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決して、いちゃもんではなく

べつに諸富さんにケチをつけたいわけじゃないんだが・・諸富さんは認めているという前提で書くんですよ。(前々項「諸富祥彦『人生に意味はあるか』をめぐって」に関して)

やっぱり「あやしい」「あやしくない」と分けたがるところが気になった。そういうふうに諸富さんには思える、というのはいい。というのも「あやしい」と感じるということは、その人がその時点では近づかないほうがいい世界であるための反応であることも多いので、その意味では「あやしい」と感じることがその人にとっての真実であることがあるのは理解できる。だから問題は、そのあやしい・あやしくないを固定化させ、その判断基準を普遍化・正当化しようとする欲求である。こういう欲求については十分にチェックしていく必要があると私は思うのである。

たとえば『人生に意味はあるか』で、江原さんについて、「変性意識状態でのリアリティに対して、それを実体化して言っているのは問題である」とか書いているが、これはちょっと詭弁ぽい。というのは、実際にそこに見えてしまったら、見えているものを「ある」と言うのは当然だろう。それを言うなら日常意識状態で見たものだって、そこに椅子があるとかペットボトルがあるとか実体化して言ってはならないことにならないか。つまり「そこにあるように見えても、実際にそれが実在すると断言することは誤りである。なぜならすべて実体として見えるものは、主観性と結びついたクオリアの作用により認識カテゴリーが成立しており、所与の感覚像をそのカテゴリーと合致させるという意識の作用によって実在しているように見えるのであり、したがってこれを客観的に実在していると考えることは物象化的錯視と言わねばならない」という理屈を言うこともできるのである。わざとこんな書き方をしたが(笑) 要するに、見えてしまっているものを「ある」と言って悪いというなら、それは変性意識レベルだけでなく日常意識レベルだって同じことなのである。だから江原さんが言ってることはすべて、そのことばの前に「これは変性意識状態で知覚できるリアリティとしてあるという意味であって、日常世界のものと同じ意味で実在するという意味ではないのですが」という注釈をつけた上でのことばだと思えばいいということである。しかしそんなことを江原さんが言うのを期待するのはへんですね。それは諸富さんのように現象学を勉強した学者が注釈すればよいことであって、江原さんにそれを求めてはいけません。ただ見えたものを「ある」と言ってるだけの話なのだから。現象学の原理的なところからそれを批判するのはカテゴリーエラーの議論である。つまりここでは、江原さん的世界と距離を取りたいという諸富さんの心性が、そういう理にかなわない理屈を言わせているように私には読めたということである。つまり心理学者としてはそこに自分自身の心の抵抗が現れていることを自覚すべきじゃあなかっただろうか、と思う。

臨死体験にしても変性意識体験であるが、それに共通したパターンがあるということは、人間の基本的な性質として、条件が合えばある程度同じようなものを「見る」可能性がある、ということを意味する。それはユング的に言えば元型だろう。つまり変性意識での認識もまた、人間の認識能力の一部なのであって、それはノーマルなことだということになる。そういう変性意識的認識レベルでの普遍性を研究するのもトランスパーソナル心理学の役割じゃあなかっただろうか。

とはいっても、この「見る」ということを「変性意識」という言い方でいうのも、今ひとつしっくりしないところではある。変性意識というとトランスを連想させるが、別にトランス状態にならなくても見るということはあるからだ。日常意識的に覚醒していながら、意識のまた別の領域で何かを知覚しているという感覚なので、むしろ感覚器官の拡張という実感のほうが強いのである。「拡張された知覚作用」というほうが正確だろう。ウィルバーもそういう言い方をしていたが。「知覚作用が拡大することによって世界空間が拡張される」このウィルバーの表現はわりと正確である。もっともこれは、モナド論を拡張すればだれでも思いつくことではある。

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