結局、「思考を内的に体験する」ということができているかどうか、そこに「思想」の生命もかかっているということだろう。
ドイツ・イデアリスムス(一般的に「ドイツ観念論」といわれるが、「観念論」ということばはよくないイメージがあるので避けたい)には、そうした思考の内的体験が見られたらしい。
大橋良介『絶対者のゆくえ――ドイツ観念論と現代世界』は、ドイツ・イデアリスムスの概説として大変優れていて、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの三人がそれぞれ思考を内的に体験できたところから哲学を構想していたということがよく伝わった。
これら、存在世界の根源にある「絶対者」と向き合い、それを真剣に思考しえた時代に比べて、こうした問題を考えること自体が完全に無視されている現代の状況はどうなのか? と大橋氏は問うわけだが、そういう状況を生み出すものは実はドイツ・イデアリスムスのうちにすでに胚胎していた、というのが彼の主張である。
つまりドイツ・イデアリスムス哲学は、絶対者を「絶対無」としてみようとするところまでいったが、そこで、人格神の存在は不必要になるという危険が生じたのではないか? というのだ。
だがそうだろうか? 大橋氏が言うのはあくまでキリスト教的な、世界の外部に立つ創造主的な神である。東洋思想のサイドに立てば、絶対者は無としか呼びようがないということは当たり前の話である。
私自身は、絶対者は根源の相においては絶対無であるが、「同時に」キリスト教的な神でもありうると思う。「愛の救いの神」も、ある次元においては存在するといいうる局面がある。絶対無はそれを超えた超越である。つまり仏教のほうがキリスト教より一段深い次元を見ていると考えるわけだが、キリスト教にも真実があることを仏教が包含していくことが必要だという理解である。
フィヒテの哲学は「宇宙のすべては自我から発する」という思想である。ここでいう自我とはもちろん心理学でいうエゴのことではないし、ユングのセルフでもない。シュタイナーがいう Ichである。これは要するに「精神世界」でもいわれている I AM「アイアム」である。「宇宙的な私」である。私が私であるということの根源は、宇宙的なアイアムである。
ということを、フィヒテは直観したに違いない。それはフィヒテにとって絶対の内的経験であった。「神聖なるアイアム」というこの直観は、哲学などまったく知らなくても生じうるものである。
ただこの宇宙的な、絶対的な「私」が、今ここで生じている個別的な「私」として現象するには、そこに何次元かのプロセスがあるはずである。フィヒテはそのへんをうまく説明できなかった。あるいは、その根本的直観はあっても、そこからどのような宇宙的過程をへて個別的な「私」の現象に至るのかということの認識はできなかったのだと思う。もちろん、そうした認識とは超感覚的な認識なのである。それがわかればもう「覚者」に近いことになるだろう。少なくとも菩薩レベルであろう。
シェリングにもいろいろ根本的な直観が見られて面白い。シェリングについては、高山守『シェリング――ポスト「私」の哲学――』がわかりやすい概説でよかった。これを読むとシェリングが現代の霊的哲学を考える上でのヒントになることがわかるだろう。
大橋良介は、ドイツ・イデアリスムスが絶対者を「無底」として理解するところへ行ったことが、絶対者の思想界での衰退につながったのではないかと言うのだが、それはどうか。あるいはそうかもしれない。少なくともシェリングが無底と言ったのは、ベーメにインスパイアされてのことである。つまりシェリングの言う無底とは、絶対的な霊的深淵を見るような緊張感を漂わせた生命ある思考であったと思う。同時に高山守の書にもあるように、シェリングは絶対者と私との関係を「愛」に見ていたという面もある。超越的な深淵とは、大橋氏もよく知っているように擬ディオニシウスなどの「否定神学」の伝統にある生命あるイデーである。しかし絶対無は転じて、無限の愛を放射する源泉でもある。それは矛盾かもしれないがそれが霊的な意味での「事実」なのだと思う。シェリングはその「愛」を直観できていた。その直観があれば、絶対無が否定的な意味でのニヒリズム思想へ転化することはありえないと思う。
ニーチェの「ツァラトゥストラ」は世界文学史上最大の傑作の一つで(あえて文学と言うが)、それにはたしかに魂の深みに到達するものがあるが、どこかに痛々しい感覚がつきまとっている。結局ニーチェは「愛」を拒否しようとしたのだ。宇宙から愛が注がれているというのは「原事実」なのだが、それを見ようとしなかった。言ってみればハートチャクラが閉じられていたのである。それがニーチェの問題のすべてだったと思う。ニーチェは「生命」のイデーを感受することがあれほどにできたのに、なぜ「愛」を受け取ることができなかったのか。それは不思議である。生命は闘争ではない。生命とは調和ではなかろうか。ニーチェは、力んではいけないというが、やっぱりそういう彼自身が力んでいて、つまり必死で「意味」を求めようとしていて、かえって宇宙から流れてくるものを受け取れなくなっているところがある。
つまり、大橋氏の言うように絶対者が「無底」であるというのが、絶対者というイデーの衰退になるというのは、結局その「無底」のイデーの深さが十分理解されなかったからだということになると思う。もっとも、大橋氏もそういうことが言いたかったのかもしれない。
また思想史を逆に、東側から見るなら、そもそも近代日本の思想の多くが、絶対者を絶対無と見ることから出発する思想であったこと(京都学派がその典型だが)は事実である。そこではむしろ、いかにしてキリスト教のうちに懐胎されてきた西洋的なイデーを受け取ることができたかということが、精神的な思想としては問題になるのである。私がケン・ウィルバー思想を批判するポイントの一つが、ウィルバー思想も絶対者のコンセプトにおいて京都学派的な立場に止まっており、フィヒテ的直観というか、「アイアムの深秘」をとらえていないことが、精神哲学としては欠陥であるということにある。その問題を「キリスト衝動の問題ととりくむこと」と言い表せることは前に述べたとおりである。それがない思想は現在的な精神哲学たりえない。
ありていにいえば、思想とはもちろん「考えること」を含むが、より根本的なことがらは「直観」に属するのである。つまり、ある「イデー」を受け止められるかどうかということは、いわば全人格的というか、「魂レベル」でのことがらなのであって、頭で考えるだけでどうこうできるものではない。これは実感でもある。
それと、もちろん、今の時代が、人間が経験しうる精神体験の諸相が急激に公になった時代であり(臨死や体外離脱、ヘミシンクなどをみればわかるように)、それをどう受け止めるかという役割が思想には要請されているということも承知している。そういうことは、20世紀までの哲学では封印されていた。しかしよく見れば、インド系の思想はもちろん、プロティノスなどにもそうした精神体験を背景にしていると見られる叙述はけっこうあるのだ。これから拓かれるべきなのは、フィロソフィー(哲学)をふまえつつ、さらに踏み込んだテオソフィー(神智学)だろう(これはブラバツキーとは関係ない)。仏教をテオソフィーとしてみるという見方は、ここで当然出てくる考え方で、ここから近代仏教学への批判もなしうる。
いかにそれが「反時代的」に映ろうとも、テオソフィーへの欲求を貫徹するのが私の行き方である。