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永井晋『現象学の転回』

最近、すごい本が出た。それは永井晋の『現象学の転回――「顕現しないもの」に向けて』である。これは新田義弘など現象学の先端で気づき始めた、「世界地平を生成するがそれ自身は決して現象しない何ものか」を問うことである。

私はこの本に収録された「贈与の現象学」や「神名の現象学」をすでに読んでおり、これが現象学の(哲学の、かもしれないが)現在における最前線だなあという印象を受けていた。それでこの本を手に入れて、その「序論」の意気込みを読んで全く驚いた。

「顕現しない」とはしたがって現象しないことではなく、もしまったく現象しないならばそれは現象学の主題領野から外れ、素朴な実体形而上学に逆行することになるが、「顕現しないもの」の現象性はそれどころか転回的還元によって開かれた現象野においてはむしろ優れて現れるものなのであり、もはやいかなる地平的な「現れないもの」にも制限されることなく現れきった純粋な現象性として、最も現象学の名に値するものでさえある。

まずここだけでも、ふつうの現象学に親しんだ人はびっくりするのだが、さらに次はもっとすごい。

転回した現象学はこうして、厳密に現象学的な意味で捉え直された絶対者への問い、すなわち形而上学となる。あくまでも地平的現象性に定位する現象学にとって、形而上学的次元は「現象しない」不可知実体として還元すべき素朴性にすぎないとされる。あるいはそれはせいぜい地平的現象性の目的論的プロセスを導く理念として想定されるにすぎない。だが、転回した「顕現しないもの」の次元においてはむしろ、「現れる/現れない」の意味が還元によってラディカルに変容するために、これまでの現象学の現象性の枠組みの中では現れないとされてきた「絶対者」、「一者」、「無限」、「神」、「生」などと名指される形而上学的次元こそが純粋な現象性を呈示するものとして現象学の究極の「事象そのもの」となる。形而上学は現象学によって初めてその厳密な形態を獲得するに至り、現象学は形而上学においてその潜在力を発揮し尽くして究極の目標に達するのである。

・・ほとんど椅子から転げ落ちそうなぶっ飛びぶりである。要するに、この「転回した現象学」では絶対者を語れるようになるんだぞということを言っているのである。そして本当の意味で厳密に絶対者を語れるようになったのはこれが史上初めてなんだぞという自負を述べているわけである。

「本当にそんなことができたらそれはものすごいよね」というわけで、あとは本文を読んでのお楽しみである。というわけで、これはすごい本なのである。「どうしてそのような『顕現しないはずのもの』が語れるようになるのか?」とだれしも思うところだ。

これまで私は、現象学の徹底を通じて絶対者に肉薄しようとするミシェル・アンリの思考に注目してきたし、また、「顕現しないもの」を「超越論的媒体性」としてとらえ西田の場所論との交差を考える新田などにも注意を払ってきた。斎藤慶典の『フッサール・起源への哲学』がその「世界を生成しているがそれ自身は現象しない何か」の入口まで迫ったということも理解している。

しかし私は、哲学で問えるのはそこが限界だと考えていた。仮に「世界を生成しているがそれ自身は現象しない何か」(よく分からない人は、カスタネダの言う「集合点」assemblage point みたいなものだと思っていただきたい)を「アーラヤ識」と置くことができるが、それは現象学の方法によっては不可能であり、アーラヤ識を措定することは形而上学/神学の方法論へ移行することを意味している。ここで問題を解決するのは、「現象の地平性を生み出している何か」の働き自体が多次元的であり得、また変容可能なものであるという原理を導入するほかはない。つまり集合点は「動かせるもの」だということ、現象世界を生み出しているそのプログラム(映画「マトリックス」のようなものだが)は、改変/交換可能でもあるということである。「チャンネルを変える」ということであり、シャーマンや覚知者は、そのようなこともできるというわけだ。このように「現象生成のルールが変更される」ということは、自己=世界のモナドが拡大し、自己超越することを意味しているだろう。このような拡大が「一者」の次元、つまり究極まで至ることが神化であり、その時自己は絶対者そのものの自己認識という形で絶対者の知に到達する。このように考えることが、私の基本的な思考法である。これは西田的にいえば「場所的自覚の深化」として理解できると思う。自覚ということがキーポイントである。

これはつまり、自己=世界地平のモナドが絶対者まで到達していない以上、自分が到達していない次元より高次のモナド的世界については、現象する事象として語ることは不可能であり、ただ「神学」として語る以外にはないということになる。私が覚知者であればすべてを自己において現象するものとして、神や一者や叡知、絶対愛について語るであろう。しかしそこまで到達していない以上、それは一つの「神話」として語らねばならないのだ。その意味で神学なのである。神学とは物語なのである。哲学そのものにとっては物語は不要であるが、人間が生きるためには必要なのだ。私が、霊的思想を考えるにあたって、最近キリスト教神学に接近しているのは、そういう意味である。純粋な哲学の立場にとどまっては、決して、現在の自分にとって現象する地平の彼方は問えないということである。

ところが永井晋は、以上のような考え方とは全く異なり、「顕現せざる絶対者は転回した現象学にとって事象として把握される」と言うのである。どうしてそのようなことがありうるのであろうか。そういう意味で、何を言おうとしているのかきわめて興味深い。

序論によると、それはどうも、「像」、つまりイコン的なものに関係しているらしい。

私が考えることは、「自己の世界地平」の彼方からある「神的な力」が到来するということもありうるということである。それがパラマスのいう神のエネルゲイアである。人はそのような、神的なヒエラルキアから到来する「恩寵」の力の助けを借りて、道を進むのであろう。そのような東方神学的な発想と、永井のイコン的思考はどのように関わり合うのであろうか。その辺も見所であろう。

しかしこのブログ、最近はすっかり研究ノート化してきてしまった。はっきり言って自分でわかればいいという感じで書いている・・(^_^;


