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エネルギー保護

ここでいろいろな本とか紹介することがあるが、読む人が圧倒的に興味を示すのは「ハウツー」なんですね。つまり、具体的なスキルが書いてある本。そういうのを求めているみたい。

そういうのはセラピストなんかにもっと広まってほしいもんだが、実際にはほとんどスポンジ状態で、クライアントの邪気を吸い取ることが商売になっちゃってる人も現実にはいる。これって体を売ることに等しいので、あんまり感心しない。

「パーソナル・パワー」をこの前紹介したが、これはカーラさんの本のかわりとはならない。カーラさんの本に出ているスキルが出ているわけではないから。それと「パーソナル・パワー」はもう現実にかなりセンシティブになっている段階の人を対象にした本なので、初心者ではできないことが多いと思う。

エネルギー的保護をしたければ、いちばん簡単なのはオーラソーマのポマンダー、もしくはフラワーエッセンス系から出ているオーラ防御のスプレーである。それをまず使うことをおすすめしたい。これなら別にスキルはいらないのである。そこでまずベーシックな保護を確保して、ゆっくりとエネルギースキルを磨けばよいのではなかろうか。

スピリチュアルなワークをする場合も、自分のまわりに聖なる空間を作るということは重要なので、そういう目的にも効果的である。

決して、いちゃもんではなく

べつに諸富さんにケチをつけたいわけじゃないんだが・・諸富さんは認めているという前提で書くんですよ。(前々項「諸富祥彦『人生に意味はあるか』をめぐって」に関して)

やっぱり「あやしい」「あやしくない」と分けたがるところが気になった。そういうふうに諸富さんには思える、というのはいい。というのも「あやしい」と感じるということは、その人がその時点では近づかないほうがいい世界であるための反応であることも多いので、その意味では「あやしい」と感じることがその人にとっての真実であることがあるのは理解できる。だから問題は、そのあやしい・あやしくないを固定化させ、その判断基準を普遍化・正当化しようとする欲求である。こういう欲求については十分にチェックしていく必要があると私は思うのである。

たとえば『人生に意味はあるか』で、江原さんについて、「変性意識状態でのリアリティに対して、それを実体化して言っているのは問題である」とか書いているが、これはちょっと詭弁ぽい。というのは、実際にそこに見えてしまったら、見えているものを「ある」と言うのは当然だろう。それを言うなら日常意識状態で見たものだって、そこに椅子があるとかペットボトルがあるとか実体化して言ってはならないことにならないか。つまり「そこにあるように見えても、実際にそれが実在すると断言することは誤りである。なぜならすべて実体として見えるものは、主観性と結びついたクオリアの作用により認識カテゴリーが成立しており、所与の感覚像をそのカテゴリーと合致させるという意識の作用によって実在しているように見えるのであり、したがってこれを客観的に実在していると考えることは物象化的錯視と言わねばならない」という理屈を言うこともできるのである。わざとこんな書き方をしたが(笑) 要するに、見えてしまっているものを「ある」と言って悪いというなら、それは変性意識レベルだけでなく日常意識レベルだって同じことなのである。だから江原さんが言ってることはすべて、そのことばの前に「これは変性意識状態で知覚できるリアリティとしてあるという意味であって、日常世界のものと同じ意味で実在するという意味ではないのですが」という注釈をつけた上でのことばだと思えばいいということである。しかしそんなことを江原さんが言うのを期待するのはへんですね。それは諸富さんのように現象学を勉強した学者が注釈すればよいことであって、江原さんにそれを求めてはいけません。ただ見えたものを「ある」と言ってるだけの話なのだから。現象学の原理的なところからそれを批判するのはカテゴリーエラーの議論である。つまりここでは、江原さん的世界と距離を取りたいという諸富さんの心性が、そういう理にかなわない理屈を言わせているように私には読めたということである。つまり心理学者としてはそこに自分自身の心の抵抗が現れていることを自覚すべきじゃあなかっただろうか、と思う。

臨死体験にしても変性意識体験であるが、それに共通したパターンがあるということは、人間の基本的な性質として、条件が合えばある程度同じようなものを「見る」可能性がある、ということを意味する。それはユング的に言えば元型だろう。つまり変性意識での認識もまた、人間の認識能力の一部なのであって、それはノーマルなことだということになる。そういう変性意識的認識レベルでの普遍性を研究するのもトランスパーソナル心理学の役割じゃあなかっただろうか。

