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2007.03.29

『シャーマンズボディ』はすごいかも

ミンデルの『シャーマンズボディ』精読中。

はっきり言うが、これは稀代の名著だと思う。ミンデルの他の本と違っているのは、ここではミンデルはかなり「個人モード」ではないかと思えるのだ。つまり、自分自身にとっての探求の過程としてこの本を書いている、という感じなのだ。

ミンデルは、つまり本来の自己とはドリーミングボディなのだ、というわけだろう。つまりこれはわかりやすく言えば「魂」だということになる。逆に言えばここなどで私が「魂」という語で言っているのは、ミンデルのいうドリーミングボディのことである。

その、魂の考えていること、魂が目指している生とは、現在の自覚における「私」の考えとは違っているということ。つまり魂(ドリーミングボディ)の動きは、表層的な自己にはうかがい知れない深みとして感じられるということだ。

ミンデルは、そうした魂次元の自己を受け入れ、それに委ねていくことをシャーマン的な戦士の道として理解しているように見える。

先にこれはミンデルの「個人モード」が入っていると書いたのは、この本で語られているのは、もっぱら、「魂次元でのプロセスが始まってしまった人」の話だという意味もある。つまり、深い部分で動き始め、いやおうなく「そちらの方向」へ行くことになってしまった人は、どのような心構えで、どのようなスキルを身につけて、その旅を全うしていけばよいのか、ということが語られている本なのである。

その視点でいくと、ここまでビシビシと的をついた叙述が次々と出てくるのは驚嘆もので、その「知恵」のレベルの高さは相当なものである。つまり、ミンデル自身も相当に「入りこんだ人」であることが明白である。

そのように「魂の旅が始まってしまった人」は、古代のシャーマニズムから何を学ぶことができるのか、という本であるわけで、これはこの上なくプラクティカルである。ここまでプラクティカルだというのはそんなにあることではない。「魂の意図」を感じ取る、微細次元の自覚を高めることについてさまざまに語られている。

この『シャーマンズボディ』は、自分自身が「プロセス」に入ってしまった人には、びしびしと身にしみて響いてくる本である。そうでない人には、この本がいかにすごいことを書いているか、よくわからないかもしれない。

2007.03.26

『シャーマンズボディ』

『身体症状に<宇宙の声>を聴く』をざっと見て、つづいてすぐ『シャーマンズ・ボディ』。

やっぱいいねえ。この『シャーマンズボディ』こそ、ミンデルの最高傑作じゃないだろうかと思う。「気合い」の入り方が違う。自分自身の限界を突破しようとするエネルギーが感じられるようだ。

こういう本を読んでいると共鳴してきて、感覚が鋭敏になっていくのが自分で感じられる。

4434012827シャーマンズボディ―心身の健康・人間関係・コミュニティを変容させる新しいシャーマニズム
アーノルド ミンデル Arnold Mindell 青木 聡
コスモスライブラリー 2001-08

ミンデル『身体症状に<宇宙の声>を聴く』と思想の身体性

私は最近、心理学と名のつくものには少し遠ざかっているが、ミンデルだけは注目している。

『身体症状に<宇宙の声>を聴く』は、一年ほど前に出た本だが、ちょっと集中して研究してみようかと思っている。ワークが豊富で誰でもできるようになっている実践的な本でもあるのがいい。

ミンデルの単著はほとんど読んでいると思うが、最近のものほどいい。『シャーマンズ・ボディ』と『24時間の明晰夢』もよかった。

ただ、ミンデルに見えている世界には限界もあるということには気がついてきた。たとえば玉城康四郎が『無量寿経』で述べているような「光の世界」は見えていないのではないかとも思えるのだった。

だから最初から光の次元をイメージしてそのエネルギーとつながってしまう、というやり方もあるだろうと思う。

しかしミンデルにあるのは、ふだんは無意識な水準で起こっている微細な意識の生起を自覚していくという訓練だ。こういうことは気功やヨーガでも起こることだし、シャーマニズム(といってもカスタネダやアボリジニがメインだが)、禅、ヴィパッサナなどでフォーカスされているものだ。

光の次元はつねにあるとしても、それに気づくには、微細知覚をトレーニングしていく過程は通らなければならないものである。いや、自覚的にトレーニングしなくても光が現れるときには現れるということもあろうが、それを定着していくにはやはり何らかのワークは必要である。

「修行」は不可欠ではないが「ワーク」は必要なものである。修行とはワークの一形態であり、集中してワークをやりたい人のためのインテンシブ・コースである。ワークなど何もやらなくてもみなわかっているという人もあるだろうが、そういう人はそもそも地球に生まれる必要はなかったわけだろう。

「人はすでに悟っているというなら(これは本覚思想というが)、なぜワークなどする必要があるのか?」というのは昔からのFAQである。その答えの一つは道元禅師の「弁道話」に書いてある。

宗教という立場から霊性というコンセプトへ、という流れは、同時に、修行からワークというコンセプトへ、ということでもある。

ミンデルのワークは「ナノ・アウェアネス」という微細次元の知覚と、ノンローカル(非局所的)な身体感覚を養成するためのものである。つまりは、肉体次元ではない、微細身体の感覚を鍛えるためのものでもある。