4862850049現象学の転回―「顕現しないもの」に向けて
永井 晋
知泉書館 2007-03

輪廻神学

野呂芳男の「輪廻神学」として、次のような文章も発見。

そうしますと,別に聖書と矛盾する訳ではありませんから,サムサーラの思想をキリスト教の中に受け入れても差支えないのではないかと私は思います。聖書の中にそういう教えはないから考えることはやめた方がよい,というのでは,納得できません。それでは前にも申上げましたが,私たちはテレビもラジオも,自動車も飛行機も使うべきではなくなります。勿論,私もサムサーラの信仰が,インドではカースト制度を守るために使われていることはよく承知しております。従って,サムサーラにバプテスマを授けて,キリスト教化しなければなりません。サムサーラを神のアガペーによる訓練の期間と見るのです。中世には練獄思想がありましたけれども,これは勿論聖書にはない思想でしたが,教会はこの思想に見られるように,死後における人間の聖化について考えざるを得なかったのです。サムサーラの思想の方が,同じ目的のために私にはより良いものだと思えるのです。生れ死に,生れ死にながら,宇宙空間のどこかで,あるいは,宇宙空間を越えた所で,神の良しとする所で,私たちはもっと愛の訓練を受ける必要があります。この汚れた私たちが,死後いきなり神と1つとなるとは私には思えない。愛は実に忍耐強いものですから,神はおいそぎになりません。私たちも自分の聖化をいそいではいけないのです。無理やりに自分を聖化するなどは,神の愛の何であるかを知らない者のする自己いじめであり,自己義認です。

死をめぐって説教で何を語るか

私に言わせればまったくもって当然の考え方だと思うが・・ 特に「宇宙空間を越えたところでもっと愛の訓練を受ける」というのはいい。こういう想像力を持っている神学者は希有である。

この論文のほかのところでも言っているが、輪廻を肯定するためにはそれとセットとして「霊魂不滅」がなければならないのだ。ところが正統派のキリスト教では、「霊肉一致」を原則とするので、魂が肉と離れて存在すると考えては困るらしいのである。古代教父のオリゲネスなどは、ギリシア的な霊魂観が強くあったので、輪廻を肯定したのであった。

神秘思想とは

私のテーマは、「現代における神秘思想の創造」を追求することにある。そのために過去の神秘思想を研究することも必要だが、決して「研究者」ではない。研究者の翻訳や論文などを利用しているにすぎない。もちろん、ギリシア語などを勉強し、ギリシア哲学やギリシア教父などの原文を少しずつ読みつつ、社会の片隅で「観想の生」を送るという人生も、ある意味でうらやむべきものではあろう。そういう人は日本では数十人という規模でしか生息できていないようであるが、そのような生もまた善因として来世につながるものではあろう。私は家が金持ちでなかったので、そのような超マイナー分野の研究者の道は財政的にむずかしく、できるだけ早く就職できるような道をまず探す必要があった。しかしいま、何の制約もなくやり直すとしたら、思想としては古代の新プラトン主義や、それとキリスト教との交流から生まれた思想を研究対象に選ぶだろう。

というのはこうした思想においては「思想と霊性との分離」が存在しないのである。霊性とここで言うのは、現実の自分の生の問題として「霊」の問題に向き合うという姿勢のことを指している。思想と求道とは分離不可能なものとしてあったということだ。本来、仏教もそういうものだったと思うが。

こういう分野での名著である、ラウスの『キリスト教神秘思想の源流』をもう一度読もうかと思っているところだが、訳者の水落健治氏による訳者あとがきには、なかなか共感することが書いてある。

一つは、哲学と神学とを分離してよいのか、という問題。

哲学の問題を神学から全く切り離して純粋の哲学として考察するという(特に日本の)哲学研究者の態度、あるいは、何か純粋のキリスト教(ないし福音)といったものを安易に想定してキリスト教の問題をただその枠内でのみ考えて行こうとするキリスト教研究者の研究態度に対しては、根底的批判が加えられなければならないだろう。p.357

そして、次に水落氏は「日本の宗教的風土がロゴスを拒否する」という問題をあげる。彼は「一見合理的に見える西欧の思想の根底には、暗く不合理な情念が深く渦巻いている」と指摘し、「西欧における「神学」は、《不合理なるもの・不可解なものの可能な限りでのロゴス化の試み》として捉えられる」とした上で、日本ではこのような「宗教経験のロゴス化を拒否する、つまり「神学」の形成を拒否する」傾向があると提起している。

これは私もかねてから感じていたところなので、つまり日本人には根強く、「霊性の分野における反知性主義」が存在するという印象を持っている。つまり、霊的体験についてはいっさい語るべきではないという考えである。これは俗流の禅が悪しき影響を及ぼしているのかもしれない。

自らの霊的、宗教的体験を深めるべく努力しつつ、その体験に定位しつつ、これを「可能な限りロゴス化」しようとする、新プラトン主義やギリシア教父などの神秘神学は、はたして「いかがわしい」ものであろうか。それをこの現代において同じことをやろうとすることのどこが「いかがわしい」のであろうか。

たとえばギリシア教父が時々書き表している、神的な光を体験するということを、自分自身の体験と比較しつつ考えるというようなことは、本来、思想というものの最もまっとうな道ではないかと思うのである。

このように言うとまた「偉そうだ」と思う人が必ずいるものだが、それでもあえて言えば、私もこの《不合理なるもの・不可解なもの》の深淵を全く知らないわけではないのである。それを「可能な限りロゴス化」するために、その手がかりを求めて東西の思想を調べているのだ。それはあくまで自分なりの「現代の神秘神学」を書くためである。

さらに普遍神学構想について

前回、普遍神学についてのポイントを記したが、まだ大事なことがある。

9 世界生成についての場所論的構想
これは、「世界はどのように生成するか」という世界開闢論にあたる。世界生成の根源としては多次元にわたるアーラヤ識が想定されるが、このアーラヤ識を「場所的なもの」と把握する。これは、新田義弘などによってすすめられている、現象学の世界地平生成論と西田哲学との接近というテーマにも即したものである。ウィルバーにも場所的な考え方はあるが、西田的な意味ではないようである。場所的な発想というのはわかってしまえばそれほど難解なものではない。要は、主体・客体の双方がある根源的な場から生成してくるという発想法である。実はベーメにおける世界生成論もそれに近い表現をしているところがある。普遍神学ではそれを「分開」として表す。これもベーメに由来する用語である。アーラヤ的意識場からの分開として、対象世界と主体とが同時に生成されてくるとみなす。ただアーラヤ的意識場は唯識が想定するように単一次元のものではなく、そこに多くの次元の場が重畳しているのが実態であろうと推定するのである。そしてまた、世界地平が分開しても、その根源の意識場は失われずそこに残るのである。個的意識はそれ固有のアーラヤ的意識場を根源として持つが、個的意識が経験する世界として生み出されるものは、その個的意識のアーラヤ的意識場「のみ」から生成しているのではない。そこには地球的意識場とか、さまざまな次元が関与している。

