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さらに普遍神学構想について

前回、普遍神学についてのポイントを記したが、まだ大事なことがある。

9 世界生成についての場所論的構想
これは、「世界はどのように生成するか」という世界開闢論にあたる。世界生成の根源としては多次元にわたるアーラヤ識が想定されるが、このアーラヤ識を「場所的なもの」と把握する。これは、新田義弘などによってすすめられている、現象学の世界地平生成論と西田哲学との接近というテーマにも即したものである。ウィルバーにも場所的な考え方はあるが、西田的な意味ではないようである。場所的な発想というのはわかってしまえばそれほど難解なものではない。要は、主体・客体の双方がある根源的な場から生成してくるという発想法である。実はベーメにおける世界生成論もそれに近い表現をしているところがある。普遍神学ではそれを「分開」として表す。これもベーメに由来する用語である。アーラヤ的意識場からの分開として、対象世界と主体とが同時に生成されてくるとみなす。ただアーラヤ的意識場は唯識が想定するように単一次元のものではなく、そこに多くの次元の場が重畳しているのが実態であろうと推定するのである。そしてまた、世界地平が分開しても、その根源の意識場は失われずそこに残るのである。個的意識はそれ固有のアーラヤ的意識場を根源として持つが、個的意識が経験する世界として生み出されるものは、その個的意識のアーラヤ的意識場「のみ」から生成しているのではない。そこには地球的意識場とか、さまざまな次元が関与している。

宇宙には多数の世界空間が重畳している。人間は進化の先頭ではない。そのように考える人は想像力が足りない。人間がいるのはこの意識場の重畳が織りなすヒエラルキアのほんの末端である。地球もまた全宇宙の中でごくローカルな場所であると思う。時間空間が存在しているのはこの地球の物質次元という世界空間の特性であるにすぎず、そこ以外ではそれと異なる世界形成原理が支配しているであろう。

10 さまざまな無意識レベルとカルマ論
輪廻転生思想を受容するからには当然、カルマ論が問題になる。再生の原因として、インド思想でいわれていることである。ここでも普遍神学では基本的に唯識の「種子」(シュウジと読む)説をベースに、それを多次元化する方向で考えている。アーラヤ的意識場を立てれば、そこに蓄積される経験の痕跡、いわば「データベース」として唯識でいう種子をとらえ、これを深層心理学でいう無意識と比定することは困難ではない。アーラヤ的意識場を想定すれば、当然、この記憶痕跡はいまここで展開されている生成世界の経験にとどまらず、もっと他の世界経験の痕跡も含むことが想定され得る。このような、今生には由来しないものに見える無意識内容の浮上は、グロフのトランスパーソナル心理学や、退行催眠から数多く報告されているが、この理論はそれらを完全に説明するものである。また、ユングのいう集合的無意識とは、個的意識レベルではなく、それとは次元の異なる、種族や民族、文化、あるいは人類などの単位でのアーラヤ的意識場に由来する「種子」であると理解すれば、整合的に説明できる。また、魂の成長とは、こうしたアーラヤ的意識場に蓄積した悪い種子を浄化することが重要なポイントとなる。そこから行法論へ展開しうる。神的エネルギーによる浄化というモチーフが、神化へのステップとして浮かび上がってくる。

11 根源としての「I AM」
これは「私が私である」という意識の根源は、神的意識に由来するという考えである。これはヘブライ的な発想に根源を持つが、このように「私が私である」という意識はその根抵において神的自我の遠い反映であるというイデーは、西洋的霊性の根源にあるものだ。だが日本の思想ではこれまで、「安易な無我論」を唱えるインテリが多く、いとも簡単に自我とは無いのだというような思想が多かった。自我を否定すべきものと見る仏教的伝統は根強いものがある。だが私は、安易な無我論に立つ霊性思想には害が大きいと見ている。「私が私である」ことの目もくらむ深み、そして高みを見ることが重要である。「私が私である」ということを私が自覚できるのは、私は根源において神と同質のものであるからだ。

だから、安易に「私はない」と言ってしまわず、「私が私であるということは何にも還元できない」ということを徹底して追求するのはよいことだ。近年、永井均に人気があるのは、彼はひたすらその問題だけを問い続けているからで、そういう問題の深さに気がつく人が増えてきているからである。ただ、永井均にはその問いがあるだけで答えは何もない。これはべつに永井均でなくても、そもそもデカルトをちゃんと読めばそこにそういう問題があることには気がつくはずである。また、フィヒテの哲学は、こうした「I AMの深み」ということを徹底させた思想であることも明白である。自我は否定すべきものという仏教的伝統に影響を受けていると、フィヒテの思想は気が狂っているとしか思えないだろう。フィヒテは、自我の神的な根源を直感したが、そこからどのように世界生成の論理へ持っていけるのかがわからなかっただけなのだ。フィヒテは唯識を知らなかったということである。

私は、この問題は、純粋に哲学的な問いだけで解決できるとは思わない。そこにはジャンプが必要であり、何らかの信仰の立場によらざるを得ないだろう。

シュタイナーが「自我」と言っているのはこの意味での、神的自我を根源とする自我のことである。これは心理学などでいう自我とはまったく違うものである。シュタイナー的な意味での自我とは「神我の反映としての、私は私であるという自覚」を意味しているように思われる。そして、このような意味での私の自覚が生じることを「意識魂」という語で言っているように思われ、意識魂の発達がヨーロッパ近代文化の重要な遺産だったと述べている。
またこのI AMは、アーラヤ識でもない。それよりももっと根源である。単純に言えば、「霊・魂・体」という三分法では、I AMは霊、アーラヤ的意識場は魂に該当する。I AMとは「神の火花」である。もっとも日本の伝統的な「たま」ということばは、霊と魂の双方を含むこともあるが。「いのち」の「ち」が霊に近いものだろう。

ところで、「I Am That I Am」と言うことと、「南無妙法蓮華経」と言うことは、実質的に同じことだと思う。つまりどちらも、神的根源と私とは一つであるということを宣言していることになる。どうしてそうなのかの説明は、やや「ぶっ飛び」の領域に入らないとできないので、ここでは省略する。

12 神的エネルギーと微細エネルギー
これは、これまで述べてきた世界モデルから導き出されるものだが、世界生成は同時にエネルギー論的に把握され、人間の身体性もまたエネルギー的に多重であるという見方が可能になる。ここから、エネルギーによるヒーリングという問題も説明されるし、さまざまな微細エネルギー的な技法についても論じることが可能になる。
宇宙を神的根源からの、多重的な意識場の分開から発するものとして理解するのが普遍神学の立場であるが、これは神的根源からの「働き」という意味でエネルギーなのである(これは「働き」という意味のギリシア語である「エネルゲイア」に由来している)。このエネルギーには世界の次元性と対応した次元性の違いがある。根源近くの神的エネルギーと、物質的エネルギーとの中間次元を微細エネルギーという語で表現する。

たとえば気功では天の気、地の気という、質の違うエネルギーを扱ったりする。これは、どのような意識場にアクセスするかという相違である。微細エネルギーには多数の種類があることは実践家には常識である。これは宇宙には多数の意識場があることと対応するのだ。もちろん悪しき低次元の意識場もある。このような意識場ともつながることはできるが、それがいわゆる「邪道」である。

まだまだポイントはあるが、きょうはこのくらいにしておこう。

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