エネルギーワークにも大いに関係しているものである。

ミンデルの思想的な基本はタオイズムであることは周知のことである。だから私の思想的な立場からすれば、キリスト衝動(つまり西洋的霊性の中核)が入っていないということは言える。ミンデルの展開する世界は東洋的な世界だということもできるが、しかし、ここまで見事にそれを展開している人もほかにいないということも事実である。「世界を深く見る」とはどういうことかをいちばんよく教えてくれる。

現在の霊性研究においてミンデルは必須科目である。

また改めて思ったのだが、こうした「世界に対する微細な見方」ができてこないと、思想もわからない。哲学は論理的構築物を提示するだけで、世界に対して微細な見方をしてくださいと言っているところに基本的な無理がある。ハイデッガーやメルロ=ポンティなど、すごく深い世界を見ているのに、読む人のどれだけがそれを理解できるであろうか。つまり、これからは、ただ理論的表現というものだけでは不十分で、それは何らかのワークと共に提示され、それを実験することによって体験的にわかってくる道を与えていかねばならないだろう。これはウィルバーも主張しているところである。

つまりそれが思想の身体性ということでもある。ある思想が「わかる」ということは、その思想が表現している「微細な見方」が身体的にわかるという状態になってみて、はじめて本当のものとなる。その「感覚」を手渡せるかどうかなのである。これまでの哲学・思想はそうした思想の身体性について自覚がなさすぎた。アカデミズムの中ではどうにもならないことなのだが。

ともあれ、こちらは「名著」と言って差し支えないだろう。これまでミンデルを読んだことがなくても問題ないと思う。(あんまり感心したので、右のマイリストに追加してしまった)。

4531081536身体症状に「宇宙の声」を聴く―癒しのプロセスワーク
アーノルド ミンデル Arnold Mindell 藤見 幸雄
日本教文社 2006-04

2007.03.22

バックナンバーを読む

時々、このブログのバックナンバーを読み返して、思わず時間を過ごしてしまうことがある。けっこう、いろんなことを言ってるものである。今とちょっと関心のポイントが違うので、思わぬ視点があったり・・ いや、忘れてるもんだ(^_^;

特に面白かったのは次のエントリー(自分で言うのも変だが)。

エーテル・アストラル的世界海について

2007.03.21

神秘体験と来るべき秘儀(やや大げさなタイトル)

157731140XThe Mystic Heart: Discovering a Universal Spirituality in the World's Religions
Wayne Teasdale Beatrice Bruteau
New World Library 2001-03-02


こんな本もある。これは、「神秘体験という中核において東西の宗教は同一である」という思想を表明した本である。これは「永遠主義」という考え方の流れで、ルネ・ゲノン、フリチョフ・シュオン、オルダス・ハックスレー、ヒューストン・スミス、ケン・ウィルバーとつづくものの一つであるといえよう。またトランスパーソナル心理学のよって立つ前提となる考え方でもある。こういう内容ならば日本のトランスパーソナル心理学界でも歓迎されるものだろう。

このこと自体に異存はない。こういう考え方は人類の思想史上重要な進歩だと思っている。そもそも神秘体験を中核に置く思想のあり方は、西洋思想において抑圧されてきたもので、それが復権するのは歴史的な意味がある。その抑圧は、いうまでもなく伝統的なキリスト教支配によるものであった。

ただ、前項にも記した私の問題関心からすると、これは霊性を「東洋より」に理解する行き方でもあるといえる。いいかえるとキリスト教のうちにおいてはぐくまれてきた霊的イデーが展開しきれていない。

これはこれであっていいと思うが、まだまだ、宇宙の奥深くで何が動いているか、人類の知性には計り知れないものがある。どこかで、そういう彼方なるものからのエネルギーへと開けている部分を保っていないと、なんとなく薄い感じのものになってしまうので、そういう自覚を保ちたいものである。宇宙は深いのである。その深秘へと歩みいる「秘儀」は、人類の遠い未来に属するものとして約束されているものであろう。そう考える合理的根拠はないが私にはそう思える。その秘儀の扉が開かれることを見ることに比べうることはないのである。

ドイツ・イデアリスムスをめぐり

結局、「思考を内的に体験する」ということができているかどうか、そこに「思想」の生命もかかっているということだろう。

ドイツ・イデアリスムス(一般的に「ドイツ観念論」といわれるが、「観念論」ということばはよくないイメージがあるので避けたい)には、そうした思考の内的体験が見られたらしい。

大橋良介『絶対者のゆくえ――ドイツ観念論と現代世界』は、ドイツ・イデアリスムスの概説として大変優れていて、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの三人がそれぞれ思考を内的に体験できたところから哲学を構想していたということがよく伝わった。

これら、存在世界の根源にある「絶対者」と向き合い、それを真剣に思考しえた時代に比べて、こうした問題を考えること自体が完全に無視されている現代の状況はどうなのか? と大橋氏は問うわけだが、そういう状況を生み出すものは実はドイツ・イデアリスムスのうちにすでに胚胎していた、というのが彼の主張である。

つまりドイツ・イデアリスムス哲学は、絶対者を「絶対無」としてみようとするところまでいったが、そこで、人格神の存在は不必要になるという危険が生じたのではないか? というのだ。

だがそうだろうか? 大橋氏が言うのはあくまでキリスト教的な、世界の外部に立つ創造主的な神である。東洋思想のサイドに立てば、絶対者は無としか呼びようがないということは当たり前の話である。

