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神秘思想とは

私のテーマは、「現代における神秘思想の創造」を追求することにある。そのために過去の神秘思想を研究することも必要だが、決して「研究者」ではない。研究者の翻訳や論文などを利用しているにすぎない。もちろん、ギリシア語などを勉強し、ギリシア哲学やギリシア教父などの原文を少しずつ読みつつ、社会の片隅で「観想の生」を送るという人生も、ある意味でうらやむべきものではあろう。そういう人は日本では数十人という規模でしか生息できていないようであるが、そのような生もまた善因として来世につながるものではあろう。私は家が金持ちでなかったので、そのような超マイナー分野の研究者の道は財政的にむずかしく、できるだけ早く就職できるような道をまず探す必要があった。しかしいま、何の制約もなくやり直すとしたら、思想としては古代の新プラトン主義や、それとキリスト教との交流から生まれた思想を研究対象に選ぶだろう。

というのはこうした思想においては「思想と霊性との分離」が存在しないのである。霊性とここで言うのは、現実の自分の生の問題として「霊」の問題に向き合うという姿勢のことを指している。思想と求道とは分離不可能なものとしてあったということだ。本来、仏教もそういうものだったと思うが。

こういう分野での名著である、ラウスの『キリスト教神秘思想の源流』をもう一度読もうかと思っているところだが、訳者の水落健治氏による訳者あとがきには、なかなか共感することが書いてある。

一つは、哲学と神学とを分離してよいのか、という問題。

哲学の問題を神学から全く切り離して純粋の哲学として考察するという(特に日本の)哲学研究者の態度、あるいは、何か純粋のキリスト教(ないし福音)といったものを安易に想定してキリスト教の問題をただその枠内でのみ考えて行こうとするキリスト教研究者の研究態度に対しては、根底的批判が加えられなければならないだろう。p.357

そして、次に水落氏は「日本の宗教的風土がロゴスを拒否する」という問題をあげる。彼は「一見合理的に見える西欧の思想の根底には、暗く不合理な情念が深く渦巻いている」と指摘し、「西欧における「神学」は、《不合理なるもの・不可解なものの可能な限りでのロゴス化の試み》として捉えられる」とした上で、日本ではこのような「宗教経験のロゴス化を拒否する、つまり「神学」の形成を拒否する」傾向があると提起している。

これは私もかねてから感じていたところなので、つまり日本人には根強く、「霊性の分野における反知性主義」が存在するという印象を持っている。つまり、霊的体験についてはいっさい語るべきではないという考えである。これは俗流の禅が悪しき影響を及ぼしているのかもしれない。

自らの霊的、宗教的体験を深めるべく努力しつつ、その体験に定位しつつ、これを「可能な限りロゴス化」しようとする、新プラトン主義やギリシア教父などの神秘神学は、はたして「いかがわしい」ものであろうか。それをこの現代において同じことをやろうとすることのどこが「いかがわしい」のであろうか。

たとえばギリシア教父が時々書き表している、神的な光を体験するということを、自分自身の体験と比較しつつ考えるというようなことは、本来、思想というものの最もまっとうな道ではないかと思うのである。

このように言うとまた「偉そうだ」と思う人が必ずいるものだが、それでもあえて言えば、私もこの《不合理なるもの・不可解なもの》の深淵を全く知らないわけではないのである。それを「可能な限りロゴス化」するために、その手がかりを求めて東西の思想を調べているのだ。それはあくまで自分なりの「現代の神秘神学」を書くためである。

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