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2006.07.31

永遠の生命

前回に書いたのは、玉城康四郎氏並みの体験がないと語ってはいけない、という意味ではない。ただ、「永遠の生命」というか、それに目覚めるということをつかむことだ、と言いたかったのである。それをつかんでいないからあれこれ迷うのだ。方法は何でもいい。とにかく一度直覚することだ。方法はどうでもそれを知ってしまえば勝ちなのである。

別に「スピリチュアル」なんてことをことさらに言わなくてもいいとも思う。宗教だっていいのだ。宗教は玉石混淆だが、真言密教なんてやっぱり美しい。

「悟り」なんて高遠なものを相手にしてもとりつく島がないところがある。悟りというのは人が神と合一することであり、軽々しく口にしてはならないほどに神聖なことがらである。そんなことを言う前にまずは「永遠の生命を直覚する」という段階がある。まずそれをつかんで、あとはそれからのことだろう。

そういう「魂の目覚め」が出発点で、そこから無限の階梯を経て、おそらくは多くの転生を経てようやく宇宙絶対智の世界が視野に入ってくるのだ。

悟りといわれるのは決して、「心の持ち方」が変わるというようなレベルではない。「絶対智」という宗教哲学的な問題を一度真剣に考えた方がいいだろう。

2006.07.29

玉城康四郎『生命とは何か』

玉城康四郎『生命とは何か―ブッダをとおしての人間の原像』を読んでみた。

玉城仏教学の「ダンマの顕現」についてはここでも何度か語ってきた。
今回読んでみてわかったポイントは、次のようなものである。


  1. 玉城氏は、「ダンマの顕現」や「永遠のいのち」などといわれる世界を直覚した。
  2. 同時に、自分の根底には、輪廻転生する主体であるところの「業熟体」があるという自覚が生じている。この業熟体とはアーラヤ識に対応すると言っている。つまり、「個的な自己」の根源としてのアーラヤ識は自覚しうるものであり、それが自覚できたときに、それが業のかたまりであることも自覚され、そしてその業のかたまりの中に顕現するのがダンマであるということである。
  3. この本では、臨死体験や体外離脱に経験についてかなり語られ、それが仏教で言う「中有」であることが論じられている。そして玉城氏がそれがある意味で実在していることを肯定している(ある意味、というのは、仏教においては根源的な意味では何も実在するものは認めないからである)。

この第三点については、坂本政道のブレイク以来かなり話題になってきたが、玉城氏のこのような発言はいまだに無視され続けている。君子危うきに近寄らず、という名の保身主義であろう。しかし、死後はどうなるのかというもっとも根源的な問いに取り組むことなしに、スピリチュアルもへったくれもない、というのが私の立場であることは再三ここで述べている通りである。

微細次元の身体が実在するということはそれほど怪しげな言説であろうか。思うに、自己性の根源としてアーラヤ識があり、それこそが身体性を形成する原理である、ということが承認されるならば、その身体性のあり方には複数のタイプがありうること(これが微細身)、そして同次元においても継起的に複数の身体性を形成すること(これが転生)、という可能性を否定する根拠も、論理的には何もないのである。それが仏教本来の見方であると私は思っている。その意味で私の論も決してぶっ飛びではなく、伝統に根ざしたことを述べているだけだ、と考えるものである。

ただ、この本を読むとわかるが、玉城氏は自在に体外に離脱したり、また、微細レベルに存在する身体を直接に見たりすることはできなかったようである。

そう考えると、玉城氏の悟りというのも、究極である「法界体性智」というか、究極まで到達したものではなかった、という判断ができると思う。こう言うのはずいぶん僭越、傲慢と感じる人もあろうが、本当に仏智に達するということは宇宙的な絶対智の達成にほかならないので、それをいっさいまけずに考えれば、玉城氏の見た光明の世界は、悟りの世界の「入り口」であった、と結論すべきだと私は思う。

というのも以前に、「玉城氏には超感覚的な能力はないようであるが、それなら、そういう超感覚の発達という道筋を通らずに絶対に至るという道もあるということだろうか」というような質問を送って来た人がいたのである。

しかし、それならばそれはもはや絶対とは呼べないだろう。論理的には、玉城氏は究極までは行っていない、と考えるしかないのである。だからといって玉城氏に対する尊敬の念が変化するわけではない。ただ、玉城氏と空海とは同等ではない、と述べているだけである。玉城氏自身、空海と同等だと思っていたわけではないと思う。

ただ、この「ダンマの顕現」の体験は、いわばスタートラインだと思っている。このことがわかってはじめて、スピリチュアルについて何か発言することが可能になるという、基本線なのである。最低限そこまではなんとなくでもわからないと、発言する資格はない、というのが私の「自主基準」である。

『医療崩壊』と、行き過ぎたコントロール欲求

小松秀樹『医療崩壊』って本を読んだ。なぜそんな本を読んだかという経緯はいろいろあるのだが・・

福島の産婦人科医師が医療ミスだとされて逮捕・起訴されたというのでかなりの反響を呼んでいる。その医療ミスとされたケースが、ほかのほとんどの医師でも救命が困難だった難しいケースで、それで逮捕されてしまうんじゃ医者やってられない、という医師からの抗議が続出したのである。それについてはいろいろWEBの情報もあるのだが、警察はなんと回診中に患者の目の前で手錠をかけて連行したとか・・なんとなく、警察は乏しい医療知識から勝手に、これは慈恵医大青戸病院事件と似ていると決めこんで、手柄をねらったスタンドプレーのにおいがするようだ。

山崎豊子が『白い巨塔』を発表した頃は医療過誤で患者が勝訴することなどまずなく、そういう意味で社会的反響を呼んだ。この小説は第一審で財前が勝訴するところで終わっていたが、反響が大きすぎて続編が書かれ、第二審で敗訴という筋書きに変えたのだという。

実はこの小説は読んでいなくて、昔の田宮二郎版ドラマのDVDを見たのだが、それを通してみても、医療過誤の判断は難しいと感じた。第二審では「大学病院の医師には通常の医師にも勝る注意義務が課せられるべきである」などとしていたが、このような理屈が認められるものだろうか? 

患者が死んだあとになっていろいろ調べ、あのときああしていれば助かったかもしれない、というようなことは、つつけば無数にあることで、その時その治療法を選択しなかったのが正しかったのか、それは結果論という要素もある。しかし今、そういう医療訴訟がものすごく増えており、裁判ではかなり患者に有利な判決が出やすくなっているといわれる。患者側の弁護士はどんな医療行為にもある「あのときああしていれば」を徹底的につつき、その医者がいかに無能で悪辣であったかという印象を裁判官に与えようとする。『白い巨塔』発表時とはまったく社会情勢が違っている。あのときは医療ミスの隠蔽を暴くというのが社会正義だったかもしれないが、今の現実はそうではない。

そこでこの『医療崩壊』の著者は、医者側と患者(そして多くのマスコミ・警察・裁判所など)との間に、医療行為というものに対する超えがたい認識ギャップがある、と指摘する。

つまり、現場の医者は、医療というものは「やってみなければわからない」ものだと思っている。医学というのは、「このような症状に対してはこの治療法をすれば○%の成功率がある」という確率で示されるものでしかない。同じ症状に同じ治療をしても人によってまったく違う経過を取りうるし、また、予期しない合併症というものは必ず起きうるのであり、その可能性をゼロにはできない、と理解している。

ところが最近の医者でない人々は、医療に対して過剰な要求をしているという。つまり、「ミスがない限り病気が治ってあたりまえだ」と考えている。治らずに死んだりすればそれはどこかミスがあったに違いない、という発想になるのである。そこで死の責任は医者にあると考え、激怒する。そこで訴訟になるというケースが多いようである。

もちろん実際に医療ミスというものはある。しかし訴訟になる事案の半数以上は、医者にとってみれば普通の医療行為をしたが、結果的にうまくいかなかったというケースであるが、患者や遺族がそれを納得しないというものである。医者がもっと「名医」であればあるいは救えたかもしれない。そうかもしれないが、そういう少数の名医を基準にして普通の医者を裁くことができるものであろうか。

つまり問題の根底をさぐってみると、そこには生命感覚の変化という文明論的問題がひそんでいるということになる。つまり、人々は、生命現象がコントロール可能なものだと考え始め、その役割を医療に要求するようになってきたのである。コントロールの失敗は、医療がその役割を果たしていないからだと考え始めた。それが問題の根本にある。『医療崩壊』はそこまで掘り下げている。この問題がスピリチュアルの問題であるということがやっとわかってきましたか?

