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諸富祥彦『人生に意味はあるか』をめぐって

諸富祥彦さんの『人生に意味はあるか』(講談社現代新書)。
いや~ 面白かったですよ。
こちらの本ではすごい熱気で、熱く語りまくってますね。そこまで自分をさらけ出して語ってしまうというのはある意味アッパレというか・・

もちろん私は、諸富さんに人生の意味を教えてもらおうと思って読んだわけではない(笑) 当然、諸富さんも、そんなことは人に教えてもらうことはできないことは百も承知。

私は、人生の意味などということを人に語ることがいかに難しいものであるかを痛感しているので、大胆にもそういう本を書いてしまっている人は、いったいどのような語り方をしているのか? そこを参考にしたいと思ったのが読んだ動機である。

その点では、なるほどね~ という感じだった。とにかく熱いですね。
人生の意味に苦悩するなんてことは今時まったくはやらないのだが、とにかく徹底的にそういう人の味方をする。その辺はやっぱりカウンセラーの資質である。

人生の意味は言語で表すことはできない。人生の意味は「目覚める」ものであり、体験からしかやってこない。
そこで最終章では自分の体験を語る。苦悩の末に、自分を超えたある大きな生命の存在に気づいたという体験がつづられる。
つまり、「人生の意味に悩むのは悪いことではない。その苦悩の末に目覚めるという体験があるものなのだ」というのが諸富さんのメッセージである、と理解した。

ところで「SHさんて諸富さんのこと嫌いなんじゃなかったの?」と思っている人があるかもしれないが、そんなことはない。考え方の違うところははっきり言うが・・ 特にこの『人生の意味』では、彼なりの「このように生きようという魂の意志」を感じることができるし、その誠実さには感銘を受ける。

というわけで諸富さんの知り合いがここを読んでいたら、「SHさんが褒めてましたよ~」と伝えてもらいたいのである。

諸富さんは、死後の世界とか、生まれ変わりについては、かなり慎重な見方をしている。
そのようにも解釈できる体験が、変性意識状態において生じることは、もちろん認めている。諸富さんがそれに距離を置きたいのは、彼が自分でそのようなリアリティを体験しているわけではないからである。自分が体験できていないものについては、わからないと言うべきである、というのは一貫した姿勢であろう。

141ページ以降に、飯田史彦さんの話を聞いた女子学生のコメントについて語られている。
「たとえ先生の話が、まるっきり嘘だったとしても、私は今後も信じて生きたいと思います。死後の生命や生まれ変わりを信じたほうが、これからの人生を、有意義で生き生きと送れるにちがいないからです」

諸富さんは、この話に衝撃を受けている。自分にはとてもそんな発想はありえない、と。そして、こう言っている。

ここでは、「生まれ変わり」はある種の防衛装置、人生を前向きに生きていくための、一種の「目隠し装置」として機能しているとは言えないでしょうか。 未知に囲まれ、それゆえ、不安に脅えるのが私たちの人間の本質です。たとえ「生まれ変わり」を信じているとしても、「もし、生まれ変わりがないとしたら……」「死が、文字通り、一切の終わりを、永遠の無を意味しているのだとしたら……」、そんな、「未知の世界への畏れの感覚」を麻痺させてしまってはならないと、私は思います。p.143
これは諸富さんの個人的な感覚に発するものである。それはそれで、自分の感覚に忠実であるのはよいことだが、この女子学生のコメントに関しては、そのコメントが発せられた心性を、諸富さんは理解できていないようにも感じた。

私は上のコメントについて、彼女の次のような感覚から発せられたものではないかと感じた。

「その生まれ変わり説が、合理的に正しいという根拠はないということは、私は知的には理解している。それでもなお、その考え方が私の魂に与えた強い印象を、私は否定することはできない。それが正しいかどうか証明できなくても、私はその話に何らかの『魂の真実』が含まれているように感じる。だから、そのヴィジョンに基づいてこれからの生を送ることができるのだ」

つまりこれは、「神話的感性」なのである。彼女は、生まれ変わり説を「神話」として受け止め、その神話で自分は生きることができる、と言っているのである。その話には、魂を深く揺り動かす何かが含まれている。その「何か」のことを、『魂のロゴス』という本では「イデー」として語っているのである。つまり神話とは、合理的知性では荒唐無稽にしか思われなくても、何かしら強いインパクトを持つものである。