宇宙には多数の世界空間が重畳している。人間は進化の先頭ではない。そのように考える人は想像力が足りない。人間がいるのはこの意識場の重畳が織りなすヒエラルキアのほんの末端である。地球もまた全宇宙の中でごくローカルな場所であると思う。時間空間が存在しているのはこの地球の物質次元という世界空間の特性であるにすぎず、そこ以外ではそれと異なる世界形成原理が支配しているであろう。

10 さまざまな無意識レベルとカルマ論
輪廻転生思想を受容するからには当然、カルマ論が問題になる。再生の原因として、インド思想でいわれていることである。ここでも普遍神学では基本的に唯識の「種子」(シュウジと読む)説をベースに、それを多次元化する方向で考えている。アーラヤ的意識場を立てれば、そこに蓄積される経験の痕跡、いわば「データベース」として唯識でいう種子をとらえ、これを深層心理学でいう無意識と比定することは困難ではない。アーラヤ的意識場を想定すれば、当然、この記憶痕跡はいまここで展開されている生成世界の経験にとどまらず、もっと他の世界経験の痕跡も含むことが想定され得る。このような、今生には由来しないものに見える無意識内容の浮上は、グロフのトランスパーソナル心理学や、退行催眠から数多く報告されているが、この理論はそれらを完全に説明するものである。また、ユングのいう集合的無意識とは、個的意識レベルではなく、それとは次元の異なる、種族や民族、文化、あるいは人類などの単位でのアーラヤ的意識場に由来する「種子」であると理解すれば、整合的に説明できる。また、魂の成長とは、こうしたアーラヤ的意識場に蓄積した悪い種子を浄化することが重要なポイントとなる。そこから行法論へ展開しうる。神的エネルギーによる浄化というモチーフが、神化へのステップとして浮かび上がってくる。

11 根源としての「I AM」
これは「私が私である」という意識の根源は、神的意識に由来するという考えである。これはヘブライ的な発想に根源を持つが、このように「私が私である」という意識はその根抵において神的自我の遠い反映であるというイデーは、西洋的霊性の根源にあるものだ。だが日本の思想ではこれまで、「安易な無我論」を唱えるインテリが多く、いとも簡単に自我とは無いのだというような思想が多かった。自我を否定すべきものと見る仏教的伝統は根強いものがある。だが私は、安易な無我論に立つ霊性思想には害が大きいと見ている。「私が私である」ことの目もくらむ深み、そして高みを見ることが重要である。「私が私である」ということを私が自覚できるのは、私は根源において神と同質のものであるからだ。

だから、安易に「私はない」と言ってしまわず、「私が私であるということは何にも還元できない」ということを徹底して追求するのはよいことだ。近年、永井均に人気があるのは、彼はひたすらその問題だけを問い続けているからで、そういう問題の深さに気がつく人が増えてきているからである。ただ、永井均にはその問いがあるだけで答えは何もない。これはべつに永井均でなくても、そもそもデカルトをちゃんと読めばそこにそういう問題があることには気がつくはずである。また、フィヒテの哲学は、こうした「I AMの深み」ということを徹底させた思想であることも明白である。自我は否定すべきものという仏教的伝統に影響を受けていると、フィヒテの思想は気が狂っているとしか思えないだろう。フィヒテは、自我の神的な根源を直感したが、そこからどのように世界生成の論理へ持っていけるのかがわからなかっただけなのだ。フィヒテは唯識を知らなかったということである。

私は、この問題は、純粋に哲学的な問いだけで解決できるとは思わない。そこにはジャンプが必要であり、何らかの信仰の立場によらざるを得ないだろう。

シュタイナーが「自我」と言っているのはこの意味での、神的自我を根源とする自我のことである。これは心理学などでいう自我とはまったく違うものである。シュタイナー的な意味での自我とは「神我の反映としての、私は私であるという自覚」を意味しているように思われる。そして、このような意味での私の自覚が生じることを「意識魂」という語で言っているように思われ、意識魂の発達がヨーロッパ近代文化の重要な遺産だったと述べている。
またこのI AMは、アーラヤ識でもない。それよりももっと根源である。単純に言えば、「霊・魂・体」という三分法では、I AMは霊、アーラヤ的意識場は魂に該当する。I AMとは「神の火花」である。もっとも日本の伝統的な「たま」ということばは、霊と魂の双方を含むこともあるが。「いのち」の「ち」が霊に近いものだろう。

ところで、「I Am That I Am」と言うことと、「南無妙法蓮華経」と言うことは、実質的に同じことだと思う。つまりどちらも、神的根源と私とは一つであるということを宣言していることになる。どうしてそうなのかの説明は、やや「ぶっ飛び」の領域に入らないとできないので、ここでは省略する。

12 神的エネルギーと微細エネルギー
これは、これまで述べてきた世界モデルから導き出されるものだが、世界生成は同時にエネルギー論的に把握され、人間の身体性もまたエネルギー的に多重であるという見方が可能になる。ここから、エネルギーによるヒーリングという問題も説明されるし、さまざまな微細エネルギー的な技法についても論じることが可能になる。
宇宙を神的根源からの、多重的な意識場の分開から発するものとして理解するのが普遍神学の立場であるが、これは神的根源からの「働き」という意味でエネルギーなのである(これは「働き」という意味のギリシア語である「エネルゲイア」に由来している)。このエネルギーには世界の次元性と対応した次元性の違いがある。根源近くの神的エネルギーと、物質的エネルギーとの中間次元を微細エネルギーという語で表現する。

たとえば気功では天の気、地の気という、質の違うエネルギーを扱ったりする。これは、どのような意識場にアクセスするかという相違である。微細エネルギーには多数の種類があることは実践家には常識である。これは宇宙には多数の意識場があることと対応するのだ。もちろん悪しき低次元の意識場もある。このような意識場ともつながることはできるが、それがいわゆる「邪道」である。

まだまだポイントはあるが、きょうはこのくらいにしておこう。

ソロヴィヨフと普遍神学の立場

ソロヴィヨフの『神人論』(『ソロヴィヨフ選集2』)を速攻で読んだ。読んでみて驚いたが、メジャーな思想家の中で、私の普遍神学思想にこれほどまで近いことを言っている人は、私の知る限りいないようなのである。具体的には下に書くが、一言でいってたいへん親近感を感じる思想であった。

杉浦秀一は、ロシアの思想家ソロヴィヨフを論じるにあたって、「作業仮説としてのオカルティズム」を提示している(杉浦秀一「ウラジーミル・ソロヴィヨフとオカルティズム」『スラヴ研究』第52号、2005 WEB版あり)。ここでオカルティズムというのは杉浦が独自に定義するものであって、特に否定的なニュアンスを持ったものではない。これはルネサンスのネオプラトニズムを参考にしたということである。ここでは、これをたたき台というかいわば(失礼ながら)ダシにして、現代の霊的思想の問題を考えてみよう。