とはいっても、この「見る」ということを「変性意識」という言い方でいうのも、今ひとつしっくりしないところではある。変性意識というとトランスを連想させるが、別にトランス状態にならなくても見るということはあるからだ。日常意識的に覚醒していながら、意識のまた別の領域で何かを知覚しているという感覚なので、むしろ感覚器官の拡張という実感のほうが強いのである。「拡張された知覚作用」というほうが正確だろう。ウィルバーもそういう言い方をしていたが。「知覚作用が拡大することによって世界空間が拡張される」このウィルバーの表現はわりと正確である。もっともこれは、モナド論を拡張すればだれでも思いつくことではある。

安田靫彦

いや~(なんか、最近この書き出しが多いが)

絵の本をいろいろ見ていて、圧倒的な波動の高さを感じたのは、安田靫彦(やすだゆきひこ)の絵である。

しばらく黙って眺めていると、しーんと心が静まってきて、聖地へ行ったような高い波動に圧倒される。

たとえば役行者の絵や、五合庵の良寛を描いた絵など、その霊波動を感じると、「ここはどこ?」の状態になる(つまり、いつのまにか天界に行ってる気分になる)。

画集を見ただけの話だが、その高さは、イタリア・ルネサンスの作品にも引けを取らないといっていいほど。

もちろん他にも、霊的波動を感じるのは、近代日本画にはたくさんある。
横山大観は、まさに神道そのもの。あれは伊勢神宮のような波動である。大観のすごさは言語を絶する。
その他には、村上華岳なども推奨する。特に有名な菩薩像は、ジョルジョーネのヴィーナス像と比較されるのも決して大げさではない。

他にもいろいろあり、日本的霊性を純粋に表現した作品群は、近代日本画に多いということは知っておいてもらいたいことである。


4055000553巨匠の日本画 (7) 安田 靫彦
安田 靫彦
学習研究社 2004-11-17

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諸富祥彦『人生に意味はあるか』をめぐって

諸富祥彦さんの『人生に意味はあるか』(講談社現代新書)。
いや~ 面白かったですよ。
こちらの本ではすごい熱気で、熱く語りまくってますね。そこまで自分をさらけ出して語ってしまうというのはある意味アッパレというか・・

もちろん私は、諸富さんに人生の意味を教えてもらおうと思って読んだわけではない(笑) 当然、諸富さんも、そんなことは人に教えてもらうことはできないことは百も承知。

私は、人生の意味などということを人に語ることがいかに難しいものであるかを痛感しているので、大胆にもそういう本を書いてしまっている人は、いったいどのような語り方をしているのか? そこを参考にしたいと思ったのが読んだ動機である。

その点では、なるほどね~ という感じだった。とにかく熱いですね。
人生の意味に苦悩するなんてことは今時まったくはやらないのだが、とにかく徹底的にそういう人の味方をする。その辺はやっぱりカウンセラーの資質である。

人生の意味は言語で表すことはできない。人生の意味は「目覚める」ものであり、体験からしかやってこない。
そこで最終章では自分の体験を語る。苦悩の末に、自分を超えたある大きな生命の存在に気づいたという体験がつづられる。
つまり、「人生の意味に悩むのは悪いことではない。その苦悩の末に目覚めるという体験があるものなのだ」というのが諸富さんのメッセージである、と理解した。

ところで「SHさんて諸富さんのこと嫌いなんじゃなかったの?」と思っている人があるかもしれないが、そんなことはない。考え方の違うところははっきり言うが・・ 特にこの『人生の意味』では、彼なりの「このように生きようという魂の意志」を感じることができるし、その誠実さには感銘を受ける。

というわけで諸富さんの知り合いがここを読んでいたら、「SHさんが褒めてましたよ~」と伝えてもらいたいのである。

諸富さんは、死後の世界とか、生まれ変わりについては、かなり慎重な見方をしている。
そのようにも解釈できる体験が、変性意識状態において生じることは、もちろん認めている。諸富さんがそれに距離を置きたいのは、彼が自分でそのようなリアリティを体験しているわけではないからである。自分が体験できていないものについては、わからないと言うべきである、というのは一貫した姿勢であろう。