私自身は、絶対者は根源の相においては絶対無であるが、「同時に」キリスト教的な神でもありうると思う。「愛の救いの神」も、ある次元においては存在するといいうる局面がある。絶対無はそれを超えた超越である。つまり仏教のほうがキリスト教より一段深い次元を見ていると考えるわけだが、キリスト教にも真実があることを仏教が包含していくことが必要だという理解である。

フィヒテの哲学は「宇宙のすべては自我から発する」という思想である。ここでいう自我とはもちろん心理学でいうエゴのことではないし、ユングのセルフでもない。シュタイナーがいう Ichである。これは要するに「精神世界」でもいわれている I AM「アイアム」である。「宇宙的な私」である。私が私であるということの根源は、宇宙的なアイアムである。

ということを、フィヒテは直観したに違いない。それはフィヒテにとって絶対の内的経験であった。「神聖なるアイアム」というこの直観は、哲学などまったく知らなくても生じうるものである。

ただこの宇宙的な、絶対的な「私」が、今ここで生じている個別的な「私」として現象するには、そこに何次元かのプロセスがあるはずである。フィヒテはそのへんをうまく説明できなかった。あるいは、その根本的直観はあっても、そこからどのような宇宙的過程をへて個別的な「私」の現象に至るのかということの認識はできなかったのだと思う。もちろん、そうした認識とは超感覚的な認識なのである。それがわかればもう「覚者」に近いことになるだろう。少なくとも菩薩レベルであろう。

シェリングにもいろいろ根本的な直観が見られて面白い。シェリングについては、高山守『シェリング――ポスト「私」の哲学――』がわかりやすい概説でよかった。これを読むとシェリングが現代の霊的哲学を考える上でのヒントになることがわかるだろう。

大橋良介は、ドイツ・イデアリスムスが絶対者を「無底」として理解するところへ行ったことが、絶対者の思想界での衰退につながったのではないかと言うのだが、それはどうか。あるいはそうかもしれない。少なくともシェリングが無底と言ったのは、ベーメにインスパイアされてのことである。つまりシェリングの言う無底とは、絶対的な霊的深淵を見るような緊張感を漂わせた生命ある思考であったと思う。同時に高山守の書にもあるように、シェリングは絶対者と私との関係を「愛」に見ていたという面もある。超越的な深淵とは、大橋氏もよく知っているように擬ディオニシウスなどの「否定神学」の伝統にある生命あるイデーである。しかし絶対無は転じて、無限の愛を放射する源泉でもある。それは矛盾かもしれないがそれが霊的な意味での「事実」なのだと思う。シェリングはその「愛」を直観できていた。その直観があれば、絶対無が否定的な意味でのニヒリズム思想へ転化することはありえないと思う。

ニーチェの「ツァラトゥストラ」は世界文学史上最大の傑作の一つで(あえて文学と言うが)、それにはたしかに魂の深みに到達するものがあるが、どこかに痛々しい感覚がつきまとっている。結局ニーチェは「愛」を拒否しようとしたのだ。宇宙から愛が注がれているというのは「原事実」なのだが、それを見ようとしなかった。言ってみればハートチャクラが閉じられていたのである。それがニーチェの問題のすべてだったと思う。ニーチェは「生命」のイデーを感受することがあれほどにできたのに、なぜ「愛」を受け取ることができなかったのか。それは不思議である。生命は闘争ではない。生命とは調和ではなかろうか。ニーチェは、力んではいけないというが、やっぱりそういう彼自身が力んでいて、つまり必死で「意味」を求めようとしていて、かえって宇宙から流れてくるものを受け取れなくなっているところがある。

つまり、大橋氏の言うように絶対者が「無底」であるというのが、絶対者というイデーの衰退になるというのは、結局その「無底」のイデーの深さが十分理解されなかったからだということになると思う。もっとも、大橋氏もそういうことが言いたかったのかもしれない。

また思想史を逆に、東側から見るなら、そもそも近代日本の思想の多くが、絶対者を絶対無と見ることから出発する思想であったこと(京都学派がその典型だが)は事実である。そこではむしろ、いかにしてキリスト教のうちに懐胎されてきた西洋的なイデーを受け取ることができたかということが、精神的な思想としては問題になるのである。私がケン・ウィルバー思想を批判するポイントの一つが、ウィルバー思想も絶対者のコンセプトにおいて京都学派的な立場に止まっており、フィヒテ的直観というか、「アイアムの深秘」をとらえていないことが、精神哲学としては欠陥であるということにある。その問題を「キリスト衝動の問題ととりくむこと」と言い表せることは前に述べたとおりである。それがない思想は現在的な精神哲学たりえない。

ありていにいえば、思想とはもちろん「考えること」を含むが、より根本的なことがらは「直観」に属するのである。つまり、ある「イデー」を受け止められるかどうかということは、いわば全人格的というか、「魂レベル」でのことがらなのであって、頭で考えるだけでどうこうできるものではない。これは実感でもある。

それと、もちろん、今の時代が、人間が経験しうる精神体験の諸相が急激に公になった時代であり(臨死や体外離脱、ヘミシンクなどをみればわかるように)、それをどう受け止めるかという役割が思想には要請されているということも承知している。そういうことは、20世紀までの哲学では封印されていた。しかしよく見れば、インド系の思想はもちろん、プロティノスなどにもそうした精神体験を背景にしていると見られる叙述はけっこうあるのだ。これから拓かれるべきなのは、フィロソフィー(哲学)をふまえつつ、さらに踏み込んだテオソフィー(神智学)だろう(これはブラバツキーとは関係ない)。仏教をテオソフィーとしてみるという見方は、ここで当然出てくる考え方で、ここから近代仏教学への批判もなしうる。

