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2006.07.14

「このままでいい」と「このままではいけない」

前回には禅問答的な「気合い」について書いたが、一方ではまた、そういうことも、スピリチュアルについてのある一面である、ということもたしかではある。

どういうことかというと、最近思うのは、スピリチュアルということに関しては、「このままではいけない」というのと「ここままでいい」ということの両面が存在し、それらが弁証法的に運動していく、という事態がありそうだ。弁証法というのは、相対立するものが相互作用しあって、全体がレベルアップして来るという意味である。

「このままではいけない」はつまり自己否定で、今ある自分のあり方を否定していく。
「このままでいい」は、今ここに与えられている、存在していることに中に「絶対」を見る、感じる。

どうも、スピリチュアルというと、その二つのタイプがある。
そして多くの場合、そのどちらかに偏っている。なかなか、それがバランスとれてるということがむずかしい。
「このままではいけない」が強い人は、もっと「このままでいい」が必要だし、逆もまた真(vice versa)ということなのでは、ないか。

困るのは、低次の「このままでいい」だ。このままでいいといったら、本当にこのままでいいと思ってしまうと、それでは全然スピリチュアルなんてなくてもいいことにもある。しかし「今ここにある」ものに完全に気づいて行くには、一度は「このままでいけない」を通らなければ見えてこないものだし、そういう弁証法が無限につづいていくものではなかろうか。
このままでいいんだけど、同時に、このままではいけない。
このままではいけないけれども、同時に、このままでいいともいえる。

まあ、そういう弁証法を生きるということなのかも。

仏教では、「このままでいい」を「本覚」、「このままではいけない」を「始覚」と言っている。
もうすでにこのままで悟っている、というのが本覚。たしかにそうなんだけど、でも現実には、その本覚を覆い隠しているものを取り除いていかねばならない、というのが始覚だ。

ただ知っておかねばならないのは、日本では伝統的に「このままでいい」のほうが優勢だったことだ。バランス的にはそっちに傾いていた。

それは田村芳朗という仏教学者とか、あるいは丸山真男なんかも言っている。その「このままでいい」を自然に投影し、自然と一体化することで一種の救済を得ようという心性が、かなり有力だった。それは仏教だけでなくて、たとえば本居宣長なんかの国学にも影響を及ぼしている。

だから、日本思想史における鎌倉仏教の意義というのは、平安時代までの「本覚」優勢の思想に対して、「このままではいけない」という自己否定の必要性を明確に打ち出したことにある。

・・って、こんなのは思想史の基本ですよ。でも実際に、スピをやっている人も、いつのまにかそういう「このままでいい形而上学」に傾いていって、「このままではいけない」を軽視するという傾向も、一部には見受けられるのだ。日本人は「このままでいい」に傾きやすく、自己否定をするほうがむずかしい、というのは知っておいてよいことだ。

「浅いこのままでいい」と「深いこのままでいい」とがあるわけで、「深いこのままでいい」に達するためには「このままではいけない」をかいくぐっていく必要があるっていうこと。そういう自己否定を失うと、「そのレベルの、このままでいい」で止まってしまう。

それは矛盾ですね。でも、そういうものなんだと思う。

ただ、その「このままではいけない」を、旧来のように、あまりにも「修行モード」でとらえる必要もなくなっているように思う。そうなると、「修行者」か、さもなくば何もしない日常生活者か、という二者択一になってしまう。これでは、鎌倉仏教以前の状態である。日常生活のただ中に、「このままではいけない」を持ち込み、上のレベルに行く道があることを示したこと、それが鎌倉仏教における「易行」のコンセプトだ。念仏を唱えるだけでよい、とか。それの現代版が五井昌久の「世界平和の祈り運動」であるわけだが。

そして今、時代は「ワーク」というコンセプトになってきているのではないか。自己否定とはいっても、それほど深刻なものではなく、少しずつ自分の生活を変えていく、自分が変わるための何かをやっていく、という行き方だ。そこにはもう出家者と在家者という二項対立はない。

それはアロマでも、身体感覚的なワークでも、プロセスワークでもありうる。それは修行でもないし、また「ただのそのまま」でもなく、自分を変容させるために「何かをする」ことである。

ということで、前回に書いた「気合い」というのも、ごく一部の出家的修行者モードに属することで、むしろ今では、そういう「スポ根」の世界がマイノリティーになっていることは、肯定すべきことかもしれない。

もちろん、剣客の気合いというのは、肩肘張るガンバリのことではないけどね。もっと高度な身体感覚の世界なんだけど。

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