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2006.06.30

天の気、地の気

やはり、存在の根源は「光」なのだろう。光の世界を感じるようになることが進歩だとは言えると思う。ただ、光と言ってもいろいろある。自分よりある程度以上高次なものは全部一緒くたに「光」のように見えるということもありそうだが、私も根源の光はたぶん見ていない。しかし、聖パラマスが言っているように、神に近づくことは神のエネルギーとの交わりを持つことだというのは実感できる。

しかし、このブログを読むほどの人はたぶんみんなご承知のように、「光」に近づけば近づくほど「グラウンディング」もまた強化していかねばならないという事実がある。これを否定できる人はあるまい。グラウンディングとは地球のエネルギーにつながることである。これは気功をおやりの人には、「天の気、地の気」と言うことでおなじみである。禅密功でも天の気と地の気を上下させる。このくらいのことは中級レベルであって、それほどの難業というわけではない。しかしそうしてみると実際に地球の気というものはある、と言わざるを得ない。それは経験的に否定できないのである。

天の気、光の方へ向かう軸が、根源の光から、私の内部にある潜在的な光までをつなげている。それが、私が光の世界へと上昇していく道である。しかし、それとは明らかに別個のものとして地の気がある。それは私が肉体をもってこの地球に住まっているということに関わるエネルギーである。

このことの思想的な意味をぼ~っと考えていると(べつに考えなくてもいいのだけど)、これはつまり、唯識は不十分だということだな、と気がついた。つまり唯識では、この世界経験のすべては私の「個」の根源である阿頼耶識が作り出しているものだと理解する。だがそうではない。この地球世界は決して私の「個」である個別的阿頼耶識の次元で創造されてはいない。地球を創造しているエネルギーは、私の個――根源の光、というラインとは別の場所から発せられているエネルギーなのである。私はいま地球に滞在しているからこそ、必然的にこの地球エネルギーと関わりを持っているのであるが、この地球というのは私という個的意識体に用意された場所であって、私の創造物ではない。つまり私はある目的のために、この「地球意識場」により創出された世界の中に入ったのである。

その地球を創出しているエネルギーということは、プロティノスが「世界霊」(アニマ・ムンディ)と言ったものと、ちょっと似ている。つまり、この点においては唯識よりもプロティノス的な理解のほうが真実に迫っているのだ。

断っておくが、このようなことは『魂のロゴス』ですべて考えてあるし、はっきり書いている。そこまで考えてあの本は書かれているのである。その本ではそういう地球的意識場のことを「アニマ・テラエ」(地球の魂)と呼んでいる。

そして、今ここに私が存在しているについては、実に無数なる「意識場」との関わり(あるいは恩恵)が、現に作用し続けているからこそ、私はここにいるのである。その限りなき「交響」と「調和」を実感しつつ生きることがスピリチュアルな生き方というものだ、という気もする(これは一つの表現にすぎないが)。こういった「交響と調和」を実感させてくれるもっとも霊的な音楽が、ベートーヴェンの「田園」である。これを実感できたら「毎日が神秘体験」になってしまう。

この「無限の交響」の中に存在することの幸福と、さらに「光」の根源へ進んでいく浄福とは、両立しないものではない。なぜなら無限の交響とは、そのような光への道を、すでに含むものとしてあるように思うからだ。

2006.06.28

身体性について、など

ひさびさに論文らしきものを書き始めている。これは、考えをまとめるための手段だが、書けたらせっかくなので学術誌に出すと思う。最終的には本にするもので、前作にくらべ、もう少し現象学的な思考の意味と、それからヒーリングエネルギーの位置づけというテーマを含めていきたい。それをまたたとえば対話体とか、ごくわかりやすい文体レベルまで落としこむのである。ヒーリングエネルギー、「気」についてはたとえば湯浅泰雄『気とは何か』などがあるわけだが、今にして読むと、湯浅氏の現象学理解は、存在論的な理解を欠いている。いってみれば宗教現象学とか、そういう意味での方法論的な現象学ととらえているように見えるので、気の問題が結局は存在論の問題まで行くということがまだ明確になりきれていない。メルロ=ポンティの身体論についてみても、「無意識的凖身体」とかいっていて、かなりいいとことらえてはいるが、メルロ=ポンティのいう身体というのは世界現実の生成そのものだという視点がもっと出てほしい。身体性のレベルの一つとして「無意識的凖身体」をいうだけではまだ不徹底ではなかろうか。