杉浦の言うオカルティズムとは次の要素を指す。

1. 自然を霊の反映として肯定すること。
2. 検証可能なものという意味で「科学的」である。
3. 人間の努力によって超越的体験が可能だという意味で「人間中心主義的」である。
4. 精神進化論である。

こう見ると、現代の霊的思想もほとんどこれにあてはまることがわかる。たとえばケン・ウィルバーの思想は完全にこの基準に合致している。ウィルバーは特に2の点を強調している。
しかしながらソロヴィヨフについて見ると、2の「科学的」というのはちょっと無理がありそうだ。人間に認識可能なものだといっても、「この絶対的な実在は、ただ直感として、内的な啓示としてのみ理解できうるものである。すなわち、この実在は宗教的知識の対象であるのだ」(『ソロヴィヨフ選集2神人論』p20)とソロヴィヨフは言っている。そういう霊的知識と科学的認識を同一に論じるのはカテゴリーエラーであろう。
また3についても、人間中心主義という表現は妥当と思えない。杉浦は、一方にアウグスティヌス的な絶対的恩恵論の立場を据えてこれを「宗教」と見なして、その対極としてオカルティズムを措定するという発想に立つ。冒頭にウェーバーによる宗教・呪術の定義づけをあげているが、これにしてからが同様の西ヨーロッパ的なバイアスを免れていない定義である。ソロヴィヨフが立つのは、東方キリスト教に伝統的な「神人協働論」の立場であろう。東方キリスト教神学ではこの点に長い議論の歴史があるので、それをよくフォローしていれば人間中心主義というような言い方は出てこないのではないか。ソロヴィヨフ思想を論じるについては、ルネサンスのネオプラトニズムよりもまず東方キリスト教の神化思想を取り上げるのが普通ではなかろうか。つまり神学的視角が薄いということがこの論文全体を通しての弱点になっている、と私は見る。

4精神進化論についても、第一にソロヴィヨフ哲学は「神学」であるということを考えれば、当然、キリスト教終末論との関連で論じられることが妥当だと思われる。比較するならば他の神学者の終末論を取り上げねば、ソロヴィヨフの特質は解明されない。キリスト教終末論の多くに「精神進化論」は含まれるものだからである。

というわけで、全体としては、この「オカルティズム」という作業仮説は、次のように修正すべきだろう。

2 → 人間に認識可能なものであるという意味で「グノーシス的」(「科学的」ではなく)。
3 → 人間と神(あるいは神的ヒエラルキア)双方の力が協働すること(これはアウグスティヌス=西欧的キリスト教における「絶対的恩恵論」との対比で言われることである)
4 → 未来世における人類と地球の「神化」をヴィジョンとして肯定する終末論。(終末論については、これを実際の歴史に展開するものと見るか、個々人の魂において起こる出来事なのかという二つの見方が、神学にはある。後者は、具体的な歴史の終末が信じられなくなった現代人の生み出した神学であるが、私が立つのは前者の終末論である)。

これを私は「霊的思想」の基本的枠組みとして理解する。また「オカルティズム」という名称も変えた方がいいだろう。

私の普遍神学にはこの4があるのが特徴である。それを「遠い未来の思い出」という言い方で語った。またウィルバーは2について、修正前の杉浦バージョンと同様に「霊的認識は検証可能であり、その点で科学と同じである」と主張している(科学と同じ方法論で認識できると言っているわけではない)。それについては疑問があるが、ここでは省略する。

4項目のオカルティズムという枠組みは上記のように修正するべきであろう。そうすると、私自身が構想している「普遍神学」の立場では、上記4項目をすべて含んでいることがわかる。それに加えて、普遍神学からは次のポイントを付け加えることができる。

5 神化への過程としての輪廻転生
終末論ヴィジョンと関連するが、人間は輪廻転生を経て神化へと向かうということ。これがシュタイナーら近代オカルティズムで出てくる思想である(一説にはレッシングがこの説を言っていたという。未確認だが)。現代では野呂神学に見られる。また前世退行催眠からくる「情報」はこれと合致している(これら退行催眠から得られる情報はあくまで「情報としてこういうものがある」と受け止めるべきで、「証明」として考えるべきではないというのが私の考えである)。この4と5を含めて、宇宙論的な「神の経綸」として考え得るのである。このような宇宙論的な思索を見失った神学は、自らの首を絞めることになるだろう。この輪廻転生概念はもちろんソロヴィヨフにはない。

6 魂の実在性について
輪廻転生を肯定する以上、輪廻する主体としての「魂」が(ある次元においては)一定の実在性を持つことを承認しなければならない。それは肉体の死より前にあり、死の後にもあるものである。これは、唯識でいう阿頼耶識に該当するものとして、いちおう考えることができる。ただし、唯識ではすべての世界地平は自己の阿頼耶識から生ずることになるので、言ってみればフィヒテにも少し近いような、絶対的な自己の展開として世界を理解するという方向になるだろう。しかし存在するものにはそれぞれ阿頼耶識的な根源があり、それぞれの世界性は互いに重畳しあってこの世界地平が成立すると考えることもできる。そうするとこれはモナド論的な宇宙観に接近するわけである。同時に、各モナドを包含して調和させる高次のモナドが想定され、それを論理的につきつめれば「全一」つまりすべてを包含するモナドが想定される。興味深いことにソロヴィヨフの『神人論』には明らかにこういう方向の思索が見られた。メジャーな思想家の中でこれほどに私が考えてきたことに近いことを書いている人はソロヴィヨフの他にはいなかったのである。(なお、ソロヴィヨフにおける根源存在の考えと唯識との共通性については、慶應大学の研究者がすでに気づいているようである。その論文は取り寄せ中である)。

7 神的な世界と地上世界との「媒介」について
人間はいかにして神的な世界に上りうるのか? これについては、人間は無力であって徹底的に恩寵によるほかないというアウグスティヌス主義と、自力で上りうると考える自力主義、そして両者の協働であるという、三つの考え方があるだろう。当然ながら両極端ではなく第三の立場が妥当なものであり、空海もそのことを述べている。純粋な自力主義などはあり得ないし、霊的実践の具体相を知らない人の考え方であろう。

