密教について考える
最近、密教に興味があり・・いまさらだが基本知識の確認として『図解雑学 密教』。このシリーズってなかなかあなどれないものがある。これも多方面の知識をコンパクトにまとめていて、買っておく価値あり。
ただ知識はあくまで知識である。この本の42ページには、いちばんかんじんな「即身成仏」について、「結局どういうことなのかよくわからない」というようなことが書いてあって、「なんじゃそりゃ?」という感じ。そもそもそういうことを知らない人が密教について語ってよいの? ま、学者とはそういうもんか・・正直なだけましかもね。「興味は尽きない」なんてのんきなこといってる場合じゃないんですよ。あなた、求道の精神が足りません!!(そこ書いたのは頼富さんじゃないと思うけどなあ)
とか、ぶつぶつ言ってしまったが、そういうことを何も期待しなければ知識の整理としては有益である。しかし、その本質については何も語っていない本だということも明白ではある。
それはそうと、レイキなどに接してみて、その密教との親近性に驚いた。ははあ、密教というのはこういうことだったのか、と徐々にわかって来た部分もある。
密教の本質は「伝授」にあるのだ。印や真言を「受け取る」。この受け取るというのは、ただ知るということではなくて、それなりの力を持った高僧によって授けられる必要がある。授ける者は、その真言に対応したある「エネルギー通路」を開くのだ。それによって、その真言に結びつけられた仏尊とのエネルギー的回路ができる。つまり、それは「こちら側」だけの問題ではなく、向こう側、仏尊たちの世界においてもある「システム」が作られている。そういう次元交通的なチャンネルが開かれるのだ。ブックスエソテリカの『印と真言の本』には、そういう伝授のことについて少し詳しく書いてあって、実はそれこそが密教のキモであるらしい、ということがわかってくる。
私が、「レイキとは密教的システムを大衆に開放したものともいえる」といっているのはそういうことだ。
しかし、そういう「伝授」の深層については、真言僧自身もあまり語っていない。現代の知的言語では語る言葉がないのか、あるいはかなり形骸化してしまっているのか。今でもどこかに「真の力を持った真言僧」はいるに違いないと思う。結局、密教というのはそういうホンモノの師匠について修行をするしか「わかる」ことはできないものである。本に書いてあることなんて全部表面にしかすぎない、って痛感する。一般人に可能な修行は「阿字観」くらいなものである。もっとも、真言密教の道場に入ればそういうことがわかるのか・・といえば、それは私はよく知らない。即身成仏はそう簡単にはできないでしょうけどね(たぶんそれはほとんど空海にしかできなかった)。修行システムとしてはチベット密教の「ナロパの六法」なんかのほうがすごいかもしれないという印象を受けるが、実際にやってみないことには確実なことは言えない。
司馬遼太郎の『空海の風景』とか、評判は高いが、私はおもしろくないと思う。というのは、すべてが「現代人の常識」からしか空海を見ていないからだ。霊的な修行が進んだ人間にはどのような世界が見えてくるのか、ということにまったく何の理解もないという立場から空海を見ればこうも見えるのか、ということでしかない。空海と恵果との出会いなど、深い霊的な原因があったはずだし。
こうしてみると密教の本質はきわめて「反時代的」なものだと思う。もろに出せばぶっ飛びとして退けられてしまう。これは時代があまりに反宗教的になり、「聖なる次元」を認めないためなので、密教の責任ではない。しかしそういう時代精神に妥協せずに「本当はこうだよ」というところを出していくだけの気概を期待したいのである。
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