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2006.08.08

密教について考える

最近、密教に興味があり・・いまさらだが基本知識の確認として『図解雑学 密教』。このシリーズってなかなかあなどれないものがある。これも多方面の知識をコンパクトにまとめていて、買っておく価値あり。

ただ知識はあくまで知識である。この本の42ページには、いちばんかんじんな「即身成仏」について、「結局どういうことなのかよくわからない」というようなことが書いてあって、「なんじゃそりゃ?」という感じ。そもそもそういうことを知らない人が密教について語ってよいの? ま、学者とはそういうもんか・・正直なだけましかもね。「興味は尽きない」なんてのんきなこといってる場合じゃないんですよ。あなた、求道の精神が足りません!!(そこ書いたのは頼富さんじゃないと思うけどなあ)

とか、ぶつぶつ言ってしまったが、そういうことを何も期待しなければ知識の整理としては有益である。しかし、その本質については何も語っていない本だということも明白ではある。

それはそうと、レイキなどに接してみて、その密教との親近性に驚いた。ははあ、密教というのはこういうことだったのか、と徐々にわかって来た部分もある。

密教の本質は「伝授」にあるのだ。印や真言を「受け取る」。この受け取るというのは、ただ知るということではなくて、それなりの力を持った高僧によって授けられる必要がある。授ける者は、その真言に対応したある「エネルギー通路」を開くのだ。それによって、その真言に結びつけられた仏尊とのエネルギー的回路ができる。つまり、それは「こちら側」だけの問題ではなく、向こう側、仏尊たちの世界においてもある「システム」が作られている。そういう次元交通的なチャンネルが開かれるのだ。ブックスエソテリカの『印と真言の本』には、そういう伝授のことについて少し詳しく書いてあって、実はそれこそが密教のキモであるらしい、ということがわかってくる。

私が、「レイキとは密教的システムを大衆に開放したものともいえる」といっているのはそういうことだ。

しかし、そういう「伝授」の深層については、真言僧自身もあまり語っていない。現代の知的言語では語る言葉がないのか、あるいはかなり形骸化してしまっているのか。今でもどこかに「真の力を持った真言僧」はいるに違いないと思う。結局、密教というのはそういうホンモノの師匠について修行をするしか「わかる」ことはできないものである。本に書いてあることなんて全部表面にしかすぎない、って痛感する。一般人に可能な修行は「阿字観」くらいなものである。もっとも、真言密教の道場に入ればそういうことがわかるのか・・といえば、それは私はよく知らない。即身成仏はそう簡単にはできないでしょうけどね(たぶんそれはほとんど空海にしかできなかった)。修行システムとしてはチベット密教の「ナロパの六法」なんかのほうがすごいかもしれないという印象を受けるが、実際にやってみないことには確実なことは言えない。

司馬遼太郎の『空海の風景』とか、評判は高いが、私はおもしろくないと思う。というのは、すべてが「現代人の常識」からしか空海を見ていないからだ。霊的な修行が進んだ人間にはどのような世界が見えてくるのか、ということにまったく何の理解もないという立場から空海を見ればこうも見えるのか、ということでしかない。空海と恵果との出会いなど、深い霊的な原因があったはずだし。

こうしてみると密教の本質はきわめて「反時代的」なものだと思う。もろに出せばぶっ飛びとして退けられてしまう。これは時代があまりに反宗教的になり、「聖なる次元」を認めないためなので、密教の責任ではない。しかしそういう時代精神に妥協せずに「本当はこうだよ」というところを出していくだけの気概を期待したいのである。

4816340386密教
頼富 本宏 那須 真裕美 今井 淨圓
ナツメ社 2005-11

by G-Tools

2006.08.07

光の世界――玉城康四郎『無量寿経』

つづいて玉城康四郎『無量寿経――永遠のいのち』これももう来まくりですね。これは単なる浄土経典の解説というにとどまらず、仏道の根本、いや宗教の根本まで到達している。(浄土三部経というのは、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つをいう)

阿弥陀仏とは「無限の光」「無限のいのち」という意味ですから・・そのものなのです。
圧倒的な光、光、光の世界である。要するに、その光をつかむことがすべてだ、ということ。こう書いてしまえば簡単だが、でもやっぱりそれしかないし、そこからしか始まらないのだ。

この本では、坐禅と念仏とが宗派的に分かれる前の根源のところをつかまえようとしているようだ。つまり禅定とは光を受け、光の中に入ることを指すことになる。

これは前にどこかで書いたことがあるが・・もうだいぶ前、私は図書館に行った。するとそこにはベートーベンの後期ソナタの何かが流れていた。その美しいメロディーを聴いているうち、なんとなく不思議な気分になってきた。気がつくと、その空間全体が何か「透明な光」に包まれているのを感じたのである。それは、肉眼で見える世界はそのままでありながら、その世界にぴったりはりつくようにして「光の世界」がある、という圧倒的な実感であった。そしてエネルギーの渦のようなものが螺旋形にぐるぐる回っているようにも見えた。そしてその光からは圧倒的な「愛のエネルギー」が放射されていたのである。そこで私は言いしれぬ幸福感、至福感に満たされてしまった。そこでまわりの本棚に目を向けると、ある一角が特に光っているように見えた。そこへ近づいてそこにある本を見ると、それは浄土三部経の本だったのである・・

というようなことを、浄土三部経といえば思い出す。これは、その当時からすれば一種の「神秘体験」であったには違いない。しかし今はまた微妙に違う。私にとって、その光の世界はもはや「特別」なものではないのである。私はその世界を、「呼び出そう」と思えば呼び出せるようになった。もちろんその強度はあまり強くないことが多いが、その世界は確実に私の世界の一部となっている。だからこれを神秘とはもう言えないのである。神秘といえば、生きていることのすべてが神秘に包まれているということにもなるわけだ。