プロティノスの書くものには、神的な世界から「落ちてしまった」という悲哀の念と「望郷」のトーンが色濃くあり、これはグノーシス的な思想一般の特徴である(貴種流離の物語は、そうした世界精神の変奏である)。こうしたネオプラトニズムの思想だけでは、実際に神的な世界を知り得ない、つまり救済されないという動機から、「媒介」としてキリストを受け入れるという方向は、古代思想の基本線である。したがってソロヴィヨフが神人の媒介としてキリストを立てるのはそういう基本にのっとったもので、ごくオーソドックスなキリスト教思想であると言える。同時代の神学から見れば奇異にも見えようが、ソロヴィヨフは「遅れてきた古代教父」だと思えばわかりやすい(ちなみに教父の神学――オリゲネス、シメオン、パラマスなど――は現代の霊的思想にとって多大なヒントを含んでいる)。つまり「神が人となったのは、人が神となるためである」という東方キリスト教の基本原則である。

私の思想が「普遍神学」ではあるのは、この神人媒介性を、キリストに「のみ」認めるという限界から解放する点にある。普遍神学では、媒介となり、人を神的な世界へと引き上げるのは、天使・菩薩等のヒエラルキアである。この発想は、もともと密教をバックグラウンドとし、曼荼羅世界をホームグラウンドとしている私には当然の発想である。キリストやそれに連なる天使・聖人たちもこの宇宙的な曼荼羅パンテオンの一角を占め、縁ある人々を導いてやまないのである。そしてこのヒエラルキアを、先に述べたモナドの重畳性・階層性における高位のモナドとして存在論的に位置づけることができるということである。またいわゆる守護神・守護霊も、ヒエラルキアの一環として位置づけることができるのである。つまりこの考え方は、密教的・曼荼羅的な「包摂」の発想から成っている。ただし、人類史におけるキリストの特異な意義は十分に承認しているものである。なお、野呂神学における民衆仏教の位置づけも、この考え方と一脈通じるものがありそうである。
それから、人は地上的な輪廻を脱すると、このヒエラルキアの一員に加わってさらなる修業をしていくのではないかと私は想像している(ヴィジョンであって根拠はない)。

ケン・ウィルバーは基本的に(禅の出身であるからか)自力主義に傾いており、媒介の必要性を軽く見積もっている。それがウィルバーに対する主要な疑問点の一つである。それは西欧のキリスト教を支配してきたアウグスティヌス主義への反動で正反対に振れすぎた結果ではないかと思う。

なお杉浦秀一は「ロシア・プラトニズムとウラジーミル・ソロヴィヨフ」(「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集12、2006 WEB版あり)の中で、ソロヴィヨフは神人の媒介としてのキリストを立てたが、具体的・個別的場面での「現実的力」を提示できなかった、と書いている。しかしここでいう現実的力とは、いったいどういうものを期待しているのであろうか。キリストの力が、具体的場面に生きる私の中に作用することで十分ではないだろうか。それ以上に何を期待しているのか私には言いたいことがよくわからなかった。そもそも霊的思想を具体個別の中で実践していくのは思想を受け取った者の仕事である。霊的思想とは、イデーの提示を通じて、そのイデーの中に生きている霊的なエネルギーを分与するのがその使命なのではないだろうか。千差万別の具体的場面でどうしろというようなことを提示できる思想などあるはずがないだろう。というわけで、これは一体何を言おうとしているのかと思ったわけである。こういう批判ならどういう思想にだってあてはまる。ヘーゲルの思想は具体的な場面での現実的力を提示しているか? それでは駄目だからヘーゲルを転倒せよ、と言ったのはマルクスなのである。マルクスのような思想ならよいのか?
ただ、たとえば東方キリスト教のヘシュカズムとか、インドのヨーガ、密教の行法・・・・・等々の、神化のための「方法論」のことを言っているのであれば、ソロヴィヨフにはそういうものはないとは言える。しかし現代の精神状況にあっては、方法論については人それぞれ機縁のあったものをやっていくしかなく、特定の方法論のみをすすめるというわけにもいくまい。しかし杉浦はどうもそういう方法論のことを言っているわけでもないらしいので、よくわからないのだ。

8 中間的次元について
ヒエラルキアの話と関連するが、普遍神学では、物質次元と究極絶対者との中間に、存在の次元性をいくつか想定している。これは根本的には過去の霊的思想、特にインドのヨーガ哲学とイスラームの神秘哲学(井筒俊彦を媒介とする)にヒントを得て、ヒューストン・スミスの永遠の哲学、ケン・ウィルバー、S・グロフなどトランスパーソナル派やサイコシンセシスの意識モデルなどを参考としている。このようにして宇宙全体を意識レベルにおける階層性を持つものとして構想する(これをモナドの階層性として把握したウィルバーの発想は妥当なものとして受け入れている)。こうした発想はキリスト教神学やソロヴィヨフの思想にはないものである。この基本的な構想は井筒俊彦の思想にも見られる。

なお書き残したが、

1 自然を霊の反映として肯定すること。

については、当然ながら、ディープ・エコロジーを包摂することが考えられる。また、シェリングの自然哲学などとの対話が期待できることである。そのポイントとして、シェリングやプロティノスなどに見られる「世界霊魂」コンセプトの再検討というテーマがある。これは6と関連する。つまりすべての存在者はそれぞれ根源実在を持っていて(これは素朴な文化では「精霊」としてイメージされたものと同じである)、その多数の根源実在を包括して統御するより高次の原理が想定できるとすれば、当然ながら人間と自然(正確には地球的存在者から人間を差し引いたものだが)はこの高次レベルでは同一のものに包摂されていることになる。これは普遍神学では「地球の魂(アニマ・テラエ)」として提示されたものである。

このブログに時々立ち寄る人も、著書を読んでいない人も多いらしい(アクセス数と、本が売れた数を比較すると、どうも買った人の割合は少ないようである)。なので、いままで時々の「ぶっ飛び話」やプラクティカルな本の紹介などを楽しんだ人も、私の本業である「普遍神学思想」というものがどういうものか全体としては知らない人が多いだろう。それを考えて、いちおう基本的な構想がわかるように書いてみた。ぶっ飛び話は、頭だけで考えている人だと思われるのがいやなので、ときどき思わせぶりなことをちらちら書いているという戦略なのである。