根源的な身体性とはもちろん肉体(対象化的認識が可能な身体)ではないわけで、そこで「微細な身体性」というコンセプトが導入されうることになるので・・こういう思考は面白いと思うんだが。

しかし、このようなことを言っても誰も理解してくれないんですよねえ・・ 哲学と「気」の両方がわかるなんて人はいないんですかね? ともかくメルロ=ポンティかハイデッガーだけでもいいから完璧に何を言ってるのか理解して、しかもその上で、実際に気や微細エネルギーの身体感覚とはどういうものかを理解してごらんなさい・・ってやっぱりそんなヤツはいないって(苦笑)

というわけで、新たな視角によって『気とは何か』が書かれるべきである(求む出版社・・ものすごくやさし~く書きますから(笑))。

ところで前回も書いたように、エネルギーを落ち着かせるのに音楽療法をしているが、きょうはめずらしく古楽でいった。つまりルネサンス期の音楽。ビクトリアの「ミサ・アベ・マリア」とパレストリーナの「エレミアの哀歌」だった。
普通に聴けば退屈このうえない音楽だが、瞑想状態に入って波動を浴びる感じ。なかなかグッドだった。特にパレストリーナ(プロ・カンツォーネ・アンティカの演奏)はいい。何年ぶりに聴いたか。

それから例によってガーデニングなどはグラウンディングには最適である。

アマゾンにもあったので、のせておく。
波動で聴くべし。

Palestrina: Lament.Of JeremiahPalestrina: Lament.Of Jeremiah
Pro Cantione Antiqua


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このごろ

ふ~~ エネルギーワークの関係で、エネルギーを肉体に同化していくプロセスがあり、けっこう浄化反応が出る。横になって自己ヒーリングしている時間も多く、はた目には何をやっているんだか、という感じかも。

モーツァルトとかシベリウスなどの音楽を聴いているとエネルギー的な滋養にもなるんだが、きょうはつい萩尾望都に読みふけっていて聴き逃した(笑) 気がつくと深夜になってしまったので。

音楽の聴き方もこのところ変わってきたというか。エネルギー的な聴き方になってきたかも。
モーツァルトの交響曲に入っている「光」のすごさを発見しつつあるこのごろである。

こういう日記風のことってミクシィで書いたほうがいいんだろうか。ミクシィの使い方はまだはっきりしない。

2006.06.24

シベリウスはタオの音楽

ひさびさに聴いたけど、シベリウスの音楽はかなりgoodである。
これは言うなればタオ・ミュージックかもね。つまり目に見える自然の「手前」にあるエネルギーの流動のようなものが感じられるのだが。

きょうは洗礼者ヨハネの日なのだそうで、本来なら「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でも聴かねばならないところだが、シベリウスに走っていた。

特に交響曲5~7番! その後は、3番とヴァイオリン協奏曲かな。
2番ってのが有名だけど、シベリウスの真価は5番以降にある。

いってみればドイツ音楽が「京都」だとすればシベリウスは「北海道」かな(なんじゃそりゃ)。
つまり、ぶあつく堆積しているものがなく、自然の流動する「気」がごく近くにあるという感覚というか。
やっぱ、タオですよ~
フィンランドって一回行ってみたいですね。冬はパスだが・・

演奏は定評のあるベルグルント指揮ヘルシンキ・フィルがよろしいのではなかろうか。
この「ひんやり」した感触はなんともいえません。

Sibelius: Symphonies Nos. 5-7; The Oceanides; Finlandia; TapiolaSibelius: Symphonies Nos. 5-7; The Oceanides; Finlandia; Tapiola
Jean Sibelius Paavo Berglund Helsinki Philharmonic Orchestra


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2006.06.20

ミクシー登場

友人に頼んで招待メールを送ってもらい、ミクシー登録した。でもなんかどう使うのかよくわかってない。よく見ると、誰が見に来たのかわかるシステムになっている。そこがインターネットと違うところだ。

自分の名前を試しに検索したら、パンクロックのボーカルと刺青師だって・・ 濃すぎる(笑) でもなんとなくわかるような気もしたりしてね。

このブログへのリンクはのせたが、ほかには何もコンテンツはない。
ここには書けないことを書ける日記というのは一種のアコガレではあるんだがな。ミクシーで書くかどうかはまだわからない。それにしてもミクシーで「全体に公開」で日記を書くイミって何? そんならインターネットと変わらない気がするが。ミクシーでもこれだけ人が増えればいろんな人がいるって。油断はなりません。なので、システムからは本名で登録をすすめられたが、それはやめておいた。