諸富さんは、その「未知への畏れの感覚」をひじょうに強く持っているという個人的な性質によって、その女子学生のコメントの裏にある魂の感覚まで理解することができなかったのではないかと感じた。

私は上の彼女が、その魂へのインパクトを感じると同時に、それが客観的に正しいと証明できない「神話」としての性質を持つのだということまで自覚しているという知性の高さにも驚いたのである。

諸富さんのように、自分に理解できないことはわからないとして、そういう話から遠ざかるのも一つの見識であり、立派なことであると思う。
ただそれを「ほんもののスピリチュアリティー」だとして、神話的物語を生きようとすることを「にせもの」だと価値を低く見るのは、バイアスであると思う。自分にはわかりません、と言ったらわからないということを貫くのがよいのであって、「わからないという態度をとることが正しい」というふうに自分を正当化する理屈をつけようとすることは、また別の危険性がつきまとうことも自覚すべきである。

私は諸富さんのような立場を「理神論的スピリチュアリティー」と呼ぶ。理神論というのは、高次のリアリティを、一種の非人格的な原理的なものとしてのみ認めようという思想的立場である。その意味で諸富さんの書き方は、思想的にいえば八木誠一、門脇佳吉などとほぼ同じ構造である。これは近代日本のスピリチュアル系哲学としてはオーソドックスである。このような見方を取るのは、基本的に、その当人の体験の性質に基づいている。つまり、ある高次次元の実在を経験したが、パーソナルで相対的に独立した意識存在について変性意識で経験することはない。早く言えばアストラル界(ウィルバー、ヒューストン・スミス的にいえば「微細界」だが)の経験が少ない人は、理神論的な立場になりやすい(また、多少はあってもそれを「魔界」としてネガティブに見るという禅の伝統の影響を受けている場合もある)。こちらはあまり「あやしくない」し、知的にも受け入れられやすい。

これに対してもっと「あやしい」のもある。
諸富さんは「あやしいけれど有益なのもある」と言って、江原さんや「神との対話」もけっこうおもしろがって読んでいるらしい。どうもそこにはちょっと対抗意識が見え隠れしているが・・

「あやしい」とされているのを一言でいうと、人間と究極的実在との間にある「中間的知性」が重要な意味を持っている神話体系を据えたスピリチュアリティーのことである。中間的というのはつまり人間よりも高次だが絶対的な次元ではないという、要するに守護霊やマスター、天使、キリスト、如来、菩薩なんていう存在のことである。そうした高次存在のサポートによって人は成長の道を歩むのだ、というのが伝統的な宗教の神話であった。現在は、伝統宗教の枠が解体され、新たな神話体系が構築され直され、そこにこうした天使、マスターたちが新たな位置を占めるに至っている。つまりここには「有神論的スピリチュアリティー」が成立している。これは「神話的」と言ってもいい。

中にはそれを「文字通りの真実」だと誤解している人もいるかもしれない。しかし、よく読めば、いかにとんでもないぶっ飛び神話を語っているアセンション本のたぐいにしたって、みな「これは文字通りの真実ではない」ということは前提として語られている、と私は理解している。つまり、「そのようなイメージを受け取ることが、現時点においては、魂の成長にとって有益である」というものとして、それは与えられているものである。地球が進化すればまたその神話イメージは違ったものになろう。それが真実だとすれば、それはいま・ここで私が何かを魂に感じたということにおいて真実なのであって、それ以外に真実は、明示的に語られるものとしては存在しないのである。その意味では「すべては方便」なのである。守護霊もマスターも、変性意識的リアリティとしては実在するとも言えるが、それさえも、もっと高次の視点から見れば方便であって、本当は実在していないともいえる。究極的に言えばすべては実在していない。究極においてはすべて「無」なのだと、いったんすべてを「無」で切っておくという仏教的視点を入れておくのは有益だ。いっさいの本質は無なのだ、と切って、そこで、如来の方便として、つまり仮の姿としてマスターや天使の守護もあるのだ、ということになる。

諸富さんは「神話を生きようとする」という感性をよく理解できないようであるが、それがこうした有神論的スピリチュアリティーへの理解を阻んでいるように感じられた。神話ということはユング心理学からは必ず出てくる視点であるはずだが、諸富さんはユング的な感性の人ではないようである。究極的には「嘘」であるからと言って、その魂的な真実性が失われるわけではない。どうして諸富さんは「嘘かもしれないけどそれを信じられる」ということの「魂的な感覚」がわからないんだろうか。それは彼の資質から来るものだろうと思う。青年期には、絶対的に確実な答えを探して煩悶したということだから、そのようなスタイルで生きる人だというのは、変えようがない。だから責めるつもりは全くない。

