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ウィルバーについてのコメント

どうも失礼・・前回「非物質的リアリティについての記述が少なすぎる」と書いたのはもっぱらウィルバーについてだ。そもそもどこまでをトラパというのかということもあるが、グロフなどでは、「過去生とも理解されるような経験」が生じることは事実として確認されている。ガイドのような存在との出会いだって、現象としては認知されている。前世療法についてもその事実そのものは動かないわけで、その事実についての「解釈」がさまざまなのである。しかし当のワイス博士自身、べつに転生を信じなくても過去生療法の効果には変わりないと言っている。ミンデルでは、ワークの途中で非物質的な存在とのコンタクトのような経験が生じうることは視野に入っているようだが、その扱いはかなり微妙なものがある。しかしミンデルには、何が出ても驚きませんよという感覚があるみたいだ。

私がどうしても疑念を感じるのはウィルバーなので、私はこの人には霊的知覚力があまりないのではないかと疑っている。もちろんスピリチュアルな自覚というのはある。しかし、そういうのがあっても実際に非物質的な諸世界を知覚する能力はそれほど発達していないというケースもありうるのだ。もちろんかなり究極近くまで覚醒してしまえばそういう矛盾はなくなるはずだが、途中段階ではそういう能力のばらつきは生じうる。スピリチュアルな自覚は低くてもアストラルのある領域についてはやたらによくわかるとか、そういうことがあると思うのだ。ましてウィルバーの実践したのは禅であり、これはすべてのそうした知覚を魔境として退けるのだから、そういう「禅的バイアス」が彼の理論にはかなり入っている。密教を実践していたら全然違ったものになっているはずである。その意味で普遍性に欠けているように思う。従って、ウィルバーに心酔している人というのは、彼と同じような傾向を持っている人が多いということになる。スピリチュアルな自覚には関心があるが、そういう中間的な世界はできれば避けて通りたいという傾向を持っている人が集まってくる。知識人にはそういうタイプが多い。

なので、ウィルバーは、自分自身で直接知覚できない領域のことについては、文献や霊的知識などを元に頭でまとめてしまっているような印象がどうもしてしまう。そのへんでちっともリアルでないという感じを与えるのだ。

なお断っておくが私はウィルバーを全否定しているのではなく、よい点も疑問の点もあるということで、それは他の思想家についてと同じことである。これが最高だ、これしかないと言ったらそれは個人崇拝である。まして、その思想家以外にほとんど勉強していないのに、それが最高などとして祭り上げたりしたら、ちょっとシラケちゃう人も出てくるんじゃないかなあ。プロティノスも読み、唯識も大乗起信論も読み、西田幾多郎もハイデッガーも読み、キリスト教神秘主義も密教も、宗教学も学び、さらにスピリチュアルな経験のデータベースも、臨床データも、また現代のスピリチュアル文献の言うところも全部理解した上で、私はこういう世界観が妥当だと思います、というふうでなくてはいけないのでは。私も全部やってるわけではないか、そうした方向の勉強の上で、決してウィルバーが最高ではないと判断している。私は何か間違ったことを言ってますか?

それから、「ウィルバーは、中間的世界のことをはっきり書かずに逃げてるぞ」と批判しているのは、私だけではない。私が読んだ範囲では、Wilber in Dialog という本で、正確には覚えてないが、McDermott だったか、あるいは Rothenberg だったかの論文で、はっきりそう書いてあった。つまりウィルバーは「非物質的存在者」の問題を曖昧にして、それがユング的な元型だとか何とか、要するに合理化してごまかしてるんじゃないかという話だ。だからアメリカの学者からもそういう批判が出ているんで、私だけじゃない。それはウィルバーの発達論が完全に「自力」にのみ集中し、「他力の道」をほとんど軽視していることとも関わっている。私が思うにそれはウィルーのもつ「脱キリスト教の欲求」の表れである。「他者としての神」による救済の道というキリスト教的な道を捨て去って、仏教的な自力覚醒の道へのシフト。つまりスピリチュアリティーの東洋化の試みなのだ。それは彼が、他者としての神をもはや信じられなくなったという、現代知識人における「信の欠如」という状況にあるからだ。

しかしこの東洋化とは、都合のよい部分だけを切り取って理想化した東洋であり、その意味で、オリエンタリズムである。「トランスパーソナルにおけるオリエンタリズム」というのは興味深いテーマだ(Rちゃんもそんなことをむかし言っていたな)。

つまり「伝統的な他者としての神をもはや信じられなくなった人々は、どのようにスピリチュアリティーを見出すか」という問題設定になっている。神だけはない、天使とかガイド、シャーマン的な「盟友」など、非物質的意識体との交流によって霊的に進化していくという伝統の否定である。そのようなものがいかがわしく思えてしまうという人が、ウィルバーに救済に見出したような気になるのだろう。わかりやすいことばで言えば、こういう人は守護霊と低級霊、あるいは高次神霊との区別ができない。そういう識別の自信がないから、全部いっしょくたにして、とにかくこういう世界はイヤなんですということになってるのではないかな。

いや、イヤならイヤでいいんですよ。それがいけないとは少しも言っていない。そういう世界がイヤな人のために、たとえばヴィパッサナみたいな修行法があるわけだ。

ただ、イヤなのはあくまで非論理的に、ただ自分はイヤだからイヤなのだというふうに自覚をしてもらいたいわけ。いけないのは、そういうイヤなことを合理化したり、権威づけようとする、つまり普遍化正当化しようとすることである。こっちの方が正しいんだ偉いんだというふうになってくると、これはちょっとエゴトリップが入ってくる気がします。ヘタにこういうふうになってくると進歩が遅くなると思うので、とにかく、イヤなものはイヤ、と非論理的、女性的に(というと怒られそう(^_^;)思ってしまえばよいのではなかろうか。イヤだというのは、その時点では近づかない方がいいため、ブロックがかけられているということもありうる。つまり無意識レベルでのメカニズムとしてはそれで完璧なプロセスであるということなので、イヤなものはイヤ、でよいのだ。時期が来ると何かのきっかけが与えられると思うので。私は、「いつかは」こういう世界とも会うときが必ずくると思う。

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