2006.06.19

『魂のロゴス』アマゾンレビュー

この前ここで呼びかけをしたが、それに応えて、ありがたくもアマゾンレビューが二つも掲載されているのを確認した(しばらく待っても出ないんで、チェック忘れてたけど(^_^;) ありがとうございます!!
右の欄にある本の画像をクリックね。それから「このレビューは参考になりましたか」の投票もお忘れなく・・

<追記>
さっき見たらたしかに二つ新しいのがあったんだがね。今見たら一つはなくなってた。
どうなってんの? 最近、アマゾンってけっこういいかげんなところもあるのね、と理解してきたが、これもそういうことかな?
そういや『忘れられた真理』にもレビューがついてた。

2006.06.18

よもやま話

ひさびさだが、まあ、十日くらい書き込みないのはよくあること・・
なんていうか、PCを長いこと見ているのが最近かったるい。メールの送受信を必要なだけしたら、あとはさっさと切り上げる。それってもしかしてエネルギーに過敏になっているのかもな。

『のだめカンタービレ15』を読みましたよん。
前巻は展開がわかりにくかったがこれはまあまあですね。のだめはリサイタルも大成功だし、千秋くんも完全に陥落したもようで絶好調。ちょっと前までは「のだめ苦悩の日々」だったはずなんだがなぜこの展開なのか? 
絵で音楽を表現するというのがなかなか、うまいです。そして今回は久々のコスプレです。
それにしても昔の仲間から黒木くん一人だけがパリ編にも登場なんだが、黒木くんにはけっこう隠れファン?がいるらしいです。峰くんや真澄ちゃんはなぜ出ないの?と言ってる人も多いですが。
たぶんこの作者、最後までストーリーを構築して描いているのではないみたい。じゃあ次はどうするか?なんてノリみたいな気がする。
でも『ヒカルの碁』でもそうだったけど、主人公の成長につれて周囲にいる人間がどんどん変わっていく、というのは当然のことかもしれない。現実の世界自体がそういうものだし。『ヒカルの碁』では加賀や三谷なんかの「その後」を時々描いてくれたけど。成長する限り新しい出会いはあるってことですね。

まあどうでもいい話だが、クラシック漫画というのはほかにないし、最新号をいつも買ってるコミックって『のだめ』と『バガボンド』だけなので・・ 

ちなみに今日の新聞にも、マウスにモーツァルトを聴かせたら学習能力が向上した、という記事が出ていた。
そのへんはほかにも実験があって、だいたいは証明ずみのことですね。私が昔の書き込みで「モーツァルトセラピー」を提唱したことを覚えている人もあるだろうが。

さて次・・
話題の「ソルトクリスタルランプ」を入手!
オレンジ色にぼあーっと光が広がるのはかなりgoodです。マイナスイオンのせいかどうかわからないが、よいエネルギーは出ている感じ。
通販のお店はたくさんあるが、今回は東京へ出たついでに実物を見て購入。ただしバカ重なので、品物は宅配。
この次はもう一回り大きいのをゲットして隣の部屋にも置くか。

最近、自分のワーク方面のこともいろいろ動きがあるが、残念ながらそれはネットでは公開できない。
ミクシーに入って友人限定で書いたりしようかな、とも思っているが。

しかしだいぶ、目標としていたところには近づいている。
フレッツ光というか、光との常時接続というのはある程度維持されているようだし。

この前ふっと自分の手を見たら、オーラがよく見えるのでちょっとびっくり。
前にも指の周りとか、白い湯気のようなものはよく見ていたが、見える範囲がかなり広がったというか。
感覚が鋭敏になってきたのかも・・
まあオーラが見えるなんて別にたいしたことではないんだけど。あらっ、という感じで、それ以上にはどうってことはない。オーラなんてあるのは当たり前なんだしいまさら驚くほどのことじゃない。

