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2006.07.14

スピリチュアルにおける探求と学問

最近、スピリチュアルについて「論ずる」「語る」ということの意味について、考えることがある。
このところ、スピリチュアルのことを学問の中でやっていきたい、という人が増えてきている。トランスパーソナル心理学などにも一定の需要があるようだ。

それぞれの領域で、どのようにしてスピリチュアルをとらえ、接していくのか、と考えることはそれなりに有益に違いない。

もっともそこで、スピリチュアルという言葉で何を言おうとしているのか、それは人によって千差万別であって、いまのところはっきりした共通理解はなく、まずはその言葉を自分で定義してから話を始める、ということにならざるをえない状況もある。それもまた現段階ではしかたがないことであろう。

そういうことはそれなりに意義があることで、それを否定するつもりもないのだが、一方では、このようなスピリチュアルの学問による論議というのは、その当該の学問の持っている切り口なり方法論にひっかかる範囲でしか扱えない、という限界があることもまた、やむをえないだろう。

もう少し率直にいうと、そういった論文などを読んでいて(最近はあんまり読まないけれども)、どうも何か違和がある。それはなんなのかと考えてみると、思いあたったのは、こういう学問的記述のもつ「客観的であろうとする志向」が、スピリチュアルの探求という事象とは相容れない性格をもつのではないか、ということである。

つまり簡単に言うと、論文という文体形式の表現は、それを書いた人の「私」が出ていないのだ。いったい筆者はどういう人で、どのようにスピリチュアルにかかわろうとし、何を実践し、何をつかんだのか。スピリチュアルということがらにおいて、人と交流しようとするとき、まず知りたいのは、その人は何をつかんでいて、どのような世界が見えているのか、ということ。論文では、そういうことがはっきり出てこない。そこに、もどかしさを覚える。スピリチュアルということは、いくら本を勉強したからといってわかるものとは限らない。ふつうの勉強とはまったく違うのである。ところが、学会やら論文という形式は、あたかもそれがふつうの勉強・研究と同じ方式において行うことが可能であるかのような前提でできている。そのへんがどうもおかしい。スピリチュアルというなら、既存の方式とはまた異なった「語るカタチ」というものがありそうなもので、それはいったいどういうものか、という問いが出てこないといけない。ウィルバーなんかは、ヴィジョンロジックとかいって、そのへんも考えようとしているところはあるが、日本のほとんどの学者はそのへんがまだ、既存の習慣によりかかっていて、その基本的な矛盾に鈍感なのだ。

とはいっても、そういう既存の論文形式で書かれたものを見て、この人はどういう世界が見えているか、見えていないか、ある程度わかるケースも多いことは事実。その意味じゃ、いまだに、玉城康四郎先生以外に、この人はほんとにある程度まで覚醒したらしいと思えた人はいなかったが。井筒俊彦でさえ、私には、多くの部分はまだ体験的な裏付けはとれていないものだと思えたし。いろんな言葉をつらねても、結局、どういう世界が見えているのかということは如実に文章に出てしまう。それは私の文章にしたって言えることで、表現するということは、そのように、「見る人が見れば、全部見抜かれてしまうぞ」という緊張を持っていないといけないものなのだ。そのへんがね、ほとんどの学者は、甘いね。あまりにも甘すぎる。研究者じゃないふつうの仕事をしている人とか、あるいは主婦の中でさえ、そのような「見抜ける目」を持っている人がいかにたくさんいるのか。そういう畏れを持つという感性がない人は、もうそれだけで半分くらい終わっちゃってるんです。あまりにも甘い。自分と同じようなレベルの人々の中で、あれこれ言い合っていることを、切磋琢磨という言葉では言わない。

つまりは、スピリチュアルというからには、自分はどう生きようとするのか、何を見ることができたのか、などなど、そういう自分のすべてを賭けるような「気合い」がなければいけない。真剣勝負にのぞむ剣客のような研ぎ澄まされた「気」が満ちていないといけない。そうでないものは、要するにダルイ。私もいそがしいのだから、ダルイ文章なんかにつきあってはいられないのだ。・・なんて、他人のことを斬りまくっていると、それだけ自分をも追い込むことになるのは百も承知で言っております。

剣客の気合いっていえば、やっぱり「禅問答」というものはすごい。
ちょっと形骸化したところも一部にはあるだろうけど、『臨済録』なんか見ると、そのあまりに張りつめた「気」に圧倒され、やはりこれは人類の古典だと思わざるをえないところがある。

徹底的に、修行者の前にたちふさがる老師。
それを必死に突破しようとする修行者。
その、ぎりぎりを賭けた闘いは、なんとも美しい。

スピリチュアルについて「表現する」ということの突きつめたカタチは、禅問答にあると思う。禅問答以外では、道元の『正法眼蔵』は、霊的な覚醒を表現するということを徹底的に考え抜いている。

老師の前に出て行って勝負をするとき、どのような自分として行くのか。
そこですでに勝負は決まっている。部屋に入る前から決まっているのだ。
そう考えてみると、スピリチュアルを心理学で研究しようなんていう立場が、どうにもなまぬるく思えてしまう理由もわかる。
「自分は心理学者だ」という意識で老師の前に出て行ったら、もうすでに終わっているわけだ。そのことはおわかりだろう。
スピリチュアルな次元を心理学に取り入れようというのはけっこうだ。それに反対しているわけではない。しかしそれはあくまで心理学の新型なのであって、スピリチュアルな探求そのものとは別問題である。

そのような探求そのものは決して学問にはならないのである。そのような探求をやった成果を、学問にも取り入れていこう、というのはよろしい。だが、学問をいくらやったところで、それは探求そのものとは何の関係もない。学問を通して霊的に成長するということは不可能だ。学問というのはそういう構造をしているものではない。

結局、あなたは何をやりたいのか? 学者として偉くなるのか、それとも霊的に覚醒したいのか。それはまったく違うことである。
その辺を自分の中でどう考え、どう決着をつけた上でやろうとするのか。そういうことをつきつめて考えていないというのは、やっぱり甘いです。残念ながら。甘すぎます。

「心理学者」として老師の前に立つことはできないと言った。
では「人間」として立てばよいのか。それも駄目だ。

そういえばこんな問答があったな。私が学生時代のころ、

老師「いったい、今ここにいるのはなんだ?」
私「人間です」
老師「なんだ、そういうことを言ってるようじゃダメだ」(鐘をちりーんと鳴らす。問答終了の合図)

あっさり敗退・・
私も今なら、もう少しましな答えができるだろうが。
ここにいるのは人間であって同時に人間ではないということを、今では少しわかります。

まあ、「私です」と言った方がましだったな。それでもダメなことはダメなんだけど。

たしかに、ここにいるのが人間だと思っているようじゃ全然駄目だわい。そんなこと、あたりまえですね。

つまり、心理学者としてスピリチュアルを研究する、ってことに反対するわけではないんだけど、問題は、そこに、それら一切を超えたところに成立する「真剣勝負の場」があるということを、その人が理解できているかどうかだな。その場との関連で、自分のやるべき仕事を考察できるだけの器量があるかどうかだな。

心理学者である以前に人間だし、人間である以前に・・・なんだから。
せめて、その段階までわかってないと、スピリチュアルなんて語ってほしくないんですね。
「心理学者」は、探求を行うことはできない。そういう肩書きは捨てなければダメだ。

人間である以前、自分はなんだったのか。
それがわかっても、悟りではないけどね・・それは一つの段階であって。
でもそれも、重要な示標ではある。一つの入り口ではあるわけだ。

まあ、わかったようなわからんような・・だけど、そんな話である。

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