医学は科学かもしれないが、医療は科学ではない。医療の現場というのは、「やってみなければわからない」し、緊急を要する場面では、「いちかばちか賭けてみる」というような決断が必要とされることもある。そのことは第一線に立っている医者なら誰でもわかっていることなのだが、一般の人は医療が科学だと思っていて、「こういう状況ではこうする、そうすれば必ずこうなる」という因果関係で決まるものだというイメージを持ち、したがって、ある状況の下での「正解」というものが必ず存在する、というふうに感じている。その正解を見つけて当たり前であって、正解を得られなかったらそれは失敗なのである。つまりは普通の人々というものがかなりもう○×的思考に慣らされてしまっているのではないか? そして最近は裁判官までもが「いちかばちか、などというのは無責任の極みで言語道断」なんていうイメージを持っている。社会全体が滔々として、生命現象がコントロール可能なものだという「幻想」へと突入しているようにも見える。医療だけではない、世界のすべてが管理可能であって、すべての問題にはそれに対する専門家がいて、彼らが責任をもって何とかしてくれて当たり前だ、というふうに世界を見るようになってしまっているところがある。これは、つまりは「未知」の感覚の喪失だと思う。世界が「既知」のみによって形成されているという錯覚が生じたのは、教育の問題なのか、マスコミのせいなのか。

医療は不確実なものである。それを医者でない人がわかっていないということが、医療の崩壊をもたらしている。これが著者の論点である。
特に、医療に対して原発なみの確実性を要求して騒ぎ立てるマスコミに対してはかなり不満が蓄積されているらしく、かなりの紙数をさいてマスコミ批判をおこなっている。

慈恵医大青戸病院の事件についても詳しい情報が載っている。それによると、あの事件での直接の死亡原因は、技量の未熟というより輸血の遅れであり、それには輸血に対する病院側のシステムに問題があったとされている。また、たしかに技術レベルが上の手術に無理に挑戦しようとしたところはあったが、それは担当の三医師だけの問題というよりは慈恵医大全体の体質的な問題であったことが示唆されている。青戸病院では同種の手術での過去の成功例は一例しかなく、この事件と同様に大量出血したケースもあったのだ(輸血により救命したが)。したがって、マスコミが医師個人の資質の問題として、極悪人という印象を与えようとする中で、病院側も個人の問題として責任を取らせ、病院や大学全体に責任が波及しないように、いわば「切った」のではないか、と著者は推測している。

そのほか、『白い巨塔』でおなじみの大学医局の閉鎖性にも触れており、教授になる人は論文の数を稼いではいるが手術ができない人も多い、など、医学界の問題もかなり言いたいだけ言っている。決して医者仲間でかばいあうような本ではない。

もっとも医者たちが危機感を抱くところは、警察・検察・裁判所などという公平であるべき機関が、マスコミと同様に「医療の不確実性」を理解せず、確実性を過度に要求するいまの患者側の肩を持つケースが多くなっているということのようだ。「あのときこうしていれば助かったかもしれないじゃないか」とつっこもうと思えばつっこめる、というケースはすべての医者にたくさんあるので、そこで有能な弁護士が向こうにつけば、とんでもない無能医師という印象を裁判官が抱いてしまうことがありうる。さらに民事の賠償請求だけでなく、刑事被告人として処罰される危険性さえ出てきている・・というのでは、産婦人科のようなリスクの高い医療をめざす医者は激減してしまう。特に産婦人科では、「母子ともに無事に生まれて当たり前」という社会通念になってしまっているので、一定の確率で存在するリスクというものまで医者の責任にされる傾向が強い。そのためもあって産婦人科の医師は減り続け、地方では産科の病院が激減するという産科崩壊現象が始まっているのである。

生と死をコントロール可能だとする思考が蔓延するという状況は・・文明としてどこかが異常になってしまっているのではないか。
なんか、水洗トイレの普及とつながっているような気がしないでもない・・

もう一つ、指摘したいのは、遺族が「死を受け入れない」ことによる「怒り」の感情を抱き、それが医者側に転嫁されている可能性があることだ。「怒り」と言えば、キューブラー=ロスの死の五段階という話で有名である。その怒りの段階に固着してしまって前へ進めない。

医療裁判で、「これが無罪になるのだったらこの子の無念は晴らせない」なんて親が発言していたが、そりゃちょっと違うのでは? 死んだ子どもが無念だなんてなんでわかるんでしょう。これははたから見れば、親が「死に納得できない」という感情を、間違った方向へ解決を求めているように見える。

それから花火大会の時の事故では、「関係者が無罪なんだったら、親である私に責任があるということになる」という発言があった。これって本音というべきか・・ 子どもが死んだ責任が自分にあるという考えに耐えきれず、むきになって他人の責任を追及しようとしていた? という印象を与える発言ではある。

自分が子どもを守れなかったという悔しさ → 責任があるとする他人への怒り、攻撃

というパターン・・これってよく見ると、テロ事件のあとのブッシュ大統領の反応そのものだ。「国民を守るべき立場の自分が、守れなかったという屈辱感、悲しみ」→「テロリストへの激しい攻撃」。これは多くのアメリカ国民の感情でもあり、それに乗ったということでもあるが。

激しい攻撃、怒りの根底には無力感や悲しみ、屈辱感などがあることが多いといわれている。
ブッシュの影には、何百万人ものプチ・ブッシュがいるっていうことだ。

そこで昨今のマスコミが主導する「医者たたき」の雰囲気に乗って、家族を失った人が、それを受け入れることができないことから来る怒りを、医療関係者へぶつけるというタイプの医療訴訟が頻発するようになったのかもしれない。そしてまた、そういう一方の当事者側の報復感情に全面的に感情移入するというマスコミの体質もちょっと問題がある。言うまでもなくそういう論説をのせたほうが「売れる」のである。あるいはそれをのせないために「売れない」ことへの恐怖があるのかもしれない。マスコミ関係者だって、うちだけが書かないと売れないという恐怖があるのだとすれば、世の中の人ほとんどがみんな恐怖にもとづいて行動している社会なのか? っていう感想も浮かんでくるが・・

世界というのは、非論理的なものなんですよ。その根本的なところに勘違いがあるのではないか・・
すべてが管理可能と考えるところから、過度の責任探しが始まる。
すべての人が、責任を追及されるのではないかとびくびくしている社会ってのは、究極の管理社会であるかもしれない。

4022501839医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か
小松 秀樹
朝日新聞社 2006-05

by G-Tools

映画の話から、ヘンな話に・・

最近に見た映画DVDの話。

「博士の愛した数式」
これはなかなかスピリチュアルな感覚あふれてます~ おすすめですね。
小泉監督+寺尾聰のコンビ、「雨あがる」「阿弥陀堂だより」に続いて快調、という感じ。この「博士の愛した数式」は、かなりの傑作です。ゆったりした時間というのをよく表現している。深津絵里ちゃんも魅力的です。私、石田ゆり子から乗り換えようかなとも思いました(笑)
小泉監督はもっと評価されていいと思うんだが。

Always~~三丁目の夕日」
やっと見ました。なかなかレンタルがあいてなかったので、連休明けをねらって行ったらゲットできた。
なんといってもびっくりなのは吉岡くんの演技です。これは強烈でした~ この演技力にはみんな驚いたみたいで、これからはもう「何をやっても純みたいじゃん」なんて言う人はいなくなりそうである。めでたい。
で、この映画は「感動の巨編」なんていうのとはちょっと違って、平たく言うと「寅さんの世界」をねらっている。いわゆる「人情喜劇」のジャンルである。それが今は絶滅したクサいホームドラマの世界であることは、監督は百も承知。それをあえて仮構の世界として構築してしまおう、という意図のように見える。それがあの、昭和三十年代の環境の完全復元である。

ただ日本アカデミー賞総なめっていうほど、ほかの映画との絶対的な差があったのかどうか・・ 吉岡くんは文句ないとしてもちょっと乱発しすぎのような気もした。

これってこの時代に生まれてない人はどういうふうに見るんでしょうかねえ? 私などには、なつかしの物品目白押しなので、それだけでも楽しめます。オート三輪なんてのも・・それと「氷で冷やす冷蔵庫」・・なぜ私はこんなものの記憶があるのだろう?

