神話的思想表現について
さてここのところは少し研究モードである。
基本的なテーマとしては「21世紀の神秘哲学」である。古くからのことばを使えば形而上学ということもできるかもしれない。その意味ではウィルバーだって形而上学に違いない。
証明できるわけがないことをあれこれ語るのはまったくもって時間の無駄でしかない、という論理実証主義のような立場もあろうかと思う。そう考えたい人は考えればいいので、特に反論はしない。
しかし私は、神話的表現と概念の間をいったり来たりするような、そういうイメージ性のある哲学表現のようなことが可能ではないかと考えている。もちろん古代ギリシアのプラトンなどはそのように書いている。近代でもそういうことを考えていた思想家はあって、このところ注目しているのはシェリングである。
シェリング関係の文献をいろいろ読んでいくうち、シェリングはベーメに強い影響を受けたということが明らかになってきた。『人間的自由の本質』という著書は、ほとんどベーメ思想の焼き直しだと言ってもいい、とまでいわれている。
中井章子「フィロゾフィーとテオゾフィー――シェリング『人間的自由の本質』の自然哲学とベーメの世界生成論――」(北澤恒人他編『シェリング自然哲学とその周辺』)は、シェリング思想とベーメを比較して、ベーメにあってはイメージ豊かな表現だったものを、シェリングは何とか哲学体系として抽象的に表現しようと努力していると指摘し、そういうのはどうだったのか? と疑問を呈している。
ある種の問題は、「科学」や「学問」や「体系」には馴染まず、詩的な表現のなかではじめて言説可能になるのである。
シェリングは、「テオゾフィー」に「フィロゾフィー」によって迫るという困難性に直面していたと言えるのではないか。
p.175
さすが中井さんは文学畑出身だけに、「表現言語の問題」に鋭敏である。ちなみに中井さんの『ノヴァーリスと自然神秘思想』は稀代の名著であり、これを読むと「このような知の可能性もあるのか!」とわくわくしてくるものである。
ここでいうテオゾフィーとは「神智学」だが、そう聞いてすぐにブラバツキーを思い出してはいけない。ドイツ思想の文脈では、神智学といえばベーメとその周辺をさすのである。その辺について詳しくは『エゾテリスム思想』という文庫クセジュを見てほしい。ドイツロマン主義はこの神智学からさまざまに影響を受けている。自然神秘思想というのもそういう思想圏内にあるのだが、ここには思想的な可能性の宝庫が隠されていそうである。この21世紀にいたって、彼らが自然の深部に直観していた「万物のつながり」を実感として受け止められる人々が急速に増えてきている。
新しい思想を語るには新しい言語が必要である、ということである。ウィルバーのいう「ヴィジョン・ロジック」というのも、似たようなことのように思うが、彼自身がそれを実践し切れているかどうかという問題はある。
私がやろうというのは、そういうことの「研究」なのではなく、その研究を勉強しつつも、「もしその自然神秘思想家が現在に生きていたらどのようなものを書いたであろうか」という発想のものである。私は実践家である。ロマン主義の研究ではなくて自ら「21世紀のロマン主義」を実践したいのだ。
しかし、きょうのはなんだか、「ちゃんと『研究』もしてるんだ~」というアピールをねらっていたという解釈もありうるかもしれない(笑)
最後に本の紹介。
中井さんの本。おすすめだが、値段を見てびっくりしないこと(笑)。古本なら何割か安いが。
![]() | ノヴァーリスと自然神秘思想―自然学から詩学へ 中井 章子 創文社 1998-03 |
中井さんのノヴァーリス翻訳が読みたいところである。ちくま文庫で出ている訳には、ちょっと不満があるので。
次に、
自然神秘思想の基本書である。特に、そこに入っているシェリングの「クララ」は、『魂のロゴス』のモデルの一つという説もあるくらいである。(これも高いよ)
![]() | 近代の自然神秘思想 キリスト教神秘主義著作集 <16> 中井 章子 岡部 雄三 本間 邦雄 教文館 1998-06 |
もう一つ、
ベーメに関心がある人は、この名著をまず読みましょう。
![]() | ヤコブ・ベーメ―開けゆく次元 南原 実 哲学書房 1991-04 |