141ページ以降に、飯田史彦さんの話を聞いた女子学生のコメントについて語られている。
「たとえ先生の話が、まるっきり嘘だったとしても、私は今後も信じて生きたいと思います。死後の生命や生まれ変わりを信じたほうが、これからの人生を、有意義で生き生きと送れるにちがいないからです」

諸富さんは、この話に衝撃を受けている。自分にはとてもそんな発想はありえない、と。そして、こう言っている。

ここでは、「生まれ変わり」はある種の防衛装置、人生を前向きに生きていくための、一種の「目隠し装置」として機能しているとは言えないでしょうか。 未知に囲まれ、それゆえ、不安に脅えるのが私たちの人間の本質です。たとえ「生まれ変わり」を信じているとしても、「もし、生まれ変わりがないとしたら……」「死が、文字通り、一切の終わりを、永遠の無を意味しているのだとしたら……」、そんな、「未知の世界への畏れの感覚」を麻痺させてしまってはならないと、私は思います。p.143
これは諸富さんの個人的な感覚に発するものである。それはそれで、自分の感覚に忠実であるのはよいことだが、この女子学生のコメントに関しては、そのコメントが発せられた心性を、諸富さんは理解できていないようにも感じた。

私は上のコメントについて、彼女の次のような感覚から発せられたものではないかと感じた。

「その生まれ変わり説が、合理的に正しいという根拠はないということは、私は知的には理解している。それでもなお、その考え方が私の魂に与えた強い印象を、私は否定することはできない。それが正しいかどうか証明できなくても、私はその話に何らかの『魂の真実』が含まれているように感じる。だから、そのヴィジョンに基づいてこれからの生を送ることができるのだ」

つまりこれは、「神話的感性」なのである。彼女は、生まれ変わり説を「神話」として受け止め、その神話で自分は生きることができる、と言っているのである。その話には、魂を深く揺り動かす何かが含まれている。その「何か」のことを、『魂のロゴス』という本では「イデー」として語っているのである。つまり神話とは、合理的知性では荒唐無稽にしか思われなくても、何かしら強いインパクトを持つものである。

諸富さんは、その「未知への畏れの感覚」をひじょうに強く持っているという個人的な性質によって、その女子学生のコメントの裏にある魂の感覚まで理解することができなかったのではないかと感じた。

私は上の彼女が、その魂へのインパクトを感じると同時に、それが客観的に正しいと証明できない「神話」としての性質を持つのだということまで自覚しているという知性の高さにも驚いたのである。

諸富さんのように、自分に理解できないことはわからないとして、そういう話から遠ざかるのも一つの見識であり、立派なことであると思う。
ただそれを「ほんもののスピリチュアリティー」だとして、神話的物語を生きようとすることを「にせもの」だと価値を低く見るのは、バイアスであると思う。自分にはわかりません、と言ったらわからないということを貫くのがよいのであって、「わからないという態度をとることが正しい」というふうに自分を正当化する理屈をつけようとすることは、また別の危険性がつきまとうことも自覚すべきである。

私は諸富さんのような立場を「理神論的スピリチュアリティー」と呼ぶ。理神論というのは、高次のリアリティを、一種の非人格的な原理的なものとしてのみ認めようという思想的立場である。その意味で諸富さんの書き方は、思想的にいえば八木誠一、門脇佳吉などとほぼ同じ構造である。これは近代日本のスピリチュアル系哲学としてはオーソドックスである。このような見方を取るのは、基本的に、その当人の体験の性質に基づいている。つまり、ある高次次元の実在を経験したが、パーソナルで相対的に独立した意識存在について変性意識で経験することはない。早く言えばアストラル界(ウィルバー、ヒューストン・スミス的にいえば「微細界」だが)の経験が少ない人は、理神論的な立場になりやすい(また、多少はあってもそれを「魔界」としてネガティブに見るという禅の伝統の影響を受けている場合もある)。こちらはあまり「あやしくない」し、知的にも受け入れられやすい。