しかし、出てもよかったもの・・ボンネット型バス、そしてバスには必ず車掌が乗っていた(当時は道が狭く、車掌が「オーライオーライ」とやらないとバスが切り返せないのであった)。チャルメラを吹いて自転車で走る豆腐屋や、紙芝居屋、チンドン屋など、実在していた。

もう一つ、実は重要なものが、トイレ・・いや「便所」である。もちろんこれはボットン式なのであって、これは、強い風が吹くと便器から風が出てくるのである。そしてトイレットペーパーというものはなくて、もっと堅いごわごわの紙が、木の箱に入って便器のそばに置いてある。それは大の場合三枚使うと決められていた。もちろん臭気は強烈である。そこでふだんは便器に「ふた」がしてあり、するときはそのふたを取るのである。今の若い人は恐ろしくて入ることができない場所であろう。今じゃあ山小屋くらいにしか、こういう「便所」はないかも。

しかし思う・・おそらくトイレが水洗化され、どんどん清潔になっていくのと比例して、人の生命に対する感覚は微妙に変化していってるのではないか。トイレは人間の活動の中でももっともベーシックな必要にかかわっているわけで、その環境のこれほどの激変は、深層において意識の変化をもたらさずにはいかない。昔はどんなに偉い人でも便所の強烈さに一日に何度か身をさらさねばならなかった。平安貴族とかごく特権的な人のみが、おつきの人々が「おまる」を持ってきて処理してくれ、便所という強烈な場所に行かなくてもいいというすごい特権を享受していたというわけである。

たぶんその便所という場所は、人間の身体が自然の一部だということをいやおうなく無意識にすり込んでいたのではなかったろうか。

・・と、なんでこんな話になったんだ?(笑) そうそう、「三丁目の夕日」の昭和三十年代再現がいかに精巧なものであれ、本当にあの時代を生きるということには、その部分としてあのボットン便所の体験が含まれるのであり、生まれてから水洗トイレしか知らない人とは、どこか根本的な感性の違いがあるかもよ、という話なのであった。まあ、そんなことを映画で出すわけにはいきませんよね(笑) だからあの映画だけを見て三十年代がわかったつもりではいかん、三十年代ってのはずっと「きたない」世界なんだということがいいたかったのかもな。

どうだろう、この「清潔化」の進展による生命感覚の変化というのは、けっこう文明論的な大問題だと思うけどな・・ま、そういうことは森岡正博にでもまかせておくか。

2006.07.24

高野山大学スピリチュアルケア学科

こんなのあるんですね。

高野山大学スピリチュアルケア学科
http://www2.koyasan-u.ac.jp/gakubunew/spcare/index.html

修士までいって臨床心理士も取れるというし、スピリチュアルを大学で本格的に学びたい、という人にはかなりのお勧めかもしれません。なんといっても高野山でキャンパスライフというのはたまらなくシブイですね~

というか、私も行きたいぞ。高野山大学に転職というのは私としては理想かもしれません。
少し密教を取り入れたスピリチュアル哲学の本を書いて、実績つむか~ なんてね。

2006.07.23

Pure Universal Love

前のエントリーでも出てきたが、結局スピリチュアルということで私が理解している、いちばん根幹のことは、ブルース・モーエンの言葉を借りればPUL,Pure Universal Loveである。それにつきると言ってもいいくらいである。PULが実在し、PULが支配している世界というものがあり、私(人類)もまた、それを本質としているということである。スピリチュアルな体験とは、このPULと接触することであり、PULの原則に従って生きるようになるという自己変革である。PULが関わっていないものは、「異次元体験」ではありえても、スピリチュアルではない。そういうのは「サイキック」と呼んで区別するべきだろう。PULは「光」とか「愛」という表現がされる。どれだけPULのことを理解できていくのか、スピリチュアルな成長とはそういうことだ。

ということできわめてシンプルだ。もちろん派生的な知識というのはいろいろありうるが、つきつめればそれになる。

PULに接触すると、だんだんいろいろなことがわかってくる。たとえば、自分の本体はPULの世界にあるのだとか、あるいは、この日常の現実と表裏一体のように、ごく近傍に圧倒的な光の次元があるのだとか、そういうことが何となく感覚的、直観的に感じられるようになり、本で読んでいたことが実感としてそういうことかとわかるようになってくるわけだ。

玉城康四郎さんが「ダンマの顕れ」と言っていたのもそれを指すのだろう、と理解できる。もちろんPULの理解にも、無限に階梯があるわけで、玉城先生と比較しようという僭越なことを考えているわけではないが、ダンマの顕れがあるのだということは理屈抜きに理解できることである。

いいかえると、ダンマの顕れ的なことがはっきり語られているのかどうか、私としてはそのへんが重要なチェックポイントになっている。スピリチュアルについて発言している人を見ていると、この人はPULの世界に強い憧れや予感を抱いているようだが、まだそれを全面的に「見た」ことはないらしいな、とか、そのようなことは書いているものを見ると何となくわかる。しかしもちろん、私も誰かにそのように読まれているわけで、この人はこのへんまでしか見えていないのか、と誰かが思っているであろう、ということは容易に想像できる。それはもう覚悟の上で書いているわけである。このまえ、そういう覚悟のないという人は要するにヌルイんですよ、と生意気なことを書いたが、基本的にはそういう考えは変わらない。しかしPULをかいま見るということは自力で達せられるものではなく、基本的には「恩寵」によるものだと私は理解しているので、それをかいま見たからといって自分が偉くなっているように思うわけにはいかないし、そう思ったとしたらそれはもうPULの原則から外れてしまうことになる。だから決して馬鹿にするつもりはない。ただ、公的にものを書くということには大きな責任が伴うことなのだ。スピリチュアルに関することを発表するというのは、決して、自分の好きなことをやっていればいい、というものではないと思う。霊的責任というものがある。誤解を生む表現かもしれないが「神に対する責任」があると思う。完璧であることは不可能だが、少しでも誤差なくPULの世界の実在についてメッセージが伝わるかどうか、自分が適切な「媒体」となりえているかを自己検証する努力は必要である。

「ブラザーサン・シスタームーン」再び

「ブラザーサン・シスタームーン」のDVDは、ここに紹介して以来、すごい売れ行きらしい。もう見ましたか? 幾多の名場面があるのだが、最初のクライマックスはチャプター5。フランチェスコは教会に行くと、だんだん意識が遠のいてくる。突然「No!!」と叫ぶ。何が起こったのかと一同、唖然とするが、フランチェスコは涙を流している。

ここの役者の演技が、あまりにもはまっているというか、とにかく表情がいいんです。みんなわけがわからない中、クレアだけは、何が起こったのかを理解し、ほほえむ。
シーンが切り替わり、一面の野の花の中を走るフランチェスコの姿、そこにドノヴァンの「ブラザーサン・シスタームーン」の歌が流れる。

ここまで、わずか数分間だが、ここのところの霊的な波動はすさまじく、魂へダイレクトにびりびりと来る感じだ。霊的な体験というものをここまで完璧に映像化するとは・・まったく恐れ入ってしまいます。ものすごい、圧倒的な幸福感だ。至福とはこういう世界を言うのか、という予感が得られるかも・・

「No!」って叫んだのは、こんな教会はダメだ、なんてことを言いたいわけじゃないんですよ。そこまで何も感じない人とは、もはやコミュニケーション不可能なんだが。さすがに日本語字幕でも、この「No」は訳していなかった。否定ではないんです。ただ単に圧倒的な衝撃の叫びである。

みなさんもぜひ、そういう霊的衝撃を一度は体験してください! 人生変わります。間違いなく。

2006.07.15

再度、ファイル復活

「霊性学入門」のサイト閉鎖以来消えていた『魂のロゴス』紹介ページと感想紹介ページを復活した。

『魂のロゴス』紹介ページ
読者感想のページ

なお、読者感想のページにはほかにWEB上で読めるレビューをリンクしてある。リンクは著作権法による保護の対象ではないので、特に許諾は得ていない。リンクはアップデートしてある。

