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2006.08.07

光の世界――玉城康四郎『無量寿経』

つづいて玉城康四郎『無量寿経――永遠のいのち』これももう来まくりですね。これは単なる浄土経典の解説というにとどまらず、仏道の根本、いや宗教の根本まで到達している。(浄土三部経というのは、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つをいう)

阿弥陀仏とは「無限の光」「無限のいのち」という意味ですから・・そのものなのです。
圧倒的な光、光、光の世界である。要するに、その光をつかむことがすべてだ、ということ。こう書いてしまえば簡単だが、でもやっぱりそれしかないし、そこからしか始まらないのだ。

この本では、坐禅と念仏とが宗派的に分かれる前の根源のところをつかまえようとしているようだ。つまり禅定とは光を受け、光の中に入ることを指すことになる。

これは前にどこかで書いたことがあるが・・もうだいぶ前、私は図書館に行った。するとそこにはベートーベンの後期ソナタの何かが流れていた。その美しいメロディーを聴いているうち、なんとなく不思議な気分になってきた。気がつくと、その空間全体が何か「透明な光」に包まれているのを感じたのである。それは、肉眼で見える世界はそのままでありながら、その世界にぴったりはりつくようにして「光の世界」がある、という圧倒的な実感であった。そしてエネルギーの渦のようなものが螺旋形にぐるぐる回っているようにも見えた。そしてその光からは圧倒的な「愛のエネルギー」が放射されていたのである。そこで私は言いしれぬ幸福感、至福感に満たされてしまった。そこでまわりの本棚に目を向けると、ある一角が特に光っているように見えた。そこへ近づいてそこにある本を見ると、それは浄土三部経の本だったのである・・

というようなことを、浄土三部経といえば思い出す。これは、その当時からすれば一種の「神秘体験」であったには違いない。しかし今はまた微妙に違う。私にとって、その光の世界はもはや「特別」なものではないのである。私はその世界を、「呼び出そう」と思えば呼び出せるようになった。もちろんその強度はあまり強くないことが多いが、その世界は確実に私の世界の一部となっている。だからこれを神秘とはもう言えないのである。神秘といえば、生きていることのすべてが神秘に包まれているということにもなるわけだ。

どうやって呼び出すのかといえば、私の場合は禅定というより「念仏」系である。つまりある種の言葉というか、真言というか、そういうものである(南無阿弥陀仏ではない)。それを唱えていると光が到来して自分を射し貫くようになる。あるいは自分のエネルギー体がもっと大きな光に包まれるようにもなったりする。

ということであるので、私には、玉城先生が話していることはまったく「リアル」な世界であり、現実そのものだという理解ができるのである。ただそこには、これからの先の「無限の深まり」が続いているのだということもまた、予想できる。これからが本番である。

そこで玉城先生はまた一つ大事なことを述べている。それは、このような体験(それを「信心」と呼ぶわけだが)は、仏の側から「与えられるもの」だということである。つまり、なぜ私が光を受けることができるのかといえば、それは「宇宙からのギフト」なのだということだろう。キリスト教的にいえばアガペー(神の愛)によるのである。

『魂のロゴス』には、「イデーとは宇宙から贈られるものである」と述べてあるが、それはそういう意味であろう。「なぜこの真言(名号、題目でもよいが)によって仏とつながることができるのか」といえば、それはそのようなものとして仏が人間の世界に「下ろした」ものだからである。そのことを浄土教的にいうと「如来の本願力」による、ということになる。

信仰とはどういうことか・・それは、光のリアリティを感じ取れるような魂の感受力が育っていくということである。

ここで、「闇を無視しているのではないか」という異論が出るかもしれない。
たしかに闇も相対的には実在ではある。しかしながら、闇、闇といっているだけではただのたうちまわるだけで、何の出口もない。闇はどうせあるのだから、わざと潜在しているものまでつつき出すことはない。まずは光とつながる。闇を消すだけの力がついた分だけ、闇と向き合うことができる。闇というのは光に向かう過程で否応なく出てくるものだけつきあえばよいのだ。ことさらに闇を追い求めるのは間違いである。

上に書いたことは抽象的に聞こえるかもしれないが、きわめて「リアル」なことである。

ともあれ・・私には、道元なんかよりよっぽどこの念仏の世界のほうがわかりやすい。
実に、スピリチュアルな波動に満ちた本であった。

だから、思うが、宗教でいいではないか。ことさらに「宗教とは一切関係ありません」なんて気張った言い方をしている人やホームページをよく見かけるが、宗教と関係ないのは別に偉いことではない。宗教で問題なのは、一部にある「自分の宗教以外はすべて間違いだ」という困った考え方だが、もともと日本にはそういう宗教観は少数派だったのだ。その絶対主義がいやなのはわかるが、それと一緒に「信仰」まで捨ててしまってよいのか。
実際にはある特定の神仏との「ご縁」によって人は成長するものなのだ。
「信仰」を抜きにしてスピリチュアリティーを語ってやろうとするのは、「現代人向き」にしたつもりかもしれないが、逆に危うさを感じてしまう。
ほんとうはいちばん大切なことは「信仰」であるのだ。
それは根源的な「魂の気分」であり、上昇するためのエネルギーである。
まあ、そんなことを感じたのだった。

無量寿経―永遠のいのち
玉城 康四郎
4804325182

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