まあ、こういう情報が最近はいっぱいあるわけで、「サニワ」はますます重要になっているということだ。でもやっぱり、こういう種類のものとは何か超えられぬ一線があるかのような感覚の人もいるんですね。私はいつかはわからないがそういう抑制が解除されてしまったみたいで。でなきゃこんなこと書くわけないわな(笑)

人間は本来、「深々とした宇宙とのつながり」を感じずには生きていけない存在なのだと思う。それで、ユングも「人間には神話が必要である」と説き、神話を排除する合理化の行き過ぎに警鐘を鳴らしていた。

宇宙のイメージを、科学者などに独占させてはならない。宇宙をどう感じるかは、アートやデザインの世界である。

占いもまた、宇宙感覚との戯れであり、宇宙遊びである。だから一部の精神世界本の破天荒さも、神話を欲求する人々の心を満たす役割をしている。科学が宇宙を語ってしまうという越権行為を常識とする立場からは、それが「ぶっ飛び」にも見えるのであろう。私は、およそ宇宙についての言明はすべて幻想文学でしかありえない、と思っていて、すべてその前提からものを見ているのである。問題は、それが人の心を高めるよいファンタジーか、悪いファンタジーかということである。

現役引退

いやー、新PCは相当快適です。WEBの表示速度がかなり速くなっている。回線速度は変わっていないはずだが、処理速度が向上したのか。当分はこれ以上は必要ないようだ。

ともかく音がしないというのがいい。最近はテレビが見られるとか高機能なノートパソコンもあるが、そういうのって処理速度も要求するので、冷却ファンが相当な爆音になっていることも多いはず。量販店ではうるさくて音までチェックできないので、ここは要注意ポイントだ。

そして、これまで現役を務めてきた1998年製造のソニーVAIO PCG-767、ついに昨日をもって現役引退をいたしました(パチパチ)。調べてみると、オークションではまだ一万円近くの値が付くこともあるらしいので、さらにもう一仕事、最後の花を咲かすべく旅立つかもしれませんね。このVAIOは、CPU能力を自分で設定できるので、あまりファンが回らないように設定することができ、音の問題はあまり生じなかった。使っているときはこれで十分だと思っていたが、新PCと比べてみると、ずいぶん液晶が暗いように見える。これは8年の歳月だからしかたありませんね。

そのうちオークションにでるかもしれないが、一万円なら即決するので、ほしい人はご連絡を。付属品などはほとんど全部あります。

私のPC歴は1994年、Windows3.1のあたりから。
最初のPCはエプソンダイレクトのデスクトップ。486/SX33だった。その後すぐ富士通の486/DX2-66のマシンに買い換え。これはハードディスク増設やオーバードライブプロセッサなどで粘り、3年くらいは使う。それから初のノートPC、コンパックの Contura AERO (486/SX33)を使う。これも粘ってWin95にアップグレードしてやっていた。当時は液晶8インチカラーで35万円くらいしていた(私はモデル末期のたたき売りで買ったので10万以下だった)。その次にはソーテックのノート Pentium133のに変える。しかしこれは2~3年で壊れたようだ。私のPC歴で壊れたのはこれだけである。そして、Win98とともにVAIOを二台購入、これで2006年まで粘ったわけである。

前にも書いたことがあるがパソコンには端境期(激動期)と安定期がある。Win98のマシンは8年も使えたのに、Windows3.1、95くらいのマシンは1~3年しか持たなかった。これはコンピュータで実現しようと思っていたことと実際のマシンパワーとにギャップがあった(制作者も使用者も)ということだろう。今思えばこの時代はMACで過ごすのが正解だった。MACは安定していたので、94年~98年はMACならば一台でよかったはずだ。Win98でWindowsに乗り換えるのが賢かったのである。ま、それも今にしてわかることだが・・

新PCの見参

さて、早くもレッツノートは手元にある。オークションの結果を待たずにさっさと購入してしまった。8年ぶりの新PCはなかなかのものである。

まず、液晶が見やすいこと。そしてこれはもっとも重視したことだが、さすがにファンレスだけあってみごとな静音ぶりである。キーボード部からの発熱もたいしたことはない。
それとこれはXPの効果なのだろうが、起動・終了が速いのには驚く。サスペンドからの復帰など、安定性も抜群。長く使えそうなのはよかった。もっとも3年後には9~10万で売れるということも計算に入ってはいるのだが・・