なお、本の感想はひきつづき募集中である。実名は出ないが、掲載に同意していただける方は右のメールフォームからお送りください。できたら、性別、都道府県、掲載するハンドルネームを添付していただくとありがたい。

それから、参考ファイルも再度リンクをのせておこう。いずれ、右のサイドバーにリンクを入れる予定である。

霊的世界観の哲学的根拠
輪廻転生問題についての哲学的・神学的な見解

2006.07.14

批評について

しかしなんだ・・この間、学者についていろいろ批評を述べたけれども、「批評」と「批判」というのは仕分けがむずかしい。批判というのは、不平不満モードになりがちで、どうしてもそれを言っている自分自身が落ちてしまう。分離的意識に支配されてしまうわけだ。だからといって、まったく「批評」が存在しないということも、その分野の発展のためには望ましくないことである。ジャーナリズムなんかは批判をすればいいと思っていて、特に政治家に対してはどんな悪口雑言も言っていいと思っているようだが、ああいうものがいかに国全体の波動を落としているかわからない・・って、これも批評だ。だから、批評は存在しないといけないものだが、そこにどうしてもネガティブな波動が生まれがちになってしまうのはどうしたらよいのか。

悪口雑言というのも立派な暴行なんですよね。このまえジダンの頭突き事件というのがあったが、身体的な暴行は目に見えるものだから厳しく処罰されるが、言葉による暴行はなかなか裁かれない・・という現実。
週刊誌の広告に並ぶ見出しなんか見ると、いかに、言語による暴行がまかり通り、またそういう記事をわざわざ読むことによって自分自身の内部にあるルサンチマンやら暴行衝動のはけ口にしているという現実・・まあ、大衆ジャーナリズムなんかどこの国でも同じようだろうけども、ものすごいストレスが充満した恐ろしい国だなあ、とうすら寒くなってくるのは私だけであろうか? 2chなんてそのようなネガティブな心的エネルギーの充満する「魔界」である。魔界は心の内にあり、というのは真理だ。(悪いこといわないから、「きっこのブログ」みたいな「魂によくないもの」を読むのはやめときなさいって)

ともあれ、批評はむずかしい。成熟した精神と卓越した表現力が必要なものだ。そういう熟練した批評家といえる人材が今の日本にどれだけいるだろうか。

スピリチュアルの分野では、さらに、批評というものの困難さは増す。スピリチュアルということがら自体が、ネガティブな波動で語ってはいけないものであるからだ。そりゃあま、本音でいえば、カラダを張っていろんな世界を見てきた私としては、根本的にわかってない人に対していろいろ言いたいことはたくさんありますがね・・ シュタイナーは『いかにして超感覚界の認識を獲得するか』だったかで、批評は言ってもいいが、ただしいかなるルサンチマンや怒りの感情とも無縁に、客観的事実を述べるがごとくに冷静に言わねばならない、などという意味のことを書いている。教育の場面を例にとれば、「怒る」と「叱る」は違うということである。「叱る」には感情は入っていない。むしろ、どのように言えばもっとも相手の成長に役立つのか、を冷静に計算した「演技」なのだ。それが完璧にできればたいしたものである。しかし現実には「自分の思い通りに動かないから感情的になる」というレベルの人が「厳しい教師」として喝采を浴びたりするようなおかしな状況というのもある(世の中にはこういう教師がたまにいるが、自分のエゴの満足を「厳しい教育」ととらえて自己満足に陥り、そのエゴイズムが矯正されず深い人格的問題となっていく・・という例がある。これが「教師病」である)。

人間のエゴというものの恐ろしさを、自分の内面を含めて、厳しく見つめるということも成長のためには必要なことだ。その恐ろしさと、輝かしさとの、両面を見る。いってみればドストエフスキー的な世界か。でもやはりそれが、人間の真実であることには変わりない。闇を見つめる気迫のないスピリチュアルなんてダメ。

言っておくが、精神世界やニューエイジといわれるものでも、良質のものはちゃんと「自分の持っている闇を浄化していく」ということの大切さを語っている。精神世界をばかにする一部のトラパ系の人の中にも、闇の部分を軽視する人はある。

闇があることに気づけば、この前書いた「このままではいけない」という自己否定の要素も当然出てくる。ある意味では「人間というのは本当にダメでどうしようもない」と、一度とことん絶望してからはい上がってくるのでないと本物にはならないのかもしれない。

ココログ復活

数日間、緊急避難していたが、ココログのメンテナンスが終了した。やってみるとかなりストレスがなくなってきたので、これならまあいいだろうと、ココログサイトを復活する。「仮設住宅」は近日中に閉鎖する。

仮設住宅に書いた記事は転載した。

ついでにタイトルの副題を日本語化して「スピリチュアル、魂そして身体」。変更はなんとなくだが、まあ、検索にかかりやすいということもあるかもしれない。

「このままでいい」と「このままではいけない」

前回には禅問答的な「気合い」について書いたが、一方ではまた、そういうことも、スピリチュアルについてのある一面である、ということもたしかではある。

どういうことかというと、最近思うのは、スピリチュアルということに関しては、「このままではいけない」というのと「ここままでいい」ということの両面が存在し、それらが弁証法的に運動していく、という事態がありそうだ。弁証法というのは、相対立するものが相互作用しあって、全体がレベルアップして来るという意味である。

「このままではいけない」はつまり自己否定で、今ある自分のあり方を否定していく。
「このままでいい」は、今ここに与えられている、存在していることに中に「絶対」を見る、感じる。

どうも、スピリチュアルというと、その二つのタイプがある。
そして多くの場合、そのどちらかに偏っている。なかなか、それがバランスとれてるということがむずかしい。
「このままではいけない」が強い人は、もっと「このままでいい」が必要だし、逆もまた真(vice versa)ということなのでは、ないか。

困るのは、低次の「このままでいい」だ。このままでいいといったら、本当にこのままでいいと思ってしまうと、それでは全然スピリチュアルなんてなくてもいいことにもある。しかし「今ここにある」ものに完全に気づいて行くには、一度は「このままでいけない」を通らなければ見えてこないものだし、そういう弁証法が無限につづいていくものではなかろうか。
このままでいいんだけど、同時に、このままではいけない。
このままではいけないけれども、同時に、このままでいいともいえる。

まあ、そういう弁証法を生きるということなのかも。

仏教では、「このままでいい」を「本覚」、「このままではいけない」を「始覚」と言っている。
もうすでにこのままで悟っている、というのが本覚。たしかにそうなんだけど、でも現実には、その本覚を覆い隠しているものを取り除いていかねばならない、というのが始覚だ。

ただ知っておかねばならないのは、日本では伝統的に「このままでいい」のほうが優勢だったことだ。バランス的にはそっちに傾いていた。

それは田村芳朗という仏教学者とか、あるいは丸山真男なんかも言っている。その「このままでいい」を自然に投影し、自然と一体化することで一種の救済を得ようという心性が、かなり有力だった。それは仏教だけでなくて、たとえば本居宣長なんかの国学にも影響を及ぼしている。

だから、日本思想史における鎌倉仏教の意義というのは、平安時代までの「本覚」優勢の思想に対して、「このままではいけない」という自己否定の必要性を明確に打ち出したことにある。

・・って、こんなのは思想史の基本ですよ。でも実際に、スピをやっている人も、いつのまにかそういう「このままでいい形而上学」に傾いていって、「このままではいけない」を軽視するという傾向も、一部には見受けられるのだ。日本人は「このままでいい」に傾きやすく、自己否定をするほうがむずかしい、というのは知っておいてよいことだ。

「浅いこのままでいい」と「深いこのままでいい」とがあるわけで、「深いこのままでいい」に達するためには「このままではいけない」をかいくぐっていく必要があるっていうこと。そういう自己否定を失うと、「そのレベルの、このままでいい」で止まってしまう。

それは矛盾ですね。でも、そういうものなんだと思う。

ただ、その「このままではいけない」を、旧来のように、あまりにも「修行モード」でとらえる必要もなくなっているように思う。そうなると、「修行者」か、さもなくば何もしない日常生活者か、という二者択一になってしまう。これでは、鎌倉仏教以前の状態である。日常生活のただ中に、「このままではいけない」を持ち込み、上のレベルに行く道があることを示したこと、それが鎌倉仏教における「易行」のコンセプトだ。念仏を唱えるだけでよい、とか。それの現代版が五井昌久の「世界平和の祈り運動」であるわけだが。