これに対してもっと「あやしい」のもある。
諸富さんは「あやしいけれど有益なのもある」と言って、江原さんや「神との対話」もけっこうおもしろがって読んでいるらしい。どうもそこにはちょっと対抗意識が見え隠れしているが・・

「あやしい」とされているのを一言でいうと、人間と究極的実在との間にある「中間的知性」が重要な意味を持っている神話体系を据えたスピリチュアリティーのことである。中間的というのはつまり人間よりも高次だが絶対的な次元ではないという、要するに守護霊やマスター、天使、キリスト、如来、菩薩なんていう存在のことである。そうした高次存在のサポートによって人は成長の道を歩むのだ、というのが伝統的な宗教の神話であった。現在は、伝統宗教の枠が解体され、新たな神話体系が構築され直され、そこにこうした天使、マスターたちが新たな位置を占めるに至っている。つまりここには「有神論的スピリチュアリティー」が成立している。これは「神話的」と言ってもいい。

中にはそれを「文字通りの真実」だと誤解している人もいるかもしれない。しかし、よく読めば、いかにとんでもないぶっ飛び神話を語っているアセンション本のたぐいにしたって、みな「これは文字通りの真実ではない」ということは前提として語られている、と私は理解している。つまり、「そのようなイメージを受け取ることが、現時点においては、魂の成長にとって有益である」というものとして、それは与えられているものである。地球が進化すればまたその神話イメージは違ったものになろう。それが真実だとすれば、それはいま・ここで私が何かを魂に感じたということにおいて真実なのであって、それ以外に真実は、明示的に語られるものとしては存在しないのである。その意味では「すべては方便」なのである。守護霊もマスターも、変性意識的リアリティとしては実在するとも言えるが、それさえも、もっと高次の視点から見れば方便であって、本当は実在していないともいえる。究極的に言えばすべては実在していない。究極においてはすべて「無」なのだと、いったんすべてを「無」で切っておくという仏教的視点を入れておくのは有益だ。いっさいの本質は無なのだ、と切って、そこで、如来の方便として、つまり仮の姿としてマスターや天使の守護もあるのだ、ということになる。

諸富さんは「神話を生きようとする」という感性をよく理解できないようであるが、それがこうした有神論的スピリチュアリティーへの理解を阻んでいるように感じられた。神話ということはユング心理学からは必ず出てくる視点であるはずだが、諸富さんはユング的な感性の人ではないようである。究極的には「嘘」であるからと言って、その魂的な真実性が失われるわけではない。どうして諸富さんは「嘘かもしれないけどそれを信じられる」ということの「魂的な感覚」がわからないんだろうか。それは彼の資質から来るものだろうと思う。青年期には、絶対的に確実な答えを探して煩悶したということだから、そのようなスタイルで生きる人だというのは、変えようがない。だから責めるつもりは全くない。

私は、現代人にも受け入れられる「普遍神話」を作ることも必要だろうと思っている。あるいは「普遍神学」とも言う。前著で試みられたのはそういうことである。「神学」というとイメージだけではなく多少は論理的整理というのが入ってくるが。

ユングが神話を重視したのは、神話には、ふつうの知性を超えた叡知に発するものがある、という直感があったからである。つまり、神話とは、人間のぼろい頭だけで考え出したものではない。「人間を超えたもの」から、人間が何かを受け取ったものが、そこに表現されているのだ、とユングは考えたはずである。それは宇宙からの贈り物なのである。

たとえば、阿弥陀如来の念仏というのがある。阿弥陀如来とは実在するのだろうか。それは人間の知性では判断しがたい。本当はないのかもしれない。しかし、私が阿弥陀さまを信じるとき、そこに何か魂を明るくするものが生じるという魂的な事実が存在する。ということは、阿弥陀様というヴィジョンは、宇宙から私に贈られているものなのである。阿弥陀様というのは究極的実在からすれば幻影であるが、「私が阿弥陀様を信仰するという事態がそこに生じたこと」それ自体が、人間知性を超えた名づけようもない宇宙の深部から私に贈られているものなのである。これが「イデーを受け取る」ということの意味である。私が阿弥陀如来を信じられるのであれば、阿弥陀如来が幻影であっても関係はない。それは「永遠なるものの象徴」なのである。