まとめてみよう。ソロヴィヨフの霊的思想を理解する枠組みとして、杉浦秀一が提示したオカルティズムの4項目というものを修正して、それを私自身の普遍神学構想に当てはめ、5~8を追加した。そこで、ソロヴィヨフの思想には、5の輪廻転生概念と8の中間次元論をのぞく6項目が普遍神学と一致していた(7について普遍神学ではキリスト中心主義からの拡張をはかっている)。以上のことが確認されたということである。普遍神学も、プラトン主義、東方キリスト教≒大乗仏教、ライプニッツ・スピノザ的モナド論などを溶け合わせているので、かなり似たタイプの思想になっているのだった。この思想は言うまでもなく「科学的」ではなく、言ってみればキリスト教神学のように、どのように宇宙を見るのかというヴィジョンに属するものである。しかしこの枠組みによって、いま世の中にいろいろある「霊的情報」はほとんどみな位置づけることが可能だと思う。この「スピリチュアル思想」は原理的に科学ではないが、十分に「学問的・知的」なものとして構想することは可能なのである。

なおトランスパーソナルとの相違を述べる。トランスパーソナルでは、1, 2, 3, 8が共通して言われている要素だと思う。4の精神進化論はウィルバーが論じている。しかしウィルバーは上にあげた類型でいえば二番目の「個人内で完結する終末論」である。具体的な歴史における終末論はトランスパーソナルにはない。5輪廻転生については Christopher Bache などが興味を示しているが一般的ではない。6魂の実在についてトランスパーソナル界ではなおあいまいな反応が多いようである。7媒介の問題については「宗教の領域」と考えるのか、ほとんど見られない。以上のような状況である。したがって、普遍神学は、トランスパーソナルで言われている問題系をほぼ含むが、それにはない要素が数々存在するのである。トランスパーソナルは心理学から出てきた考えで、そこには心理臨床への応用ということがどうしても頭にあることが多い。そのため、5~7などは「宗教的」な内容なので、すべてのクライアントに同意してもらえるものではないので、及び腰になるという問題もある。しかし思想ということであればそういう制限はない。その違いはある。

このように霊的思想ということが、キリスト教というような宗教的な限界を超えて普遍的に論じられることは、トランスパーソナルをのぞけばあまりない。トランスパーソナル陣営の中でも、心理学者などがほとんどで、思想をやっている人は少なく、ウィルバーなどが読まれているだけで、理論的に、包括的な霊的思想とはどういうものかという議論はほとんどなされていない状況である。その意味で、上のようなことを一度どこかできちんとした形で発表しておくことも必要であろう。さしあたって次に、トランスパーソナル派の中からFerrerのトランスパーソナル理論の検討をしてみる予定がある。

思想よもやま話

東方キリスト教の流れで、ロシアの神秘哲学もおもしろそうだなあ、などと思い始め、WEBでソロヴィヨフとプラトニズムについての論文を見つけて読んだ。

そういえば、私はソロヴィヨフ選集を持っていたのです! 実は読んでなかった(笑)のだけれど、いつか読むかもと思って古本屋で買っておいたもので、ついにその読むときが到来!

ロシアの思想というと何となく美的プラトン主義という印象があるのだけれど、どうなのだろうか。私は高校時代にロシア文学に読みふけり、よっぽど大学ではロシア語をやってロシア文学をやろうかと思ったのだけれど、食えなそうだったのでやめておいた。学部時代、隣の研究室が露文学科だった。思った通り就職状況はひどいようだった(笑) オーバードクター目白押し。聞いた話だが、その露文の院生のアルバイトとして有力だったのが、北海道の北方領土近くに出漁する漁船に乗り込むというもの。こういう漁船は、境界をちょっと超えてロシア支配地域に入って漁をし、見つかると全速力で逃げるのだそうで、万一拿捕された場合の通訳としてロシア語ができる人間を雇うという話であった。

ともあれ、ロシアの哲学、宗教思想についてももう少し勉強する予定である。ソロヴィヨフは「世界霊」というイデーを持ち出すのだが、これには特に重大な関心がある。

あと、とんでもない本を買ってしまった。『ギリシア教父の伝統における神化の教理』(原題 The Doctrine of Deification in the Greek Patristic Tradition)。すごいむずかしそうな専門書で値段も6000円以上した。

昨日も書いたが、東西霊性の融合について、ギリシア系キリスト教の神化思想は重大な意義を持っている。あとは、仏教をテオゾフィーとして捉え返すという作業をやることである。禅など、ほとんど「経験がすべて」という立場であるはずなのに、どういうわけか「語られる」ことが多い・・

あとは

新田義弘「知の自証性と世界の開現性――西田と井筒」思想. (968) [2004.12]

井筒俊彦の神秘哲学が本格的に論じられるのは初めてに近いだろう。ここでは西田哲学との近縁性も指摘され、現象学における「世界のはじまり」を問うという問題系の中心へと接続している。本質的なことがらへと鋭利に斬りこむ切れ味はなかなかのものである。しかし、ここでは、徹底的な世界の還元(「世界を止めること」)から、世界を取り戻すという過程が描かれているのだが、それは言うほど簡単に実現可能なことだろうか。新田自身も、なおそこにはアーラヤ識的な深層的イマージュ(これは井筒風表現だが)が残るという事態を予想している。世界を止めることの絶望的な不可能性に直面するのが実践者の道である。

まえがきで、きわめて簡潔に、

現象学の方法的思惟の上に起きる対象化的反省の挫折と、世界の地平的現出の拘束からの解放という、一連の臨界状況の出現を、経験の根抵における種々の差異化機能の解明を通して考察してきた。

と、現象学の立場を語るが、かなり現象学を勉強していないと、この文章の意味はまったくわからないだろう。この文章を理解できない人はこの論文は理解できない。非常に簡潔でシャープな表現は新田独特のものだが、とっつきが悪いことは事実である(笑) また、この文章がわかるほどの人であれば、そこで書かれていることと、井筒や西田の思想がきわめて近いポジションにあるらしいことは直観できると思う。

哲学を初心者に教えようとするとき、まず、世界は見えるままにそこに実在しているのではなく、世界がそのように現れているのは私たちの側にある構成作用の結果である、という認識論のいちばん基本のところが、どうしてもわからない人が多い。半分くらいの人はそれが最後までわからないままなのである。それがわからないと、「世界を止める」(これはカスタネダのコンセプトだが、現象学の還元と同様である)ことによって、世界が生成する原初を見ようとする・・ということがいかにスリリングな行為であるか、ということもわからないだろう。その世界を生成せしめている、謎の「X」を考えるということの意義もわからないであろう(新田義弘が言う「超越論的媒体性」とはこの「X」のことを指している)。どうも何とかしなければならないが、無理に哲学など勉強する必要はないし・・とか、それを言っちゃあおしまいであるが(笑) 万人に向いているものではないことはたしかである。世界の実在を問うということの意味がわかるというのも大変なことなのである。