あと感じるのは、生きるのに当たって「軽さ」を感じるようになったこと。
生きているのが「軽い」感じがする。といっても、重要じゃない、という意味ではない。深刻さや「ムキになる」という感じがなくなって、軽快な感覚がするっていうこと。ある意味で、モーツァルト的な軽快さ。音楽としてはやっぱりモーツァルトがいちばん感覚に合う。
肉体の死後には光の世界に行ける、という感覚ということを前に書いたが、さらに言えば、今もうすでに光の世界にいるじゃん、今ここがそうじゃん、という感覚もまたあるわけ。
ある瞬間、瞬間に、今ここに天界がある、と感じる時がある。その天界は永遠に失われることはないのである。

ということだが、
レイキティーチャーもせっかく取ったので、使っていこうと思っている。
具体的には、遠隔ヒーリングのモニターと、アチューンメントを少しずつ実施していこうと思う。
アチューンメントは遠隔というのはないので対面のみである。
こういうヒーリング的なことというのは、無料ではあまりやらないほうがいいようである(家族などは別だが)。というのはお金という形でエネルギーの交換をすることが望ましく、ただでやってしまうとクライアントの側に一種の「借り」ができてしまうことになるらしい。
というわけで、「低料金での提供」ということになると思う。モニター価格ね。

ちょっと突っ走りすぎかしら?
前に出た、同市内のN大学のS先生は気功教室を主宰したりしてるんだから。
まあこの程度はいいんじゃない? レイキは宗教とは一切関係ありません。
ただ「大きな存在へと自分を開くこと」という感性は必要です。
ま、そんな感じ・・

2006.06.08

ファイル復活

むかしあったホームページから、思想っぽくまとまったページを復活させてみた。
考えてみると、私の世界観的なものは2002年の段階でほぼまとまっていて、それ以降は原理的には変動はないのだった。『魂のロゴス』ではこれをもう少し詳しく、対話体で書いてある。

霊的世界観の哲学的根拠

輪廻転生問題についての哲学的・神学的な見解

なおこれはお試しなので、突然消える可能性もある。

2006.06.06

火星人はいるのか

さらに『太陽の秘儀』を読んでいくと、ダスカロスの前世はオリゲネス?? とか自分で言っている。
そして、「宇宙からの訪問者」では、火星人とのコンタクトの話が!!

ここまで来るとさすがに「これってトンデモ本だったの!?」という反応が出てくると思うが・・ しかし、実は、「地球外知性体」の存在に言及している人々は決して少なくないのである。思いつく限りでも

スウェーデンボルグ
五井昌久
本山博

なんて、錚々たる人々がはっきり口にしているんだが・・ ダスカロスは「実は、太陽系の中で地球はいちばん進化が遅れている」と言っているが、同じことを五井昌久・本山博も言っているんだね。

まあ地球人の現状からすれば、トンデモと思われてもやむを得ないかもしれない。
しかしこれにはそもそも、「根本的に、生命体が存在するっていうのはどういうこと?」という問いがあるってことを忘れてもらいたくない。

つまり、濃密な物質レベルの「肉体」として存在することが生きているっていうことだ、という前提に立っているから、物質レベルでは荒涼とした世界である他の惑星には生命体はいない、という結論にならざるを得ない。

しかしながら、生命体の本質は物質レベルではなく、もっと高次領域にあるという前提から出発すれば、肉体を持つことはその生命体の「表現形式の一つ」として理解できるわけであり、その形式が普遍的であると考える絶対的な証明はない。ただ今の地球人にはそのようにしか考えることができない、というだけの話で。つまり「肉体としての表現形式を持たない生命体」という存在形式がありうるということを認めてしまえば、火星人や金星人が存在することは論理的にありうる話となる。これは別の見方をすれば、「天使」とか「高次元のマスター」なんていう存在者があることを可能性として認めることにもなる。

トランスパーソナルなんていう、なんとかしてアカデミズムに認められたいと思うばかりに、意識的・無意識的な「自己規制」が入っている人々には、絶対に超えられない一線がある。つまり

「肉体としての表現形式を持たない生命体が宇宙にはある」

これを受け入れるかどうかが、いま、「最前線」の「踏み絵」だといってもいいんじゃないかと、私には思えるんだが。そして、この一線を超えないと見えてこない世界というのもまた、あるわけだ。

ことわっておくが、こういうことは、伝統思想では当たり前のこと。
たとえばヨーロッパ中世の神学などは、天使という非肉体的知性体が存在することは自明とされていた。
仏教だって多くの如来、菩薩などの存在が前提とされている体系である。
それを、ユング的な元型だなんだと言って合理化した説明をしようとするのは、要するに、自分がトンデモの世界に入ってしまうような気がしてコワイのに過ぎないのかもよ。