宇宙を貫いて流れている生命力。
それは自然を貫き、人間をも貫いている。
その宇宙的な力が人間を貫くとき、何がそこにあふれ出てくるのか。
神話的イマージュは、そのような深みから発生する。
その意味でこのような「普遍神話」は、アートとしてのみ成り立ち得るだろう。

自然科学で語られる宇宙ヴィジョンは、精神的な側面を欠いている。
宇宙の中で、人間のみが自らを意識する存在であるなんて、いったいどこで証明できるのだろうか。そんなに疑わしい話はない。宇宙すべてをくまなく見たわけでもないのにわかったような顔で言うのはやめてもらいたいのである。
私たちは一人一人、自分の真実に基づいて宇宙ヴィジョンを描く権利がある。それを「証明」しなければならない義務などない。ただ人のヴィジョンを抑圧しなければよいのである。もし「おまえのは間違っている」と言いたいのであれば、それはそれなりの根拠を示さねばならないだろう。

死後世界情報として今いちばん詳しいのはマイケル・ニュートンの二冊の本だろうが、あれも、私は「文字通りの真実」としては見ていない。あくまで、今の人類にとって、そのような情報がもたらされるのには何らかの意味があるのだろう、というふうに受け止めている。それは、あくまで、現時点での地球人が理解できるという範囲内で語られているものである。その意味では神話である。問題は本物の神話かということだ。というのは、それは人間が頭で作ったものか、それとももっと遠いところ、高いところから贈られてきたものか、という見分けのことである。

「生まれ変わりと魂の進化、地球の神化」とは、人間の新しい神話である。実際、これまでは「生まれ変わり」は東洋、「魂の進化・地球の神化」はキリスト教と、別々に伝承されていた「イデー」が結合して、新たな神話体系が生み出されたのである。そのようなことを100年前にシュタイナーは予見していた。これは神話であり、証明不可能である。一つのアートとして受け止め、魂に何かを感じればよいのである。感じるなら、それはあなたにとって真実である。これは言うまでもなく、一度は、「すべては無だ」と切って、「文字通りの真実」がないことを確認した上のことである。

最後に念のため言っておくが、私はこの『人生に意味はあるか』をかなり褒めたつもりである。お忘れなく・・

写真に写っている帯には、「これが答えだ!」なんて書いてあるが、もちろん答えは書いてません(笑)
諸富さん、この帯には苦笑しているでしょうね。「やられたな~」とか。

「人生の意味について考えるとはどういうことか」を考えるのには(ややしこいが)とてもよい本である。

4061497871人生に意味はあるか
諸富 祥彦
講談社 2005-05-19

マーク・ロスコとオーラソーマ

美術のことをいろいろ見ていて、マーク・ロスコという現代の画家を知った。この絵、写真を見てもわかるように、色が二層か三層に塗り分けてあるというシンプルなもの。

一見して、これってオーラソーマのボトルみたいじゃない? と思ってしまった(笑)

抽象絵画というものについての解説書は山ほどある。いくつか目を通してみたが、要するに「見えない次元を描きたい」ということなのだと思う。つまりは、美術が純粋な「波動媒体」になるということだ。そう考えれば、オーラソーマと似ているのも偶然ではない。オーラソーマというのは純粋な色の波動エネルギーのエッセンスなのであるから、ロスコみたいな抽象絵画と本質的に似ていても不思議ではない。

ロスコの現物は、千葉県佐倉市の川村記念美術館にたくさんあるらしい。

4887832265マーク・ロスコ―1903-1970
ヤコブ・バール=テシューヴァ
タッシェン・ジャパン 2004-08


抽象絵画と神秘主義思想との関連は、カンディンスキー以来あることである。
研究家はいろいろ言うが、これの本質に踏み込むためには、そもそも「色」や「形」というのは人間の魂にとって何なのか、という根本に踏み込まないとわかってこない。だから、シュタイナーの色彩論とか、そういうのをやっていかないといけないのだが、ふつうの美術評論家にはそこはオフリミットだから、どうも話がずばっと斬りこんでいかないもどかしさが残る。