これまで家と職場の両方に一台ずつ置いていたが、これから持ち歩きで一台ですませようと思う。だからこれは二台分の値段ということで買っている。

レッツノートには4タイプしかないがそのうちのWタイプである。まあこれがいちばんフツウの選択だろう。光学ドライブがついている薄型軽量タイプである。Yは重すぎ、Tはドライブなしであまりにマニアックすぎ、Rはキーボードが小さくて打ちにくい・・というので必然的にWになった。

パソコンの世界もやっぱり「安物買いの・・」というのはあるかも。ソー○ックのパソコンなど激安だが、あれは買ってはいけないというのが、PC界をよく知る人々の間ではささやかれているが・・ このレッツノートはやはり値段だけの価値はありますよ。

さあこれでばりばりと文章を書いていく・・というふうになればよいのだが。

【追記】 アマゾンはけっこう安い。あんまりサポートは期待できないが、楽天の通販ショップなんかより安い場合アリ。この価格にギフト券2万円還元がつく。

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ファンタジーもここまで来ると・・

しかし・・ ちょっとアマゾンで立ち読み?いや、WEB読みをしてみたが、ボブ・フィックスの『時を超える聖伝説―いま明かされる人類の魂の歴史/創世・レムリア・アトランティス 新しい次元へ』ていう本の目次、これはすごいね~


セントラル・サン、天使、人類の創造
ミカエル、エクスカリバー、オリオン―守護天使ミカエルの就任、エクスカリバーの起源、宇宙のこの区域におけるオリオンの役割
大戦争―人類の堕落、オリオンの弱点、巨大な銀河戦争
オリオンのカルマの浄化―瞑想―オリオンのカルマ及び人類の堕落の浄化と神性の回復
初期の地球の歴史―エデンとプレ・レムリア―パラダイス(エデン)、ライトボディーの生命体、オリオンによる影響とパラダイスの喪失
クリシュナとサナト・クマラの到来―セントラル・サンからクリシュナ到来、オリオンからの移住、十四万四千人と共に遣わされたサナト・クマラによる地球最高評議会の設立
光の濫用とシャンバラ及びキャメロットの創造
霊的パワーを持つ商人、カルマ評議会の設立―カルマ評議会の設立、霊的パワーを持った銀河間での商人の台頭、第三の目のパワーの喪失
レムリアの消滅、トートの到来とダーク・ロード、クリシュナの回帰サナンダ十四万四千人を招集
アトランティス―新社会、大ピラミッド、トート・ヘルメスと七人評議会〔ほか〕

ほんとに目が回ります。しかし、壮大なる幻想文学とみれば、なかなかファンタジーに溢れていて、ちょっと読みたいという気もそそられたりして・・

神話というのは「スピリチュアルな次元に存在の根底があるというコンセプトを前提とした、いまの私たちのいたる歴史」であると思う。いまの「公式な歴史」は、徹底的に唯物的なものでしかない。そこに物足りなさが残る。人間というのは、存在の根底に根を下ろした歴史のイメージを必要とするのだ。

私は、この現実世界だって共同幻想的なファンタジーだと思っているからね。

上の壮大なるファンタジーも、一種のギャグ、方便ですから、あまりクソマジメに受け取らず、ファンタジーを楽しめばよいかと思う。

単なる日記風に

さて、そろそろ忙しくなるので、ブログも手抜きモードになるか?

ところで、ついにパソコン買い換えを決意!です。なんか、パソコンって毎日触るものだし、エネルギー的な変化にもつながりそうな感覚。

最近のパソコンは、性能が上がっている分発熱も多くなっており、けっこう、冷却ファンが爆音を立てているものが多い。私はどうもあのファンの音というのがいかんので、文章作成がメインであってみれば、完全に静かであるのか望ましい。ということでそこに妥協なく探してみると・・松下のレッツノート? しかしあれは高いのである。前にはパソコンで20万以上ってのはあたりまえだったが、最近は全体に下がっていて、10万以下のもざらにあるという世界になっているからな。

中古も考えたが、毎日触るものだけに、エネルギー的な問題がありえるかもしれない。本の場合なら、何度も読み直すような本は売らないわけで、古本として売られるものにはそれほど前のオーナーのエネルギーが影響していることはないが、パソコンはそうはいかないからなー、昔にくらべて敏感になっていることもあり、やはり二の足を踏む。