そして今、時代は「ワーク」というコンセプトになってきているのではないか。自己否定とはいっても、それほど深刻なものではなく、少しずつ自分の生活を変えていく、自分が変わるための何かをやっていく、という行き方だ。そこにはもう出家者と在家者という二項対立はない。

それはアロマでも、身体感覚的なワークでも、プロセスワークでもありうる。それは修行でもないし、また「ただのそのまま」でもなく、自分を変容させるために「何かをする」ことである。

ということで、前回に書いた「気合い」というのも、ごく一部の出家的修行者モードに属することで、むしろ今では、そういう「スポ根」の世界がマイノリティーになっていることは、肯定すべきことかもしれない。

もちろん、剣客の気合いというのは、肩肘張るガンバリのことではないけどね。もっと高度な身体感覚の世界なんだけど。

スピリチュアルにおける探求と学問

最近、スピリチュアルについて「論ずる」「語る」ということの意味について、考えることがある。
このところ、スピリチュアルのことを学問の中でやっていきたい、という人が増えてきている。トランスパーソナル心理学などにも一定の需要があるようだ。

それぞれの領域で、どのようにしてスピリチュアルをとらえ、接していくのか、と考えることはそれなりに有益に違いない。

もっともそこで、スピリチュアルという言葉で何を言おうとしているのか、それは人によって千差万別であって、いまのところはっきりした共通理解はなく、まずはその言葉を自分で定義してから話を始める、ということにならざるをえない状況もある。それもまた現段階ではしかたがないことであろう。

そういうことはそれなりに意義があることで、それを否定するつもりもないのだが、一方では、このようなスピリチュアルの学問による論議というのは、その当該の学問の持っている切り口なり方法論にひっかかる範囲でしか扱えない、という限界があることもまた、やむをえないだろう。

もう少し率直にいうと、そういった論文などを読んでいて(最近はあんまり読まないけれども)、どうも何か違和がある。それはなんなのかと考えてみると、思いあたったのは、こういう学問的記述のもつ「客観的であろうとする志向」が、スピリチュアルの探求という事象とは相容れない性格をもつのではないか、ということである。

つまり簡単に言うと、論文という文体形式の表現は、それを書いた人の「私」が出ていないのだ。いったい筆者はどういう人で、どのようにスピリチュアルにかかわろうとし、何を実践し、何をつかんだのか。スピリチュアルということがらにおいて、人と交流しようとするとき、まず知りたいのは、その人は何をつかんでいて、どのような世界が見えているのか、ということ。論文では、そういうことがはっきり出てこない。そこに、もどかしさを覚える。スピリチュアルということは、いくら本を勉強したからといってわかるものとは限らない。ふつうの勉強とはまったく違うのである。ところが、学会やら論文という形式は、あたかもそれがふつうの勉強・研究と同じ方式において行うことが可能であるかのような前提でできている。そのへんがどうもおかしい。スピリチュアルというなら、既存の方式とはまた異なった「語るカタチ」というものがありそうなもので、それはいったいどういうものか、という問いが出てこないといけない。ウィルバーなんかは、ヴィジョンロジックとかいって、そのへんも考えようとしているところはあるが、日本のほとんどの学者はそのへんがまだ、既存の習慣によりかかっていて、その基本的な矛盾に鈍感なのだ。

とはいっても、そういう既存の論文形式で書かれたものを見て、この人はどういう世界が見えているか、見えていないか、ある程度わかるケースも多いことは事実。その意味じゃ、いまだに、玉城康四郎先生以外に、この人はほんとにある程度まで覚醒したらしいと思えた人はいなかったが。井筒俊彦でさえ、私には、多くの部分はまだ体験的な裏付けはとれていないものだと思えたし。いろんな言葉をつらねても、結局、どういう世界が見えているのかということは如実に文章に出てしまう。それは私の文章にしたって言えることで、表現するということは、そのように、「見る人が見れば、全部見抜かれてしまうぞ」という緊張を持っていないといけないものなのだ。そのへんがね、ほとんどの学者は、甘いね。あまりにも甘すぎる。研究者じゃないふつうの仕事をしている人とか、あるいは主婦の中でさえ、そのような「見抜ける目」を持っている人がいかにたくさんいるのか。そういう畏れを持つという感性がない人は、もうそれだけで半分くらい終わっちゃってるんです。あまりにも甘い。自分と同じようなレベルの人々の中で、あれこれ言い合っていることを、切磋琢磨という言葉では言わない。

つまりは、スピリチュアルというからには、自分はどう生きようとするのか、何を見ることができたのか、などなど、そういう自分のすべてを賭けるような「気合い」がなければいけない。真剣勝負にのぞむ剣客のような研ぎ澄まされた「気」が満ちていないといけない。そうでないものは、要するにダルイ。私もいそがしいのだから、ダルイ文章なんかにつきあってはいられないのだ。・・なんて、他人のことを斬りまくっていると、それだけ自分をも追い込むことになるのは百も承知で言っております。

剣客の気合いっていえば、やっぱり「禅問答」というものはすごい。
ちょっと形骸化したところも一部にはあるだろうけど、『臨済録』なんか見ると、そのあまりに張りつめた「気」に圧倒され、やはりこれは人類の古典だと思わざるをえないところがある。

徹底的に、修行者の前にたちふさがる老師。
それを必死に突破しようとする修行者。
その、ぎりぎりを賭けた闘いは、なんとも美しい。

スピリチュアルについて「表現する」ということの突きつめたカタチは、禅問答にあると思う。禅問答以外では、道元の『正法眼蔵』は、霊的な覚醒を表現するということを徹底的に考え抜いている。

老師の前に出て行って勝負をするとき、どのような自分として行くのか。
そこですでに勝負は決まっている。部屋に入る前から決まっているのだ。
そう考えてみると、スピリチュアルを心理学で研究しようなんていう立場が、どうにもなまぬるく思えてしまう理由もわかる。
「自分は心理学者だ」という意識で老師の前に出て行ったら、もうすでに終わっているわけだ。そのことはおわかりだろう。
スピリチュアルな次元を心理学に取り入れようというのはけっこうだ。それに反対しているわけではない。しかしそれはあくまで心理学の新型なのであって、スピリチュアルな探求そのものとは別問題である。

そのような探求そのものは決して学問にはならないのである。そのような探求をやった成果を、学問にも取り入れていこう、というのはよろしい。だが、学問をいくらやったところで、それは探求そのものとは何の関係もない。学問を通して霊的に成長するということは不可能だ。学問というのはそういう構造をしているものではない。

結局、あなたは何をやりたいのか? 学者として偉くなるのか、それとも霊的に覚醒したいのか。それはまったく違うことである。
その辺を自分の中でどう考え、どう決着をつけた上でやろうとするのか。そういうことをつきつめて考えていないというのは、やっぱり甘いです。残念ながら。甘すぎます。

「心理学者」として老師の前に立つことはできないと言った。
では「人間」として立てばよいのか。それも駄目だ。

そういえばこんな問答があったな。私が学生時代のころ、

老師「いったい、今ここにいるのはなんだ?」
私「人間です」
老師「なんだ、そういうことを言ってるようじゃダメだ」(鐘をちりーんと鳴らす。問答終了の合図)

あっさり敗退・・
私も今なら、もう少しましな答えができるだろうが。
ここにいるのは人間であって同時に人間ではないということを、今では少しわかります。

まあ、「私です」と言った方がましだったな。それでもダメなことはダメなんだけど。

たしかに、ここにいるのが人間だと思っているようじゃ全然駄目だわい。そんなこと、あたりまえですね。

つまり、心理学者としてスピリチュアルを研究する、ってことに反対するわけではないんだけど、問題は、そこに、それら一切を超えたところに成立する「真剣勝負の場」があるということを、その人が理解できているかどうかだな。その場との関連で、自分のやるべき仕事を考察できるだけの器量があるかどうかだな。

心理学者である以前に人間だし、人間である以前に・・・なんだから。
せめて、その段階までわかってないと、スピリチュアルなんて語ってほしくないんですね。
「心理学者」は、探求を行うことはできない。そういう肩書きは捨てなければダメだ。