ラズロの「叡知の海・宇宙」

もう一冊はこれ。

4531081447叡知の海・宇宙―物質・生命・意識の統合理論をもとめて
アーヴィン ラズロ Ervin Laszlo 吉田 三知世
日本教文社 2005-03


最近はあんまりはやっているというものではないが、「パラダイム・シフト本」である。
量子論のノンローカル性の議論など、科学でのノンローカル・パラダイムの進展に目配りしている。
一時期かなり出てその後下火になっているニューパラダイム論だが、まだ少しずつ出版されているようだ。

原題は「科学とアカシックな場――万物の統合理論」。「アカシックな場」とは言ったもんだ。
ラズロが描くのは、科学的語彙を交えた、「根源的生命エネルギー場」の宇宙ヴィジョンである。すべてはその根源的な生命場の運動である。ラズロの文章には詩的な美しさがみられる。

これはウィルバー的な認識カテゴリー論を厳密に適用するとカテゴリーエラーということになるかもしれないのだが、科学の話を織り交ぜると一般の人に対する説得力はかなり違う。これは身をもって感じるところである。

一方では科学的知識を一切、デカルト的懐疑にかけ、今ここにおいて絶対確実な「私とその経験」だけから出発して意識と万物の成立を解き明かす哲学の立場に美しさを感じるが、こちらのアプローチはほとんどの人には理解できないという致命的な難点がある(笑)

ラズロのこの本は、マイケル・タルボットの「投影された宇宙―ホログラフィック・ユニヴァースへの招待」や、マクタガートの「フィールド 響き合う生命・意識・宇宙」と同じような感じだが、こういう情報が少しでも多くメディアに露出していけばシフトが早まるだろう。量子論を参照しつつ新しい世界ヴィジョンを描くということではこの三点がオススメである。まあ、カプラの「タオ自然学」に始まる路線ではある。知っている人は知っているが、知っている人の数はなかなか増えない。

ただ、ノンローカルということは非物質領域に共通した特性なので、ノンローカルな諸領域においても階層性があるということを言わないと宇宙モデルとしては完結しないと思う。言ってみればモンローの言うフォーカスレベル。そこまで言わないと、「探求者」たちにとってはプラクティカルではない。もうそういう時代になっている。

"気"の心理臨床入門

今年度中に使わないと消滅するという危機にある予算がいくらかあって、あわてていろいろ買いこんでいるが、その中にこんなのがあった。

4791106083“気”の心理臨床入門
黒木 賢一
星和書店 2006-09


まだよく読んでないけど・・気功と心理臨床を組み合わせるやり方がいろいろのっている。
最近はこんなのもあるのね~ しかも黒木さんは名前だけは知っていたがいつの間にか大学教授になっている。この程度のことは認められる世の中になっているということを意味する。

こういうのは今までなかったのが不思議なくらい・・東洋の身体技法の文化の豊穣さを思えば、ただミンデルのマネばっかりしているのではなく、ミンデル的なものがすでに東洋にはあるじゃないか、と気がつくのは当然のことだろうと思う。

私がやっていることは気功よりもあと数歩先のことだが、もういろいろとオープンにしてもいい時代になっているかもしれない。

いろいろ癒し系

最近、水もアラスカにしてしまった。「アラスカ・グレイシャー・キャップ」という氷河湖の水というのを試している。通販でしか買えないし、他のものより少しばかりお高いが・・ まあアラスカ波動ですからね。

さらにアラスカのスペースクリアリングのスプレー、それとオーラソーマのホワイトポマンダーエアコンディショナーを浄化や波動調整に使っている。ただ、アラスカのピュリフィケーションとホワイトポマンダーはだいたい効果は同じみたいなので両方はなくてもいいかも。

クイントエッセンスのサンプルセットがあるが、クイントエッセンスをちょっと変えるとかなり波動を変えられるのでおもしろい。ポマンダーのセットもそろえるともっと遊べそうだが。

「癒し」というものの根源にあるのは、聖なる次元と接続したいという欲求である、ということはますます明確になってきた。

この前の、マクラレンさんの本で出ていたバラの花を置くというテクニックは、どうもミステリーサークル、つまり西洋神秘学系のところから来ている技法らしいことがわかった。これについてももう少し調べてみたい。