いかにそれが「反時代的」に映ろうとも、テオソフィーへの欲求を貫徹するのが私の行き方である。

4623023044絶対者のゆくえ―ドイツ観念論と現代世界
大橋 良介
ミネルヴァ書房 1993-05

4650001919シェリング―ポスト「私」の哲学
高山 守
理想社 1996-11

2007.03.20

思考の生命について

このところ哲学関係で、シェリングやその周辺のことをいろいろやっていたが、ひさびさに違う系統をと、シュタイナーの『聖杯の探求――キリストと神霊世界』を手にとる。

これは何というか、「感じた」。これを読んだあと、いつもより微細エネルギーに敏感になっていることに気づいた。そういう感性が活性化されたのだろう。シュタイナーは知性だけでなく魂レベルに作用するように話している、ということがわかる。

「キリスト衝動を、地球の心魂はオーラの中に受け取った。自分の心魂を地球のオーラのなかで感じ、キリスト衝動を共に感じる人間は、星々のなかに書かれているものを再び見上げる」 p.180

かっこいい・・(笑)

つまり、「響くことばだ」という意味である。

この本を通してくりかえし出てくるテーマが、「思考にいかに生命を与えるか」ということだ。もっといえば、思考とは自分の中に働いている宇宙的な力だということに気がつくことだ。「私たちが自分の思考を内的に体験できれば、私たちはイマジネーション認識に到達しています」(p5)というが、単なる抽象的な思考ではなく、思考力によってイメージを受け取るということである。受け取るというのは、宇宙から、高次領域から受け取るということである。これは私たちがふだん思考と考えているものとは同じではない。シュタイナーは、思考を通して、イマジネーション、インスピレーション、イントゥイションと至るということを言っている。それは、私たちが物質領域へ来る前、霊的な世界において体験していた思考のあり方を再活性化するということらしい。

この本には、古代ギリシア哲学が、霊的直観の文化のなごりをとどめているということも言われているが、哲学の本来のあり方とはどういうものだったのか、いろいろ考えさせる。

シェリングの哲学なども、そこにはなおこうした直観的に受け取ったものが生命を保っているのは観察できる。ただそこには、近代特有の、哲学は抽象的な概念体系で叙述されねばならない、という観念が入っている。シェリングは直観の強い人だったので、こうした体系への要請にしたがうべきか、詩的言語で書くべきものか、迷っていたようである。ここでは、狭義の哲学だけを切り離さず、その横にノヴァーリスやヘルダーリンなどがいたことを忘れてはいけない。つまりこのドイツイデアリスムスとドイツロマン主義といわれる精神運動は、なかなか、霊的直観を持った人々がいたということだ。その研究文献も多少読んだが、こういうことを研究している人は、普通の学者に比べると勘がいいというか、話が通じやすい部分があるように感じた。つまり思考の生命力ということを理解しているわけだ。

近代的学問とは、すべて、「人間は超感覚的知覚を持ってはいない」という前提で成立している知識である。シュタイナーのようにこの前提を超えてしまうと、もはや近代的学問の領界に属することはなくなる。あえて「オカルティスト」としての道を決断する、ということを意味していたわけだ。

そこへ行くとトランスパーソナル心理学はどうなるのか――。もし霊的なものが人間の中核にあるということを言いたいのならば、同時に、「人間は超感覚的知覚を発達させうる。その超感覚で認識したことのみが霊的な世界について語りうることである」ということを認めなければならないだろう。そこをはっきり踏み切れず、その境界線近くでうじうじ迷っていてもしかたがないのである。霊性についてやりたいなら、近代的な学問原理を超えて新しいことを始めるのだ、という決断が必要である。それができない人は、要するにフヌケである。個人的には、心理学という立場はどうも、心とは一体何なのか、それを根本的な哲学的探求を欠いたもろもろの「理論」で代用しようとするのはあまりにあいまいすぎて認識と呼べないのではないかと思っている。心理学というのは基本的に臨床のためにあるもので、クライアントがよくなりさえすればどんな枠組みでやろうとなんでもありの世界だと思うのだ。認識と言うより「芸」の世界だと思っている。・・なので私が関心あるのはあくまで「本来の意味での」哲学であり、もっと言えばイマジネーション化された思考である。

「私はゴルゴタの秘儀への接近をとおして、超感覚的なものを受け取る。人類は新しい方法で、超感覚的・内的な感情と認識を持たねばならない。私は死んだ思考を、意識的に超感覚的存在のなかに導入するのだ」p.25

人間は宇宙の深部から「何か」を受け取ることができるのである。つまり人間は宇宙の深秘へと開いている存在である。

なお、「見えない次元の認識」には普遍性がなくて「人それぞれ」だろうと思っている人がいたらとんでもない妄言である。
そもそも物質次元に秩序を認識している以上(そうでなければ世界認識が存立しないが)、その認識する精神にも秩序があるはずである。こういう妄説は、物質次元にある客観的な秩序を主観はそのまま射影するに過ぎない、という要するに素朴実在論の世界観を脱却していないからそう思えてしまうのである。