もっとも、そういう最初の一歩がどうしてもわからなかったような人が、「科学的世界観」などという阿呆なことを平気で言ったりしているのであるから、少なくとも思想や世界観について語ろうという人は理解しておく義務はあろうと思っている。

輪廻・神化と普遍神学

人間学序説--輪廻思想を中心にして (共同研究 綜合仏教研究所研究助成中間報告) / 輪廻思想研究会
大正大学綜合佛教研究所年報. (通号 19) [1997.03]

このような論文があって、輪廻思想をまじめに研究しようというものであるらしい。
この中で、キリスト教神学者の野呂芳男が、輪廻転生を承認し、それを組みこんだ神学を考えていることを知った。野呂氏の名は、ウェズレー研究者としては知っていたのだが、輪廻神学を構想していたとはうかつにも知らなかった。

いうなれば野呂は輪廻転生・再生(reincarnation)を最後の審判すなわち最後の救済にいたるまでの期間、神のアガペーのもとで不信仰者が信仰篤き者になるまでの、何度も何度も生じて滅する神より課せられたトレーニングとして積極的に捉えるものである。
つまり、サムサーラとカルマは、神が万有を最終的に救済していくための訓練だというのである。

ここで、「精神世界」文献に親しんでいる人は、この思想が特に耳新しいものではないと感じると思う。たとえばエドガー・ケイシーやシルバーバーチなどにも出てくる考え方であるからだ。

野呂氏はあまりそういう本は読んでいないだろうが、このような考え方が出てくるのは一つの「時代精神」であろうと思う。つまり誰が最初に言い出したということはなく、いつのまにか多くの人に広がってきている「イデー」がそこにあるのだ。シュタイナーはすでに100年前に、「キリスト精神と輪廻転生思想が結びつくことが現代の霊的思想の課題だ」と語っていた、ということは以前このブログでもとりあげたはずだ。これまでの仏教やインド思想の輪廻思想では足りないものがあり、また、これまでのキリスト教にも足りないものがあるのだ。伝統的なインドの輪廻観は、非常に輪廻をネガティブに見る感覚が支配的であり、ひたすら輪廻からの解放を願うというものであったらしい。輪廻転生を、「経験による成長のチャンスを神が与えてくれたものだ」と積極的に捉えるという発想は近年になって急速に拡大したイデーである。なお、イデーとは「宇宙(究極的には神)から人類に贈られたものである」というのが私の「普遍神学」的な考え方だが、これについて詳しくは著書にゆずりたい。とりあえず、こうした輪廻観が、現代に出てくるいろいろな文献、情報においては支配的だというのは、何か深い意味がありそうだとは言えるだろう。その考えは、究極的には、つまり宇宙的な視野においては、おそらく「正確」ではないだろう。それはあくまで現段階の人類に理解できる形に変形されたものであろう。それでもなお、現段階に生きる人類の一人としては、このような思想に「賭ける」意義というのはありそうである。ここで「賭ける」と言うのが「神学」たるゆえんである。究極的なことがらははっきりと証明することができるはずのないことである。知り得ないことについて考え抜いた上で、「こうだろう」と飛躍することが信仰である。そういう意味の信仰を必然的に含むから神学というのである。逆に、自分の思想はいっさい飛躍を含まない、すべて証明可能なものですなどという思想家はどうもマユツバだと思う。それは、自分は無謬であり、つまりは救世主であると言うのと同じことになるからである。私は覚者ではないし救世主でもないので、飛躍を決断することは当然である。つまり広い意味での「神話」を語ることになるわけである。

野呂氏の神学の話に戻るが、そこで「救済」というのはおそらく「永遠の生命を得る」ことであろう。もっとも人間は最初から永遠の生命を持っているので、それを自覚するということだろう、と私は思うが。しかし野呂氏はプロテスタント系であるので、救済から一歩進んで「神化」を言うことまでは至っていない。

神化とは、文字通り、人間が神と合一するという神秘のことである。このことは、カトリック、プロテスタントなど西方ラテン世界のキリスト教では原則として認められていないことだが(例外はいろいろある)、ギリシア語圏の東方キリスト教(ビザンチンを中心とする)ではむしろ神学の基本テーマだったという。私はその昔、ロースキーの名著『キリスト教東方の神秘思想』に衝撃を受けて、おそらくあれほど何度も反復して読んだ思想書はほかにないだろう。実は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とか、ああいう世界は東方キリスト教のスピリチュアルな世界を土台にしている。

仏教とは、人間が仏になれるという思想である。つまり人間は神になるということである。「えっ、そうなの?」と思った人は、不幸にしてこれまでまともに仏教についての教育を受けていなかったのだと思ったほうがいい。仏教は、人間が仏になるということである。そのことは一銭もまからないことである。禅とか念仏、密教というのは、そのための方法論によって分かれているだけである。

日本の仏教学者に対する大きな不満は、仏教の本質は人間の神化であるという根本を見る目がしっかりしていないことである。つまり、仏教とはいかにとんでもないことを言っているのかということをもっと自覚した方がいいということである。

私がこんなブログでどんなぶっ飛びを書いたところで、「人間は神になれるんですよ」ということほど巨大なぶっ飛びはないのである。そのようなぶっ飛びを根本に持っている宗教が、文化の根底をなしているのが日本なのであって、そのような国に生きているというのはどういうことかをもう一度しっかり考え直した方がいい。そのための「鏡」として、東方キリスト教について知ることは有益である。

私は、世間で「悟り」ということばが安易に使われているのに我慢がならない。悟りとは神化のことである。神になったということである。それがそんな簡単に達成できることであろうか。神とは全知であり全能である。

たぶんそこにはキリスト教で言う「救済」と「神化」というまったく違うことが「悟り」ということばでは未分化に含まれているのだろう。そういうあいまいさが問題なのである。私は、スピリチュアルな成長として、この二つをしっかり区別することが大切だと思う。

救済とは、永遠の生命を知ることである。
神化とは、さらに階段を上り、ついに神と合一するという神秘を達成することである。

さらに言えば、救済とは仏教でいえば「菩薩の初地」に該当する。つまりやっとスタートラインに立ったという状態である。救済と神化とは無限に離れている。その中間段階に菩薩や天使の階梯があるのだろう。

このように仏教とキリスト教は、東方キリスト教という媒介項を入れると、統合されたヴィジョンが見えてきそうである。それが普遍神学の構想の一つのポイントでもある。もっとも、東方キリスト教についての認知度は低くて、超マイナーなマニアックな分野だと思われているらしい。以前、出版交渉で、ある編集者に「東方キリスト教の神学を取り入れて普遍神学を・・」と口に出した瞬間に、「ああ、うちではだめですね」と言下に言われてしまったことがあった。そんなもの売れるわけがないという強い印象があったようである。