人間である以前、自分はなんだったのか。
それがわかっても、悟りではないけどね・・それは一つの段階であって。
でもそれも、重要な示標ではある。一つの入り口ではあるわけだ。

まあ、わかったようなわからんような・・だけど、そんな話である。

ブラザーサン・シスタームーン

アッシジのフランチェスコを描いた名作、「ブラザーサン・シスタームーン」のDVDが数量限定で超破格値で販売中! ともかくも早速入手。

ゼフィレッリ監督はオペラ演出家としても知られ、「トゥーランドット」なども評判高いが・・この映像美はすごいです。

私的には、スピリチュアル映画の決定版、なんですが。

フランチェスコが神秘体験を経て、魂に「愛」が満たされていくプロセスが、美しく描かれている。

とは言っても、まだDVDは見てないんだが・・ 以前は、このDVDが高い値段でも出てなくて、レンタルもない状態だったので、英語版のVHSを取り寄せて見ていた。もちろん字幕なしだが、せりふの英語は比較的聞き取りやすかったので、まあなんとか。しかしあのドノヴァンの歌の歌詞が、一部どうしてもわからず、必死にネットを検索して調べたりした、という思い出の名作というわけ。

ま、言葉はいらないので、ともかく見るべし。


ブラザー・サン シスター・ムーン
フランコ・ゼフィレッリ グラハム・フォークナー ジュディ・ボーカー
B000FBFRO8

シュタイナーの『いかにして前世を認識するか』

シュタイナーの『いかにして前世を認識するか』をこの間衝動買い(古本だけど)。この本は特に第五章が面白かった。

人智学にしかないものというのはいったい何なのか、という問いがある。すると、「人間は高次の意識に達することができる」とか、「私の本体は宇宙自我である」というようなことは、人智学で言われているが、それ以前の「叡智の伝統」においてすでに明快に示されていることであり、人智学が初めて言い出したことではない。

人智学が現代世界において発する新しい主張は、「輪廻転生が存在する」ということだというのだ。つまり、現代のスピリチュアルな課題として、人間の魂は転生するという認識が必要だ、ということである。その認識を広めることが人智学の最重要な課題だと言っている。

これには大いに同感した。同感しまくりである。

「叡智の伝統」を真剣に再検討するということは言うまでもなく大切なことだが、それだけでは足りないのである。輪廻転生ということが魂の事実である、という認識がもっとも重要なポイントとなるのだ。

いいかえれば、その点を明確にしていない思想は、現代のスピリチュアルな思想としては失格であるということにもなる。逃げるなどというのは論外である。

シュタイナーによれば、輪廻転生を受け入れるということは必然的に「魂の気分」を変えることになるのである。

つまり、いま私がこのようにここに在るということは、限りない過去からの積み重ねの結果としてあるのであり、また人生に起こることや、出会う人々もまた、過去の自分が行為した結果として起こっていることで、すべてが自己の責任としてあるということ、そして今ここで行動することのすべてが、未来を形成し、それはまた、遠い未来世の地球がどのようにあるかということまで、関係してくること・・このような「責任感情」が、狭い限界を超えて広がるのだ、とシュタイナーは言うのである。

しかし、仏教に昔からあるような輪廻観、つまり、輪廻をただ否定的なものと見て、ひらすらそこからの離脱を願うようなメンタリティーも、もはや現代にはそぐわない。仏教とキリスト教の融合という形に近いが、「魂は輪廻を経て進化していき、ついに地球そのものが霊化していく」という、進化のとらえ方も必要になっている。それを、そんなのは本当の輪廻観じゃないなどというのは、過去を絶対の基準とした馬鹿な話であって、上に述べた東西融合的な輪廻観こそこれから真剣に考慮していくものだろう。最近になって普及してきたいろいろな霊的情報も、ほとんどすべてこうした見方を支持している。それが正しいという「証明」はもちろんないが、そのような価値観を採用することは時代の流れとして必然だという感じがする。(価値観というか、もっと言えば、ある「魂において深くわき起こる感情」みたいなものを感じられるか、否かということ。あることが真理か否かという「サニワ」は、結局、そのような「魂の感覚」が最終的な決め手になるほかはない。その意味で、だれかがどう言ったからではなくて、すべては自己責任である)。

これまでの霊的な思想は、いずれも「部分的」だった。
少し乱暴に割り切って言うならば、


  • 東洋には、輪廻転生の思想(そこからの解脱を含めて)が受け継がれ、
  • 西洋には、魂の霊化と、地球の霊的な完成という思想が伝えられた。

これはいずれも真理の一端をつかんでいる。その両者を統合することが重要なのだ。これが私がいちばん主張したいことで、輪廻転生を通じての魂の進化、その結果としての地球の霊的完成という「イデー」が、いま、地球には求められているのである。
(なお、輪廻転生はギリシア思想一般――プラトンやプロティノスを含む――にみられ、キリスト教でもオリゲネスなどに受け入れられていたので、正確に言うと「東洋」には入りきらない。私はむしろ、井筒俊彦が示唆していたように、ギリシア世界――ヘレニズムを含めて――は東洋に入れるべきだと考えている。つまり、上に「東洋」というのはギリシア-インド-極東系、「西洋」というのはキリスト教系だと言ってもよい。また、イスラムはどうなるのだとか、そこまで言うとややこしくなるので、このへんでやめておく)

いうまでもないが、輪廻転生については科学的方法で研究することは不可能であり、これを「非科学的だから信じない」というのは典型的なカテゴリーエラーの議論である(ウィルバーの解説書を書いている当人が、自分のブログでそのようなことを書いていたが、なぜ平気でそういうことを書くのか、今もって理解できない。そのようなカテゴリーエラー丸出しの話を公の場で書いてはいけない。それはウィルバーの解説者としての倫理的責任である)。しかし「論理的」ではありうる。論理的というのは論理的に首尾一貫した表現をすることが可能であるということであって、そのこと自体の真偽を明らかにすることではないが、論理的な表現を好む人をも満足させるだけの論理的表現が可能であることは、シュタイナーの著述自体を見ればわかる。よって、「非論理的だから信じない」という人も、シュタイナーや唯識などをまるで読んでいないということで、勉強不足だと言わざるを得ないことになる。

またそれから、「魂が輪廻転生するのならなぜ人口が増えたりするのか」という議論もまた、初歩的疑問なのだが・・これについては、プロティノスの魂についての議論を勉強すると良い、とアドバイスしたい。プロティノスは「魂とは数えられないものである」と言っている。英語の授業で、数えられる名詞、数えられない名詞というのをやったと思うが、魂とは water や fire などと同じように「数えられない」のである。人口がどうのこうのという議論は、魂が一つ、二つと数えられるものだという前提に立っている。魂と人間は一対一の対応をしているわけではない。霊的情報によると、一人に複数の魂からのエネルギーが複合したり、また同一の魂が複数の転生を同時に展開するといういわゆる「分魂」の事例もあるのだという。そういうことはありえないという証拠があるわけでもないので、「一対一の対応をするはずだ」という前提には何の根拠もないのである。

輪廻転生問題は、スピリチュアル思想の重要なテーマとして、まじめに討議する必要のあることであり、そのように「まじめに考える」という風潮を広めていく必要がある。それを頭ごなしに、そういうことを口にのぼせること自体がオカルトでいかがわしいなどというのは、そもそもそれは日本の伝統文化の一つだったという事実を忘れた妄言なのである。また、スピリチュアルに関心があると言っていながら、ヘンに思われるのが恐くて、そういう話題を避けたがる知識人たちもまた軟弱なヤカラだと言うほかない。ウィルバーでさえ、その批判は免れない。

プロティノスや唯識、シュタイナーも読まずに、議論ができるなどと思ってもらっちゃあな・・て感じか。

こちらのリンクも。

輪廻転生問題についての哲学的・神学的な見解


いかにして前世を認識するかいかにして前世を認識するか
ルドルフ シュタイナー Rudolf Steiner 西川 隆範

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ヨガのDVD

つづいてヨガのDVD。『LOHASスタイル ダイエットヨガ』なんだけど、正確には私が買ったのはその英語版である Yoga Conditioning for Weight Loss で、こっちは日本語が入ってないだけで値段がずっと安いのでそっちに走ったわけだが、一般的には日本語版でしょうね。さてダイエットとなっていて減量に効くというふれこみになっているが、もちろんヨガであるから速攻で効くわけではない。このDVD自体も、食事の見直しを含め生活習慣全体の改善から徐々に減量していくものだ、と言っている。