しかしトンデモだというのは単なる常識の立場からの感情的な反応にすぎない。問題の核心は「生命と身体性との関係をどう理解するか」という思想的なポジショニングである。生命とは何かということがわかっていない人、それについて徹底して考えたことのない人が、「トンデモだ」などという口を叩くのはゴーマンなのである。

ことわっておくが、私は、「ほんとに火星人ってのはいますよ」と言っているわけではない。会ったことはないからね・・ 私は「そうかもしれない、その可能性を否定する根拠はない」ということを言いたいだけ。

しかし・・ダスカロスは、火星人はどんな格好をしているかと語ってしまってるんですが・・
坂本氏の本には宇宙人のイラストが出てくるが、いい勝負かもね。

まあそういう話ってオモシロイじゃないですか。
あんまりクソマジメな人とはつきあいたくないものですね・・

ダスカロス再読

偶然、マルキデスのダスカロス三部作の二、『太陽の秘儀』を本棚から抜くと、そのまま読み始めてしまった。
この三部作は、スピリチュアル的世界観を知る上での現代の基本文献の一つで、右のブックリストにも出してある。ここにあるのはすべて基本書だが、ダテに出してあるわけではなく、本当にここにあるのをみんな読めば、おおよそのことは理解できてしまうようになっている。逆に、こういうのをほとんど読まずにスピリチュアル関係のことを公に書くとしたら、ちょっと勉強不足じゃないかと思ってもいいくらいだ。

訳の方はだいたい問題ないんだけど、ちょっとチェックが甘いところがあるなあ。たとえばp35の「ウエルタンシャン(世界観)」って何? Weltanschauung はドイツ語で「ヴェルトアンシャウウンク」でしょう? それからp50の「精神科医反対派」は anti-psychiatry のことで普通の訳語では「反精神医学」のこと、これはレインなんかの一派のことを言っている。しかもそのレインについてはなんと「レング」と誤訳してる(p56)。たしかに Laing がレインなんて、知らなきゃ出てこないんだけど。このへんはプロとしては詰め甘しだ。

やっぱり著者マルキデスはいちおうアカデミックの人だから、そういう心理学や思想関係の術語が出てくるんだが、訳者はちょっとそういう知識に不足している。これはまあ、ちょいと原稿をチェックしてくれる人がいればすむことなんだけど、それを怠っているのは出版社の怠慢だな。頼まれれば私がやってあげるんですけどね・・

それはともかくたしかに本の内容はいいです。この三部作を読めば基本的な霊的知識はほとんど身につく。ダスカロスの説明はひじょうに論理的である(もちろん「証明」を提供するものではないが)。いま第二章まで読んだが、ここでは精神病とエレメンタルの関係について述べてある。

たしかにダスカロスの言うとおり、実際に霊がとりつくなんてことはそうめったにあることではなく、大部分はエレメンタルに影響されているケースであるらしい。かんたんに「霊障」とか言うが、そういう「除霊」が必要なケースなんてそうあるものではなく、ほとんどはエネルギーのバランスの問題なんじゃないかと思う。

特にカウンセリングだとか、そういうネガティブなエレメンタルに影響されている人や家などを対象に仕事をする人は、それに対する防御法というのを知っておく必要がある。たとえば、フラワーエッセンスとかアロマなど、エネルギーレベルに作用するものをうまく使うのが効果的であるような気がする。自分のエネルギー体を調整するという知識や技術はおろか、そういう概念さえもない精神科医とかカウンセラーなんて、かなりつらいものがあるんじゃないかって気がするんだが。それはこういう「魂の技術」が、現状ではいかに未開であるかということだ。ほんとに今の地球ってまだまだ未開社会なんですよ。宇宙的基準でいえば。

2006.06.05

雑記

日曜日は、ちょっと庭仕事。はびこっていたニラ(花ニラじゃなくて食べるニラね)を抜いて、あとにヤブランを植える。隅の方にギボウシを植え、アサガオの苗を11も植える。そのあとまた薬剤散布。
いま咲いている花は、紫蘭、シャクヤク、ヤマボウシ、マーガレット、ロベリア、日々草、サルビア、百日草、ジャーマンカモミール、キンセンカ、インパチェンス、ビオラ、ナデシコ、マリゴールド、ルピナス、ジギタリス、ハクチョウゲ、ゼラニウム、ペチュニア、ベゴニア、アリウム、ユキノシタ、テッセン・・ってとこかな。特に紫蘭とシャクヤク、ナデシコ、ハクチョウゲは最盛期。まもなく咲きそうなのはスカシユリ、テッポウユリ。