というわけで、せめて資金のタシということで、うちにある金目のものをオークションで売って稼ぐことになった。といってもだいたいオーディオ関係くらいしかない。出品したのは BOSE AM-5IIIのスピーカーシステム、BOSE GFS-20のフロアスタンド、そして STAX SRS-2020 のヘッドフォンである。興味ある人はヤフーオークションでよろぴく・・ということで。

アセンション本をめぐって

アセンション本といわれるハードコアの本について、この前、「よくわからないところは神話ととらえ、エネルギー的に読め」というふうに書いた。神話というのは、私たちの「常識への安住」に揺らぎを与えるため、あえてそうしているというふうにもとれる。常識という安全な枠組から踏み出す勇気がないと、なかなかこういう本は手に取れない(なんも考えずに読み始める人もあるだろうが)。そこが一つの意識変容のための方便になりうるということかもしれない(ちょっと考え過ぎかも、だが)。

その後いくつかチェックしてみたが、なかなかよい本と本当のトンデモ本が混在しているようなので、いよいよ読者の見極めは重要になってくるらしい。トンデモ本の方が多いかもしれない。

その中でよいのは『ハトホルの書』であった。

アセンションのプロセスには終わりがありません。アセンションのゴールとは、ある特定の意識のオクターブに達することではなく、自分自身を愛にゆだね、そして人生に起こりくるさまざまな状況に対して最高次の可能性にゆだねることなのです。そうすることが全体に貢献することになり、同時に個人が意識を高めることにもなると考えています。ですからアセンションするかしないか、あるいは肉体上の死に向かうか否かは問題ではありません。アセンションという現象をまるでマラソン競技のように見なし、最初にアセンションにゴールした人が「勝者」だと考える人もいるようですが、わたしたちはそういうふうに見ていません。

(中略)
わたしたちの念頭にあるアセンションのゴールとは、日常をできうるかぎり豊かに精一杯生き、常に自分を愛と気づきという偉大な力にゆだねて生きることにほかなりません。存分に生き、日々のどんな場においても最高次の可能性を生み出すように努めるなら、わたしたちの文化、種族、共同体、文明全体が高められます。わたしたち全員が現在の次元にとどまるかどうかは問題ではありません。なぜなら無限の大宇宙を生きるわたしたちは全員、いずれアセンションすることになるからです。

新しい千年紀にあたってのわたしたちのアドバイスは、時刻表やら現在の現象やらにあまり囚われないにということです。どんな現象も自然に収束するものです。しかもそれらは大宇宙のなかで、人類の思考や干渉には影響されない部分に属するものなのです。したがって、まずはあなたが手掛けられることから変えてゆくほうが、この場合ははるかに有益であると思われます。そして、あなたが手掛けられることというのは、あなたが世界にもたらす愛を増やすことなのです。
p.159-160

なかなか『神との対話』的な表現・・
ここだけ見ても、この言葉を発した存在(よく知らないが)が、たいへん「まとも」な考え方をするものであることがわかる。

フォトンベルトとか、一部でいろいろ言われることも、あんまり気にするなと軽くかわしている場面もある。

たしかに宇宙文明からのメッセージという設定自体はトンでいることだが、内容的にはグラウンディングの効いた、きわめてまともな「霊的成長についての本」という印象で、なかなかのものだった。それと、エネルギーワークと、音を使ったワーク(トーニング)についての情報がある。このエネルギーワークも私から見るとなかなか理にかなっていると思うし、全然トンデモ本じゃなくていい本である。

アセンションというコンセプトは、宗教学的にいうとキリスト教の終末思想の現代版という側面もある。
そういう面もあるのだが、シュタイナーの『エーテル界におけるキリストの再来』でも言われているように、霊的変化によって次元変容していくというのは、基本的に内面的プロセスとして理解すべきものだろう。
それを物質的な次元の終末に結びつけて終末感をあおるのは、いささか問題だ。
たしかに地球自体のエネルギー変化は存在していることは事実だが、上の引用のように、もう少し地に足をつけた理解をすべきだろう。

それにしても、気がついたことだが、
最近のエネルギーワークはどうも、ハートチャクラを中心としているものが多いように思う。

これはなぜだろう? 伝統的なヨーガは、下から上のチャクラへとエネルギーを上げていくのだが。ヨーガに熟達している本山博師は、第一チャクラから目覚めさせると危ないからまず第三の目のチャクラを目覚めさせろ、と言っているが、ハートチャクラという話はない。気功では基本的に丹田重視であるのはもちろんである。ただ禅密功のようなスピリチュアルな気功だと、第一と第六(第三の目)も重視される。