もちろん物質にも秩序がある(それは世界霊に由来するのだが)が、それをある秩序として認識できる私たちの精神にもまた、「その、世界霊が提供する秩序を認識しうるような構成」をあらかじめ賦与されている。(世界霊とは古代哲学のイデーだが、シェリングがこれを復活させようとしたことに注目している)

精神には秩序があるのだ。そのことがわからないというのは、自分がここに存在しているということの尊厳がわからないということでもあるのだ。

見えない次元の認識が混乱しているとしたら、それは単に超感覚的認識が未発達な段階だからである。実際、人類の現在の進化段階では、著しく未発達であるのはたしかで、そういう混乱した言説があふれているから、しかたがないのかもしれない。

しかしながら、霊的認識の普遍性を信じられないのは、単なる論理というより「魂のあり方」の問題である。「人それぞれ」などという決まり文句で、あらゆる価値の相対性を指摘し、自分が精神的優位に立っていると思いこんでいることほど、精神的に惰弱な状態はない。それはもう、落ちるところまで落ちているのである。

4756501001聖杯の探求―キリストと神霊世界
ルドルフ シュタイナー Rudolf Steiner 西川 隆範
イザラ書房 2006-07

2007.03.13

いろいろ絵を見る

あまった予算の消化で、「巨匠の日本画」「現代の日本画」そして「世界の名画」等、画集をつぎつぎ購入。いずれも古本屋でセットでたたき売られているものがメインだ。

ひさびさに絵をいろいろ鑑賞。
私のお気に入りはジョルジョーネで、「テンペスタ」や「眠れるヴィーナス」などその不可思議な波動は印刷を通しても伝わる。この波動はすごいもので、私はジョルジョーネは西洋絵画史上、最大の天才の一人だと思う。ダビンチとも同等くらいである。

それからエル・グレコである。これは、こちら側の人々と一緒に「あちらの方々」つまり天使などが描かれていて、「こういうことが起こっているんですよ」という絵であるわけだが、私にはかなりリアルに思われます(笑) 私は、現代人の常識を離れているので・・ 大原美術館にある絵はのってない。倉敷へ行って「聖霊」のエネルギーを浴びましょう。エル・グレコさんもかなりいってることは間違いない。

ゴッホ。これはもう、完全にいってます(笑) 有名な「星月夜」はもちろんだが、自画像なども、顔のまわりに渦巻きのようなエネルギーみたいのが描かれていて、これは一体何か? という感じ。ゴッホは天才として認められていてすごい値段がついているが、はっきり言ってこの絵を通して見えている世界は、現代人の常識を超えた、実はかなりすごい世界と言ってよい。みんなわかってるのか? 私にはちょっとこわいです。こんな絵が家にかかっていたら普通に生きていけません。どうみても狂気である。ただし、プラトン的な、「聖なる狂気」ということである。画集を見終わって、あまりのすごさにしばし呆然とした。正気を失わないとなかなかこういう世界は見えない。スピリチュアル・エマージェンシーを経験した人はゴッホの絵をどう見るであろうか。こんなアブナイ絵をそんなに評価して大丈夫か? 敏感な人はひっくり返ってしまいそう。

ルノアールはかなりよかった。
ルノアールがスピリチュアル絵画、というと意外に思う人がいるかもしれない。ルノアールはエル・グレコみたいに「いかにも」のスピリチュアルではないからだ。

しかし、音楽で最もスピリチュアルなものは実はモーツァルトだ、ということと同じことがここにある。

ルノアールの絵には、つねに、言いしれぬ幸福感が支配している。ある絶対的な幸福感覚があって、それは魂レベルで目覚めている人のみが発することのできるエネルギーだと思う。

絵の技術は勉強によって学ぶことができるが、このような「魂の資質」は天性のものである。もちろん、「ワーク」によってそれを磨くことはできるが。

「いかにも」ばかりがスピリチュアルではない。

一太郎2007導入

一太郎2007を導入。
というのも私は縦書き入力派で、縦書きで発表する予定のものは縦書きで入力する。マイクロソフトのワードだと縦書きで入力することには限界があるが、一太郎だとスムーズである。そこで、少し本気モードの原稿は基本的に一太郎で書くのである。さらにプロフェッショナル画面というのを使うと見た目にきれいで気分がいい。

これまで2004で、バージョンアップを二回見送ったのでそろそろいいかな? と、今年度の予算にあまりがあったこともあって買ってみたのだが・・

私の使う範囲ではあんまり変わっていない。今度の2007ではエディターフェイズというのが売りなのだが、こちらの機能は秀丸のような専門のエディターほどのものではない。テキストの表示が弱い。禁則処理ができないし、画面の背景色がパレットで指定できない、行間の設定ができないなど。ただ改行を削除するなどの整形機能は便利かもしれない。正規表現にも対応しているし。秀丸も4000円くらいするものだし、いままで高機能エディターというものを持っていない人は、ワープロのおまけとしてついてくるものだと考えれば損はないだろう。たとえば秀丸で改行を削除しようとすると、範囲を選択して正規表現で「\n」を削除するよう全置換するという操作になるので、これは慣れてない人にはまずできないだろう。つまり一太郎のエディター機能は、高機能なところはないが、あくまでインターネットの入力ボックスやメールソフトへの貼り付けを想定したエディター機能ということだ。

