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思考の生命について

このところ哲学関係で、シェリングやその周辺のことをいろいろやっていたが、ひさびさに違う系統をと、シュタイナーの『聖杯の探求――キリストと神霊世界』を手にとる。

これは何というか、「感じた」。これを読んだあと、いつもより微細エネルギーに敏感になっていることに気づいた。そういう感性が活性化されたのだろう。シュタイナーは知性だけでなく魂レベルに作用するように話している、ということがわかる。

「キリスト衝動を、地球の心魂はオーラの中に受け取った。自分の心魂を地球のオーラのなかで感じ、キリスト衝動を共に感じる人間は、星々のなかに書かれているものを再び見上げる」 p.180

かっこいい・・(笑)

つまり、「響くことばだ」という意味である。

この本を通してくりかえし出てくるテーマが、「思考にいかに生命を与えるか」ということだ。もっといえば、思考とは自分の中に働いている宇宙的な力だということに気がつくことだ。「私たちが自分の思考を内的に体験できれば、私たちはイマジネーション認識に到達しています」(p5)というが、単なる抽象的な思考ではなく、思考力によってイメージを受け取るということである。受け取るというのは、宇宙から、高次領域から受け取るということである。これは私たちがふだん思考と考えているものとは同じではない。シュタイナーは、思考を通して、イマジネーション、インスピレーション、イントゥイションと至るということを言っている。それは、私たちが物質領域へ来る前、霊的な世界において体験していた思考のあり方を再活性化するということらしい。

この本には、古代ギリシア哲学が、霊的直観の文化のなごりをとどめているということも言われているが、哲学の本来のあり方とはどういうものだったのか、いろいろ考えさせる。

シェリングの哲学なども、そこにはなおこうした直観的に受け取ったものが生命を保っているのは観察できる。ただそこには、近代特有の、哲学は抽象的な概念体系で叙述されねばならない、という観念が入っている。シェリングは直観の強い人だったので、こうした体系への要請にしたがうべきか、詩的言語で書くべきものか、迷っていたようである。ここでは、狭義の哲学だけを切り離さず、その横にノヴァーリスやヘルダーリンなどがいたことを忘れてはいけない。つまりこのドイツイデアリスムスとドイツロマン主義といわれる精神運動は、なかなか、霊的直観を持った人々がいたということだ。その研究文献も多少読んだが、こういうことを研究している人は、普通の学者に比べると勘がいいというか、話が通じやすい部分があるように感じた。つまり思考の生命力ということを理解しているわけだ。

近代的学問とは、すべて、「人間は超感覚的知覚を持ってはいない」という前提で成立している知識である。シュタイナーのようにこの前提を超えてしまうと、もはや近代的学問の領界に属することはなくなる。あえて「オカルティスト」としての道を決断する、ということを意味していたわけだ。

そこへ行くとトランスパーソナル心理学はどうなるのか――。もし霊的なものが人間の中核にあるということを言いたいのならば、同時に、「人間は超感覚的知覚を発達させうる。その超感覚で認識したことのみが霊的な世界について語りうることである」ということを認めなければならないだろう。そこをはっきり踏み切れず、その境界線近くでうじうじ迷っていてもしかたがないのである。霊性についてやりたいなら、近代的な学問原理を超えて新しいことを始めるのだ、という決断が必要である。それができない人は、要するにフヌケである。個人的には、心理学という立場はどうも、心とは一体何なのか、それを根本的な哲学的探求を欠いたもろもろの「理論」で代用しようとするのはあまりにあいまいすぎて認識と呼べないのではないかと思っている。心理学というのは基本的に臨床のためにあるもので、クライアントがよくなりさえすればどんな枠組みでやろうとなんでもありの世界だと思うのだ。認識と言うより「芸」の世界だと思っている。・・なので私が関心あるのはあくまで「本来の意味での」哲学であり、もっと言えばイマジネーション化された思考である。

「私はゴルゴタの秘儀への接近をとおして、超感覚的なものを受け取る。人類は新しい方法で、超感覚的・内的な感情と認識を持たねばならない。私は死んだ思考を、意識的に超感覚的存在のなかに導入するのだ」p.25

人間は宇宙の深部から「何か」を受け取ることができるのである。つまり人間は宇宙の深秘へと開いている存在である。

なお、「見えない次元の認識」には普遍性がなくて「人それぞれ」だろうと思っている人がいたらとんでもない妄言である。
そもそも物質次元に秩序を認識している以上(そうでなければ世界認識が存立しないが)、その認識する精神にも秩序があるはずである。こういう妄説は、物質次元にある客観的な秩序を主観はそのまま射影するに過ぎない、という要するに素朴実在論の世界観を脱却していないからそう思えてしまうのである。

もちろん物質にも秩序がある(それは世界霊に由来するのだが)が、それをある秩序として認識できる私たちの精神にもまた、「その、世界霊が提供する秩序を認識しうるような構成」をあらかじめ賦与されている。(世界霊とは古代哲学のイデーだが、シェリングがこれを復活させようとしたことに注目している)

精神には秩序があるのだ。そのことがわからないというのは、自分がここに存在しているということの尊厳がわからないということでもあるのだ。

見えない次元の認識が混乱しているとしたら、それは単に超感覚的認識が未発達な段階だからである。実際、人類の現在の進化段階では、著しく未発達であるのはたしかで、そういう混乱した言説があふれているから、しかたがないのかもしれない。

しかしながら、霊的認識の普遍性を信じられないのは、単なる論理というより「魂のあり方」の問題である。「人それぞれ」などという決まり文句で、あらゆる価値の相対性を指摘し、自分が精神的優位に立っていると思いこんでいることほど、精神的に惰弱な状態はない。それはもう、落ちるところまで落ちているのである。

4756501001聖杯の探求―キリストと神霊世界
ルドルフ シュタイナー Rudolf Steiner 西川 隆範
イザラ書房 2006-07

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