私は、現代人にも受け入れられる「普遍神話」を作ることも必要だろうと思っている。あるいは「普遍神学」とも言う。前著で試みられたのはそういうことである。「神学」というとイメージだけではなく多少は論理的整理というのが入ってくるが。

ユングが神話を重視したのは、神話には、ふつうの知性を超えた叡知に発するものがある、という直感があったからである。つまり、神話とは、人間のぼろい頭だけで考え出したものではない。「人間を超えたもの」から、人間が何かを受け取ったものが、そこに表現されているのだ、とユングは考えたはずである。それは宇宙からの贈り物なのである。

たとえば、阿弥陀如来の念仏というのがある。阿弥陀如来とは実在するのだろうか。それは人間の知性では判断しがたい。本当はないのかもしれない。しかし、私が阿弥陀さまを信じるとき、そこに何か魂を明るくするものが生じるという魂的な事実が存在する。ということは、阿弥陀様というヴィジョンは、宇宙から私に贈られているものなのである。阿弥陀様というのは究極的実在からすれば幻影であるが、「私が阿弥陀様を信仰するという事態がそこに生じたこと」それ自体が、人間知性を超えた名づけようもない宇宙の深部から私に贈られているものなのである。これが「イデーを受け取る」ということの意味である。私が阿弥陀如来を信じられるのであれば、阿弥陀如来が幻影であっても関係はない。それは「永遠なるものの象徴」なのである。

宇宙を貫いて流れている生命力。
それは自然を貫き、人間をも貫いている。
その宇宙的な力が人間を貫くとき、何がそこにあふれ出てくるのか。
神話的イマージュは、そのような深みから発生する。
その意味でこのような「普遍神話」は、アートとしてのみ成り立ち得るだろう。

自然科学で語られる宇宙ヴィジョンは、精神的な側面を欠いている。
宇宙の中で、人間のみが自らを意識する存在であるなんて、いったいどこで証明できるのだろうか。そんなに疑わしい話はない。宇宙すべてをくまなく見たわけでもないのにわかったような顔で言うのはやめてもらいたいのである。
私たちは一人一人、自分の真実に基づいて宇宙ヴィジョンを描く権利がある。それを「証明」しなければならない義務などない。ただ人のヴィジョンを抑圧しなければよいのである。もし「おまえのは間違っている」と言いたいのであれば、それはそれなりの根拠を示さねばならないだろう。

死後世界情報として今いちばん詳しいのはマイケル・ニュートンの二冊の本だろうが、あれも、私は「文字通りの真実」としては見ていない。あくまで、今の人類にとって、そのような情報がもたらされるのには何らかの意味があるのだろう、というふうに受け止めている。それは、あくまで、現時点での地球人が理解できるという範囲内で語られているものである。その意味では神話である。問題は本物の神話かということだ。というのは、それは人間が頭で作ったものか、それとももっと遠いところ、高いところから贈られてきたものか、という見分けのことである。

「生まれ変わりと魂の進化、地球の神化」とは、人間の新しい神話である。実際、これまでは「生まれ変わり」は東洋、「魂の進化・地球の神化」はキリスト教と、別々に伝承されていた「イデー」が結合して、新たな神話体系が生み出されたのである。そのようなことを100年前にシュタイナーは予見していた。これは神話であり、証明不可能である。一つのアートとして受け止め、魂に何かを感じればよいのである。感じるなら、それはあなたにとって真実である。これは言うまでもなく、一度は、「すべては無だ」と切って、「文字通りの真実」がないことを確認した上のことである。

最後に念のため言っておくが、私はこの『人生に意味はあるか』をかなり褒めたつもりである。お忘れなく・・

写真に写っている帯には、「これが答えだ!」なんて書いてあるが、もちろん答えは書いてません(笑)
諸富さん、この帯には苦笑しているでしょうね。「やられたな~」とか。

「人生の意味について考えるとはどういうことか」を考えるのには(ややしこいが)とてもよい本である。

4061497871人生に意味はあるか
諸富 祥彦
講談社 2005-05-19

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