時代の変化にともなって、エネルギーワークのやり方も変化していくのだろうか? 興味深いテーマである。ちなみに私も、ハート中心のほうがしっくり来る感じがする。べつにどれでなければいけない、ということはないと思うが。

それにしても・・
まさかこの種の本を紹介することになるとは・・
私の中で何か抑制か恐れが解除されてしまったかもしれません(笑)

この本に限らず、この手のものは、
自分で吟味し、受け入れられないところは読み流し、フィットしたものだけ取り入れればよい、
という、そういう読み方をするべきものと思う。
本を作っている方(それが何者であるかは知らないが)も、そういう前提でやっているし、序文にそういうふうに書いてあることも多い。
それがエネルギー的な読み方というものだろう。
すべては方便である。

ハトホルの書―アセンションした文明からのメッセージハトホルの書―アセンションした文明からのメッセージ
トム・ケニオン ヴァージニア・エッセン


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レイキについての雑感


先日、レイキの老舗であるヒューマン&トラスト研究所(川崎市)の方々とお会いする機会があったが、話によるとこのブログを見てレイキの受講に来た人が数人いるとか・・

単にヒーリングだけではなく、スピリチュアルな質的向上の道としてレイキをとらえる考え方に共鳴する人もいるようだ。それは土居裕『癒しの現代霊気法』にもはっきり打ち出されている視点である。もちろん、「ヒーリングだけではなく」というより、ヒーリングそのものがスピリチュアルであるということだ。というのもヒーリングというのはつきつめれば、根源にある光=愛のエネルギーを媒介することだからだ。それは優れたスピリチュアル・ヒーラーの人々が口をそろえて言っていることである。実際、深い次元でヒーリングを体験すると、そこにある巨大な光=愛の空間が開かれていることに気づくものである。

私は、スピリチュアルといっても根本はシンプルだと思うので、それは結局、その光=愛につながるかどうか、どういうつながりかたをするか、ということに集約されるのではないか。あとはすべてそのための方法論の問題でしかない。だからエネルギーヒーリングというのは、それが本物のエネルギーである限り必ずスピリチュアルであるし、そのエネルギーを媒介できるようになることが霊的向上につながるのはしごく当然のことだと思う。

結局、宇宙というのはエネルギー的な存在である。存在するものは「もの」ではなくエネルギーである。だから何がどうあるか、ということは、どういうエネルギーであるか、ということと同じである。したがって、その存在のしかたによるエネルギーには質的な差があることになる。だから、宇宙において、よりコアの近くにある「高次元」の世界領域は、人間が住む世界領域とは異なるエネルギーを持っているわけで、そのような高次元のエネルギーと人間的エネルギーの世界とがいかに媒介されるのか、という話は、実はヒーリングでもあり同時に広義の宗教の問題でもある。そういう媒介についての基礎知識は、バーバラ・ブレナンの本などに書いてある(このブログを読むほどの人はほとんど読んでるかも)。

そのようにより高次元のエネルギーを実際に「体感」しうるようになること、これが重要なことだ。体感できなければ単なる頭の知識にとどまる。つまりある種の「感受能力」を発達させること、というのが霊的発達でもある、と言えるかもしれない。そのためには浄化が不可欠である。これは、いろいろなヒーラーやサイキックたちが、そういう能力の発達にとっていかに自己浄化が大事なのか、強調しているとおりである。