石川九楊ではないが「縦に書け!」である。縦に書くと、横に書くときと文章は同じではない。縦に書いた文章の一種独特な濃密さには魅力を感じる。縦書きで文章が書けるという一点のみでも一太郎を買う価値はあると思う。ただそれは2004でもできるので、それで不満のない人はバージョンアップする必要がどうしてもあるわけではない。でもまあ、三年に一回くらいはいいんじゃないかという感じだろうか。ATOKは進歩しているようだし。

基本編集フェーズでもべつに重くはないので、私はほとんどそれしか使わないと思う。

縦書きできるエディターというのも最近、秀丸、QX、WZとかいろいろあるので、「縦書きエディター」を求める人はそれら専門エディターの方がいい。一太郎はあくまで文字装飾のできる「縦書きワープロ」であり、縦書きワープロといえばこれしかないということである。


B000LV61QK一太郎2007 特別優待版
ジャストシステム 2007-02-09

2007.03.10

突然、デリダの話

斎藤慶典氏の『デリダ――なぜ「脱-構築は正義なのか――』を読む。

斎藤慶典がデリダ? というのは何の不思議もない。デリダの思想は現象学の徹底化に他ならないからである。徹底しすぎてもうどうにもそれ以上にどこへも行けなくなってしまった思想というべきである。

とはいっても、私はデリダの本はよくわからない。しかし、たぶんこんなことを考えているのであろう、と思っていたわけだが、この本でその私の考え方がだいたい正しいらしい(というか、少なくとも斎藤氏とほぼ同じであるらしい)ということがわかった。

世界の現象は「同一性の反復」によって発生している。その同一性をすべて拒否するとどうなるか、ということである。そもそもフッサールが現象学的還元といっていたのはそうした同一性反復をいったん括弧に入れ停止することのはずだった。

話が飛躍するようだが、このことはカスタネダのドンフアン本に出てくる、「世界を止める」ということに等しいのである。

世界は本当に止まるのか? つまり、同一性を拒否して生きることはできるのか。

フッサールは、止めることの可能性に懐疑的だったと思う。デリダも、その不可能性はよく知っている。その上で、現象を生み出してくるその「背後ではない背後(としかいいようがないが)」を見つめざるを得なかった、という思想家なのであるらしい(たぶん)。しかし、この世界を見つめるのは怖いことである。

だから怖いのを乗り越えてブレイクスルーできるか、ということだ。それがドンフアンや禅の目指したことなので、そこからすればデリダは「入口を見た」だけなのかもしれない。

ちなみに私は修士論文のとき、デリダを上のように神秘主義的(というか、現象の影にあって現象を生み出す何かとして)解釈して、そこから詩的言語とか、折口信夫の呪言論とかに展開するという論文を書いたのだが、審査する教官はほとんど誰も理解できずあやうく放校になりかけたのであった(笑) しかし思うにあの当時私はフッサールを十分に理解していなかったのでデリダ理解に限界があった。その時に斎藤慶典の『フッサール・起源への哲学』のような優れた解説書があったら、とよく思う。私は今頃ブランド一流大学の教授だったかもしれないのである(笑)

彼方なるもの

高山辰雄の画集を見ていたのだが・・

どこかで見たような世界感覚だと思ったら、これは、村上春樹の「海辺のカフカ」に出てくる世界の感覚と似ているように思う。特に後半にある、四国の山奥にある「異界」とはこういう世界ではないかと思われる。

村上春樹といえば、このあいだ、「国境の南、太陽の西」という小説を読んだ。
これは、「海辺のカフカ」や「ねじまき鳥クロニクル」のような前衛的な小説にくらべれば、ごく「ふつう」に見える。
しかし、国境の南、太陽の西ということばは何をさしているのだろう。その、「彼方なるもの」とは?
日常と「謎」とはつねに隣り合わせに接しているのである。それを日々感じられるかという感性の問題である。

これも勝手に想像すると、是枝監督の「幻の光」という映画の感覚に近いのではないかとも思えた。

高山辰雄の絵はかなりディープである。
ムンクやルドン、ルソーなんかよりよっぽど優れた絵だと思う。

4051044041高山辰雄
学習研究社 1991-04

2007.03.09

神話的思想表現について

さてここのところは少し研究モードである。

基本的なテーマとしては「21世紀の神秘哲学」である。古くからのことばを使えば形而上学ということもできるかもしれない。その意味ではウィルバーだって形而上学に違いない。

証明できるわけがないことをあれこれ語るのはまったくもって時間の無駄でしかない、という論理実証主義のような立場もあろうかと思う。そう考えたい人は考えればいいので、特に反論はしない。

しかし私は、神話的表現と概念の間をいったり来たりするような、そういうイメージ性のある哲学表現のようなことが可能ではないかと考えている。もちろん古代ギリシアのプラトンなどはそのように書いている。近代でもそういうことを考えていた思想家はあって、このところ注目しているのはシェリングである。

シェリング関係の文献をいろいろ読んでいくうち、シェリングはベーメに強い影響を受けたということが明らかになってきた。『人間的自由の本質』という著書は、ほとんどベーメ思想の焼き直しだと言ってもいい、とまでいわれている。

中井章子「フィロゾフィーとテオゾフィー――シェリング『人間的自由の本質』の自然哲学とベーメの世界生成論――」(北澤恒人他編『シェリング自然哲学とその周辺』)は、シェリング思想とベーメを比較して、ベーメにあってはイメージ豊かな表現だったものを、シェリングは何とか哲学体系として抽象的に表現しようと努力していると指摘し、そういうのはどうだったのか? と疑問を呈している。

