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雑談、そして知的スピリチュアリティーについて

久々の更新である。実は一回、ブログのデザインを変えてみたのだが、ちょっと読みにくい感じもあって、元に戻してみた。

レッツノートは相変わらず快適で、毎回持って行っている。やることは前のコンピュータとそんなに変わらないが、液晶の質がよくなり、起動や終了も速いのでストレスが軽減される。一太郎もOFFICEも軽々。XPの起動の早さにはびっくりである。Windows98だと起動までに2分くらいはかかっていたし、サスペンドなんかも三回に一回くらい失敗していた。もうすぐ新OSが出るということだが、コンピュータでの情報処理ということでは、昔思い描いていたことはほとんど実現してしまった感じ。

ただ、やはり光学ドライブはめったに使わないので、Tタイプ+軽量バッテリーにして少しでも軽くした方がよかったかもしれない。もっとも車での移動で、駐車場から歩くだけだからたいした問題ではないが。

古いコンピューターの方だが、売るのはやめてもうしばらく手元に置くことにした。あまりたいした金額にはならないし、万一故障したときの予備用もあった方がいいからである。

やることは変わらないと言ったが、唯一、新しくできるようになっととは「ゲーム」である。ゲームだけはCPUを要求する。ゲームといっても私の場合、囲碁だけである。囲碁は高校から大学の初めくらいまでしかやっておらず、たいしたことはないのだが、『ヒカルの碁』を読んで、また少しやってみようと思っていたのだった。私がこれまで持っていた囲碁ソフトは98年製で、これはあまり強くなかった。それから6年でどのくらい強くなっているのだろうと思って買ってみると、なかなかのものである。メーカーでは初段と言っているが、それはどうだかわからないにしても1~2級はあるだろう。私は最初のうち片っ端から負けていた(笑) それでこれではいかんと少し囲碁の本を入手して目を通し、ようやく互角にまで勘が戻ってきたところである。『ヒカルの碁』にも出てきたネット碁も、ブロードバンドになって簡単になった。しかしマンガというものは数々あれど、一番多く読み返したのは『ヒカルの碁』であったと言っていいだろう。これは原作(脚本?)と絵の両方がすごい高いレベルにある傑作だった。碁を知らなくてもおもしろいが、少し知っていると3倍くらいおもしろいのである。(ちなみに「業界モノ」では最近「のだめ」があるが、どうもパリ編になって以来、クラシックを知らない人にはあまりおもしろくない話になっているような気がする。ちょっとストーリー停滞気味である)。

なお囲碁ソフトはものによって棋力に差がある。強いと言われるのは「最強の囲碁」と「銀星囲碁」というソフトである。店では「AI囲碁」ていうのがよく売っているがこれはあんまり強くない。安いソフトでは「最強の囲碁」のちょっと前のバージョンが入っている「100万人のための囲碁」がおすすめ。

・・と、いうようなことばかりやっている場合じゃない。いろいろ、次の原稿のことを考えているのだが、どうも、このようにスピリチュアル本が増えてくると、いまさら何を書けばいいのかという気もしないでもない。昔はぶっ飛びと思われていたことも今ではかなりあたりまえだったりする。いろいろなスピリチュアル本を見ていると内容的にはある程度収斂してきているというか、それほど大差はなくなっている。これはそれなりに「普遍神学」的なものが期せずして醸成されてきているとも見ることができようが・・ どういうものが受け入れられてきているのか、いちおうある程度ウォッチングはしている。ここ数年で急速に進んできたのは「生まれ変わり」というテーマが受け入れられつつあるという状況だ。さらにそれは「なぜ生まれ変わるかというと、魂が進歩してゴールに至るためだ」という理解とセットになっている。こういうコンセプトはすでに、東西の霊的思想の融合である。東洋の輪廻観には、魂が進化していくというコンセプトは入っていない。それはユダヤ・キリスト教的な発想である。こうした融合的なヴィジョンは二十世紀初頭にシュタイナーがはっきり述べていたことであるが、それから百年たって受け入れられ始めたということだ。これを、上座部仏教のスマナサーラ師の輪廻論など比較すると、こういう伝統仏教だけでは不十分だということがよくわかってくる。それはもう部分的真理でしかないのだ。