このDVDは定評あるガイアム社(旧リビング・アーツ社)の作品である。英語版でもリージョン指定はないので問題ない。アマゾンではリージョンが1だから見られないなどと書いてあるかもしれないが、それはウソで、あれは米国のDVDに全部一律で書いてあるだけ。

やってみたが、同じ会社の『AM PM Yoga』と同じような感じで、かなりソフトである。ただプログラムは40分くらいなので、少し長い。そしてこちらは、四人のインストラクターがいて、それぞれ体が硬い人向けのバリエーションを3レベルにわたって同時に見せてくれる。つまり合計4レベル。これはアングルボタンでも切り替えられるし、メニューから一つを選ぶことも可能。

つまりこのガイアム社のDVDは、「マジでほんとに太っている人」ができるように、という配慮で作られているヨガプログラムなのである。ご承知の通り、アメリカ人というのはほんとに減量しないと危険なくらい太っている人がものすごくたくさんいるわけである。そういう人でも危険なくできる、というコンセプトなのだ。そういう人こそヨガの恩恵が大きいし、始めれば減量もするわけである。

ところが日本でヨガをする人というと、あなたどこが太っているんですか? というような、すでにスタイルがそんなに悪くない女性がほとんどなのだ。少し体重が多いといってもたいしたものではない。そういう人はたぶん、このDVDではもの足りず、もっと激しい要素を含むワークアウト的なものを好むだろう。なので、日本人が作ったヨガDVDというのは、綿本さんのを含め、だいたいが少し「きつめ」である。そのくらいにしないと、顧客満足度が上がらないらしい(綿本さんの『シンプルヨーガレッスン』なんかも、たいへんよいプログラムなんだけど「きつさ」はガイアム社版をかなり上回る)。たぶん、いまも太っているというほどではないがさらなるシェイプアップをねらう、なんて人は、ガイアム社のこのプログラムは向いてなくて、むしろパワーヨガとか、あるいはピラティスをやるほうが減量効果は高いはずだ。特にピラティスは、まじめにやれば相当効く。これは私、体験から申し上げられます。2週間ピラティスをつづけて3キロやせたことがある。

そんなわけで、このDVDをおすすめするのは


  • ほんとに太っており、切実に生活習慣の改善が必要な人
  • 太ってはいないが、リラクセーション的な、ソフトなヨガを楽しみたい人
  • ふだんからほとんど運動をせず、そうとうに体が硬い人

という感じ。「さらなるシェイプアップ派」には向きません。

私はどれに該当するのか??・・いちおう2番かな・・??

B0009H9ZF0LOHASスタイル ダイエットヨガ
ヨガ
ポニーキャニオン 2005-06-15

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なお、体がマジに硬い人、ヨガがまったく初めての人には、もっとやさしいバージョンもガイアム社から出ている。
こっちは見てないけど、ガイアム社だから大丈夫でしょう。

B0009H9ZEQLOHASスタイル はじめてのヨガ
ヨガ
ポニーキャニオン 2005-06-15

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2006.07.08

ブログ緊急避難

最近、このココログへの書き込みのリスポンスが、シャレにならないほど遅くなっている。あまりにひどくて、きょうは昼間でさえ、書き込み画面を開くのも容易ではない。ココログも事態を把握している模様で、来週に緊急メンテナンスを行うことになったようだ。

しかし、それが終了するまでリスポンスの改善は見込みがないので、とりあえず、ココログが改善されるまで、以下のサイトに緊急避難することにした。

美しさの中を歩め――Spirit, Soul & Body の仮設住宅

正直、デザイン的にはあんまりぱっとしたものではないが、急いで作ったので、とりあえずということで。

ホナヴォクト『感情を癒すレイキ』

タンマヤ・ホナヴォクトの新刊、『感情を癒すレイキ』は、かなりよい。ここでは単に、ネガティブな感情に対する対症療法で終わっていない。深い意味で「自分を愛する」という方向に持って行こうとするものがあり、その点かなりスピリチュアルな要素がある。その他、すぐに使えるテクニックなどもいろいろのっており、とにかくスピリチュアルであり同時にたいへん実用的な本。

初級編の『レイキを活かす』につづいてかなりおすすめとなる。もちろん、すでにアチューンメントを受けた人向き。こういう本がどんどん出るほどレイキもメジャーになってきたということか。

感情を癒すレイキ感情を癒すレイキ
タンマヤ ホナヴォグト Tanmaya Honervogt 鈴木 宏子


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2006.07.07

超人間的な知覚と意識――『スター・レッド』に寄せて

萩尾望都の『スター・レッド』は激しく面白かった~~ ってこの読破で、彼女のメジャーな作品で残すのは大作『残酷な神が支配する』だけである。ま、それはそうと、『スター・レッド』は、火星で生まれた超能力者の話なのだが、その星(セイ)という女性の「見え方」についての説明が、

かんたんにいえば星は・・ありとあらゆる角度から、ありとあらゆる波長でものを見る力がある。かなり遠くても差はないのだろう。ガードなしの人間を見るとしたら、その正面、側面、背面、上から、下から・・・ さらに体内・・・ 臓ふ、骨の一つ一つをあらゆる角度から・・・ 解剖してるようなもんだね、目で。いや、さらに血液の中の赤血球や白血球、ひょっとしたら細胞、さらに分子、原子までとらえることが・・・

視覚がそうなら、意識も変わってくる。もののとらえ方からなにから、物質が細胞から成り立ち、さらに分子、そして原子、中性子を含むことを知るともなしに知る。そのとほうもない、およそ四次元的な視覚によって、

なにを見ているのか? 何を考えているのか?

小学館文庫版、302~4ページ(句読点追加)

SFの世界では、超能力の出現は人類の進化方向を示すものだ、というとらえ方が大勢だが、私もそうではないかと考えるものだ。
つまり、人類はいずれ、この星(セイ)のようなとほうもない視覚を得るようになるだろう。

ただもちろん、単なる超能力ということではなく、それは意識が高次元領域と共鳴できるようになるにつれて、必然的に覚醒してくる能力だということである。
地球以外の星にすむ知性生命体がいるとすれば(いるにきまっているが)、彼らはこのような超肉体的知覚力をそなえている可能性が高い。さらにいえば、次元間の瞬間的な移動でさえ可能だろう。

ラーマクリシュナやヨガナンダ、またここで紹介したような霊的覚醒を体験した人々は、ここで描写されているような知覚力を持っていた(持っている)と私は考えている。もちろんこうした能力は、「究極」に行き着かなければ得られないというわけでもないので、おそらく今でも、何百万人の一人くらいの割合で存在しているのではなかろうか。私が思うに、これだけの莫大な情報が知覚から入ってくるということは、それを処理する意識の能力もまた並の人間レベルではあり得ないわけだろう。

とすれば、ブルース・モーエンの本にも出てきた、宇宙のある次元に存在するといわれるCW(consciousness worker)なんかも、そういう超知性体かもしれない。もっとも基準をどこにとるか、であるわけで、宇宙ではそういう知性があたりまえで、人間の能力があまりに低すぎる、ということも言えるかもしれない。それからもう一ついえば、私の内部に潜在しているはずの「もう一人の私」、すなわち、いわゆるハイアーセルフというものは、この宇宙人なみの知覚と意識のレベルを持っていると想像することも、また容易である。

人間を超える知性体とはどういうものなのか、それを想像することは、人間とその宇宙における位置についての思索に誘うものがある。それはまたなかなか楽しいことである。

ともあれ『スター・レッド』は、『バルバラ異界』、『マージナル』や『海のアリア』などとともに、私のお気に入りハギオモト作品となったのでした。

スター・レッドスター・レッド
萩尾 望都


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2006.07.03

シュタイナー『魂のこよみ』

シュタイナーの『魂のこよみ』を、遅ればせながら、取り寄せてみた。
昔、買おうと思ったときには品切れで日本語版が出てなかったのだが、最近は数種出ているらしい。私が買ったのはちくま文庫版の高橋巌訳で、ま、これがスタンダードでしょうね。