ある種の問題は、「科学」や「学問」や「体系」には馴染まず、詩的な表現のなかではじめて言説可能になるのである。


シェリングは、「テオゾフィー」に「フィロゾフィー」によって迫るという困難性に直面していたと言えるのではないか。
p.175


さすが中井さんは文学畑出身だけに、「表現言語の問題」に鋭敏である。ちなみに中井さんの『ノヴァーリスと自然神秘思想』は稀代の名著であり、これを読むと「このような知の可能性もあるのか!」とわくわくしてくるものである。

ここでいうテオゾフィーとは「神智学」だが、そう聞いてすぐにブラバツキーを思い出してはいけない。ドイツ思想の文脈では、神智学といえばベーメとその周辺をさすのである。その辺について詳しくは『エゾテリスム思想』という文庫クセジュを見てほしい。ドイツロマン主義はこの神智学からさまざまに影響を受けている。自然神秘思想というのもそういう思想圏内にあるのだが、ここには思想的な可能性の宝庫が隠されていそうである。この21世紀にいたって、彼らが自然の深部に直観していた「万物のつながり」を実感として受け止められる人々が急速に増えてきている。

新しい思想を語るには新しい言語が必要である、ということである。ウィルバーのいう「ヴィジョン・ロジック」というのも、似たようなことのように思うが、彼自身がそれを実践し切れているかどうかという問題はある。

私がやろうというのは、そういうことの「研究」なのではなく、その研究を勉強しつつも、「もしその自然神秘思想家が現在に生きていたらどのようなものを書いたであろうか」という発想のものである。私は実践家である。ロマン主義の研究ではなくて自ら「21世紀のロマン主義」を実践したいのだ。

しかし、きょうのはなんだか、「ちゃんと『研究』もしてるんだ~」というアピールをねらっていたという解釈もありうるかもしれない(笑)

最後に本の紹介。

中井さんの本。おすすめだが、値段を見てびっくりしないこと(笑)。古本なら何割か安いが。

4423171074ノヴァーリスと自然神秘思想―自然学から詩学へ
中井 章子
創文社 1998-03

中井さんのノヴァーリス翻訳が読みたいところである。ちくま文庫で出ている訳には、ちょっと不満があるので。

次に、
自然神秘思想の基本書である。特に、そこに入っているシェリングの「クララ」は、『魂のロゴス』のモデルの一つという説もあるくらいである。(これも高いよ)

4764232162近代の自然神秘思想 キリスト教神秘主義著作集 <16>
中井 章子 岡部 雄三 本間 邦雄
教文館 1998-06

もう一つ、
ベーメに関心がある人は、この名著をまず読みましょう。

488679047Xヤコブ・ベーメ―開けゆく次元
南原 実
哲学書房 1991-04

2007.03.07

魔術的芸術

アンドレ・ブルトン『魔術的芸術』を読み始めたが、この本、むちゃくちゃ面白いです! あっちこっちの面白い画像をあつめて、それを魔術というキーワードでいろいろ論じ、近代的世界観に対して想像力の復権を訴えるという内容なんだが、のってる画像がかなりいい。これを読んでると、ブルトンたちがやろうとしていたことは、ルネサンス的な「マギア」の世界の復興なんだなあ、と納得する。マギアってのは、すべてがつながっているという世界感覚、それだけじゃなくて、実際に離れているはずのものをいろいろつなげてしまおうという具体的技法のことで、今で言えば遠隔ヒーリングなんかリッパなマギア、魔術であるということになる。魔術と言うがそれはアヤシイものというより、本来世界というのはそういうもんでしょ、ということだし、古代人ってそういう世界をよく知っててそれを「使う技術」を持っていたんじゃないか、という問題視角である。

こういう魔術の本質については、ジャン・セルヴィエというフランスの人類学者がいてエラノス会議にも出ている人なんだけど、その人が書いた文庫クセジュの『魔術』って本がよく書いてある。ただこういうのに限って邦訳は出てないんだが(笑) セルヴィエはいいですね。ルネサンス的世界観の復権をマジに目指してる。ルネ・ゲノンもそうなんだけどフランスには実はそういう精神伝統がどこかにあって、それは日本の研究者なんかは立ち入らないところだが、西洋神秘思想の研究は意外とさかんだったりするのだ。

ともあれ私も自分のできることを考えてみると立派な魔術師なのですよ(笑) そういうマギアな世界を見せてくれるのが『魔術的芸術』だが、考えてみるとカイヨワなんかもこういう伝統にあるんだな、という気もする。これは一種の宇宙感覚を味わうための本といえる。

4309265669魔術的芸術
アンドレ ブルトン Andr´e Breton 巌谷 国士
河出書房新社 2002-06

キリスト衝動

もう春だと油断していたらけっこう雪が降る。

さてデジタル放送ブームも一段落して、そろそろ仕事モードに戻ってきた。

私は必ずしも「研究者」として自己規定してはいない。そう名乗るには、専門領域が漠然としすぎているだろう。私はゼネラリストだと思っている。いろいろな分野の知識や体験を総合して一つのヴィジョンとして提示するという役割だ。その意味で、ケン・ウィルバーの立ち方に近いとは言える。ウィルバーの思想そのものにはいくつか批判や留保点があるが、やろうとしてること自体はかなり似ている。いろいろ文句を書いたりすることがあるが、それはライバル意識の表れかもしれない(笑)。ま、基本的に認めているという前提の上での話である。ただ、スピリチュアル哲学のスタンダードとするには、その間違えているところが、実践的にはかなり致命的な問題となってくる。私の主な批判点は、物質領域と微細領域(アストラル次元)との関係を誤って解釈していることと、魂の個体性というイデー、また人間的モナドと他次元のモナドとの複雑な関係性を描けていないということである。