こちらの本はそういう意味でたいへんおもしろい。

エーテル界へのキリストの出現エーテル界へのキリストの出現
ルドルフ シュタイナー Rudolf Steiner 西川 隆範


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まったく、輪廻転生は日本の伝統文化の一部でありながら、日本の思想家でこれとまともに取り組んでいるものがほとんどないとはどういうわけなのか・・(なお、講談社現代新書で出ている『輪廻転生を考える』はたぶん期待はずれだと思うので買わない方がいい)。

最近の萩尾望都のマンガ「バルバラ異界」にも前世療法セラピストが登場するのだとか・・(まだ読んでないが、近日中に読む予定)。

過去生体験や、体外離脱なども驚くことはない、という風になってくれば、その次にブレイクするのはスピリチュアル・ヒーリングの領域かも・・

私も以前は、スピリチュアリティーとアカデミズムを結ぶだの、そういうことを言っていたが、最近はそういうのがだんだんどうでもよくなってきつつある。一昔前は、スピリチュアルに関心のある人が中沢新一を読んでいたりしたものだが、今はもうそんなことはない。いまの中沢新一はインテリ読書層のマーケットを相手にしているのであって、スピリチュアルへの関心層とはかなり分離してきていると私は分析している。つまりスピリチュアルに関心があっても、アカデミックな権威づけというものをまったく必要と感じない人々が多数派になっているのだろう。それは私が最初にHPを立ち上げた十年くらい前と比べても、はっきり感じられる。その当時はそれでも「スピリチュアリティーとアカデミズムを結ぶ」というようなコンセプトがかなり意味を持っていたのだが、いまはそうでもない。「トランスパーソナル」が一時はやったのもそういうわけだったろうが、今は売れなくなり、『意識のスペクトル』や『アートマン・プロジェクト』などさえ絶版になっているくらいだ。今でもウイルバーの新刊はいちおう出ているから、つまり、ウイルバーの読者層はまったく拡大しておらず、前から読んでいた人は新刊を買うが、新しい読者は増えていないということを意味している。このような「結ぶ」というコンセプトの出版はかなり困難になっている情勢だ。大著『進化の構造』が訳されても、日本の思想界にはまったく何の影響も与えていない。日本では「知的スピリチュアリティー」というコンセプトそのものがなかなか成立していないのである。そういう分野における対話の領域が確保されていないのだ。これはもともと、日本には本当の意味での思想・哲学が存在してこなかったという「非哲学的民族性」のゆえかもしれないが、それを言っても仕方がなかろう。いま、スピリチュアル本を求める人のニーズは、経験的であること、すぐに生活に応用できること、であるように思われる。

それではどうするか、ということだが、それについてはこんなメッセージが入ってきている(どういう風に入ってきたのかは非公開だが)。一言でいうと「心のままに」ということである。つまり「それを書くことが至福へとつながっているか、それが問題なのだ」ということらしい。それが売れるかどうかというようなことは「自動調整」されるので心配する必要はない、ということである。これだけではよくわからない部分もあるが、つまりは、義務とか使命感とかそういうものは不要で、内側の抑制を解除することが重要、というメッセージであったらしい。というわけで、あまり具体的なアイデアというのが来たわけではないのだが・・

すでに一部の人からは「もうあちら側へ行ってしまった人」と思われているのかもしれないが、私には別にこちらもあちらもなく、ただ完全に自由であるというところからスタートしようというだけのことだ。思想や知性を拒否しているわけではなく、偉大なものには敬意を払っている。大学も学会も関係なく、古代の思想家のように自由に生きられればそれでいいのではないだろうか。

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