天の気、地の気
やはり、存在の根源は「光」なのだろう。光の世界を感じるようになることが進歩だとは言えると思う。ただ、光と言ってもいろいろある。自分よりある程度以上高次なものは全部一緒くたに「光」のように見えるということもありそうだが、私も根源の光はたぶん見ていない。しかし、聖パラマスが言っているように、神に近づくことは神のエネルギーとの交わりを持つことだというのは実感できる。
しかし、このブログを読むほどの人はたぶんみんなご承知のように、「光」に近づけば近づくほど「グラウンディング」もまた強化していかねばならないという事実がある。これを否定できる人はあるまい。グラウンディングとは地球のエネルギーにつながることである。これは気功をおやりの人には、「天の気、地の気」と言うことでおなじみである。禅密功でも天の気と地の気を上下させる。このくらいのことは中級レベルであって、それほどの難業というわけではない。しかしそうしてみると実際に地球の気というものはある、と言わざるを得ない。それは経験的に否定できないのである。
天の気、光の方へ向かう軸が、根源の光から、私の内部にある潜在的な光までをつなげている。それが、私が光の世界へと上昇していく道である。しかし、それとは明らかに別個のものとして地の気がある。それは私が肉体をもってこの地球に住まっているということに関わるエネルギーである。
このことの思想的な意味をぼ~っと考えていると(べつに考えなくてもいいのだけど)、これはつまり、唯識は不十分だということだな、と気がついた。つまり唯識では、この世界経験のすべては私の「個」の根源である阿頼耶識が作り出しているものだと理解する。だがそうではない。この地球世界は決して私の「個」である個別的阿頼耶識の次元で創造されてはいない。地球を創造しているエネルギーは、私の個――根源の光、というラインとは別の場所から発せられているエネルギーなのである。私はいま地球に滞在しているからこそ、必然的にこの地球エネルギーと関わりを持っているのであるが、この地球というのは私という個的意識体に用意された場所であって、私の創造物ではない。つまり私はある目的のために、この「地球意識場」により創出された世界の中に入ったのである。
その地球を創出しているエネルギーということは、プロティノスが「世界霊」(アニマ・ムンディ)と言ったものと、ちょっと似ている。つまり、この点においては唯識よりもプロティノス的な理解のほうが真実に迫っているのだ。
断っておくが、このようなことは『魂のロゴス』ですべて考えてあるし、はっきり書いている。そこまで考えてあの本は書かれているのである。その本ではそういう地球的意識場のことを「アニマ・テラエ」(地球の魂)と呼んでいる。
そして、今ここに私が存在しているについては、実に無数なる「意識場」との関わり(あるいは恩恵)が、現に作用し続けているからこそ、私はここにいるのである。その限りなき「交響」と「調和」を実感しつつ生きることがスピリチュアルな生き方というものだ、という気もする(これは一つの表現にすぎないが)。こういった「交響と調和」を実感させてくれるもっとも霊的な音楽が、ベートーヴェンの「田園」である。これを実感できたら「毎日が神秘体験」になってしまう。
この「無限の交響」の中に存在することの幸福と、さらに「光」の根源へ進んでいく浄福とは、両立しないものではない。なぜなら無限の交響とは、そのような光への道を、すでに含むものとしてあるように思うからだ。