というわけだが、どうもこういうことはグラウンディングに役立っているらしい。土をさわるということは最適かも。無意識に、必要なことをやりたくなっているという面もないではないかもしれない。本と言えば萩尾望都のマンガなんか読んでるし、左脳軽視の日々。

自己ヒーリングなどではともかくもうすごい光が来るので大変・・まあ、そういうことはあまり人には語らないですけどね(^_^; これからどのように展開していくんだろうか。l

2006.06.03

前に進む

先日はアチューンメント第一号を実行。わりとふつうにできた。受けた人の感想も、体に浮力がかかるのを感じたとか、体内に白い光が充満した、手から腕へのエネルギーの流れを感じた、など、エネルギーが正しく入っているのを確認できるものだったので、一安心。わりと簡単である。というかね、私はこれがうまくいくということを100%疑っていないのでうまくいった、ということでもあるかも。やっぱり少し上方に「神聖な空間」が出現する感覚があるようだ。臼井レイキ特有の、ふわ~っとした白く光るエネルギーが来ているのがよくわかる。

このところ何回か、少し空いた時間があると「ヒカルの碁」を読み返し始め、それがついやめられず4,5巻行ってしまってつい二時間くらい経過する、なんてことがあるが、ヒカルの「上に行こう」という情熱を感じるのが好き。

「前に進もうという情熱だよなやっぱり」という感じだが、そういうテンションで、ベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」なんかもよく聴く(これは是非、コヴァセビッチの演奏で・・)。で、私の情熱というのは、もちろん碁ではない。「光の世界にさらに入っていくこと」である。少しわかってくれば、さらに上をめざしたくなるのは、碁でもスポーツでも何でも同じことだろう。

今の時点では、他人に教えるとか啓蒙するとか、世に広めるとか、そういうことはあんまり関心ないのだ。とにかく自分が上へ行くこと。これしか念頭にないんですね。それは決してエゴではない。本当の意味で「力をつける」ことがなければ何も始まらないということ。早い話、おぼれる人を助けようと思えばまず自分の泳ぎがうまくなけりゃいけない。カナヅチのくせに水難救助員にはなれませんね。病気を治したければ医学部で何年も勉強しなきゃいけない。そんな勉強なんて「自利」だからやめて、すぐに世間へ出て人民に奉仕しなさい・・なんてことをやったのは毛沢東の下放政策だが、これがいかに無知蒙昧であったかは言うまでもない。そういうことなのだ。力を蓄える時期に内にこもるのはエゴではなく必要なことである。

そういうわけでしばらくの間、他人にわかりやすく解説するなんてことはやらないので、このブログにも過度の期待をなさらないようお願いするわけだ。書き込みも時々になると思う。

そうそう、そういえばこの間フォーカス21を体験してみたが・・
萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』に出てきたみたいな、異次元の惑星のような光景が見える。
21へ行くのに光を通り抜けるのだとも言うが・・だが、ここは私がすでに知っている「光の世界」ほど次元が高い世界ではないように思える。

私は最近になってようやく、「自分は肉体の死後に、光の世界に行ける」というのが確信できるようになった。この物質世界滞在後に行く場所についてある程度安心していられるようになったのは、完璧な老後計画を立てる以上に心強いことである。というのもこの世界においてある程度光の世界がわかるというのは、すでに自分の一部はその世界にいるということにほかならないからである。ある面では、自分はすでにそこにいるということは私にとって自明の現実となったのだった。私は今生においての「第一段階」をクリアしたという自信を持てるようになったが、ここからが本当のスタートだ。かなりエキサイティングである。

ベートーヴェンの「皇帝」とか「田園」なんて、もうものすごい光のシャワーなんですね。
私は今まで、何もわかっていませんでした・・ ベートーヴェンがどれだけ偉大なのか、初めて少しわかりかけたような気がする。月並みな言葉になるが、どれほどの「愛」がそこにあるのかということがわかってきたのだ。

なお上のことはまったく「証明」をするつもりはありません。証明しろなんて言ってくる人はいないと思うけどね。

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