玉城康四郎『生命とは何か』
玉城康四郎『生命とは何か―ブッダをとおしての人間の原像』を読んでみた。
玉城仏教学の「ダンマの顕現」についてはここでも何度か語ってきた。
今回読んでみてわかったポイントは、次のようなものである。
- 玉城氏は、「ダンマの顕現」や「永遠のいのち」などといわれる世界を直覚した。
- 同時に、自分の根底には、輪廻転生する主体であるところの「業熟体」があるという自覚が生じている。この業熟体とはアーラヤ識に対応すると言っている。つまり、「個的な自己」の根源としてのアーラヤ識は自覚しうるものであり、それが自覚できたときに、それが業のかたまりであることも自覚され、そしてその業のかたまりの中に顕現するのがダンマであるということである。
- この本では、臨死体験や体外離脱に経験についてかなり語られ、それが仏教で言う「中有」であることが論じられている。そして玉城氏がそれがある意味で実在していることを肯定している(ある意味、というのは、仏教においては根源的な意味では何も実在するものは認めないからである)。
この第三点については、坂本政道のブレイク以来かなり話題になってきたが、玉城氏のこのような発言はいまだに無視され続けている。君子危うきに近寄らず、という名の保身主義であろう。しかし、死後はどうなるのかというもっとも根源的な問いに取り組むことなしに、スピリチュアルもへったくれもない、というのが私の立場であることは再三ここで述べている通りである。
微細次元の身体が実在するということはそれほど怪しげな言説であろうか。思うに、自己性の根源としてアーラヤ識があり、それこそが身体性を形成する原理である、ということが承認されるならば、その身体性のあり方には複数のタイプがありうること(これが微細身)、そして同次元においても継起的に複数の身体性を形成すること(これが転生)、という可能性を否定する根拠も、論理的には何もないのである。それが仏教本来の見方であると私は思っている。その意味で私の論も決してぶっ飛びではなく、伝統に根ざしたことを述べているだけだ、と考えるものである。
ただ、この本を読むとわかるが、玉城氏は自在に体外に離脱したり、また、微細レベルに存在する身体を直接に見たりすることはできなかったようである。
そう考えると、玉城氏の悟りというのも、究極である「法界体性智」というか、究極まで到達したものではなかった、という判断ができると思う。こう言うのはずいぶん僭越、傲慢と感じる人もあろうが、本当に仏智に達するということは宇宙的な絶対智の達成にほかならないので、それをいっさいまけずに考えれば、玉城氏の見た光明の世界は、悟りの世界の「入り口」であった、と結論すべきだと私は思う。
というのも以前に、「玉城氏には超感覚的な能力はないようであるが、それなら、そういう超感覚の発達という道筋を通らずに絶対に至るという道もあるということだろうか」というような質問を送って来た人がいたのである。
しかし、それならばそれはもはや絶対とは呼べないだろう。論理的には、玉城氏は究極までは行っていない、と考えるしかないのである。だからといって玉城氏に対する尊敬の念が変化するわけではない。ただ、玉城氏と空海とは同等ではない、と述べているだけである。玉城氏自身、空海と同等だと思っていたわけではないと思う。
ただ、この「ダンマの顕現」の体験は、いわばスタートラインだと思っている。このことがわかってはじめて、スピリチュアルについて何か発言することが可能になるという、基本線なのである。最低限そこまではなんとなくでもわからないと、発言する資格はない、というのが私の「自主基準」である。