霊的な力を持ったマスターならば、こうした「感受能力」を開かせることができる。それが伝統的な密教では「灌頂」と言われている儀式である。もちろんこれは弟子の浄化が進み準備が整ったのを見きわめて行うことである。マスターというものは他の人に「力をつけてあげる」ことができるわけで、そういうエネルギーを受けると、受けた人の霊的知覚力が開いてくるのである。(正直言うとこういうふうに説明するのは「初心者向きモード」である。ある程度この道でやっている人ならだれでも知っていることなのだ。学者の書いたものを読んでも書いてはいないが) このマスターというのは肉体を持っている存在でなくてもいい。「人」でなくてもいいわけで、高次元存在、つまり神仏のようなエネルギーでもよい。そういう高次元存在からエネルギーが伝達される、ということが密教の中には含まれている。こんなことは普通の学者の本はもちろんウィルバーを見たって書いてはいないが、それが事実である。キリスト教の聖書によれば、イエスの受難後しばらくして、弟子たちに聖霊が下りてきて、弟子たちは霊的能力を持つようになったと言われている。これはまったく事実そのものだと思う。イエスとして現れた高次元存在がその本来の領域に帰って、その次元から弟子たちにエネルギーを送ったということである。このようなことは宗教、霊性の世界ではあたりまえであり、真言密教行者に対してはいまも弘法大師がエネルギーを送り続けているはずである。役行者だっていまも大活躍中である。(ちなみにペンテコステ派という新しいキリスト教では、そのように聖霊を受けることは誰にでも可能だと考え、実際にそういう聖霊体験を重視している)。

つまり、こうした密教的なコンセプトを理解するためには、現代社会の世界観には存在しない、次のようなコンセプトが前提として理解されねばならない。

1.存在とはすべてエネルギー的現象である。
2.存在世界はエネルギーの質に応じて多次元に展開されており、それぞれの次元において存在者がある。
3.異なる次元間においてもエネルギー的な交流がありうる。
4.人間の世界領域とより高次の世界領域(場合においては「低次」もありうるのだが)にはエネルギー的な回路が作られている。
5.その回路はしばしば、ある言葉(真言・マントラ)、象徴、所作のパターン(儀式)などによって活性化するように設計されている。
6.そのような回路を管理する高次元存在がある。

これは密教やヒーリングだけの話ではなく、およそ本物の宗教現象には必ずある要素ではないかと思う。こういう話は、禅とかヴィパッサナなどにくらべるととても「宗教っぽい」もので、抵抗感のある人も多いと思うが、ここまで見ていかないと、本当にスピリチュアルなことがらはわからないのである。いつまでたってもそこに踏み込めない学者などに業を煮やして、あえてここで書いてしまう次第である。なかなか知識人になるほど入っていけない世界ではある(私がなぜウィルバーには物足りないのか、ここまで言えばおわかりでしょう。ウィルバーは合理的だし、「知識人受け」がよい。だが、知識人が too much! と叫ぶようなことにこそ、むしろスピリチュアルの中核があるのだが・・)。

たとえば真言密教などは上の要素をすべてふくんでいるもので、6の管理者とは、大日如来をはじめ弘法大師までグループであるだろう。

何のためにそうした回路ができているのか、と言えば、それはやはり人間がじょじょに光=愛の領域に近づいていくことが「宇宙的な基本計画」としてあるからだ、ということになるだろう。こういう「宇宙計画」のことは、実はあまり東洋的霊性には出てきていなくて、その点では西洋的霊性に学ぶものがある、というのが私の考えだ。そういう宇宙計画について語るというのがキリスト教のよい部分である。それをシュタイナーにならって「キリスト衝動」と呼ぶこともできるかもしれない。(ま、これが今さら「ぶっ飛び」と言うほどのことはない。こういうことはすでに本にはっきり書いてしまっているわけで・・ ともかく私としてはそれがオカルトではないことを言っておく。これは人類の霊的思想の伝統として存在することの一つである)

さて、レイキをはじめとして、最近やたらに増えてきたエネルギーワークというのは、こうした密教的な原理を、宗教・宗派という枠を完全にはずしたところで成立させようというものだ、ということになる。スピリチュアルが宗派という枠内で成立するという時代は終わったのであるから、それは当然のプロセスだった。そういう大きな流れの中で、臼井レイキというものが一つの重要な役割を果たすことになった、というのが私の理解である。それも大きくいえば「宇宙計画」の一部としてあったに違いない。

レイキについては、それがあまりに自由な広まりかたをしており、密教の場合のような、修行者に求められる「前行」をパスしてどんどん伝授がされている、という問題がある。そういうシステムになったことも意図があるのであろうが、現状を見ると結局「自分が受け取れる分しか受け取れない」ということになっているのかもしれない。

私の周囲でも、レイキを伝授されたことがある、でもよくわからないとか、ほとんど使っていないという人がものすごく多いのである。なかにはシンボルさえ全部忘れている人もある。

形だけ伝授されても、まだその時期になっていない場合にはそのエネルギー自体への知覚力が開発されないのであろうか?