どうやって呼び出すのかといえば、私の場合は禅定というより「念仏」系である。つまりある種の言葉というか、真言というか、そういうものである(南無阿弥陀仏ではない)。それを唱えていると光が到来して自分を射し貫くようになる。あるいは自分のエネルギー体がもっと大きな光に包まれるようにもなったりする。

ということであるので、私には、玉城先生が話していることはまったく「リアル」な世界であり、現実そのものだという理解ができるのである。ただそこには、これからの先の「無限の深まり」が続いているのだということもまた、予想できる。これからが本番である。

そこで玉城先生はまた一つ大事なことを述べている。それは、このような体験(それを「信心」と呼ぶわけだが)は、仏の側から「与えられるもの」だということである。つまり、なぜ私が光を受けることができるのかといえば、それは「宇宙からのギフト」なのだということだろう。キリスト教的にいえばアガペー(神の愛)によるのである。

『魂のロゴス』には、「イデーとは宇宙から贈られるものである」と述べてあるが、それはそういう意味であろう。「なぜこの真言(名号、題目でもよいが)によって仏とつながることができるのか」といえば、それはそのようなものとして仏が人間の世界に「下ろした」ものだからである。そのことを浄土教的にいうと「如来の本願力」による、ということになる。

信仰とはどういうことか・・それは、光のリアリティを感じ取れるような魂の感受力が育っていくということである。

ここで、「闇を無視しているのではないか」という異論が出るかもしれない。
たしかに闇も相対的には実在ではある。しかしながら、闇、闇といっているだけではただのたうちまわるだけで、何の出口もない。闇はどうせあるのだから、わざと潜在しているものまでつつき出すことはない。まずは光とつながる。闇を消すだけの力がついた分だけ、闇と向き合うことができる。闇というのは光に向かう過程で否応なく出てくるものだけつきあえばよいのだ。ことさらに闇を追い求めるのは間違いである。

上に書いたことは抽象的に聞こえるかもしれないが、きわめて「リアル」なことである。

ともあれ・・私には、道元なんかよりよっぽどこの念仏の世界のほうがわかりやすい。
実に、スピリチュアルな波動に満ちた本であった。

だから、思うが、宗教でいいではないか。ことさらに「宗教とは一切関係ありません」なんて気張った言い方をしている人やホームページをよく見かけるが、宗教と関係ないのは別に偉いことではない。宗教で問題なのは、一部にある「自分の宗教以外はすべて間違いだ」という困った考え方だが、もともと日本にはそういう宗教観は少数派だったのだ。その絶対主義がいやなのはわかるが、それと一緒に「信仰」まで捨ててしまってよいのか。
実際にはある特定の神仏との「ご縁」によって人は成長するものなのだ。
「信仰」を抜きにしてスピリチュアリティーを語ってやろうとするのは、「現代人向き」にしたつもりかもしれないが、逆に危うさを感じてしまう。
ほんとうはいちばん大切なことは「信仰」であるのだ。
それは根源的な「魂の気分」であり、上昇するためのエネルギーである。
まあ、そんなことを感じたのだった。

無量寿経―永遠のいのち
玉城 康四郎
4804325182

ホログラフィー宇宙観――タルボット『投影された宇宙』

つづいて書籍紹介~ マイケル・タルボットの『投影された宇宙』は、まえに『ホログラフィック・ユニヴァース』として出てたものの復刊ですね。これ、ニューサイエンス系としてはかなりの名著と言ってよかったが、しばらく入手不能になっていた。ホログラフィーによる宇宙モデルってのはデヴィッド・ボームでおなじみのものだが、それを発展させたもの。

もっともこういうニューサイエンス、つまり量子物理学から意識の問題までを統一したパラダイムとして構想するってのは、たしかに考えたくなるような魅力あるものではあるが、ケン・ウィルバーも指摘するように「カテゴリーエラー」ではないかという疑いを捨てきれない。

ただ、いまはもう「科学=唯物論」とはいえない、ということだ。科学から多次元的宇宙観を引き出すこともできる。つまり、「唯物論は科学的に見て正しい世界観だ」などという世間の妄想を正すということでは意味があるということだろう。科学自体は世界観ではなく方法論なので、どのような世界観にも結びつきうる。だから、唯物論ではない世界観で科学を解釈しようというのは「思想」のジャンルに属することである。そういう試みがニューサイエンスなのだ、ということになる。ひところほどははやってないですけどね。でもこのほかにアーヴィン・ラズロなんかの本もかなり出てきてはいる。

ともあれ、読むとかなり面白くはある本である。

4393366247投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待
マイケル タルボット Michael Talbot 川瀬 勝
春秋社 2005-04

by G-Tools

2006.08.06

玉城康四郎『ダンマの顕現』

玉城康四郎『ダンマの顕現』。そのままずばりの題名だが・・いや、これは名著ですよねえ。やっぱり。特に第一部の、著者の求道の記録にはかなり圧倒される。玉城先生のはいろいろ読んだが、これがいちばんすごいのではないかと思った。晩年になるほど深まっている。

体験記録がなかなか、生々しいものがある。
これでもまだ「解脱」ではない、と私は書いたが、いいかえれば解脱とはそれだけすさまじいものであるということ。
ダンマの顕現とは入口を見ることである、という考えは変わらないが・・それだけでもそのすさまじさは計り知れないのである。
まだまだ、これでいいと満足せずに自分の経験を深めねば・・と感じざるをえないですね。
玉城さんもう一冊読もうっと。

ダンマの顕現―仏道に学ぶ
玉城 康四郎
4804320148

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