江原啓之「神紀行」シリーズ

ひきつづき、江原さんの神紀行、他の巻も買ってしまった。まあ、最近あんまり読むものがないというのもあるんだけど・・ 分量的には少ないので根性ある人は立ち読みでも読めないこともない。ただ神社の写真などが、けっこう波動を伝えるので、そういうエネルギー的な効力もあわせてという意味。

出ている神社はほとんど行ったことがあるので、その時のよい波動とかを思い出すと、あらためて「ご神徳」というもののありがたさが身にしみる。

私の産土は氷川神社である。生家は氷川神社から徒歩10分くらいのところにあった。その境内の写真もあったが子供のころからなじんだ風景である。氷川神社の摂社の宗像神社が特別だと書いてあり、「あらら」と驚く。私は氷川神社で「このみくじにあう人は宗像の神を信心すべし」というおみくじを連続三回引いて、本家の九州の宗像大社まで参拝に行ったこともある。この氷川の宗像のあたりは池のほとりにあり、スペシャルな気場なのである。

関東・中部編では、諏訪大社・前宮の社殿近辺が強力なサンクチュアリだと出ていて、私が行った時に感じたのとまったく同じだった。その写真もこのエネルギーをかなり伝えると思う。

しかし・・このシリーズは、あくまで江原さんが神社を回るとこんな感じですよ、という気分を味わうもので、「聖地ガイド」としてみると情報は少ないというべきだろう。

江原さんは出雲の須佐神社を戸隠とならぶナンバーワンとしているが、これも、江原さんがスサノオノミコトの系統だからというのがたぶんに入っているような気がする。

東京の神社でももっぱら江原さん個人にゆかりがあるものが中心で、東京の聖地なら当然入れるべき明治神宮は入っていないし、関東周辺でも三峯、御嶽、高尾山を入れるのが、聖地ガイドとしては当然だろう。

ややマニアックには、氷川ならいっしょに「氷川女体神社」も行くとか・・

聖地ガイドとして使うにはのってる神社が少なすぎだというのは基本的にあって、出版社営業的な「水増し」もやや感じられるが、お金をけちらない人は持ってて損はないという感じだろう。
聖地ガイドならいまはWEB上にたくさんある。

江原さんが一貫して説くのは「信仰心」の大切さである。
これは、現世利益ではなく、神霊の高い波動に心を合わせるという意味である。

あと、産土と氏神の神社を大切にというのは山田雅晴さんと同じである。


4838716249江原啓之神紀行5 関東・中部
江原啓之
マガジンハウス 2006-12-05


聖地巡礼本

ひさびさに聖地巡礼本買っちゃったが・・最近この種のものといえば、江原本ですかね。

九州はまだ行っていないので、九州編を・・ でもこの本はいいわ。本自体にもある程度聖地のエネルギーが入ってるみたいな気持ちよさが含まれているようで。江原さんも神さまへの信仰のあり方とか、いいことを書いているので、全体として波動高いですかね。

ただ難点は、ちょっと値段が高いこと。全巻そろえると6000円以上ですからね。二冊分くらい合本にして、1400円くらいの値段にしてもいい気がするけれど・・ でも私は他の巻も買うかもね。

4838716230江原啓之神紀行4 九州・沖縄
江原 啓之
マガジンハウス 2006-06-30

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この手のものとしてこれ以前は、山田雅晴の「神々の聖地」などがあった。
こちらもおすすめ。

488481956X神々の聖地 癒しと再生の旅ガイドブック―聖地で日本の神話を読み直す旅
山田 雅晴
たま出版 1997-07

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ただこの著者の、最近の「神社ヒーリング」ていうのは、どうも表紙の写真がこわいんだが・・
何に由来するのかはわからない。数年前から、著者の波動が少し変わっていることはたしかなようだ。
悪いとはいってない。もしかすると私が受け入れる準備のない何かがあるのかもしれないし。
そういうことは、性急に結論を出さなくてもよいのだ。

聖地巡礼といえばWEB上では Diviner さんのHPなども人気らしい。私の周囲にも Divinerさんの巡礼ツアーに参加している人が少しいるし。Divinerさんとは何年も会っていないが、HPを見ると前よりもずっと波動が繊細になっているみたいである。

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