そういう要素もあろうが、そのほかに、伝授を受けるティーチャー、スクールに問題がある場合や、あるいは伝授後のフォローや自己ワークが十分にされていない、という問題などが見受けられる。

安いところには安いなりの理由があるので、ほとんどレイキを使わずシンボルさえ忘れてしまうようでは、「安物買いの銭失い」そのものである。それなりに力のあるよいティーチャーやスクールを選べば、エネルギーはわかるようになるし、わかるようになれば続けていけるものである。

だから、レイキを受けたけどさっぱり、という人は、もう一度よいスクールを選んで再受講をすることを検討してもよいのではないだろうか。その際に予算とかにこだわるとろくなことはない。質だけを見て選ぶことだ。

スクールについてだが、一日でサードまでやってしまうとか、そういうところはまず、やめた方がいい。そういうやり方はあまりいいことがない。好転反応が出すぎて入院したりすることもあるし、エネルギーがよくわかるようになるかは疑問なので、各ディグリーの間は必ずある程度あけて受けた方がいい。ファーストとセカンドを続けてやることもあるが、これもできればあけた方がいい。
(例の、シンボルをHPで公開してしまっているあるスクールは、一日でティーチャーまでやってしまうそうだ。私は人の選択に干渉したくはないが、ここだけはやめた方がいい。不穏なエネルギーが漂っていて、危険さえ感じるのであえて書いておく)

それから、そこではヒーリング(施療)をやっているか、もポイントだ。施療をやらず伝授だけメニューにしているところよりは、日常的に施療もやっているところの方が絶対にいいのである。そして、伝授を受ける前にまずヒーリングを受けるという体験をすることである。ヒーリングである程度浄化反応を出してしまってから伝授に進むのがベストかもしれない。

それから、伝授後のアフターフォロー体制もポイントだ。そこで交流会とか勉強会などが定期的に行われているかどうか。後で気軽に質問できるかどうかということ。だから、なるべく自分に近いところの方がよい。なお遠隔アチューンメントというのも技術的には可能なことだが、よほどエネルギーワークに慣れている人でなければ、避けた方が無難である。

そして最後だが、根本的問題として、そのヒーラー自身の霊性というか、ヒーリングに取り組む根本姿勢である。これはけっきょくHPなどを見て、エネルギー的に共鳴できるかどうかで読み取っていくしかないだろう。いいと思ったけどハズした、という場合は、けっきょく自分のエネルギーがそういうレベルだったからそうなったので仕方がない。それも学びのプロセスなので決して失敗ではないと考える(いまでさえ、オウム<アレフ>に入会する人がいるというのだから、エネルギー共鳴というのは実に強烈なものである)。

ちゃんと学べば、4つのシンボルのエネルギーの違いなども明確にわかるようになる。さらに発展系のカルナレイキには8つのシンボルがあるが、それも全部違いがわかる。
そこまで行くと、臼井マスターシンボル(第四シンボル)といわれるもののエネルギーがいかに高いものであるか、ということがわかってくる。端的に言ってそれは巨大な光である。こういうエネルギーを短時間で呼び出せるようになるというのは驚くべきことなので、昔では、長い修行の末に灌頂を受けた人々だけに許されていたことかもしれないなあ・・などと思ったりもするかもしれない。

しかし上に書いたような理由で、他のワークに比べてレイキは「宗教っぽい」というか、理解するにはある種の世界観的転換が要求されるという意味では、一般に受け入れられるのがむずかしい側面を持っている。もっとも、「オーラの泉」がこれだけはやっていて、レイキも大都市圏ではかなり伸びてきている。そこで、質の見きわめはさらに重要になってくる。レイキの他にもいろいろなエネルギーワークがある。それらも、何らかのエネルギーはたしかにあり、ないものをあると言っている詐欺ではない。ただそのエネルギーはどういうものか? の吟味が必要になってくるのである。

結局、なぜ私がレイキに着目しているかというと、それが世界的に広まっているということはもちろん、「密教型」のスピリチュアリティーという構造を持ちつつ、いままでの封印を解いたかのような大衆化、簡略化となっていることがとても興味深いのである。よく、地球の霊的進歩が加速されているという話が言われているが、本当にそういうことかもしれない。以前はごく限られた人しか持てなかった「高次元エネルギー感受能力」がこれほど簡便に発達されるようになるというのは驚きでしかない。なお、こういう高次元性はサードになってわかることなので、どうせならそこまで進むのがよいと思う。

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