最近では落合仁司という人の本が何冊か出ているのだが、この人のものは、知的にはおもしろいのだが、知的好奇心だけで書いている本で、自分自身がスピリチュアルな世界に熱い思いを抱いている人では全くない。学者の本であって思想家のものではない。

東方キリスト教神学と仏教――神化とニルヴァーナ (特集 人類的課題と宗教) ―― (ロシア科学アカデミー東洋学研究所との共同シンポジウムより) / 山崎 達也
東洋学術研究. 45(2) (通号 157) [2006]

こっちの論文は、一見おもしろそうなテーマである。神化の話は専門らしくてよく書いてあるのだが、仏教論になるととたんにレベルが落ちてしまう。仏教の本質も「人間の神化」にあるのだと、東方キリスト教を媒介として仏教の再解釈を断行していこうという方向性がもう一つ打ち出せていないのは残念なところである。仏教理解が深くないので対話として十分に成立できなかったという感じである。

オリゲネスなどギリシア教父でも輪廻思想は受け入れられていたので、「アガペーの中での輪廻」というイデーと「最終的に、人間は神化へと向かうという神の意志」というイデーは、十分に統合しうる。だから野呂氏の神学もさらに終末論の分野で「人間と地球の最終的な神化」という東方キリスト教的なイデーを受け取っていけば、より豊かな統合へ向かえるはずである。それを仏教思想をも視野に収めた上で遂行しようというのが、私が構想する普遍神学である。

なお野呂氏の輪廻思想を含む神学について、さしあたって次の論文をWEBで読むことができる。

民衆宗教としてのキリスト教――万有救済説を中心とする一考察――

ここでは、輪廻の主体とは何なのかという議論や、霊魂の不滅性をめぐる議論なども含まれている。

この論文では、障害者として生まれたカルマについて議論されていて、

神が欲したが故にその人々は障害を持っているのではなく、神の意志に反して、無の持つ不条理の故にその人々は障害者なのである。

などと書かれているのは、どうも野呂氏は「神と無」という二元論的な理解をしているらしいのである。またここでは「障害という課題を自ら魂次元で選択した」という発想をする方が、より「アガペーの中での輪廻」とうイデーに忠実な理解である(退行催眠からの情報ではそのような話も多いようだが)。

公平に見て、そのイデーとしての実現度から言えば、精神世界文献における輪廻理解の方が、野呂氏よりも進んでいるように思う。いいかえれば、アガペーと輪廻とのイデー的融合は、思想の次元ではまだ実現していないということができる。

しかし、輪廻ということは、ただちに、輪廻する主体は何か、死を超えて生きる魂というものがあるのか、という問いになる。そのことは上の論文でも明白である。野呂氏ははっきりと魂の不滅を肯定する。

仏教では輪廻主体の問題について、無我説との葛藤から、唯識でのアーラヤ識説が立てられた。この唯識思想が、輪廻神学としては過去の思想の中でもっとも「真相に迫ったもの」ではないかと私は判断している。ただ世界の生成をすべて個的なアーラヤ識として立てることには無理があると考えて、「集合的なアーラヤ識」があること、つまり「世界霊」というべき次元があることを考えた。世界霊というコンセプトそのものは西洋古代哲学にあることである。私が思うのは、宇宙に存在するものにはすべてそれぞれのアーラヤ識的な根源があるということである。その無数のアーラヤ識が多重に重畳し調和しているという、ライプニッツ的な宇宙調和を思い描くことができる。このような世界ヴィジョンについて詳細は著書をごらんいただきたい。この本、ひとつ野呂氏に一冊贈ってみようかしら。

むなしき空に春雨ぞ降る

最近、スローモードである。

雨の日の独特な、しめった大気や土、植物のにおいは独特で、玄関先に出るだけでも、不思議な存在感覚がやってくる。

花は散りその色となくながむればむなしきに空に春雨ぞ降る  式子内親王(新古今149)

影印校注古典叢書


このところこのブログも、「ぶっ飛び」はすっかり封印である(笑)

影印本読解を趣味としてやっていると書いたが、新典社というところから出ている「影印校注古典叢書」というものを買ってみた。「伊勢物語」である。これは、上段に翻刻、下段に影印の縮小したのが出ていて、読みやすくできている。

昭和50年の初版で26刷、かなりのロングセラー。
さらに解説書として『日本古典文学全集』の古本も入手しているのだが、こちらも30年以上前の本。本が大量に出てはすぐに消えていく最近のことを思うと、これだけですでに、山にこもって隠棲しているような雰囲気が漂ってしまう(笑)

この本の読解は、高野切や元永本などで鍛えている私にとっては、かなりの楽勝だった。99%くらいはわかる。「書」として書いているものとちがって、この写本は読みやすいようにと書いているので、何種類もの変体仮名を使い分けるということもないし、慣れてしまえば現代の手書き文字を読むとたいして差はない。しかし元永本にくらべて、読みやすいというだけで「美しさ」は特にない。それは書道のお手本になるようなものとくらべると雲泥の差である。

きのうはなぜか妙に心が落ち着かない、イライラするような感じがあったのだが、あとでアメリカの乱射事件と長崎市長の事件を知った。このような報道などをあまり見過ぎるのは毒というものである。そのようなときに、古くから伝えられている「堅固なもの」の世界があるということは救いになることでもある。

こちらの叢書、次は徒然草、方丈記、桐壷などを買ってみようと思う。

このところ

最近どうも忙しくて・・

今咲いている花: パンジー、マリーゴールド、ゼラニウム、デイジー、シデコブシ、レンギョウ、沈丁花、ユキヤナギ、わすれな草、オーニソガラム、ユスラウメ、クリスマスローズ。

このところ趣味として少しずつやっているのが、影印本でゆっくりと古典を読むこと。
「元永本古今集」を買い、下巻一、二を読破。上巻は前に読んでいるので、全巻を読んだことになる。
古いものにじっくり親しむのはなかなか風雅である。

調べると影印本は意外とたくさん出ている。わりと安い。
書道のお手本の他、国文学科のテキスト用という需要もあるらしい。
次はどれにするか。新古今、伊勢物語、竹取物語、方丈記、徒然草、更級日記、源氏物語・・

次のような入門書も出ているので、趣味として始めてはいかがだろうか。

4473032655一週間で読めるくずし字 伊勢物語
兼築 信行
淡交社 2006-01

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