見ると・・おお~~!! 予想を超えるすごさ! というのはスピリチュアルな波動として伝わるものがすごいということ。
これはある意味で、シュタイナーを理解するためのもっとも早い道かもしれない。

ドイツ語原文ものっている。高橋訳もかなりいいのだが、やはり、原文のもっているエネルギーには及ばない。
日本語訳は一つの手がかりにして、原文に入りこむ。

復活祭を基点に第何週にあたるかでそれぞれマントラ的な詩句がある。今年の復活祭は4月16日(と親切にも巻末に復活祭期日一覧表が出ている)なので、今週は第12週になるはずだ(といっても、あまり確信はないが・・)。

その詩句をいろいろ見ていると、基本的なベクトルは、「パーソナルな自我から宇宙自我の自覚へ」という感じのもののようだ。宇宙自我とは、前に紹介した佐藤美知子『瞑想から荒行へ』でも出てきたように、「もう一つの自分」があるという自覚だ。

私は最近、もの「もう一つの自分」という感覚が言われているかどうかが、ある人が本当にわかっているかどうかの一つの基準になるのではないか、と思うようになった。
やたらに「無我」だとか、自分を無にするとか、「なりきる」というようなことばかり言っていて、「もう一つの自分」という言葉が出てこないのは、本当の深い体験をしたことがない人ではないかな、という感じがするのだ。仏教で言う無とは、ちょっとやそっとでわかるようななまやさしいものではない。「もう一つの自分」がはっきりわかって、なおそれをも超えたところ、つまり如来の境涯をも超えたところの絶対無こそが本当の無なのだ。

宇宙の奥にいる「もう一つの自分」という感覚というものはたしかにある。「宇宙自我」と、仏教的な無我とは決して矛盾しない。矛盾すると思っている人は本当にはわかっていないだけだ、と私は考えている。宇宙自我ということがわからない人は、無我ということも本当にはわかっていない、という意味である。

「私の根源とはなんなのか」ということが、スピリチュアルな問いとしてディープなものである。「無です」と簡単に答えてもらいたくない。それを言葉で言うのはあまりにも簡単だ。それなら、本当に絶対無というポジションに立って言ってもらいたい。そんな人はほとんどいないのだ(それは、ラーマクリシュナやヨガナンダなどのレベルになる)。「もう一つの自分」、真我の自覚というのは、絶対無よりも手前にあるステージである。絶対無を知っている人が真我のことがわからないはずない。真我=神我をすっとばしてすぐに無、無と言っているような人は「ペーパー禅」のヤカラである。まずは「私の根源とは何か」という問いに答えてほしい。日本のこれまでの「スピリチュアル思想」には残念ながら「自分の根源とは何か」という問いが少なかったし、神我と絶対無の関係がまだよく理解されていない気がする。その意味で、神我の自覚を説くシュタイナー思想は日本人の欠落を埋めてくれると思う。いいかえれば、シュタイナー思想との対決によって東洋的思想は鍛えられ、表層的な理解やごまかしを除去していくことができる。

さて、「魂のこよみ」だが、第12週の詩句はかなりディープだった。(なお、ドイツ語のウムラウトは、あとにeをそえる形式で表記する)

Der Welten Schoenheitsglanz,
Er zwingt mich aus Seelentiefen
Der Eigenlebens Goetterkraefte
Zum Weltenfluge zu entbinden ;
Mich selber zu verlassen,
Vertrauend nur mich suchend
In Weltenlicht und Weltenwaerme.

<読み方>
デア ヴェルテン シェーンハイツグランツ
エア ツヴィンクト ミッヒ アオス ゼーレンティーフェン
デア アイゲンレーベンス ゲッタークレフテ
ツム ヴェルテンフルーゲ ツー エントビンデン
ミッヒ ゼルバー ツー フェアラッセン
フェアトラウエント ヌア ミッヒ ズーヘント
イン ヴェルテンリヒト ウント ヴェルテンヴェルメ

ドイツ語の発音をカタカナで、というのは無理な話だが、まあ、ベートーヴェンの「第九」をフリガナで歌うようなノリで(笑)

ちなみに英訳 (The Calendar of the Soul, Anthroposophic Press, 1982)

The radiant beauty of the world
Compels my inmost soul to free
God-given powers of my nature
That they may soar into the cosmos,
To take wing from myself
And trunstingly to seek myself
In cosmic light and cosmic warmth.

以下は私の訳・・というより、日本語による書きかえ。高橋巌訳に不満というわけではないんだが、いちばん自分がしっくり来る訳を考えてみた。

宇宙の輝かしい美・・
その美は、私の魂の深みへと、おしよせてくる。
私という存在は、いまここにあり
そこに、神々の力が、ひそんでいる・・
その神々の力は、美の力によって、ときはなたれ、かけのぼり、
めくるめき宇宙の流れに、はいりこんでいく。
私は、自分という枠から、自由になり、
身をまかせる・・本当の「私」を、探しつつ・・
宇宙の光、そして、宇宙のあたたかさの、なかで。

Der Welten Schoenheitsglanz,
der Weltenは二格(所有格)。ここでWeltは世界・宇宙なんだけど、ここで普通の天文学的な宇宙なんかを思い浮かべては駄目なのである。宇宙とはもっと深いものだ。まずそういう「宇宙感覚」自体がわからないとちょっとつらいんですね。
この行では、宇宙の壮大、荘厳な美の世界をイメージする。そして、

Er zwingt mich
これは it compels me ということなんだけど、その宇宙的な美が、私に何らかの作用を及ぼす、働きかけるという「力が作用するという感覚」を呼び起こす。

aus Seelentiefen
魂の深みから・・ここで、「天界」の壮大さから、一転して、「私」の奥深い場所へと意識が向け変えられることに注意。

Des Eigenlebens
これは二格(所有格)。ここで、今ここに私の「生」があるという「自己存在の感覚」が喚起されるようだ。eigenという語には「ほかならぬ、かけがえのない私の」というニュアンスがこめられる。

Goetterkraefte
複数。神的な諸力、というか。それが「私が私として存在することの中にある」ということ。

Zum Weltenfluge zu entbinden
Weltenflugeとは、Welt + Flug の複合語で、Flug とはFlight飛行、飛ぶこと、という意味。そうすると、Weltenflugeというのは、宇宙の力があたかも虹色に輝きながらすごいスピードでごうごうと流れているような領界、というイメージがしてくる。そういう領界へと、entbinden解き放たれるのだ、ということ。つまり私の魂の中にある、神的な力が、いまの自分という境界を越えて、飛び立ち、高く上っていって、ついには宇宙的な流動の中へと飛びこんでいく・・

Mich selber zu verlassen
Vertrauend mich zu suchend
verlassen, vertraunedといった語は、身をゆだねるという感覚が強くしてくるもの。
ここで出てくる「私を探す」のmichは、もはやパーソナルな自我ではないわけで、本来の私、宇宙的な私のことになる。つまり、ここらへんはすべて、小さな自我から宇宙自我の覚醒への過程を述べているのである。

In Weltenlicht und Weltenwaerme.
宇宙の光、宇宙の暖かさの、なかで。
ドイツ語の響きからすると、前二行は、「動き」を感じさせるが、この行は、宇宙に「行き着いた」という「やすらぎ」の感覚がする。宇宙の懐に帰ってきたという「帰着」の感覚である。そこに「私」はいる。その本来の場所にいる「私」の深い喜びの波動をここに感じるべきであろう。

ここで、文字通り、「宇宙の光」ということ、「宇宙の暖かさ」ということが実在するのだと私は言いたい。それは比喩ではない。それは「魂の感覚」として感じられるものである。宇宙的な光というものは実在する(ま、実在とはどういうことか、哲学的に吟味すると話はフクザツになるからやめておくが)。とは言っても、なかなか、感じようと思って感じられるものではないが、そのためにこういう「魂のこよみ」みたいなものがあるわけで、繰り返しこの言葉によって喚起されるイメージに入りこもうとしていると、やがて、本当に、「こういうことか」とわかるようになっていく、ということなのであろう。

詩を読むについては、やっぱり原文を見ることがいかに大切か、ということですね・・
私は外国文学専攻の大学院生だったから、原文のテキストを徹底して読むということは、いやというほど鍛えられました。

というわけで、

魂のこよみ魂のこよみ
ルドルフ・シュタイナー 高橋 巖


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