ウィルバーの思想に接して、まったく聞いたこともないものだとびっくりする人もいるかもしれないが、基本的なアイデアそのものは古くからあるものである。もちろん彼もそのことは十分承知である。絶対者は絶対無であり、そこからの自己展開として宇宙が生成し、そこにおいて生成したモナドが自己超越して宇宙(すなわち絶対者の自己顕現)そのものが進化するというヴィジョンは、私も基本的に肯定しているが、それはシェリングやヘーゲルなどの思想に発想としてかなり近い。彼の場合それにフロイト、ユング、マスローなど近代心理学を「接合」し、また東洋のスピリチュアル思想と統合したということである。その前提としてはルネ・ゲノン、シュオン、オルダス・ハックスレーなどの「永遠主義哲学」がある。

ただ私としてはこの心理学との「接合」はやや安易にすぎるというか、西洋近代心理学をそのまま「いいよいいよ」として認めてしまっているところがあるのはどうか、と思う。本当の問題は「西洋の心理学と東洋の霊性との綜合」ではなく、「西洋の霊性と東洋の霊性の綜合」なのである。彼の思想ではむしろ西洋的霊性のイデーが後退し、あまりに東洋よりの立ち方になっている。端的に言えばシュタイナーのいう「キリスト衝動」が描けていないのである。このため、日本には受けがいい。というのは、近代日本人はこれまで、本気で「キリスト衝動」と思想的に対決してこなかったし、霊性的思想はすべて仏教をベースとした「東洋型」だけだったのである。門脇佳吉、八木誠一などのように、キリスト教神学を禅で語ってしまおうという人までいる。キリスト衝動との対決ということは、近代日本人の霊的思想にとって最も重要な問題であり、これを回避しているところにウィルバー受容も成り立っていると思えてならない。

一方、2012年のテーマにも見られるように、現在のいわゆる「精神世界」の中には、西洋的な霊性の普及という面もある。つまり、「人類と地球は、神的存在の援助を受けて、霊的完成へ向けて歩んでいく」というイデーが、多くの人にうったえるようになっている。これは、そうしたイデーを魂において「受け取った」ということを意味している。こうしたイデーは、これまでは宮澤賢治の法華経的ヴィジョンなどはあったが、ごく一部にしか日本では理解されなかった霊性のスタイルである。これは、永遠の次元と歴史の次元が交差するという霊的ヴィジョンである。これは日本の思想的土壌では最も理解されにくいもので、キリスト教神学者でさえこのようなイデーを「信じられない」という魂の状態にあることが多かった。

つまり、ここで初めて真の「東西霊性の融合による新ヴィジョンの出現」という思想的な機運が熟しつつあるということなのである。それは現在、神話的表現において広まっている。これを思想的なことばにもたらすということが、私の関心あるところなのである。しかしこの根本的なキリスト衝動は、魂的な感受性で理解すべきもので、論理で説得することはむずかしい。思想的ことばといっても、それは「理性とも調和しうる神話」という次元において成り立つものだろう。

ここで私がイデーと呼んでいるのは、プラトンのイデアと同じものではなく、「宇宙の深みから人間精神へもたらされる何か」を指している。人間は宇宙の深みへ向けて開かれているはずである。イデーとは人間が考え出したものではなくて、宇宙からの贈り物として受け取るものである。それを人間的世界の中で展開しようとすれば象徴的・神話的表現となるほかない。哲学的なイデーもそうした神話的イデーの概念化にすぎないのである。このようなイデーという発想は、ユングの元型の考え方にも通じる。その意味で元型論を読み直すことは興味深いテーマになるだろう。

2007.03.05

日記モードだが

ついに今年は積雪がないまま春になろうとしている。一週間ほど前から庭にはクロッカスが咲き始めている。三色あるはずだが、なぜか黄色ばかりが先に出ている。あと、チューリップ、ゆり、水仙の芽も順調に伸びている。

先週、テレビのデジタル放送を入れ、それを機にDVD/HDDレコーダーも設置したので、数日はテレビばかり見ていた。テレビだけはD3対応のものだったが、ハイヴィジョン画質というのはこういうものかと初めて知った。
たとえばコンサートの録画放送なども、これまでは音質的にあまり見る気がしなかったが、これだと十分なものになる。ただもちろん、その際音声はアンプ-スピーカーに接続する必要がある。

それでも音が硬い感じがしたので、音声コードをハイファイのにしてみた。というのはよく電機店で売っている、1m1000円くらいのものである。これはいちばん安いコード(製品に添付されてるやつと同じ)の倍の値段なのだが、びっくりするほど音が変わった。ざらざらしていた感じのがサンドペーパーで磨いたみたいな音になる。もっとお高いオーディオ用コードはいくらでもあるのだが、これはとりあえずコストパフォーマンス良好だろう(どこでも売ってるビクター製のものである)。

コンポなどで、製品付属のコードを使っている人は、スピーカーケーブルと音声コードを、いちばん安いやつの2倍の値段のものに変えること。これが安い投資で高音質を楽しむ秘訣である。

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